LOGINあの日、冷たいパリの石畳に倒れ込んだ夜のことを、エマは生涯忘れない。
5年前、屈辱と絶望のなかで渡仏した彼女を待っていたのは、煌びやかなファッションの都ではなく、血を吐くような孤独と努力の日々だった。 元々、エマには幼少期から類稀なる「色彩感覚」と「構造デザインの才能」が眠っていた。 家族から「不細工」「地味な芋女」と蔑まれ、コンプレックスの影に隠されていたその才能は、孤独という猛薬によって一気に芽を吹くことになる。 「——あなたのデザインには魂があるわ。でも、今のあなた自身には毒がない」 パリの老舗オートクチュールハウスの大御所デザイナー、マダム・ルイーズはエマのスケッチブックをめくりながらそう告げた。 「自分を愛せない人間に、人を魅了する服は作れない。その傷を、美しさに変えなさい」 その日から、エマの凄絶な変身劇が始まった。 才能を磨くことと並行して、彼女は自身の「美」に対する徹底的な自己改革に着手した。 姿勢矯正のためにバレエの基礎を叩き込み、皮膚科に通い詰めて肌質を根本から改善した。徹底した栄養管理とボディメイクで、骨格の美しさを際立たせるしなやかなボディラインを作り上げた。 何より、自分を卑下する癖を捨て、優雅な立ち振る舞いと「誰も寄せ付けない高貴なオーラ」を身につけたのだ。 そして3年目。彼女が正体を隠して発表したコレクションは、世界のファッション界に激震走らせた。 頭角を現した覆面デザイナー“E”。 彼女が創り出すドレスは「着る者に最高の気品と自信を与える魔法」と称賛され、欧州のロイヤルファミリーやトップセレブがこぞって予約を争うほどの伝説となった。 地味で哀れだった過去のエマは、もうどこにもいない。 ◇ 5年後の現在。国際空港のVIPターミナル。 ガラス張りのロビーを、高鳴るヒールの音が規則正しく鳴り響く。 「……ご覧になりましたか? あの方」 「女優……? いや、それ以上のオーラだわ……」 すれ違う人々が、息をのんで足を止める。 そこに立っていたのは、背筋をピンと伸ばした絶世の美女だった。 艶やかな漆黒の髪をエレガントにまとめあげ、滑らかな白磁の肌には、完璧に計算されたナチュラルメイクが施されている。 身体のラインを美しく際立たせるミッドナイトブルーのトレンチコートを纏い、その瞳は深く、冷ややかな知性の光をたたえていた。 エマ・ローラン。それが、いまの彼女の名だった。 彼女が今回、母国へ帰国した理由はひとつ。 経営難に陥った老舗高級ブランド「レガシー」を再建するため、最高クリエイティブ・ディレクター(CD)として招聘されたからだ。 そして、「レガシー」を買収し親会社となったのは——あのヴァレンタイン・グループ。 (イザン・ヴァレンタイン……) エマはバッグの奥底に触れた。 指先が触れるのは、あの日彼から奪い去った、ゴールドのカフスボタン。 「あなたに踏みにじられた私は、もう死んだわ」 エマは心の中で冷ややかに呟く。 「今度は私が、あなたの世界を揺るがしてあげる」 ◇ その時、VIPターミナルの反対側の自動ドアが開き、重厚な雰囲気が空間を支配した。 数人の黒スーツの護衛を従え、漆黒のロングコートを着た一人の男が歩いてくる。 彫刻のように隙のない冷徹な美貌。圧倒的な威圧感。 ——イザン・ヴァレンタイン。 彼はスマホで冷たく指示を出しながら、無関心にロビーを横切ろうとしていた。 5年前と変わらぬ、帝王の立ち振る舞い。 しかし、ふと。 イザンは何かに引き寄せられるように、足を止めた。 「……?」 人混みの向こう側。ほんの数メートル先を、一人の美女が通り過ぎようとしていた。 流れるような黒髪、気品に満ちた背筋、そして——すれ違いざまに空間に残された、甘く切ない香りの残り香。 ズキン、とイザンの胸の奥が激しく疼いた。 (……なんだ……今のは……?) 5年間、どれほど女を抱こうとしても満たされず、毎夜のように夢に現れる“あの夜の少女”。 その記憶と重なる強烈な既視感(デジャヴ)が、イザンの全身の血を沸騰させた。 イザンは弾かれたように振り向いた。 「待て……!」 冷徹な帝王らしからぬ、焦りを含んだ声。 しかし、彼が振り返った時、すでにその美女の姿はVIP専用の黒塗り高級車のドアの向こうへと消えていた。 静かに走り去る車。 イザンは残された甘い香りの余韻の中で、呆然と佇んでいた。胸の鼓動が、恐ろしいほどの速さで脈打っている。 「……社長? どうされましたか?」 側近が不審そうに尋ねる。 イザンは眉をひそめ、激しい執着が宿ったアイスブルーの瞳で、車が消えた方向を見つめ続けた。 「……今すぐ調べろ。今、ここを通った女だ」 イザンの声が、微かに震えていた。 「何者だ、あの女は……!」 イザンはまだ知らない。 自分が今、心を狂わされた完璧な美女こそが、5年前に「不快な顔を見せるな」と切り捨てた、あの地味な少女だということを。 そしてエマもまた、車の中で冷ややかな笑みを浮かべ、バックミラーに映るイザンの姿を見つめていた。 「再会の挨拶は、もう少し先よ……CEO」 運命の歯車が、音を立てて回り始めた。 ガラス張りのオフィス越しに見えるイザンの鋭い視線を背中に感じながら、エマはパソコンの画面を凝視していた。 画面に映し出されているのは、老舗ブランド「レガシー」の過去3年分の複雑な財務諸表、仕入れルートのログ、そして製品の構造データだ。 かつて王室御用達とまで謳われた名門ブランドが、なぜ破綻寸前まで追い込まれ、ヴァレンタイン・グループに買い叩かれるハメになったのか。その真相を暴くことこそ、エマが最高クリエイティブ・ディレクターとして最初に仕掛けた仕事だった。 「……やっぱりね」 エマは画面をスクロールしながら、冷ややかな笑みを漏らした。 単なる「デザインの時代遅れ」や「不運な経営難」などではない。 レガシーの経営を裏から意図的に崩壊させた明確な存在——ライバル企業である「サン・マルコ・グループ」の影が、はっきりと残されていたのだ。 サン・マルコは、近年急速にシェアを拡大している新興ラグジュアリー企業だ。 彼らはレガシーの元幹部を買収して内部情報を横流しさせ、レガシーが発表する直前の新作デザインを酷似させた安価な製品を市場に大量投入していた。 それだけではない。 高級感を支える最高級のシルクやレザーの仕入れルートをサン・マルコが裏で買い占め、レガシーには粗悪な素材しか届かないよう供給網(サプライチェーン)を寸断していたのだ。 だが、エマの目はそこで止まらなかった。 膨大な取引履歴の奥深くに埋もれた、ある奇妙なペーパーカンパニーを経由する「不自然な資金の迂回ルート」を見つけ出したのだ。 それは、一般のデータアナリストやヴァレンタインの監査チームが見落とすほど巧妙に偽装されていた。 しかし、エマの目は誤魔化せない。 なぜなら——その口座の暗号化形式と特殊な送金パターンは、かつて彼女を「泥くさい芋女」「家の恥晒し」と虐げ、実家で好き勝手に資金を流用していた実父と継母の、あの見飽きた汚いやり口そのものだったからだ。 (私の実家……そしてサン・マルコ。あなたたちが裏で手を組み、レガシーを食い物にしていたのね) かつて自分をゴミのように踏みにじった実家が、サン・マルコと裏で密約を交わし、レガシーの資産を不正に吸い上げていたという揺るぎない証拠。 エマの胸の奥で、静かな怒りと復讐の火が激しく燃え上がる。 その時。
夜深まる高級マンションの自室で、エマは鏡の前に立っていた。ドレスを脱ぎ捨て、露わになった素肌。その滑らかな背中や肋骨のあたりには、よく見なければ分からないほどの、ごくかすかな薄い痕が残っている。それは、彼女が「エマ・ローラン」として生まれ変わるまでに支払った、血と涙の代償だった。幼い頃から、エマの人生は日陰の中にあった。母の再婚相手とその連れ子である異父姉のクロエ。二人にとって、大人しく地味なエマは格好の鬱憤晴らしの対象だった。「泥くさい顔ね」「あなたがいるだけで家の格が落ちるのよ」日常的な暴言、雑用係としての扱い、そして自分の描いたデザイン画を目の前で破り捨てられる屈辱。それでもエマは、いつか自分の才能でこの地獄を抜け出してみせると、歯を食いしばって耐えていた。しかし、5年前のあの夜——すべてが崩れ去った。クロエたちに薬を盛られ、汚名を着せられそうになって逃げ込んだスイートルーム。そこで出会ったイザン・ヴァレンタインの熱い抱擁に、一瞬でも救いを求めてしまった自分が愚かだった。翌朝、彼が放った冷酷な言葉。『破格の金額のはずだ。これで口を塞げ』『二度と俺の前に不快な顔を見せるな』男にとってそれは、不運な一夜の過ちに過ぎなかったかもしれない。だが、すがるものすら失った少女にとって、それは魂を焼き尽くす殺意に等しかった。渡仏してからの5年間は、まさに狂気の日々だった。骨を削るような体型管理、肌を生まれ変わらせるための激痛を伴う治療、寝る間も惜しんでハサミを握り続けたスケッチの日々。(私は死んだのよ、あの日……)エマは鏡の中の自分を見つめ、静かに胸元へ手を当てた。(私はただの「復讐の毒針」として蘇った。イザン・ヴァレンタイン……あなたを私の美しさと才能でひざまずかせ、あの夜の屈辱を何倍にもして返してあげる。そして……あの日、誰が私とあなたをあの部屋へ追い込んだのか……すべての真実を暴いて見せるわ)彼女は引き出しから、あの日持ち去ったゴールドのカフスボタンを取り出し、愛おしそうに、そして冷ややかに指先でなぞった。◇翌朝。ヴァレンタイン・グループ本社、最上階CEOフロア。昨夜の熱狂が嘘のように静まり返る通路を、エマは歩いていた。装いは昨日までの地味な変装ではなく、完璧に計算されたエレガン
薄暗い舞台裏の廊下。 背後から伸びてきた強靭な腕に手首を掴まれ、エマの背中が冷たい壁に押し付けられた。 「くっ……離してください、CEO」 エマは眉を微かにひそめ、冷ややかな声を落とした。 だが、目の前に立つイザンは、彼女の言葉など耳に入っていない様子だった。 仕立ての良いダークスーツからは、彼の荒い吐息と、激しい動揺が伝わってくる。 彼のアイスブルーの瞳は理性を失い、目の前にいるエマの顔立ち、唇、そしてその首筋から立ち上る「甘い香り」を食い入るように見つめていた。 「……正体を隠していたな」 イザンの声が低く擦れる。彼の大きな手がエマの顎を強引にすくい上げ、逃げ場を塞いだ。 「お前が『E』の代理であり、あの空港の女……そして、あの地味な姿で俺の前に現れたというのか?」 壁と彼の屈強な体躯に挟まれながらも、エマは動じることなく、美しくも妖艶な笑みを唇に浮かべた。 「お気に召しましたか、CEO? クロエ様から頂戴した赤ワインも、我が『E』の手にかかれば最高のアクセントになりますの。ですが……私の本当の秘密は、まだこれだけじゃありませんよ」 「……何だと?」 イザンの瞳の奥で、狂おしいほどの所有欲と執着が渦を巻く。 5年間、どれほど探し求めても手に入らなかった「あの夜の香り」。 そして今、目の前に現れた圧倒的な美貌と才能を持つ女。 彼の中で、過去の幻影と目の前の美女が完全に重なり合い、理性のタガが弾け飛ぼうとしていた。 「焦らせるな……俺を試しているのか、エマ・ローラン」 イザンの顔が急接近する。彼の熱い唇が、エマの赤く塗られた唇を奪おうと重なる寸前——。 「そこまでよ、イザン様」 冷ややかに言い放ち、エマはイザンの胸元を両手で強く押し返した。 思いがけない強い力と毅然とした態度に、イザンはわずかに体勢を崩す。 エマは乱れたドレスの胸元を優雅に整えると、高嶺の花のような冷徹な瞳でイザンを見下ろした。 「失礼ですが、私はあなたに買われるためにここへ来たのではありません。『レガシー』の再建というビジネスのためにここにいるのです。勘違いなさらないで」 「ビジネスだと……?」 イザンの顔が苦々しく歪む。 これまで数多の女たちが彼の財力と地位を求めて群がってきたが、この女は違う。自分の
会場の照明がゆっくりと落とされ、静寂が広がった。 スポットライトが照らし出したのは、ランウェイの中央。Eがこの夜のためだけに仕立てた新作ドレスを纏った、トップモデルの姿だった。 夜空の星々をそのまま織り込んだかのように輝く、繊細で完璧なシルクガウン。 息をのむような美しさに、集まった各国のセレブやメディアから惜しみない感嘆の溜息と拍手が沸き起こる。 「……素晴らしい。さすが、世界のファッション界を震撼させる天才『E』だ」 「レガシーの買収はヴァレンタイン・グループの最高の大勝利だな」 喝采のなか、VIPエリアに立つイザン・ヴァレンタインもまた、その出来栄えに満足げな笑みを浮かべるはずだった。 だが、彼の瞳は冷たく澄み切っていた。 視線はランウェイではなく、会場の隅——先ほどから姿を見せない、あの地味なアシスタント「エマ・ローラン」の行方を追っていた。 一方、会場の壁際では、クロエが唇の両端を吊り上げてほくそ笑んでいた。 (ふん、せいぜい中で泣き崩れていればいいわ。イザン様がわざわざ用意してくださった極上のドレスを台無しにしたんだもの。あの芋女、今夜で完全にクビよ!) クロエの策略は完璧だった。イザンが用意したドレスに赤ワインをぶちまけ、エマを失脚させるはずだったのだ。 モデルがお披露目を終え、ステージから静かに退場する。 誰もがショーの終了を確信し、拍手が鳴り止もうとしたその時——。 ふいに、会場のすべての照明が暗転した。 「……? 何事だ?」 「停電か?」 ザワつく会場に、重厚で低音のチェロの旋律が響き渡る。 マイクを通した司会者の困惑混じりのアナウンスが流れた。 『……皆様、大変失礼いたしました。ここで急遽、もう一人のモデルによる特別なお披露目がございます』 「もう一人……?」 イザンの眉が不審そうに跳ね上がった。そんな演出は予定にない。 直後、一筋の鋭いスポットライトが、ランウェイの最奥を照らし出した。 そこに立っていたのは——。 会場中の息が、一瞬で止まった。 ゆっくりと歩みを進めてくるのは、プロのモデルをも圧倒する、気品に満ちた絶世の美女。 光を吸い込むような漆黒の黒髪をなびかせ、滑らかな白磁の肌、そして誰も寄せ付けない高貴で冷ややかな瞳。 彼女が纏っているのは
華やかなシャンデリアの光が眩い、ヴァレンタイン・グループ創業記念パーティーの会場。今夜の目玉は、買収されたブランド「レガシー」の起死回生を賭けた、天才デザイナー『E』の新作ドレスのお披露目ショーだった。「アシスタントの君も、この歴史的瞬間を一番近くで見届けるといい」イザンから直々に手渡されたのは、今夜のショーで『E』の代理として出席するための特別招待状と、彼が直々に選んだという洗練されたイブニングドレスだった。エマの正体と化けの皮を剥がそうとする、イザンの執着ゆえの罠だ。(焦っているのね、イザン。でも、私はあなたの思い通りにはならないわ)会場の壁際で地味なスーツ姿のまま待機していたエマの前に、甲高い嫌みなヒールの音が近づいてくる。「あら、誰かと思えば……本当にあなたなの? エマ!」現れたのは、華やかなドレスを纏った異父姉のクロエだった。5年前、エマに薬を盛り、あのスイートルームへ追い込んだ元凶である。クロエは地味なエマを見下すと、嘲笑を浮かべた。「嘘でしょう? ヴァレンタイン・グループの新ブランド担当として戻ってきたって聞いたから冷や冷やしたけれど……相変わらず冴えない芋女のままじゃない。一体どんな手を使って潜り込んだの?」「お久しぶりです、クロエ姉様。お仕事の邪魔になりますので、失礼いたします」エマが静かにその場を離れ、控え室へ向かおうとしたその時だった。「生意気ね……! 5年前みたいに、自分が置かれた立場を教えてあげるわ!」クロエはすれ違いざま、手にしたグラスを不自然に傾けた。濃密な赤ワインの液体が、エマが手に抱えていた「今夜着るはずだったイザン提供の高級ドレス」へと容赦なく降り注ぐ。バシャリ、と嫌な音が静かな廊下に響いた。「ああら、ごめんなさい! 手が滑っちゃったわ」クロエは白々しく口元を覆うと、取り巻きたちとクスクスと高笑いを漏らした。「これでパーティーには出られないわね。イザン様が用意してくださった大切なドレスを汚すなんて……今夜であなたは完全にクビよ。惨めに逃げ出したらどう?」悪意に満ちた言葉を残し、クロエたちは会場へと戻っていった。残されたドレスの胸元には、無惨で大きな赤ワインの黒ずんだシミ。普通なら絶望し、泣き寝入りして退場する場面だ。しかし、控え室のドアを閉めたエ
ヴァレンタイン・グループ本社の最上階。洗練されたモダンガラスと大理石で構成された空間に、冷ややかな緊張感が満ちていた。「本日付で『レガシー』の最高クリエイティブ・ディレクターに就任いたしました、エマ・ローランです」エマは優雅にお辞儀をした。だが、その姿は空港での完璧な美女とは大きく異なっていた。顔を覆うような分厚い黒縁眼鏡、メイクを削ぎ落とした素朴な肌、地味で少しゆったりとした膝下丈のスーツ。才能と美貌を完全に隠し、あえて「冴えない女性」のフリをして社内に潜入したのだ。会議室に集まった幹部やデザイナーたちから、あからさまな失望の溜息が漏れる。「……あいつがパリで話題の『E』の代理だって?」「なんだ、ただの地味な女じゃないか。レガシーの再建なんて無理だな」クスクスという嘲笑の中、エマは心の中で冷ややかに微笑んでいた。人間の浅はかな先入観を利用するのは簡単だ。見下させておけばおくほど、後でその鼻を折る時の爽快感は増す。「静かにしろ」氷のように冷たい声が響き渡り、会議室が一瞬で静まり返った。上座の重厚なレザーチェアから、ゆっくりと立ち上がる男——イザン・ヴァレンタイン。仕立ての良いダークスーツに身を包んだ彼の威圧感は、5年前よりも増していた。イザンは無感情な瞳でエマを見下ろす。「『E』本人ではなく、代理の貴様が来た理由は?」「E先生は極度の人嫌いですので。現場の全権は私に委ねられております、CEO」エマは伏せ目がちに、だが澱みのない完璧な声音で答えた。イザンは不快そうに目を細めた。目の前の女は冴えない装いをしている。だが、その背筋の伸び方、言葉の端々に滲む揺るぎない品格が、どこか不気味な違和感を醸し出していた。「……いいだろう。成果が出せなければ、即刻契約を破棄する」イザンは冷たく言い放ち、エマの脇を通り抜けて会議室を出ようとした。その、すれ違いざまのことだった。ふわり、と。エマの髪から、微かな香りが立ち上る。——レモンブロッサムと、ホワイトムスク。イザンの足が、まるで金縛りに遭ったかのようにピタリと止まった。(……な……っ!?)全身の血が逆流するような感覚。脳裏に鮮烈に蘇るのは、5年前のあの夜、暗闇の中で自分にしがみついていた少女の熱と、甘い香り。そして先刻、空