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カイルへの甘い誘惑

Author: 吉乃椿
last update Last Updated: 2025-06-18 21:20:41

「戦神セイ=ラム……剣と誓いの神、ねぇ」

リゼアは艶然と微笑みながら、カイルの胸にそっと指を滑らせた。硬質な鎧の上からでも、その指先からは魂を蕩かすような熱が伝わってくる。

「そんな重苦しいものを背負って、疲れない? 誓いだの、忠誠だの……そんなもので自分を縛り付けて。本当は、もっと自由になりたいのでしょう?」

「自由……」

カイルの唇から、無意識に言葉が漏れた。

その言葉に、脳裏に一瞬、ナフィーラの祈る姿がよぎる。彼女の清廉な光。神託によって結ばれた魂の契約。それはカイルにとって絶対の理であり、誇りそのものだったはずだ。

だが、今の彼には、その記憶さえも色褪せて、無味乾燥なものに感じられた。ナフィーラの光は、あまりに眩しく、あまりに純粋で……今の自分には、どこか遠い世界の出来事のように思える。あの「魂の契約」ですら、今は解き放たれるべき古びた枷のように感じられていた。

「そう、自由よ」

リゼアは囁き、カイルの耳元に唇を寄せた。吐息と共に“呪香”がさらに濃密に彼を包み込む。

「ここでは、何も背負う必要はないの。欲しいものを、欲しいと願うだけ。あなたの魂が渇望する、その全てを、私が満たしてあげる」

その時だった。リゼアの後ろ、空間の深い闇が僅かに揺らめき、ひとりの男が音もなく姿を現した。影が人の形を取ったかのような、静かで、底の知れない存在。支配の神ゼルヴァトの意志を体現する男、ユラエル。

彼の無感情な瞳が、じっとカイルを見据えている。それは評価するでもなく、断罪するでもない。ただ、そこに在るという事実だけで、空間そのものを支配下に置くような絶対的な圧力があった。誘惑の言葉を囁くリゼアと、無言のまま全てを肯定するユラエル。欲望と支配。二柱の神の力が、この空間で完璧な調和を成していた。

リゼアはカイルの動揺を見透かしたように、くすくすと笑う。

「彼はユラエル。私の意志を、この世界に形作る者。あなたがここに留まりたいと願うのなら、彼はその願いを“現実”にしてくれるわ」

リゼアが手を差し出すと、その空間から滑るように、紅玉を溶かしたような液体で満たされた杯が現れた。

「さあ、カイル。飲み干して。これはただの酒ではないわ。あなたの魂を、古い誓いから解き放つための“契約”よ」

カイルは、その杯を見つめた。

ナフィーラとの契約は、神託による光の契約。

そして今、目の前にあるのは
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