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過去から抜き出した私

過去から抜き出した私

By:  トフィーCompleted
Language: Japanese
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自分の研究成果が、夫の留学経験のある後輩――仲程雲雀(なかほど ひばり)に盗まれたと知った葉山芙美子(はやま ふみこ)は、彼女を告訴した。 法廷で対峙したとき、夫――陸川夕星(りくがわ ゆうせい)は雲雀の証人を担当し、多額の弁護費用まで負担して守ろうとしていた。 一審の判決は、芙美子の敗訴だった。 法廷を出た後、夕星は彼女を見つけ、冷たい口調で言い放った。 「芙美子、雲雀はもう一編の論文を発表すれば、海外の企業に応募できるんだ。同じ貧しい出身なら、その機会の貴重さは理解できるだろう?」 芙美子は唇を噛みしめ、声を震わせて反論した。 「機会?彼女が帰国した時、あなたはわざわざ平安市のポジションまで手配してあげたでしょう。それでもまだ、彼女の方が私より『機会』を必要って言うの?」 夕星は鋭く遮った。 「雲雀は俺の恩師の娘で、俺の後輩だ。彼女を助けるのは当然だろう」

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Chapter 1

第1話

自分の研究成果が、夫の留学経験のある後輩――仲程雲雀(なかほど ひばり)に盗まれたと知った葉山芙美子(はやま ふみこ)は、彼女を告訴した。

法廷で対峙したとき、夫――陸川夕星(りくがわ ゆうせい)は雲雀の証人を担当し、多額の弁護費用まで負担して守ろうとしていた。

一審の判決は、芙美子の敗訴だった。

法廷を出た後、夕星は彼女を見つけ、冷たい口調で言い放った。

「芙美子、雲雀はもう一編の論文を発表すれば、海外の企業に応募できるんだ。同じ貧しい出身なら、その機会の貴重さは理解できるだろう?」

芙美子は唇を噛みしめ、声を震わせて反論した。

「機会?彼女が帰国した時、あなたはわざわざ平安市のポジションまで手配してあげたでしょう。それでもまだ、彼女の方が私より『機会』を必要って言うの?」

夕星は鋭く遮った。

「雲雀は俺の恩師の娘で、俺の後輩だ。彼女を助けるのは当然だろう。

もういい、この件はそれで決まりだ。雲雀は法廷で怖い思いをして、さっきまで泣き続けていたんだ。これから彼女の元へ向かう」

そう言い終えると、夕星は芙美子の肩を強くぶつかるようにすり抜け、その場を去っていった。

芙美子の喉が詰まった。

結婚して五年、これほどまでに冷たい態度を取られたのは初めてだった。

角を曲がった先で、夕星が雲雀を優しく抱きしめ、慰めている姿が目に入った。

「もう大丈夫だ、すべて任せておけ」

その言葉は、まるで針のように芙美子の心臓を刺し貫いた。

微かな痛みが、胸の奥で静かに広がっていく。

――彼女と夕星の出会いは、とある講演会だった。

結婚前から、彼には一人の「後輩」がいることは知っていた。

「もし芙美子さんに出会っていなければ、夕星さんと結婚していたのは雲雀さんだったかもしれないね」

そうからかう人も多かったが、芙美子はこれまで気にしたことはなかった。

だって、結婚して五年。夕星は常に彼女を大切に扱ってくれたのだから。

彼女が「甘い物を食べたい」と言えば、夕星は真夜中でもデパートに駆けつけて彼女が一番好きな菓子を買ってきてくれた。

彼女を喜ばせようと、わざわざ他の町まで足を運び、高級時計を誕生日プレゼントとして贈ってくれたこともある。

しかし今日、夕星が雲雀の涙に心を痛める表情を見た瞬間、彼の心の内に、自分は一度も入り込めたことがなかったのだと悟った。

口元をわずかに上げ、芙美子は振り返ることなく歩き出した。

――腐り切った男なんて、もう要らない。

芙美子は研究室の前に立っていた。

中では、数人の学生が心配そうに彼女を待ち受けている。

「先生……論文の件、聞きました。敗訴したそうで……」

「これから研究は、どうなさるんですか?」

「もちろん続けるわ」

芙美子はきっぱりと答えた。

「資料を整理して。臨床試験が終わる前に、上訴の準備を進めましょう」

――偽物は本物にはなれない。自分のものなら、誰にも奪わせはしない。
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かとうゆう
クズ夫、妹に似てるって庇護した相手とキスやら肉体関係やらがあって、気持ち悪さ際立ちました。 妻の5年間の研究成果を盗んだ愛人の弁護なんて、夫と言う立場の乱用、妻の尊厳や血と涙の努力を踏みにじる鬼畜の所業なのは明白なのに、クズ夫はここのあたり全く反省しないんだよね。両親も諭しもしないし。 倫理観のない権力者の暴走って感じ。何が悪かったか最後まで理解してないのは消化不良に感じたけど、最後に消えてくれて良かった。 このタイプは何が悪かったかも理解しないで、未練のある相手にいつまでも付きまとうからね...
2025-11-22 21:57:50
0
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松坂 美枝
人や動物を悪意を以て傷つけるような人間たちにふさわしい末路で良かった クズ男は普段威張り散らしてるクセにマザコンで子供っぽいし主人公がイケメンと結ばれて良かったわ クズ男女の親はこれから大変そう
2025-11-20 10:02:57
1
20 Chapters
第1話
自分の研究成果が、夫の留学経験のある後輩――仲程雲雀(なかほど ひばり)に盗まれたと知った葉山芙美子(はやま ふみこ)は、彼女を告訴した。法廷で対峙したとき、夫――陸川夕星(りくがわ ゆうせい)は雲雀の証人を担当し、多額の弁護費用まで負担して守ろうとしていた。一審の判決は、芙美子の敗訴だった。法廷を出た後、夕星は彼女を見つけ、冷たい口調で言い放った。「芙美子、雲雀はもう一編の論文を発表すれば、海外の企業に応募できるんだ。同じ貧しい出身なら、その機会の貴重さは理解できるだろう?」芙美子は唇を噛みしめ、声を震わせて反論した。「機会?彼女が帰国した時、あなたはわざわざ平安市のポジションまで手配してあげたでしょう。それでもまだ、彼女の方が私より『機会』を必要って言うの?」夕星は鋭く遮った。「雲雀は俺の恩師の娘で、俺の後輩だ。彼女を助けるのは当然だろう。もういい、この件はそれで決まりだ。雲雀は法廷で怖い思いをして、さっきまで泣き続けていたんだ。これから彼女の元へ向かう」そう言い終えると、夕星は芙美子の肩を強くぶつかるようにすり抜け、その場を去っていった。芙美子の喉が詰まった。結婚して五年、これほどまでに冷たい態度を取られたのは初めてだった。角を曲がった先で、夕星が雲雀を優しく抱きしめ、慰めている姿が目に入った。「もう大丈夫だ、すべて任せておけ」その言葉は、まるで針のように芙美子の心臓を刺し貫いた。微かな痛みが、胸の奥で静かに広がっていく。――彼女と夕星の出会いは、とある講演会だった。結婚前から、彼には一人の「後輩」がいることは知っていた。「もし芙美子さんに出会っていなければ、夕星さんと結婚していたのは雲雀さんだったかもしれないね」そうからかう人も多かったが、芙美子はこれまで気にしたことはなかった。だって、結婚して五年。夕星は常に彼女を大切に扱ってくれたのだから。彼女が「甘い物を食べたい」と言えば、夕星は真夜中でもデパートに駆けつけて彼女が一番好きな菓子を買ってきてくれた。彼女を喜ばせようと、わざわざ他の町まで足を運び、高級時計を誕生日プレゼントとして贈ってくれたこともある。しかし今日、夕星が雲雀の涙に心を痛める表情を見た瞬間、彼の心の内に、自分は一度も入り込めたことがなかったのだと
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第2話
芙美子はすぐに実験に没頭した。しかし始めて間もなく、外から喧騒が聞こえてきた。一人の学生が慌てて駆け込み、叫んだ。「せ、先生!大変です!外に大勢の人が来て、私たちの論文が盗作だって非難してます!」芙美子の表情が一瞬で凍りついた。彼女は無言でドアへ歩み寄り、外を覗いた。研究室の外は、大きな張り紙と横断幕で埋め尽くされていた。そこには、敗訴した彼女を罵り、雲雀の研究を盗んだという非難が書き連ねられている。「お前が葉山芙美子ね?」数人のチンピラのような男が彼女に向かって歩いてきた。その顔に見覚えがあった。一審の後、彼らが雲雀と一緒にいるのを見たことがある。男が冷笑した。「やれ」その命令とともに、数人が研究室に乱入し、木の棒を振りかざして目につくものを次々と破壊し始めた。燃やせそうなものには、ためらいなくライターで火をつけた。芙美子と学生たちは、必死に身体でデータや資料を守ろうとした。彼女は震える手でスマホを取り出し、夕星の番号を押した。数秒後、ようやく通話が繋がる。「ゆう――」言葉を続けようとした瞬間、電話の向こうから甘ったるい女の声が聞こえた。「夕星さん、もう……腰が痛くなっちゃった」芙美子の表情が一瞬で硬直した。何かを言おうと口を開いたその時――背中に鋭い衝撃が走った。木の棒が容赦なく彼女を打ち据え、次の一撃で携帯が粉々に砕け散った。「これが盗んだデータね?恥知らずめ、人のものを奪っておいて、よく平然としていられるな!」男の怒号とともに、ライターの炎が点いた。火はたちまち資料棚へ燃え移り、次の瞬間、炎が巨大な蛇のように広がって、研究室を飲み込んだ。芙美子は火の熱さも忘れ、痛みに耐えながら燃え上がる資料に手を伸ばした。しかし、それらの資料は、すでに灰となって崩れ落ちていった。そのとき、上から物音がして――巨大な棚が一気に落下し、彼女の身体を押し潰した。割れた後頭部から血が流れ出し、白衣は瞬く間に真紅に染まった。外では、人々がざわめきながら集まり始めていた。朦朧とする意識の中で、芙美子は遠くに夕星が駆けてくる姿を見たような気がした。声にならない声で、彼女はかすかに呟いた。「……あれは、母が……残してくれた……もの……」
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第3話
目を覚ますと、芙美子は自分が病院のベッドに横たわっていることに気づいた。枕元には、目を赤く腫らした夕星が座っていた。「芙美子……すまない。もっと早く駆けつけるべきだった」芙美子は慌てて彼の手首を掴んだ。声はかすれていたが、瞳には焦燥の色がにじんでいた。「……研究室のものは?」夕星は唇をきつく結び、しばらく沈黙した。「全部……燃えてしまった。持ち出せたものは何一つも……」涙を見せるつもりはなかった。だが、温かい雫が腕に落ちてきたとき、自分が泣いていることに初めて気づいた。「警察は?警察はなんと言っているの?」夕星の目の奥に、複雑な想いが一瞬よぎった。「まだ調査中だ……あの連中が衝動的にやったことかもしれない。専門的な組織的な犯行とは思えないと……」芙美子は赤く腫れた目で、まっすぐ彼を見つめた――五年も連れ添えば、彼が嘘をついているかどうかは、一瞬でわかる。涙に濡れた彼女の顔を見て、夕星は言葉を失った。どんな言い訳も、もう通用しない気がした。「雲雀を疑っているんだろう?だが、彼女はそんなことをする人間じゃない。それに、警察の結論もまだ出ていないんだ」芙美子は冷ややかに笑った。陸川製薬の社長である夕星の一言で、首謀者も守られた。夕星の目に一瞬焦りの色が浮かんだが、彼女は疲れ果てたように目を閉じた。「……お前の好きな鯛茶漬けを買ってくる」彼はそう言い残すと、部屋を出ていった。まもなく、医師が検査報告書を持って入ってきた。「葉山さん、幸い外傷は軽度です……それに、妊娠されています。二ヶ月目です」「……このことは、しばらく誰にも言わないでください」彼女の声には苦みがにじんでいた。――子どもには罪はない。だから、産むつもりだった。夕方、芙美子は疲れ切った体を引きずりながら家に戻った。平安市には初雪が降っていた。白い雪が肩に積もり、胸の上に重くのしかかるようで、息が詰まる。いつもと同じ静けさのはずなのに、今夜ほどこの家が冷たく感じられたことはなかった。彼女は机の引き出しから、かつて夕星がくれた全ての手紙を取り出し、庭の炉の中に投げ入れた。やがてドアが開き、夕星が入ってきた。燃えさかる手紙を見て、胸の奥に漠然とした不安が広がる。「芙美子、まだ怒っているのか?
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第4話
芙美子は目を見開き、反射的に手を伸ばした。しかし、ほんの一瞬、間に合わなかった。冷たい海面で、雲雀が必死にもがきながら叫ぶ。「助けて……!」「雲雀!」夕星が海へ飛び込み、荒れた波をかき分けて彼女へと泳いでいく。雲雀の身体が沈みかけた瞬間、ようやくその腕を掴み、海面へ引き上げた。夕星は自身のコートを、震える雲雀の肩に優しく掛けた。そして、芙美子を見つめるその目には、暗い影が漂っていた。「どうしてそんなことをした?」芙美子は青ざめた顔で、かすかに笑みを浮かべた。「……私がやっていないと言ったら、信じてくれる?」しかし、どんな言葉も、既に固まった疑いの前には無力だった。「ここにはお前と雲雀しかいなかった。お前がずっと彼女を嫌っているじゃない?まさか、彼女が自分から海に飛び込んだと言うつもりか!」夕星は初めて声を荒らげた。「夕星さん……私が悪いの。あなたにもらった指輪をしているのを、葉山さんに見られて誤解されちゃって。どうしても外せって言われて、言い合いになって……」雲雀は震える声でそう言い、夕星の袖を掴んだ。「でも、葉山さんを責めたりしない。ただ……あの指輪、私にとって大切なものだったの」夕星は彼女の背中を優しく撫で、慰めるように言った。「気にすることはない。また新しいのを買ってあげる」そして顔を上げ、芙美子を見つめる瞳は氷のように冷たかった。「この間、お前を甘やかしすぎていたようだな」彼はゆっくりと一歩ずつ近づき、急に両手で彼女を海に突き飛ばした。芙美子の身体は海へ落ち、冷たい水が一気に彼女を包み込んだ。夕星は見下ろしながら、冷たい声で言い放った。「十分に反省してから戻ってこい」その言葉とともに、彼は背を向けた。――信じられなかった。彼は、私が泳げないことを知っているはずなのに。芙美子は歯を食いしばり、冷たい海水中で沈みながら、必死に光のある方へ腕を動かした。四肢を刺すような痛みが全身に広がり、意識が遠のきかけたその時、ようやく岸へたどり着いた。彼女は高熱を出したまま、疲れ切った身体を引きずってホテルの前までやって来た。――しかし、入口で告げられたのは、非情な言葉だった。「お客様、お部屋にはお通しできません」それは、夕星の指示だった。
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第5話
目を覚ますと、芙美子は病室のベッドに一人きりで横たわっていることに気づいた。医師がカルテを手に部屋へ入ってきた。「葉山さん、身体がかなり冷えています。数日は安静にしてください。それと……右手のことですが――」言い淀む医師の声に、芙美子の目がみるみる赤くなった。喉が詰まり、苦いものを飲み込むような感覚がした。「……本当に元どおりにならないのでしょうか?」「リハビリで、少しずつ動かせるようにしていくしかありません」医師が出て行った後、芙美子は顔を枕に埋め、声を押し殺して泣いた。最初は嗚咽、やがてそれは嗟嘆のような泣き声へと変わり、聞く者の胸を締めつけるほどだった。どれほど時間が経っただろう。涙に腫れた目をこすり、ベッドから降りた。着替えを整え、病院を出る。彼女は友人で、弁護士である鈴木章男(すずき あきお)に会う約束をしていた。法律事務所の応接室で、芙美子は封筒に詰めた報酬を章男の前に差し出した。「今日は……離婚と上訴の件のために来たわ。二審の日が迫っているので、平安市での代理人をお願いしたいの」章男は少し驚いた様子だった。あれほど深い仲だった二人が、まさか離婚するとは。封筒の中をちらりと見て、彼はわずかに眉をひそめた。中の紙幣は古びたものばかりで、彼女がどれほどの思いでかき集めたかが一目でわかった。「離婚訴訟は、決して簡単なものではないよ。資料の準備は済んでいるの?一度で離婚が成立するよう、しっかり整えましょう。……それにしても、彼から何ももらっていないの?」芙美子は静かに首を振った。誰もが、彼女が「陸川奥さん」の座を狙って結婚したと思っている。しかし彼女は――「夕星と結婚したかった」から、陸川奥さんになったのだ。打ち合わせを終え、章男は「数日中に訴訟の手続きを進める。早ければ来週にも開廷できるだろう」と告げた。事務所を出たところで、芙美子は偶然、雲雀と並んで買い物している夕星に出くわした。法律事務所の看板に気づいた彼の顔が一瞬強張り、低く冷たい声が響いた。「芙美子、法律事務所なんかに行って、まだ論文のことを諦めていないのか?」芙美子は顔を上げ、淡々と彼の瞳を見つめた。その虚ろな眼差しに、夕星の心臓が一瞬止まった。まるで全てを見透かされているようだった。
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第6話
「――あっ!」雲雀は痛さに声を上げ、反射的に鈴を芙美子の胸から乱暴に引き離し、地面に叩きつけた。「この畜生め!」怒りが収まらないのか、彼女はさらに何度も蹴りを入れようとした。芙美子は慌てて雲雀を押しのけ、鈴を胸に抱きしめた。真っ赤に充血した目で睨みつけ、歯を食いしばりながら、雲雀に平手打ちを浴びせた。その一撃は力を込めており、雲雀の頭がぐらりと揺れ、目の前に星がちらついた。頬を押さえながら、彼女は信じられないという目つきで芙美子を睨み返した。歯を噛みしめ、怒りに震える声を絞り出す。「よくも……私に手を上げたわね!?一言で命令すれば、あんたの犬なんかすぐに――」パシン!芙美子の手が再び振り下ろされ、平手打ちの音が空気を切り裂いた。「この二発はね、あんたが礼儀知らずで、厚かましく他人の夫に擦り寄ることのために、そして私の論文を盗んで反省もせず、人を見下して威張ることのために打ったのよ!」さらにもう一発打とうと手を上げた瞬間、駆けつけた夕星がその腕を掴んだ。そして彼は芙美子を力任せに押し倒した。「夕星さんっ!」雲雀は一瞬で泣き顔に変わり、彼の胸に飛び込んで嗚咽した。「私……ただ鈴にご飯をあげようとしただけなのに、あの犬が突然噛みついてきたの!」夕星の表情は暗く沈み、墨がにじむように陰鬱になった。「俺の限界を、いつも試すような真似はするな」その言葉を聞いた瞬間、芙美子はふっと笑った。だが、笑いながらも目の端から涙がこぼれ落ちた。――彼はかつて言っていた。彼の「限界」は、自分だと。「連れて行け。よく反省させろ」数人の使用人が芙美子を押さえつけ、無理やり連れ出した。夕星が雲雀を抱きかかえて去っていく背中を見つめながら、芙美子の胸の奥がぐしゃりと握り潰されるように痛んだ。地下室に放り込まれると同時に、鈴が彼女の腕の中から奪い取られた。「返して!鈴を返してっ!」真っ赤になった目で暴れ叫ぶ彼女に、使用人は冷たく言い放った。「奥様、申し訳ございません。これは旦那様のご命令でございます」使用人は細い針を手に取り、芙美子の指先にそっと近づけた。次の瞬間、鋭い痛みが指先から全身へと走る。肉の奥をかき混ぜるように針がねじ込まれ、血と痛みが一気に広がる。十指に走る激
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第7話
夜。研究所の学生たちが一人、また一人と帰っていき、研究室には芙美子ただ一人が残されていた。臨床試験のデータは良好だった。彼女は別の製薬会社とも連絡を取り、近いうちに製品化へ進められると確信している。片づけを終え、帰ろうとしたその時、ドアの前に立つ見慣れた影が、彼女の目に映った。芙美子の表情がわずかに冷えていく。「聞いたわよ。臨床データがもう整理できたって?」雲雀が靴音を響かせて中へ入り、周囲を見回した。視線はやがて机の上の書類に止まった。「あなたには関係ないわ。出ていって」芙美子は冷たい声で言い放った。「関係ない?忘れたの?今、その論文は『私のもの』なんだから」雲雀の唇が意地悪く歪んだ。「優しい葉山さん、本当にありがとう。このご恩は一生忘れないわ。私が出世したら、ちゃんと感謝してあげる」彼女が手を伸ばし、書類を奪おうとした瞬間――芙美子はその腕を勢いよく払いのけた。「仲程、二審は半月後よ。本気でまた運に頼れると思ってるの?」この臨床データは、夕星でさえ見たことがない。雲雀の敗訴は、もはや確定していた。だからこそ、彼女は焦ってここへ来たのだ。「……いいわ。お金で解決しましょう。いくら欲しいの?」雲雀の声が低くなる。「分かってるでしょう?夕星さんが雇ってるのは最高の弁護士よ。あなたが上訴しても、勝ち目なんてないの」「本当にそう思うなら、今夜ここへ来たりしなかったでしょう。もう出ていきなさい。さもないと警察を呼ぶわ」芙美子はもはや相手にする気もなく、背を向けた。雲雀の歯がきしみ、その目に狂気の光が走った。彼女は机の脇にあった実験用の灯油缶を掴み、蓋を開けて中身を書類にぶちまけ、そして火を点けた。「だったら、みんな燃えちゃえばいいのよ!!」炎が研究室の薬品とぶつかり合った瞬間、火の手が一気に上がり、研究室全体を呑み込んだ。芙美子は慌てて駆け寄り、体で火を押さえつけようとしたが、いくつもの資料が次々と燃え落ちていった。雲雀の顔が真っ青になる。想像以上の火勢に、完全に取り乱していた。炎は円を描き、二人を隅へと追い詰めた。「どうにかしてよ!早くっ!!」叫ぶ彼女を、芙美子は冷たい目で見つめた。――愚か者。こんな場所で叫んでも、酸素が減るだけだ。
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第8話
芙美子は新しい研究室に移り、研究に没頭した。幸い、あの火事の際に自ら身を挺して守ったおかげで、焼失したデータはごく一部だった。彼女はその後、寝る間も惜しんで実験に打ち込み、ついに全てのデータを復元することに成功した。データが揃った夜、芙美子は最も信頼する学生を呼び出した。「この資料を小林製薬に届けてください。必ず安全に、確実に渡してね。二審の勝敗は、これにかかっているから」彼女の瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。その頃、夕星は彼女の住まいを突き止め、毎日のように贈り物を届けさせていた。添えられる言葉はいつも同じ、たった二言だけ。――【ごめんなさい】――【戻ってきてくれ】ある晩、帰宅途中の芙美子は、自宅前にふらつく人影を見つけた。「芙美子……」夕星は彼女の抵抗も構わず、強引に抱きしめた。「許してくれ……もう怒るな。な?子どもなら、また授かればいい」酒の臭いが鼻をつく。芙美子は眉をひそめ、力強く彼を押しのけた。――もう二人の間に子どもは生まれない。なぜなら、彼らに「未来」はないのだから。「俺と一緒に戻ろう。欲しいものは何でも与える」「それなら、仲程に私の論文を返させてください」その言葉に、夕星は一瞬沈黙した。そして、疲れたように答えた。「……それだけは無理だ。金ならいくらでも出す。買い取らせてくれ。約束する、この件が片付いたら、雲雀とは縁を切る。二人でやり直そう」芙美子はかすかに笑ったが、瞳には微塵の温もりもなかった。本当は問い詰めたいこともあった。だが――もう交わることのない二人に、言葉を費やす意味などなかった。「お前が持って行ったものは、すべて新しく買っておいた。戻りたいときは、いつでも戻っておいで」その声には、絶対的な自信と支配欲がにじんでいた。まるで、芙美子が自分から離れられるはずがないと信じ切っているように。彼女はもはや争う気力もなく、静かにうなずいた。正式に離婚できるまでは、余計な波風を立てたくなかった。「……分かった」その言葉に、夕星の表情がほんのり明るくなった。彼は彼女の手を取った。「まだ怒っているのは分かっている。裁判には出ても構わない。終わったら気分転換に海外へ行こう。どうだい?」芙美子は長い間、彼の瞳を見つめた。
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第9話
夕星は一瞬、呆然とした。その表情は次第に冷え、薄い唇を固く結んだ。胸の奥で怒りと苛立ちが静かに広がっていく。――自分がまだこの場にいるのに、よくもそんな噂を立てられるものだ。しかし彼が声を上げるより先に、小林悟史(こばやし さとし)が落ち着いた足取りで証言席に進み出て、静かに語り始めた。「僕は小林製薬の社長です。ここに、葉山芙美子さんと弊社が締結した正式な契約書があります。この契約では、薬品が臨床試験を通過した段階で、製造の全権を弊社に委ねることが定められています」裁判官が提出された資料に目を通す。雲雀側が提出したものより、データが明確で、日付もより早かった。その瞬間、夕星の胸に不安が走った。そんな契約があったとは、一切聞かされていない。確か、完成後の量産は陸川製薬が請け負うという話だったはずだ。思わず夕星は芙美子を見た。彼女の表情は冷静そのもので、まるで勝利を確信しているようだった。「葉山さんの研究室には五名の研究員がいます。彼女の五年間の努力は、誰の目にも明らかです。彼らは事情により出廷できませんが、証言をまとめて証拠として提出します。そして、僕は彼女の恋人として――彼女の人柄を最もよく知る者として、自らの名誉をかけて保証します。彼女が論文を盗むような方ではないことを」悟史は芙美子に視線を向け、穏やかでありながら確信に満ちた声でそう言った。夕星のこめかみに青筋が浮かんだ。理性を保とうと必死でなければ、今にもデスクを叩いて怒鳴りつけそうだった。――この男は、一体何のつもりだ。小林製薬が関わったことで、裁決は一気に複雑になった。さらに芙美子は、データの原本が亡き母の研究資料であることを証明した。そして――法廷は、芙美子の勝訴を宣告した。雲雀に対し、妨害の中止と謝罪を命じた。判決が下された瞬間、雲雀の顔から血の気が引き、全身が震えた。――それはつまり、自分が論文を盗んだと認めることになる。平安市でも名の知られた彼女にとって、これは致命的な屈辱だった。噂が広まれば、名誉も未来も、すべて失われる。「夕星さん……どうしよう……何とかして……」雲雀は必死に夕星を見つめた。しかし、彼は彼女の言葉に耳を貸すこともなく、ただ芙美子を凝視していた。――悟史と並んで笑
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第10話
芙美子は悟史の手をしっかりと握り、そのまま背を向けて歩き出そうとした。夕星の視線が二人の繋いだ手に釘付けになった。その親密な様子が、鋭い刃のように彼の胸を貫いた。喉仏が上下に動き、胸の奥から湧き上がる焦燥感がじわじわと広がる――まるで喉を締めつけられるような、息苦しい感覚だった。「芙美子、待って……ちゃんと話そう。雲雀との関係は、お前が思っているようなものじゃない。ただの妹分だ。たとえ……たとえ離婚したとしても、そんなに早く他の男を……信じられない。この五年間、お前は結婚指輪を一度も外さなかったじゃないか……」その言葉に、芙美子の足が止まった。振り返ると、夕星の顔に一瞬、希望の光が差した。彼は、ようやく自分の言葉が彼女の心に届いたのだと思った。「あなたが言わなければ、私も忘れていたわ」芙美子はポケットから指輪を取り出し、それを無造作に夕星の手の中へ投げた。「今の私は、もうあなたの妻じゃない。この指輪、返すわ」夕星の目が大きく見開かれた。掌の上で静かに光る結婚指輪を、まるでぼーっとしたように凝視した。「陸川さん、あなたと芙美子は深い縁で結ばれていましたね。たとえ愛が消えても、思い出は残るでしょう。僕たちの結婚式のときには、ぜひご招待しますよ。特別席にご案内します」悟史はわずかに顔を傾け、完璧な輪郭に優雅な笑みを浮かべた。その視線には、明らかな「勝者」の余裕があった。周囲には次第に人が集まり、ざわめきが広がる。夕星は拳を握りしめながら、足が鉛のように重く、動けなかった。――落ち着け。ここで取り乱したら、すべてが終わりだ。冷静を装おうとしたが、心臓は激しく鼓動していた。元妻と、その新しい恋人と、法廷の前で醜態を晒すことなど……もし明日の新聞にでも載れば、陸川家の名前に泥を塗るだけだ。彼はただ黙って、二人の背中が遠ざかるのを見つめていた。手の中の離婚届受理証明書は、ぐしゃぐしゃに握り潰されている。そのとき、涙で顔を濡らした雲雀が駆け寄ってきた。「夕星さん!」何度も呼ばれて、ようやく夕星は顔を上げた。「お願い……もう一度だけ助けて。この論文さえあれば、海外に行けるの。ここまで頑張ってきたのに、すべてが無駄になるなんて!彼女はたかが一編の論文を失っただけじゃない。
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