LOGIN私は白石詩織(しらいし しおり)。 恋人の高瀬景吾(たかせ けいご)と、マンションの内見に来ていた。 二人で5年間、少しずつ貯めてきたお金で買うつもりの部屋だ。 なぜかそこには、親友の水野柚希(みずの ゆずき)も一緒にいた。 「寝室にウォークインクローゼットを作りたいんだけど、この壁、抜ける?」 柚希は、私がこの半年、何度も見返してきた間取り図を指さし、景吾に尋ねた。 「明日、設計士に来てもらおう。柚希の好きなように変えていいよ」 その後も二人は、日当たりや方角から、タイルや掃き出し窓、浴槽のことまで、あれこれ話し合っていた。 私は部屋の隅に立ったまま、二人の会話に入る隙さえなかった。 契約書を前にして、景吾はようやく私のことを思い出したように口を開いた。 「この部屋は、とりあえず柚希の名義にする。こっちで一人暮らししてるし、会社の福利厚生ってことにすればいい。 今はまだ会社の資金にも余裕がない。詩織はあと2年くらい、今の部屋で我慢してくれ」 けれど5年前、私は故郷を離れてこの街へ来て、景吾がゼロから会社を立ち上げるのを、ずっとそばで支えてきた。 エアコンもない安アパートの、簡易な間仕切りで区切られた狭い一室で、二人肩を寄せ合って暮らしていた。 そんな頃、景吾は何度も私に約束した。 「会社が軌道に乗ったら、真っ先に詩織のために家を買うから」 会社はもう、とっくに軌道に乗っていた。 なのに、景吾が真っ先に家を用意した相手は、私ではなく柚希だった。 目の前の契約書には、景吾と柚希の名前が並んでいた。私の名前は、どこにもなかった。 景吾がとっくに私のいない未来を思い描いていたのなら、私ももう待つ必要はなかった。 私はその場でスマホから管理会社の解約フォームを開き、迷わず送信ボタンを押した。
View Moreあの日から、景吾は会社にほとんど顔を出さなくなった。定例会議を欠席し、案件の対応も周囲に任せきりになった。取引先から電話が入っても、折り返そうとしなかった。2か月後、会社は評価額の3分の1にも届かない金額で買収され、資産も進行中の案件もそのまま引き継がれた。契約締結の日、景吾は会議室で淡々と書類をめくり、最後の署名欄にも迷うことなく名前を書いた。会社を手放したあと、景吾は毎日のように綾峰グループ本社の前に現れた。中へ入ることも、私に声をかけることもなく、ビルの東側にある木の下で、私が出てくるまで待っていた。私が姿を見せても、遠くから見ているだけだった。そうして7日目、昼休みにコーヒーを買いに外へ出たところで、初めて景吾に呼び止められた。以前の自信に満ちた様子はもうなく、私の顔色をうかがうようにこちらを見ていた。「話があるなら、聞くよ」景吾は一度視線を落とし、それから私を見た。「詩織、あの日、綾峰で言ったことは本当なんだ。この5年、会社もうまくいって、周りにも持ち上げられて……何でも手に入れた気になってた。調子に乗ってたんだ」景吾の声が少し低くなった。「俺が悪かった。お前がどんどん仕事で認められていくのを見て、いつか俺なんかいらなくなるんじゃないかって怖かった。だから柚希に頼られてると、まだ自分にも価値があるような気がしてた」「それで、言いたいことはそれだけ?」景吾は言葉に詰まった。「そんなふうに、自分に都合よく言わないで」私は淡々と続けた。「私が5年かけて貯めたお金で買ったマンションを柚希に渡して、私が離れようとしたら、今度は嘘の通報までした。私がこの仕事を続けられなくなれば、戻ってくると思ったんでしょ?」「俺は……」景吾が何か言いかけたが、私は一歩前に出て、そのまま続けた。「あなたが怖かったのは、私を失うことじゃない。私がもう、今までみたいにあなたの言うことを聞かなくなることだったんでしょ。私が離れようとした途端、今度は別の誰かに頼られて、まだ自分には価値があるって思いたかっただけ」景吾はしばらく何も言えずにいた。やがて、震える声で口を開いた。「許してもらえなくてもいい。待つから。毎日、顔を見られるだけでもいい。頼む、俺をお前のチームに入れてくれ。雑用でも使い走りでも何でも
景吾は応接室の入口で足を止め、手にした提案書を握ったまま私を見つめた。「どうしてここにいるんだ。俺がどれだけ探したと思ってる……」「詩織?」景吾の後ろにいた柚希も、私の姿を見て一瞬表情をこわばらせた。そのまま早足でこちらへ近づいてきた。「まさか、邪魔しに来たの?もういい加減にしてよ。景吾、この何日か会社のことでほとんど寝てないんだよ。景吾だって今までずっと詩織のこと支えてきたでしょ。少しはそのことも考えてよ……」「柚希」私が遮ると、柚希は一瞬言葉に詰まった。私は席に座ったまま、目の前の書類を閉じ、静かに口を開いた。「私は今、綾峰グループ建築事業部で、この案件を統括する立場です。今日お持ちいただいた提案書も、すでに確認しています」景吾が何か言いかけるより先に、玲奈が口を開いた。「高瀬社長、ご紹介が遅れました。白石さんは、当社の社長が直接声をかけて迎えた方です。今回の御社の案件についても社内で検討したうえで、最終的な判断は白石さんに任せています」景吾の顔色が変わった。私は資料を景吾の前に置いた。「高瀬社長、検討の結果、今回は御社との協業を見送らせていただきます」景吾は何も言えなかった。1週間かけて詰め直した数字も、3日かけて仕上げた提案書も、もう何の役にも立たなかった。「詩織、わざとなんでしょ!」柚希が声を荒らげた。「景吾が私を選んだのも、マンションを私名義にしたのも許せなくて、だから会社まで潰そうとしてるんでしょ?そんなに私が幸せになるのが嫌なの?」「柚希!」景吾が鋭く遮った。「何言ってるんだ。俺がいつお前を選んだ?俺たち、付き合ってもないだろ」柚希はその場で固まった。「え……?」「お前は詩織の親友だろ。お前を会社に連れてきたのも詩織だし、だから俺も気にかけてただけだ。詩織の代わりに面倒を見てるつもりだった。なんでそれで、俺とお前が付き合ってることになるんだよ」そこまで口にして、景吾は急に黙った。自分の言い分がどれほど身勝手だったのか、ようやく気づいたようだった。柚希は景吾を見つめたまま、一歩後ろへ下がった。「じゃあ……なんであんなに優しくしたの?私の好きなものも覚えてて、わざわざケーキを買ってきて……あの時だって、詩織を歩かせて私を車に乗せたじゃない。マンションま
「白石詩織さんでしょうか。綾峰グループ人事部の採用担当です。突然のお電話で失礼いたします。白石さんのこれまでのご実績を拝見し、建築事業部から、ぜひ一度お会いしたいという話が出ております。現在、転職先はもうお決まりでしょうか?もしまだお決まりでなければ、一度お話しする機会をいただけませんか?」綾峰グループは、業界最大手として知られる企業だった。スマホを手に窓の外へ目を向けると、そこには見慣れた街並みが広がっていた。キッチンでは父が食器を洗い、向かいに座った母は、まだ食べなさいとばかりに果物の皿を私のほうへ寄せてきた。そんな何気ない光景を見ているだけで、不思議なくらい気持ちが落ち着いた。「はい。ぜひ一度、詳しくお話を伺いたいです」電話を切ると、母は嬉しそうに私を見ていた。5年前より目尻のしわは増えていたけれど、笑った顔は昔と変わらなかった。その顔を見ていたら、この5年ずっと抱えてきた悔しさもつらさも、もう手放していいような気がした。これからは、自分のために生きていこうと思った。後日、綾峰グループ本社を訪れ、受付を済ませると応接室へ通された。しばらくして、40代前半くらいの女性が入ってきた。ダークグレーのスーツをすっきりと着こなし、私の前まで来ると手を差し出した。「白石詩織さんですね。建築事業部長の安西玲奈(あんざい れな)です。本日はお越しいただき、ありがとうございます」握手を交わしたあと、玲奈はさっそく本題を切り出した。「これまで手がけられた案件は一通り拝見しました。昨年の大型複合施設の案件は、業界でもかなり話題になりましたよね。ホテルの改修やオフィス再生の案件も、白石さんが担当されたと聞いています」「資格の件は、気にならないんですか?」そう聞くと、玲奈は小さく笑った。「気にしてませんよ。業界にいれば、何があったかくらい分かりますから。それより、今あの会社が何て言われてるか知ってます?」私は黙って玲奈を見た。「自分で自分の首を絞めたって」玲奈はそう言って、採用条件をまとめた資料を私の前に置いた。「こちらが条件です。給与や役職、担当していただく範囲もまとめてあります。まずは目を通してみてください」書類を開こうとしたところで、スマホが鳴った。一級建築士の登録について確認を進めていた担当
会議室は息が詰まるほど静まり返り、全員の視線が景吾に集まった。誰かがそっとペンを置いた。景吾の隣に座っていた柚希も、みるみる顔が青ざめていった。景吾は口を開きかけたが、何も言えなかった。ふいに、昨日の自分の言葉が頭をよぎった。詩織がいなくても会社は回ると、あれほど簡単に言い切ったばかりだった。「損失は……どのくらいだ?」景吾の声はかすれていた。「案件はすでに工事まで進んでいて、これまでに1億4000万円以上かかっています。ここで止まれば、違約金も含めて、少なく見積もっても……2億円は超えます」会議室のどこかで、息をのむ音がした。「資金調達はどうなる?」「この案件は、今回の資金調達でも大きな信用材料になっていました。中断の話はもう外にも伝わっています。今朝だけで、投資家2社から出資を再検討したいと連絡が来ています」柚希が勢いよく立ち上がった。「そんなのおかしいよ!詩織一人がいなくなっただけで、なんでこんなことになるの?案件だって会社で取った仕事でしょ。取引先だって会社が築いてきた関係なのに、なんで詩織がいないだけでみんな離れていくの?」景吾は何も言わなかった。営業部長はそのまま続けた。「白石さんは、ただ設計を担当していただけではありません。この5年、大型案件の多くは白石さんが窓口になり、契約まで担当してきました。技術面の最終確認から先方との折衝まで、案件全体を見てきたのも白石さんです」営業部長は手元の資料に目を落とした。「白石さんの担当案件だけで、会社全体の売上の7割以上を占めています。今のところ、後任の体制でそのまま続けると言っている取引先は1社もありません。どの取引先も、白石さんとの信頼関係があってこそ続いてきたんです」景吾は席に座ったまま、手にした書類を強く握りしめた。ふと、5年前、詩織が初めて会社に来た日のことがよみがえった。あの頃の事務所には、まともな机すらなかった。詩織はスーツケースに腰を下ろしてノートパソコンを開いた。「何から始めようか?」最初の案件では、先方からかなりの値下げを求められた。詩織は3日ほとんど眠らずにプラン一式を仕上げ、戻ってきた時には目が真っ赤だった。それでも景吾を見るなり笑って抱きついた。「取れたよ」当時、会社の口座残高は10万円ほどしかな