冷たい風が森を渡り、葉を揺らす音だけが虚しく響いていた。ナフィーラの背が月光の向こうに消えた後も、カイルはその場に立ち尽くしていた。
重い沈黙が彼を押し潰さんばかりに覆い、その場の空気さえ凍りつくようだった。
(これが……俺が望んだ未来なのか……)
深い夜の静寂に紛れるように、カイルの胸の奥から呻くような声が漏れた。拳を固く握り締める。指先が白くなるまで力を込めても、震えが止まらなかった。
(ナフィーラを、こんなに苦しめるつもりなんてなかった。あの夜、光を捨ててまで俺の隣に立つと決めてくれたあの時、俺は誓ったはずだ。二度と彼女を孤独にしないと……)
思い出すのは、あの日のナフィーラの微笑み。光の巫女としての使命を捨て、ただ自分だけを信じてくれたその瞳。その純粋さが、今もカイルの胸に深い痛みを刻んでいた。
だが、脳裏にはエルゼリアの姿が焼きついて離れなかった。森で見つけたあの夜、絶望の中でなお消えなかったあの誇り高い瞳。弱さと気高さが同居したその姿に、何か抗えない衝動が生まれた。
(エルゼリアは……ただ助けたかっただけだ。傷ついた命を前にして、手を差し伸べるのは当然だった……はずだ……)
だが、その言い訳さえ、自分の耳に虚しく響く。助けることが使命だったはずが、いつしか彼女の存在そのものに、心が囚われ始めている。それは理想を守るためだと、正義のためだと、自分に言い聞かせながら。
<荒野の夜は、全ての色と音を吸い込むかのように深かった。 『追憶の泉』で覚醒したナフィーラは、ザンドラに示された北への道を、ただひたすらに歩いていた。昼の灼熱と夜の冷気に耐え、乾いたパンを齧り、岩陰で仮眠を取る。その旅は、かつての巫女としての生活とはかけ離れた、過酷なものだった。しかし、彼女の心は不思議なほどに静かだった。泉での試練は、彼女の魂を根底から変えた。カイルへの想いは、もはや彼を縛る鎖ではなく、遠くから彼を照らす灯火へと昇華されていた。 その夜、彼女は小さな岩棚を見つけ、そこで祈りを捧げることにした。 聖域の風が止み、雲が厚く垂れこめ、月さえも姿を隠した夜。 ナフィーラはひとり、月があったであろう天に向かって膝をついた。冷たい石の床に両手をつき、額を地につけるようにして。 「セレイナ様……どうか、この祈りを……」 声は、旅の疲れでかすかに震えていた。 カイルとエルゼリアが無事であるように。自分が村に残ったことで、ふたりがどうか遠くへ、誰にも追われない安息の地へたどり着けるように―― その祈りは、もはや千切れた糸を結び直すような必死さではなく、ただ純粋な願いとなって、静かな光を放っていた。 祈りを捧げ、意識を集中させていた、その時だった。 静寂の中で、胸の奥が不意にざわめいた。 (……これは、何?) 息をのんだ。魂の表層が、やすりでこすられたようにざらつく。 それは、自分が放つ温かな光とは明らかに異質の、もっと湿り気を帯びた、熱い波動だった。そして、その波動の内側から――言葉にならない、鋭い痛みが迸った。まるで、魂のどこか一部が引き裂かれるような感覚。 (まさか……) その瞬間、覚醒したナフィーラの意識は、ふっと次元の境界に触れた。 天と地の狭間に揺らめく、「魂の波動」――それは、どんなに遠く離れていても、どんなに微かでも、彼女にはっきりと分かった。 それは確かに、カイルのものだった。彼女の魂の半身とも呼ぶべき、愛しい人のものだった。
廃墟となった宿屋での日々は、奇妙なほど穏やかに過ぎていった。世界から切り離されたこの場所が、二人だけの閉ざされた楽園となった。カイルの傷はエルゼリアの力で癒えたが、彼の魂は癒えるどころか、新たな熱に浮かされていた。高熱が引いてからの数日間、カイルはただエルゼリアを見つめていた。彼女は懸命だった。崩れた壁の隙間を枝や葉で塞ぎ、雨風を防ごうとする。森で木の実や食べられる野草を探し、乏しい食料を分け与えてくれる。その姿は、かつて自分が守るべきだったか弱い少女ではなく、むしろ自分を生かしてくれる女神のようにさえ見えた。ある晩、二人は小さな焚き火を囲んでいた。パチパチと薪がはぜる音だけが、静寂を破っている。エルゼリアが、おずおずと口を開いた。「カイルは……どうして、私なんかを助けてくれるの?」その問いは、ずっと彼女の胸にあったのだろう。大きな瞳が不安げに揺れている。カイルは、燃え盛る炎を見つめながら答えた。「……わからない。ただ、お前を放っておけなかった」嘘ではなかった。だが、真実の全てでもない。(なぜだろうな)彼は自問する。かつては騎士の誓いがあった。守るべき巫女がいた。その記憶は、まるで分厚い靄のかかった風景のように、輪郭さえおぼろげだ。ナフィーラ――その名前を思い出すと、頭の奥が鈍く痛む。その痛みを振り払うように、彼は目の前のエルゼリアに意識を集中させた。「俺は、守りたかったものを、守れなかったことがある」彼の口から、無意識に言葉がこぼれた。誰のことだったか、どんな誓いだったか、もはや思い出せない。ただ、焼けつくような後悔と無力感の残滓だけが、胸の奥にこびりついている。「だから、今度こそ……お前だけは、絶対に守り抜くと決めたんだ」その言葉に、エルゼリアの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。彼女はそっと膝を寄せ、カイルの手に自分の手を重ねた。「ありがとう……カイル……」その小さな手の温もりが、カイルの全身に電流のように走った。その瞬間から、カイルの中で何かが決壊した。彼女を守るという使命感は、熱を帯びた欲望へと変貌を遂げた。彼女が眠る横顔を、彼は夜通し見つめ続けた。彼女の唇の形を、うなじの白さを、衣の隙間から覗く細い足首を、目で追ってしまう自分に気づいていた。それは騎士の守護ではなく、雄の渇望だった。(俺は、この子を求めている……)
荒野のただ中、巨大な枯れ木の根元に静まる『追憶の泉』。ザンドラの言葉を胸に、ナフィーラは覚悟を決めてその水へと足を踏み入れた。ひんやりとした清冽な水が、旅で汚れた巫女装束を洗い清め、乾いた肌を潤していく。それはまるで、これから始まる魂の儀式の前の、身の清めのようだった。泉の中心まで進み、彼女は天を仰いで息を吸い込むと、ゆっくりと身を沈めた。水が耳を覆い、外界の音は遠のいていく。水面が顔を覆い隠す最後の瞬間、水面に映った自分の瞳に、わずかな恐怖が揺らめいたのを見た。(カイル……あなたに、もう一度会うために……)それが、彼女が最後に抱いた、か細くも切実な願いだった。瞼の裏に広がるのは、完全な闇。だが、それはすぐに光の粒子となって形を結び始めた。懐かしい光景が、彼女の意識を包み込む。幼い頃、セレイナの神殿で教えを受けた日々。陽光がステンドグラスを通して降り注ぐ聖堂で、女神の慈悲について学んだ。初めてカイルと出会った、村の祝祭の日。騎士の叙任を受けたばかりの彼は、少し照れくさそうに、しかし真っ直ぐな瞳で彼女を見つめていた。その瞳に宿る誠実な光に、自分の魂が共鳴するのを感じた。村の巫女として、彼と共に過ごした穏やかで幸せな日々。彼が訓練で負った傷に薬を塗りながら交わした他愛ない会話。夜、二人で丘に登り、流れる星に村の平和を祈った記憶。その一つ一つが、かけがえのない宝物のように輝いていた。しかし、泉が見せるのは美しい記憶だけではない。温かい光は突如として冷たい闇に転じる。光景は、あの嵐の夜の小屋へと引き戻された。窓を叩く雨音。扉を打ち破らんとする村人たちの怒声。そして、その中心で、剣を握りしめ、絶望に顔を歪ませるカイルの姿。その時、彼の背後の闇から、ぬるりとした気配と共に、青い瞳が浮かび上がった。魔女ユウラの嘲笑うような眼差しが、ナフィーラの魂を射抜く。『さあ、選ぶがいい、光の巫女。その気高い自己犠牲で、愛する男に逃げ道を与えてやるがいい』闇の声が、思考を介さず魂に直接響き渡る。(違う……! 私は、ただ彼を守りたかっただけ……!)ナフィーラは心の中で必死に叫ぶ。だが、泉は容赦なく彼女の心の最も脆い部分を抉り出し、ユウラの声はさらに甘く、毒を孕んで問いかける。『それは自己満足ではないのか? お前が犠牲になることで、自らの愛の気高さを証明したかっ
【荒野を往くナフィーラ】ナフィーラが村を後にして、三日が過ぎた。昼は灼熱の太陽が容赦なく肌を焼き、夜は凍えるほどの冷気が身を刺す。かつてセレイナの神殿で守られていた彼女にとって、荒野の旅はあまりにも過酷だった。水筒の水はとうに底をつき、唇は乾ききってひび割れていた。(カイル……あなたも、こんな辛い道を……)ふらつく足取りで砂丘を越えた時、彼女の目に信じられない光景が飛び込んできた。枯れた大地に、ぽつんと立つ巨大な枯れ木。そしてその根元に、小さな泉が湧き出ていたのだ。まるで奇跡のような光景に、ナフィーラは夢中で駆け寄った。泉の水を両手ですくい、貪るように飲む。乾ききった体に命の水が染み渡る感覚に、思わず涙がこぼれた。「ああ
森の奥、夜の闇が白み始め、朝靄が静かに木々の間を流れていた。カイルはエルゼリアの手を引き、ぬかるんだ獣道を必死に駆けていた。夜明け前の冷気が肺を刺し、息が白く立ち上る。背後からは追っ手の気配はない。だが、カイルの心は静まるどころか、嵐のように荒れ狂っていた。 歩を進めるたびに、胸の奥に重く、冷たい鉛のようなものが積もっていく。 (ナフィーラを……あの場所に、一人で置き去りにしてきた……) あの小屋で交わした約束。「必ず戻る」と。しかし、村から遠ざかれば遠ざかるほど、その言葉は空虚に響き、風に霧散していくようだった。ナフィーラが自分たちのために時間を稼いでくれている。その事実が、カイルの騎士としての魂を締め付けた。守るべき者を盾にして、自分は逃げている。この現実は、彼の誇りを根底から揺るがしていた。 ふと、隣を走るエルゼリアが息を切らし、足取りが乱れた。カイルははっとして立ち止まり、彼女の前に膝をつく。 「大丈夫か、エルゼリア。……すまない、急がせすぎた」 エルゼリアはか細い息をつきながら、ふるふると首を振った。その大きな瞳には、恐怖だけでなく、カイルへの申し訳なさが滲んでいた。 「……私のせいで……カイルまで苦しめてしまって……」 消え入りそうな声が、静かな森に響く。 「本当に……ごめんなさい……」 その言葉が、カイルの胸を抉った。違う、お前のせいではない。全ては、この子を守りきれなかった俺の無力さのせいだ。そう叫びたかったが、言葉にならなかった。 彼はエルゼリアのその細い肩を包むように掴んだ。その体はあまりにもか弱く、震えていた。 「お前のせいじゃない。絶対にだ」 カイルは力強く言ったが、その声は自分自身に言い聞かせているようでもあった。 しかし、その時、カイルは奇妙な感覚に襲われた。 (……なぜだ……胸の奥が、こんなにも重いのに……ナフィーラの顔が、声が、霞んでいく……) あれほど鮮やかだった彼女の笑顔。自分を信じてくれた、あの真っ直ぐな瞳。それがまるで、古い記憶の絵画のように、色褪せていくのを感じる。代わりに、腕の中で震えるエルゼリアの存在だけが、圧倒的な現実として彼の五感を支配していた。 ナフィーラを愛している。守りたい。その気持ちに嘘はないはずだった。なのに、今、彼の心を占めるのは、目の
深遠なる光の次元、神界の座。そこは時も形も超えた、純粋な光の波動で満たされた世界。 だが、静謐なるその空に、わずかな陰りが漂っていた。女神セレイナは、無数の星々のように輝く魂の光の中から、一際か細く、しかし切実に揺らぐ光を見つめていた。 それは、ナフィーラの祈り。地上で、絶望の中で捧げられた魂の声だった。(ナフィーラ……あなたの声は、確かに私に届いているのです……)彼女の瞳は悲しみの色に沈んでいた。 かつて、ナフィーラは光の世界に在り、神の意志とともにあった。だが―― (あなたは自ら選んだ。地上の愛を、痛みを、試練を……それを知りたいと……)セレイナの隣、剣の輝きをその身に宿す戦神セイ=ラムもまた、その光を見つめていた。 かつてカイルの分け御魂として剣と誓いを授けた神。 彼の心にあったのは、静かだが消せぬ落胆と哀しみだった。「ナフィーラもカイルも、自らの意志であの次元を選んだ……」 セイ=ラムの声は低く、どこか自らを責める響きを持っていた。 「私たちは何度、止