Home / 恋愛 / 過去に失った愛にもう一度出会った~それが運命の始まりだった / 観月の森と忘れられた神殿――光は涙に宿る

Share

観月の森と忘れられた神殿――光は涙に宿る

Author: 吉乃椿
last update Last Updated: 2025-07-20 09:30:47
ナフィーラが、愛した村と愛した人の背中を同時に失ったのは、まだ春の香りが風に名残をとどめていた頃だった。

カイルを逃すため、彼女は自ら村人の非難を受け入れた。

その沈黙の圧力が、彼女を門の外へと押し出す。

彼らが消えた森とは反対の、北へと続く荒野。

誰もいない、風の音すら寂しげな道を、彼女は一人で歩き始めた。

最初の数日は、何も感じなかった。

石の硬さも、風の冷たさも、自分の鼓動さえも、まるで他人のもののようだった。

思考を手放し、ただ夜が来れば眠り、朝が来れば歩く。

心は、厚い氷に閉ざされた湖面のように、静まり返っていた。

カイルの最後の瞳に、自分の姿はもう映っていなかった――

その事実だけが、無音の幻影として、何度も再生された。

泣くこともできなかった。

涙も、嘆きも、神への祈りさえも、この空虚な心の前では無力に思えたからだ。

荒野を越え、やがて彼女は人の気配のない北方の古の森へ辿り着いた。

そこは「観月の森」と呼ばれ、かつて月の女神セレイナに捧げられた“観月の祭壇”が存在したという伝承が残る地だった。

森はまるで、世界の原初の静寂をそのまま閉じ込めたような場所だった。

苔むした巨木が空を覆い、木漏れ日がまだら模様を地面に描く。風さえも、神聖な囁きのようだった。

彼女はその中心、静かな湖のほとりに、小さな庵を築いた。

朽ちた枝、蔓、落ち葉……森の中にあるものだけを使い、祈るように住処を編んでいく。

日中は薬草を摘み、夜は湖に映る月を見つめる。

けれどその祈りは、もはや誰かのためではなかった。

それは、魂への問いかけだった。

「私は、何者だったのか」

「なぜ、あれほどまでに彼を愛したのか」

「なぜ、最後の夜に、あの背中を引き止めなかったのか」

彼の無事を祈る気持ちと、裏切られた傷に囚われる心。

そして――

「彼を赦したいと思ってしまう自分を、どうしても赦せない」

その矛盾が、祈りというより自責の念として彼女を苛んだ。

「私はまだ……光の巫女でいていいのでしょうか……?」

季節は静かに巡り、森は紅に染まり、やがて白い雪に覆われた。

心は摩耗し、感情は鈍くなり、命の光すら、胸の奥で弱まりつつあった。

それでも、彼女は生きていた。

そして、冬の最も厳しい、ある満月の夜。

湖に厚い氷が張り、澄み切った銀の月が、まるで巨大な瞳のように、静まり返った森
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 過去に失った愛にもう一度出会った~それが運命の始まりだった   王都の野心、鋼の誓い

    ナフィーラの魂が北の聖地で覚醒の光を放った頃、王都アストリアは、静かだが確実な腐敗の渦中にあった。リゼア=アナが撒いた「堕ちた騎士」と「奇跡の魔女」の噂は、人々の恐怖と欲望を煽り、一つの大きな悲劇を生んでいた。騎士団長バルトロムが、堕ちた英雄カイルに討たれたという衝撃的な事件。それは王国の守りの要である騎士団の権威を失墜させ、王都に不穏な空気を蔓延させていた。【王城・玉座の間】玉座の間では、野心が鈍い光を放っていた。 騎士団長の後釜を虎視眈々と狙う貴族騎士、ガイウス。彼は、病弱な国王の前で恭しく膝をつき、その舌で巧みに恐怖と希望を編み上げていた。「陛下、バルトロム卿の無念、必ずやこのガイウスが晴らしてご覧にいれます。しかし、かのカイルが連れる魔女は、ただの災厄ではございません」ガイウスは、リゼア=アナが夢で囁いた言葉を、さも自分が得た情報であるかのように語る。「噂によれば、その魔女は死者さえ蘇らせるとも言われるほどの、奇跡の治癒の力を持つとか。もし、その御力を王家のものとできれば、陛下の御心の安寧は、未来永劫続くことでしょう」その言葉に

  • 過去に失った愛にもう一度出会った~それが運命の始まりだった   観月の森と忘れられた神殿――光は涙に宿る

    ナフィーラが、愛した村と愛した人の背中を同時に失ったのは、まだ春の香りが風に名残をとどめていた頃だった。カイルを逃すため、彼女は自ら村人の非難を受け入れた。 その沈黙の圧力が、彼女を門の外へと押し出す。彼らが消えた森とは反対の、北へと続く荒野。 誰もいない、風の音すら寂しげな道を、彼女は一人で歩き始めた。最初の数日は、何も感じなかった。 石の硬さも、風の冷たさも、自分の鼓動さえも、まるで他人のもののようだった。思考を手放し、ただ夜が来れば眠り、朝が来れば歩く。 心は、厚い氷に閉ざされた湖面のように、静まり返っていた。カイルの最後の瞳に、自分の姿はもう映っていなかった―― その事実だけが、無音の幻影として、何度も再生された。泣くこともできなかった。 涙も、嘆きも、神への祈りさえも、この空虚な心の前では無力に思えたからだ。荒野を越え、やがて彼女は人の気配のない北方の古の森へ辿り着いた。そこは「観月の森」と呼ばれ、かつて月の女神セレイナに捧げられた“観月の祭壇”が存在したという伝承が残る地だった。森はまるで、世界の原初の静寂をそのまま閉じ込めたような場所だった。 苔むした巨木が空を覆い、木漏れ日がまだら模様を地面に描く。風さえも、神聖な囁きのようだった。彼女はその中心、静かな湖のほとりに、小さな庵を築いた。 朽ちた枝、蔓、落ち葉……森の中にあるものだけを使い、祈るように住処を編んでいく。日中は薬草を摘み、夜は湖に映る月を見つめる。 けれどその祈りは、もはや誰かのためではなかった。それは、魂への問いかけだった。「私は、何者だったのか」「なぜ、あれほどまでに彼を愛したのか」 「なぜ、最後の夜に、あの背中を引き止めなかったのか」彼の無事を祈る気持ちと、裏切られた傷に囚われる心。 そして――「彼を赦したいと思ってしまう自分を、どうしても赦せない」その矛盾が、祈りというより自責の念として彼女を苛んだ。「私はまだ……光の巫女でいていいのでしょうか……?」季節は静かに巡り、森は紅に染まり、やがて白い雪に覆われた。 心は摩耗し、感情は鈍くなり、命の光すら、胸の奥で弱まりつつあった。それでも、彼女は生きていた。そして、冬の最も厳しい、ある満月の夜。湖に厚い氷が張り、澄み切った銀の月が、まるで巨大な瞳のように、静まり返った森

  • 過去に失った愛にもう一度出会った~それが運命の始まりだった   カイルは地獄に落ちる

    王都がまだ深い眠りについている、夜明け前の灰色の時間。騎士団本部の重厚な扉の向こうから、金属が擦れる音と、いくつもの無言の足音が響いていた。それは、極秘裏に進められる出陣の準備だった。「団長、本当に出陣なさるのですか? 王命も出ておりませぬのに……」副官である若き騎士、アルマンが恐る恐る口を開いた。目の前で、騎士団長バルトロムは最後の鎧の部位を装着し、黙して深紅の外套の紐を締めていた。その手が微かに震えているのは、決して夜明け前の冷気のせいではなかった。バルトロムは振り返らない。その背中は、鋼の鎧を着てなお、一人の父親としての苦悩に押しつぶされそうに見えた。「……出陣ではない」絞り出すような声に、アルマンは息をのんだ。「これは――**“願い”**だ」その一言で、アルマンは全てを察した。騎士団長バルトロムが、選りすぐりの部下だけを率いて、夜陰に紛れて出立しようとしている。その目的は、かつて最も信頼し、息子のように可愛がっていた騎士カイルの討伐ではない。今や“堕落した魔女の手先”と噂されるカイルが連れているという、魔女そのものを――ただ、一人の父として、病に蝕まれ、命の灯火が消えかけている息子を救うために。ここ数日、バルトロムは同じ夢にうなされていた。夢の中で、彼は息子の冷たくなっていく手を握りしめ、絶望の淵にいた。その時、官能的な香りと共に、リゼアと名乗る絶世の美女が現れ、彼の耳元で囁くのだ。『可哀想なバルトロム。あなたの息子を救う道は一つだけ。東の森の廃墟に、カイルが連れている魔女がいる。その魔女は、命すらも癒す奇跡の力を持つ』その言葉が、悪魔の誘惑だとわかっていながら、何度も脳裏で繰り返される。「息子の命が……助かるのなら……」バルトロムは、誰に言うでもなく呟いた。「俺は……騎士の誇りも、神への誓いも……捨てても構わん……!」(……すまんな、テオ。お前を救うために、父はもう騎士ではなくなってしまった)その決意を口にした瞬間、彼の胸に、ふわりと何か軽いものが触れた。一匹の、深紅の蝶。それは他の誰にも見えなかった。だが、バルトロムには確かに感じ取れた。その蝶が耳元で囁いた幻聴――『それでこそ、愛深き父よ』彼は静かに頷いた。蝶は満足したように羽ばたくと、闇に溶けて消えた。バルトロムは、自らが悪魔と契約したことを、こ

  • 過去に失った愛にもう一度出会った~それが運命の始まりだった   悪意の戯れ、運命の駒

    闇の神界――ゲヘナ。そこは天界の光が届かぬ、永遠の黄昏に支配された領域。ねじれた黒曜石の柱が天を突き、その間を魂の悲鳴にも似た風が吹き抜けている。その中心に位置するユラエルの神殿は、隷属させた者たちの魂を建材とした、壮麗かつ冒涜的な建造物だった。玉座の間で、支配神ユラエルは黒曜石を削り出した長椅子に気だるげに寝そべっていた。彼の長い黒髪は床にまで流れ、磨き上げられた黒い床にインクをこぼしたように広がっている。その怜悧な顔立ちには、万物を駒としか見なさぬ、冷徹な計算の光が宿っていた。彼の前に浮かぶ水晶には、地上界の廃墟で繰り広げられる、ちっぽけな男女の共依存劇が映し出されている。そこへ、むせ返るような甘い香りと共に、一人の女神が音もなく現れた。欲望神リゼア=アナ。彼女の歩みは、獲物を狙う雌豹のようにしなやかで、その身を包む深紅のドレスは、まるで血で染め上げた絹のようだった。彼女はユラエルの寝そべる長椅子の縁に腰を下ろし、その白い指で彼の髪を弄びながら、水晶を覗き込んだ。

  • 過去に失った愛にもう一度出会った~それが運命の始まりだった   カイル、共依存の沼と腐りゆく誓い

    廃墟の宿屋で、カイルとエルゼリアが肉体を重ねてから、幾日かの月日が流れた。二人の世界は、より濃密に、そして閉鎖的になっていた。かつてカイルを苛んでいたナフィーラへの罪悪感は、もはや記憶の澱となって心の底に沈み、意識の表面に上ることはない。彼の瞳に映るのは、ただエルゼリアの姿だけだった。彼女の笑顔が彼の世界の太陽であり、彼女の涙が彼の世界の豪雨だった。騎士としての務めも、神への誓いも、全ては遠い過去の夢物語。食料が尽きれば、カイルは近くの村へ向かった。しかし、それはもはや村人を守るためではない。エルゼリアが欲しがる甘い果物を手に入れるため、彼女が暖かく眠れるように上質な毛皮を盗むためだった。その日、彼は市場で上質な毛皮を懐に入れようとしたところを、巡回中の騎士団の分隊に見つかった。その中には、かつて彼が剣術を教えた若い騎士や、酒を酌み交わした顔なじみもいた。「カイル殿

  • 過去に失った愛にもう一度出会った~それが運命の始まりだった   裏切りの波動と、赦しの光

    荒野の夜は、全ての色と音を吸い込むかのように深かった。 『追憶の泉』で覚醒したナフィーラは、ザンドラに示された北への道を、ただひたすらに歩いていた。昼の灼熱と夜の冷気に耐え、乾いたパンを齧り、岩陰で仮眠を取る。その旅は、かつての巫女としての生活とはかけ離れた、過酷なものだった。しかし、彼女の心は不思議なほどに静かだった。泉での試練は、彼女の魂を根底から変えた。カイルへの想いは、もはや彼を縛る鎖ではなく、遠くから彼を照らす灯火へと昇華されていた。 その夜、彼女は小さな岩棚を見つけ、そこで祈りを捧げることにした。 聖域の風が止み、雲が厚く垂れこめ、月さえも姿を隠した夜。 ナフィーラはひとり、月があったであろう天に向かって膝をついた。冷たい石の床に両手をつき、額を地につけるようにして。 「セレイナ様……どうか、この祈りを……」 声は、旅の疲れでかすかに震えていた。 カイルとエルゼリアが無事であるように。自分が村に残ったことで、ふたりがどうか遠くへ、誰にも追われない安息の地へたどり着けるように―― その祈りは、もはや千切れた糸を結び直すような必死さではなく、ただ純粋な願いとなって、静かな光を放っていた。 祈りを捧げ、意識を集中させていた、その時だった。 静寂の中で、胸の奥が不意にざわめいた。 (……これは、何?) 息をのんだ。魂の表層が、やすりでこすられたようにざらつく。 それは、自分が放つ温かな光とは明らかに異質の、もっと湿り気を帯びた、熱い波動だった。そして、その波動の内側から――言葉にならない、鋭い痛みが迸った。まるで、魂のどこか一部が引き裂かれるような感覚。 (まさか……) その瞬間、覚醒したナフィーラの意識は、ふっと次元の境界に触れた。 天と地の狭間に揺らめく、「魂の波動」――それは、どんなに遠く離れていても、どんなに微かでも、彼女にはっきりと分かった。 それは確かに、カイルのものだった。彼女の魂の半身とも呼ぶべき、愛しい人のものだった。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status