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過去を切り捨て、前へ進む
過去を切り捨て、前へ進む
Autor: 石見綾乃

第1話

Autor: 石見綾乃
夜風が襟元から吹き込み、私は思わずぶるっと身震いした。

手を上げて顔を一度拭う。

泣いてなんかいない。

目元は乾いている。

ただ、風が強すぎるだけだ。

私はマンションの敷地脇に立ち、スマホを取り出して配車を呼ぼうとした。

「ん?なんでここにいる?」

顔を上げると、東山誠人(ひがしやま まさと)がコンビニの袋を提げて歩いてくるところだった。

彼は徹也と晴美の共通の友人で、このマンションにも住んでいる。

「徹也に会いに来たか?」彼が聞いた。

「うん」私は答えた。

「内側から鍵をかけられて、入れないの」

誠人は眉をひそめ、少し不思議そうな顔をした。

「晴美、来てるんじゃないか?

さっきグループにボイスメッセージ送ってたぞ。徹也んちで料理してるから、みんなで飲みに来いって」

誠人は私の青ざめた顔にも気づかず、何気なく話し続けた。

「彼女、よく来るの?」

私が尋ねると、彼は笑った。

「そりゃもう。徹也のことなら、誰よりも知り尽くしてるって感じだよ。

みんなで冗談言ってるんだ。あいつが本当の女主人なんじゃないかって」

そこまで言って、ようやく彼は何かがおかしいと気づいたらしく、気まずそうに口をつぐむ。

「いや、あの……そういう意味じゃ……」

私は口元を少し引きつらせ、「気にしないで」と言おうとした。

でも、喉に何かが詰まったようで、声が出なかった。

そのとき、誠人のスマホが鳴った。

グループチャットの通知だった。

私はちらりと画面を見る。

そこに表示されていたグループ名は【三宮のハーレム】だ。

晴美がちょうどボイスメッセージを送ったところに、友人たちが面白がって送ったスタンプがいくつも並んでいた。

【今行く】

【私の分も残しといて】

そんな返信まで見えた。

誠人は慌ててスマホの画面を消し、気まずそうに言った。

「その……一緒に上がる?彼女、料理で手が離せなくて、お前がノックしてるのに気づいてないのかもしれないし。

ほら、みんな友達なんだから、一緒にどうだ?」

みんな友達、か。

でも、私は徹也の彼女だ。

なのに、この輪の中では、私はただの余計な部外者だった。

私は首を横に振った。

「ううん。いい」

そう言って、踵を返して道端へ向かった。

数歩歩いたところで、どうしても我慢できなくなり、俯いてスマホを見た。

画面には、徹也が最後に送ってきたメッセージがそのまま残っていた。

【あと数分待ってて。すぐ戻って、俺が開けるから】

10分経った。

それでも、彼はまだ玄関まで戻ってこなかった。

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  • 過去を切り捨て、前へ進む   第11話

    仕事にもすっかり慣れ、N市では美央が私の一番親しい友達になった。私たちは一緒にライブを観に行った。2時間も立ちっぱなしで、声が枯れるほど叫んだ。ライブが終わると、二人で道端の屋台に行って焼きそばを食べた。店主はもう私たちのことを覚えていて、「今日も二人とも辛めでいいか?」と聞いてくる。「はい」私は答えた。そんなふうに、些細なことを覚えていてもらえる。それだけで、この街が少しずつ私を受け入れてくれているような気がした。焼きそばができるのを待っていると、美央が突然言った。「寧々、最初に来たときは、雨に濡れた猫みたいだったのに。今は全然違うね」「どこが?」私が尋ねる。「目」美央は指で目元を示した。「前は何を見るときも俯いてた。でも今は、ちゃんと顔を上げてる」私は一瞬、呆気に取られた。それから笑った。彼女の言う通りだった。……一方、徹也は公証役場を訪れていた。窓口に所有権契約書の再発行に必要な書類を提出すると、職員が内容を確認し、判を押した。徹也は新しい契約書を手に、建物の前に立っていた。茶封筒を手に持つ。それほど重くない。ふと、以前私に言った言葉を思い出す。「俺のところに送って。手続きは俺がやってあげるから」あのときは、本当に私の力になりたいと思っていた。けれど、結局できなかった。徹也は新しい契約書を封筒にしまった。そしてオフィスへ戻り、自分の席に座る。スマホを開き、私とのチャット履歴を表示した。最後に残っているのは、あの一言だ。【もういい】彼は、その短い文をしばらく見つめた。それから、静かにトーク画面を閉じた。……翌日、私は一通の荷物を受け取った。茶色い封筒だ。右下には公証役場の名前が印刷されている。差出人の欄には、徹也の名前があった。開封するとき、指は震えなかった。中に入っていたのは、再発行された所有権契約書だった。真新しい紙だ。公印も、はっきりと押されている。最後のページの署名欄には、徹也がすでに署名していた。彼が署名したのは、「立会人」の欄だった。字は端正で、一画一画、丁寧に書かれている。以前の彼は、もっと字が雑だった。だからきっと、これは真剣に書いたのだろう。私は契約書

  • 過去を切り捨て、前へ進む   第10話

    会社のビルを出たときには、もう10時近くになっていた。夜風がひんやりと吹いている。私はアパートへ向かって歩いた。歩いて15分ほどの距離だった。何歩か進んだところで、ふと気づいた。私はもう、ほぼ1ヶ月も徹也のことを思い出していない。最後に思い出したのは、いつだっただろう。たしか、スーパーで布団を買った日だった。徹也の家にあったものと同じようなシーツを見つけて、売り場で数秒立ち止まった。それから、別の商品を手に取った。それ以来、一度も思い出していない。意識して考えないようにしていたわけじゃない。本当に、思い出さなくなったのだ。正社員になってから、私は引っ越した。新しい部屋は以前のワンルームより少し広く、小さなベランダもついている。私はスマートロックを一つ買って、自分で取り付けた。取り付け業者が電話で「訪問して取り付けましょうか」と言ってくれたけれど、「大丈夫です。自分でやってみたいので」と断った。古い鍵を取り外し、新しいロックの台座を取り付けた。ネジを締めるときは、力いっぱい回した。取り付けを終え、私はドアの外に立った。そして、指を認証部分に置く。「指紋の登録が完了しました」私は、その音声を何度も聞いた。澄んだ、機械的で、感情のない女性の声だ。あの夜に聞いた、「この指紋は登録されていません」という音声とは、まるで違った。あの夜、私は徹也の家の前に立っていた。廊下の窓から冷たい風が吹き込んできた。何度指を当てても、返ってくるのは、あの冷たい音声だけだった。けれど今、私は自分の家の前に立っている。この鍵は、私を知っている。翌日、会社で一つの荷物を受け取った。差出人の住所は、徹也の家だった。手に持って重さを確かめる。軽い。小さな箱だった。開けると、中に入っていたのは、一本の鍵だ。そこには小さなプレートが付いていた。表には、こう書かれていた。【この家のドアロックには、お前の指紋しか登録していない。ほかの誰も登録されていない。いつでも戻ってきていい】裏返すと、もう一行あった。【ごめん。本当にごめん】何度も書き直したのだろう。乱れた字だった。私は、その鍵を使うつもりはない。でも、捨てもしなかった。思い出の

  • 過去を切り捨て、前へ進む   第9話

    入社2週目の金曜日、仕事を終えて帰ろうとした私は、会社のエントランスで徹也を見かけた。彼はガラス扉のそばに立っていて、濃いグレーのコートを着ていた。隣を歩いていた美央が私の視線を追い、声を落として尋ねる。「知り合い?」「うん。友達。先に帰っていいよ」美央はそれ以上何も聞かず、軽く頷いて先に帰っていった。私は徹也の前まで歩いていった。驚きも、怒りもなかった。ただ、静かに尋ねた。「どうして来たの?」「直接、お前に謝りたくて」彼の声は少し掠れていた。「何について謝るの?」彼は口を開きかけたが、言葉が出てこない。「言えないの?」私は彼を見つめた。「それとも……『ごめん』の一言で済むと思ってる?」彼はしばらく黙ったあと、口を開いた。「パソコンに残ってた注文履歴、見たんだろ?」その声は、ひどく苦しげだった。「温泉ホテルのあの夜……晴美が部屋で一杯飲もうって言って、それで俺は……」彼は一度言葉を切った。「一時の気の迷いだった」私は彼を見つめた。「一時の気の迷い?食事の席で、晴美が齧った蟹をそのまま食べたのも、一時の気の迷い?車の中で晴美を助手席に座らせて、ナッツまで食べさせてもらってたのも?晴美が襟を直してくれたとき、避けなかったのも、全部、気の迷い?」彼は口を開いた。けれど、何も言えなかった。「あなたが晴美に優しくしてることなんて、みんな分かってる」「違う……」徹也はその場に立ち尽くしていた。顔はひどく青ざめている。「説明しなくていいよ」私は言った。「あなたが晴美にどれだけ優しいかなんて、もう十分すぎるほど分かったから。二人でずっと一緒にいればいいよ」そう言って、私は彼の横を通り過ぎ、エントランスへ向かった。「寧々」後ろから、彼が私を呼ぶ。私は立ち止まらなかった。外へ出ると、夜風が正面から吹きつけてきた。私はコートをしっかりと合わせ、そのまま角にあるコンビニへ入った。冷蔵ケースにはミネラルウォーターがきれいに並んでいる。私は一本手に取った。その頃になっても、徹也はまだその場に立っていた。彼は、私の背中が角の向こうへ消えていくのを見つめていた。彼はN市で一晩過ごした。翌朝、ホテルをチェックア

  • 過去を切り捨て、前へ進む   第8話

    月曜日の朝、私は新しい会社へ初出勤した。人事の担当者が社内を一通り案内してくれた。「トイレはここで、給湯室はこっち。消火器はあそこです」最後に案内されたのは、空いているデスクだった。隣には、ショートヘアの女の子が座っている。「やっほー、新入り!私、周防美央(すおう みお)っていうの」「神谷寧々です」「寧々、よろしくね。お昼、一緒に食べようよ。社内のこと教えてあげる」私は席に座り、自分のマグカップを机の隅に置いた。IT担当がシステムを設定してくれるのを待ちながら、パソコンを立ち上げる。美央はすでにイヤホンをつけて仕事に戻っていた。鼻歌を口ずさんでいる。誰もわざわざ私を見に来ることはなかった。だからといって、誰かに冷たくされることもない。近すぎず、遠すぎない。ちょうどいい距離感だった。昼休みになると、美央は本当に私を誘いに来た。私たちはトレーを持って社員食堂へ向かった。それほど遠くない道のりだったけれど、彼女はその間ずっといろんなことを話してくれた。どの店の料理がおいしいとか。階下のカフェではラテが2杯目半額になるとか。金曜日の午後は私服で来てもいいとか。どれも気負いのない話だった。私が無理に話を続ける必要もない。ただ聞いているだけでよかった。その瞬間、私は少しだけぼんやりした。以前いた街では、友達を作るのはこんな感じじゃなかった。徹也のいる輪に入ってから、私はずっと「馴染む」ために時間を使ってきた。誠人がどんな酒を飲むのか――アサヒだ。木村がどの会社にいるのか――不動産会社で企画をしている。グループの中で誰と誰が揉めているのか――たしか、以前割り勘にした食事代の計算が合わなかったのが原因だ。私は全部スマホにメモしていた。会う前には、一度復習していた。余計なことを言わないように。会話が途切れないように。徹也の友人たちに「付き合いにくい女」だと思われないように。でも結局、私はいつまで経っても、「徹也の彼女」だった。ただの付属品だった。それなのに今の私は、美央とただの同僚だ。彼女は私の過去を知らない。私も、彼女の前で何かを証明する必要はない。私はただ、私自身でいればいい。「今度、一緒にライブに行こうよ」美

  • 過去を切り捨て、前へ進む   第7話

    私はホテルで2日間過ごした。3日目の午前、私はあるデザイン会社の面接を受けに行った。面接官は30代くらいの女性で、デザインディレクターだった。彼女は私のポートフォリオを数ページめくると、頷いた。「デザインがすごくすっきりしていますね。どうして前の町を離れたんですか?」私は少し考えてから答えた。「環境を変えたくて」彼女はそれ以上追及しなかった。ポートフォリオを閉じて言う。「分かりました。では、来週まで連絡します」私は立ち上がり、「ありがとうございました」と頭を下げた。会議室を出る途中、オープンな執務スペースを通りかかった。誰かがカップを片手に私の横を通り過ぎ、何気なく言った。「新入り?」私が答えるより先に、その人は同僚に呼ばれて行ってしまった。みんな忙しそうに働いていて、誰もわざわざ他人に干渉しない。私は、そんな雰囲気がなんだか心地いいと思った。会社を出ると、陽射しがとても暖かかった。そのとき、スマホが震えた。人事からのメッセージだった。【面接に合格しました。来週月曜日から出社してください】私は見知らぬ街角に立ったまま、そのメッセージを二度読み返した。……一方、徹也は私が半分ほど荷物を持ち出した部屋に座っていた。窓から差し込む陽射しが、左側から中央へとゆっくり移動し、床に斜めの光の筋を作っている。彼は、この数日間に起きたことを一つずつ思い返し始めた。始まりは、玄関の指紋認証からだった。私が電話をかけてきたとき、声はまだ落ち着いていた。あのとき、自分は何を考えていた?「晴美が料理してるんだから、機嫌を損ねないようにしよう」と考えていた。玄関の外に立っていた私が、寒くないか。そんなことは、一度も考えなかった。そして、3ヶ月前のあの週末を思い出す。温泉ホテルに、晴美が言った。「徹也、赤ワイン頼んだから、部屋で飲もうよ」彼は飲んだ。その後のこと……徹也は目を閉じると、記憶が一気に蘇ってくる。晴美は彼のシャツを着ていた。襟元は大きく開き、髪は濡れていた。ベッドサイドのテーブルには、彼が注文したコンドームの箱があった。すでに開封されていた。あのとき、彼は自分に言い聞かせた。酒に酔って、過ちを犯しただけだと。

  • 過去を切り捨て、前へ進む   第6話

    列車の出発時刻は、午前2時だった。私が買ったのは普通座席で、車内にはまばらに人が座っているだけだった。私は徹也の電話番号をブロックし、ラインも非表示にした。夜が明ける頃、私はN市に着いた。駅の近くで、安いビジネスホテルを一軒見つけた。フロントで何泊するのかと聞かれ、「とりあえず……まだ分かりません」と答えた。部屋に入り、スーツケースを置く。それからスマホを開き、N市での求人を探し始めた。……一方、徹也は自宅へ戻っていた。靴を脱ぎ、リビングへ入る。ソファには、以前私が座ったときに残していったクッションがまだあった。私が抱きしめていたせいか、少しだけ皺が寄っている。徹也はそこへ歩み寄り、クッションを軽く叩いて形を整えた。そして、リビングの中央に立ち、ぐるりと部屋を見回す。何が違うのか、うまく言葉にはできなかった。ただ、この家が、ひどくがらんとしているように感じた。彼は書斎のドアを開けた。机の上は空っぽだった。あの書類袋も、なくなっている。徹也は一瞬、呆然とした。そして歩み寄り、引き出しをいくつか開けて確認する。私がここに置いていたものが、いくつか消えていた。彼はスマホを取り出し、私に電話をかけた。長い間呼び出したが、誰も出ない。もう一度かける。今度は、着信を拒否された。3度目――「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません」そこで、ようやく気づいた。ブロックされている。徹也はスマホを握ったまま、クローゼットの前に長い間立ち尽くした。このときになって初めて、本当に理解した。私は「怒っている」ではなく、「出ていった」のだ。彼は車を走らせ、私が暮らしていた住所へ向かった。ドアを開けた瞬間、何かがおかしいと分かった。リビングから、たくさんの物がなくなっている。クローゼットも半分以上が空っぽだった。それなのに、床は綺麗に掃除されていた。キッチンのコンロも、鏡のように磨かれている。ゴミさえ、すべて持っていったようだった。徹也は、何もなくなったリビングに一人で立ち尽くした。そして、ふと一つの言葉が浮かんだ。撤退だ。逃げたんじゃない。何一つ取り乱すことなく、順序立てて、

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