LOGIN私の夫、鷹司勝己(たかつかさ かつみ)は、私の祖母の明松一美(あけまつ かずみ)に女手ひとつで育てられた。 その祖母が心臓発作で倒れたとき、私、鷹司理和(たかつかさ りわ)は真っ先に夫へ電話をかけた。市内随一の心臓外科医は、ほかならぬ勝己だったからだ。 けれど勝己は、病院に赴任したばかりの後輩、空知亜実(そらち あみ)といちゃつくことに夢中で、一本の電話にすら気づきもしなかった。 祖母は、一向に現れない勝己を待ち続けた。そして最期まで、自分を死の淵へ追いやったのが、手塩にかけて育てた勝己だとは信じられないというように目を見開いていた。 息を引き取る間際、祖母は全財産を私に遺し、ただひとこと「あの人とは別れて、これからは自分の人生を生きなさい」と言い残して、静かに目を閉じた。 私は、祖母の遺言どおりに勝己と離婚した。 そして真実を知った勝己は、まるで人が変わったように、狂気の淵へと堕ちていった……
View More1ヶ月後。離婚協議書の作成が済み、私たちは区役所に離婚届を提出した。これで、無事に勝己との離婚が成立した。手続きの当日、勝己は無精髭を生やし、ひどく落ち込んだ様子で、この1ヶ月間ろくな生活を送っていなかったことが窺えた。区役所を出たところで、勝己はおずおずと口を開いた。「理和、俺が悪かった。分かってる。おばあちゃんに免じて、もう一度だけチャンスをくれないか?」私は冷笑し、嫌悪感もあらわに勝己の手を振り払った。「おばあちゃんの名前を、あなたが口にする資格なんてない!」そう言って背を向け、立ち去ろうとしたところで、ハイヒールの音を響かせながら亜実が車から興奮気味に降りてきて、勝己に詰め寄った。「先輩、離婚の手続き、もう済んだの?財産分与はどうなったの?おばあ様って、若い頃に手広く事業をやってたんだよね?家や店舗をいくつも持ってたって聞いたけど、これって私たち、一気に大金持ちになるってことだよね?」そう言いながら、亜実は勝己が手にしていた財産分与についてまとめた書類を奪うように取り上げた。だが、そこに勝己への財産分与が一切記載されていないのを見た瞬間、表情が一変した。「どういうことよ!あんたのおばあちゃん、何であんたに何も遺さなかったわけ?本当にあんたを育てた人なの?死んで当然だわ、天罰よ、天罰……」「おばあちゃんのことを、そんな風に言うな!」勝己は突如、正気を失ったかのように亜実の首を掴み、そのまま車体に押し付けた。歯を食いしばり、目を血走らせて叫ぶ。「貴様みたいな女が、おばあちゃんを侮辱するな……殺してやる!」「きゃあ……助けて!誰か!」不意を突かれた亜実は死に物狂いで抵抗し、危うく本当に絞め殺されかけたが、異変に気づいた区役所の職員が飛び出してきて、勝己を引き剥がした。顔を真っ赤にした亜実は、激しく咳き込みながら喚き散らした。「鷹司勝己、このクズ野郎……あれだけ私と寝ておいて、家のひとつも残らないなんて。散々あんたのこと持ち上げて損した、お金持ちだと思ってたのに……仕事を失って当然、身内を死なせて当然、何もかも失って当然よ!」その罵声に、勝己はさらに逆上した。職員の手を振り払い、再び亜実に掴みかかり、その場は再び混乱に陥った。醜い潰し合いをこれ以上見ている気にもなれず、私はそのまま背を向
健一が、軽蔑しきった目で口を挟んだ。「あの日、理和さんは君にすがりつくようにして頼み込んでいたんじゃないですか。それでも君は、彼女の言葉を信じようとしなかったですよね。見ていられなくて、私から電話もかけたしメッセージも送りました。おばあ様の死亡診断書だって送ったのに、君はそれを私が偽造したものだと言ったんです!」「その上、空知先生と一緒になって、私と理和さんの間に変な噂まで流したでしょう。それを今さらどの面下げて『なぜ教えてくれなかった』なんて聞けるんですか?恥知らずにも程があります!」健一は最初から最後まで、祖母の死と、勝己による私への数々のひどい仕打ちを見届けてきた人だった。だからこそ、私のために怒ってくれているのだと分かった。勝己は完全に呆然としていた。「おばあちゃんが……おばあちゃんが、死ぬなんて……」私は表情を変えず、勝己を見つめた。「おばあちゃんは、あなたが一流の心臓外科医になるまでずっと支えてきた。なのにあなたは、おばあちゃんのために一度もそのメスを握ろうとしなかった。おばあちゃんは、最期はとても穏やかだったわ。あなたに何か言い残すこともなく、ただ私に『早く離婚しなさい』とだけ言った。もしまだ、おばあちゃんへの罪悪感が少しでもあるなら、今すぐ一緒に来て」言い終えると、私はそのまま勝己の腕を引いて弁護士事務所へと向かった。そこで財産分与などの条件を定め、書類が整う一ヶ月後に正式に離婚届を提出する手はずを整えた。事務所を出たとき、勝己は焦点の定まらない目をして、その場に立ち尽くしていた。車に乗り込もうとした私を、勝己が慌てて呼び止め、祖母の墓の場所を尋ねてきた。私は隠すことなく、そのまま勝己を墓地へと連れて行った。墓石の前で膝をつくと、勝己は号泣した。「おばあちゃん、ごめん……わざとじゃなかったんだ。あれが本当におばあちゃんだって知らなかった……また理和が嘘をついてるんだと思って……うぅ……」私は笑った。この期に及んで、まだ責任を私に押し付けようとしているのか。冷笑が漏れる。「はっ。あなたは医者でしょう。患者がおばあちゃんかどうかなんて関係ない。頼んできた私への腹いせかどうかも関係ない。医者なら、真っ先に考えるべきは患者の命じゃないの?患者の命を顧みず、その腕を愛人のご機嫌取り
その様子を見ていた亜実は、散らばった遺骨をさらに何度か踏みつけると、追い打ちをかけるように嘲笑を浴びせてきた。「理和さん、迫真の演技ですね。まるで本当に身内が死んだみたいに泣き喚いて。先輩、もういいじゃない。理和さんがこんなことするのは、結局あなたの気を引いて離婚したくないだけよ。構ってあげるだけ無駄よ」勝己も冷ややかに笑って同調した。「ふん。離婚しないでほしいなら、もう少し素直に謝ったらどうだ。こんなみっともない真似をするほど、俺はお前が嫌いになるだけだぞ」そう言い捨てると、勝己は亜実を連れ、振り返りもせずに家を出て行った。私は床に膝をついたまま、散らばった祖母の遺骨を見つめ、ひとつひとつ丁寧に拾い集め、ひとまず別の容器へと移していった。ごめんね、おばあちゃん。生きている間ずっと、私と勝己の結婚のことを気にかけてくれたのに。死んでからも安らかに眠れないどころか、あんな最低なふたりに床にぶちまけられるなんて。本当に、ごめんなさい。遺骨を拾い終えた頃には、もう翌朝になっていた。一晩中、床に膝をついて遺骨を拾い続けるうちに、決意はますます固まっていた。祖母の遺志に従い、自分の心に従って、勝己とは必ず離婚する。そして、あっという間に月曜の朝が来た。約束通り区役所の前で2時間待ったが、勝己は現れなかった。私はそのまま車を走らせ、病院へと向かった。勝己は数人の看護師を連れて、亜実と一緒に病棟を回診しているところだった。その中には、あのときふたりの悪評を囁いていた看護師たちの顔もあった。私はまっすぐ勝己の前まで歩み寄り、行く手を塞いだ。「勝己、今日、離婚のことで区役所で会う約束だったでしょう。今さら気が変わったの?」そして、亜実にも目を向けた。「あなた、ずっと奥さんの座に収まりたかったんじゃないの?絶好のチャンスなのに、どうして彼を急かさなかったのよ」亜実は一瞬呆気にとられ、思わず聞き返した。「本当に……離婚するつもりなんですか?」「ほかに何があるっていうの?あなたたちみたいな最低な人間と、一生関わり続けろとでも?」私は冷笑しながら言い返した。勝己の顔つきが険しくなる。「理和、いい加減にしろよ。俺と亜実はただの仕事上の関係だって何度も説明しただろう。それを勝手に亜実を愛人呼ばわりして、お
祖母の葬儀は終わった。まだお墓を決めていなかったので、ひとまず骨壺は家に持ち帰ることにした。今、勝己と暮らしているこの家は、もともと祖母が全額を出して買ってくれたものだった。本当はすぐにでも出て行くつもりだったのだが、祖母が亡くなったあと、祖母の顧問弁護士から連絡があり、生前に用意されていた遺言には、この家を私に遺贈すると記されていたと知らされた。遺言状を手にしたまま、目の前の遺骨を見つめて、私は家の中で再びこらえきれず声を上げて泣いた。この世で一番私を大切にしてくれた人が、こうしていなくなってしまった。これから先、私は本当にひとりきりだ。そのとき、玄関の方から電子錠の解錠音が響いた。驚いて顔を上げると、勝己と亜実が寄り添うようにして入ってくるところだった。楽しげな声が聞こえてくる。「わあ、先輩の家、本当に広いね。このインテリアの雰囲気、すごく好き……」言いかけたところで私に気づき、亜実は一瞬言葉を止めた。その目の奥にほんの一瞬、後ろめたさのようなものがよぎったが、すぐにわざとらしく驚いたふりをして続けた。「あら、理和さん、まだいらしたんですね。先輩から離婚のことは聞いてるはずなのに、他人の家にまだ居座ってて、恥ずかしくないんですか?」その言葉に、勝己も私を見て、冷笑を浮かべた。「出ていけるわけがないだろう。あいつが俺と結婚したのだって、そもそもこの家が目当てだったんだから」その侮辱するような言い方に、胸の奥が刺すように痛んだ。思わず両手をぎゅっと握りしめた。私はずっと、家族というものに憧れていた。結婚したとき、祖母がこの家を買ってくれたのも、私にちゃんと「自分の家」を持たせたいという想いからだった。あのときの私は、本当に幸せだと思った。ようやく自分の家ができたのだと。けれど、それは勝己の目には、私が勝己の家目当てで近づいたという話にすり替わっていたらしい。ふふ、本当に、滑稽な話。何年も愛し続けてきた男に、こんなにも金目当ての女だと思われていたなんて。そう思うと、私は深く息を吸い込んだ。「この家から出ていくべき人なら、確かにいるわ。でも、それは私じゃない。おばあちゃんは遺言で、この家を私に譲ってくれてた。今すぐふたりとも、私の家から出て行って!」勝己の目つきがわずかに変わり、