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第3話

Author: 枝々
夕凪はその場に立ち尽くし、冬馬の背中が扉の向こうに消えていくのを見送っていた。

心の奥が冷たい海水に沈められたように、全身が凍りついていく。

部屋の中、男たちはひそひそと話し出す。

「マジっすか……?」

「本気っぽいぞ。もう夕凪には飽きてるだろうし、新しい女も何人もいるしな。古いのを俺たちにくれてやるのも、まあアリだろ」

「まさか夕凪が俺たちのものになるなんてな!冬馬は嫌がってるかもしれねえが、俺は別だ!あの胸、あの腰……前からずっと狙ってたんだぜ!」

男たちの視線が、だんだんといやらしく熱を帯びていく。

夕凪は扉へと向かおうとしたが、すぐに後ろから髪を掴まれ、力任せに引き戻された。

扉が閉まり、彼女は床に叩きつけられる。

抱きしめるように自分を守り、必死に身を縮める。

「やめて!そんなことしたら犯罪よ!」

「犯罪?」男たちは嘲笑いながら、「大丈夫だよ、冬馬が一言言えば、全部チャラだ」

「夕凪、諦めろよ。冬馬に捨てられたんだ。今夜はちゃんと俺たちを楽しませろよ。もしかしたら誰かに気に入られて、後で囲ってもらえるかもな」

そう言いながら、男たちは彼女に群がる。

夕凪は泣き叫び、必死に抵抗する。でも、ただの女一人ではどうにもならない。

助けを呼ぶ声も、だんだんと男たちの嘲り笑いにかき消されていった。

そのとき、部屋のドアが激しく開け放たれた。

その場にいた男たちは、動きを止めて、入口に立つ男を見上げた。

「と、冬馬……?」

なぜ彼が戻ってきたのか、誰も分からなかった。

冬馬の目は氷のように冷たく、床に倒れた夕凪を見つめている。

服は乱れ、涙に濡れたその姿は、誰が見ても痛々しかった。

彼の凍りつくような声が響いた。

「さっさと消えろ」

男たちは慌てて逃げ出そうとした。

出口まで辿り着いた時、冬馬の低い声がもう一度響いた。

「今夜のことは全部忘れろ。それができない奴には、俺が手を貸してやってもいいな」

「は、はい!もう絶対に夕凪さんには手を出しません!」

慌てて男たちが逃げ去ると、部屋に残ったのは二人きり。

冬馬は夕凪の前にしゃがみ込み、破れた服に気づくと、無言で自分のジャケットを肩にかけた。

「……反省したか?」

夕凪は何も答えない。ジャケットを静かに肩から外し、立ち上がると、まっすぐ出口へ歩いていく。

その姿に、冬馬の中で何かが一気に燃え上がる。

「夕凪!」

夕凪の足は一瞬止まったが、振り返ることなく扉を開けて出ていった。

もう、すべてが麻痺していた。

これまで冬馬がどんな方法で自分を苦しめても、どんな女を連れてきても、どんな屈辱的な場面を見せつけられても――

もう何も、夕凪の心を傷つけることはできなかった。

今夜の出来事も、悲しみでも恐怖でもなかった。ただ、もう限界だった。

「待て!」

冬馬は夕凪の手首を乱暴に掴む。狼のような鋭い視線で問い詰める。

「夕凪、お前、本当に平気なのか?少しも……俺に怒ったりしないのか?」
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