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身重の私を捨てて、後悔しても遅い

身重の私を捨てて、後悔しても遅い

Por:  逆転の歯車Completo
Idioma: Japanese
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私の名前は篠原優(しのはら ゆう)。 妊娠七ヶ月、夫の長谷川翔(はせがわ かける)は私を「汚い」と嫌った。 「俺に触るな!」 玄関先で、彼は嫌悪感を露わにして私を突き飛ばした。 「油臭えんだよ、吐き気がする」 その声を聞きつけて部屋から出てきた義母は、煮込んだばかりの特製スープを翔に差し出した。 「優、翔が潔癖症だって知っているのに。 妊娠してるからって、自分の身なりくらい清潔にできないの? 翔は仕事で疲れてるんだから、少しは気を遣いなさいよ」 私はその母子を見て、胃の中が引っくり返るような吐き気を催した。 背を向けた瞬間、スマホの画面が光り、一枚の写真が目に飛び込んできた。 翔の新しいアシスタント、小林莉奈(こばやし りな)だ。 写真の中の女は、親しげに翔の肩に寄りかかり、満面の笑みを浮かべている。

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Capítulo 1

第1話

私の名前は篠原優(しのはら ゆう)。

妊娠七ヶ月、夫の長谷川翔(はせがわ かける)は私を「汚い」と嫌った。

「俺に触るな!」

玄関先で、彼は嫌悪感を露わにして私を突き飛ばした。

「油臭えんだよ、吐き気がする」

その声を聞きつけて部屋から出てきた義母は、煮込んだばかりの特製スープを翔に差し出した。

「優、翔が潔癖症だって知っているのに。

妊娠してるからって、自分の身なりくらい清潔にできないの?

翔は仕事で疲れてるんだから、少しは気を遣いなさいよ」

私はその母子を見て、胃の中が引っくり返るような吐き気を催した。

背を向けた瞬間、スマホの画面が光り、一枚の写真が目に飛び込んできた。

翔の新しいアシスタント、小林莉奈(こばやし りな)だ。

写真の中の女は、親しげに翔の肩に寄りかかり、満面の笑みを浮かべている。

「翔、どういうつもり?」

私の問いかけは静かだったが、リビングにいた母子二人の動きを止めるには十分だった。

翔は、手を拭いたウェットティッシュをゴミ箱へ投げ入れた。

「人の言葉が分からねえのか?俺に触るなっつってんだよ」

その声には隠しきれない嫌悪が滲んでおり、その言葉が針のように私の皮膚に突き刺さる。

義母もすかさず加勢した。

「私の時はねえ、夫のために家事を完璧にこなして、主人のスリッパだって私が手洗いしてたのよ。

それなのにあんたは?専業主婦のくせに家事もろくにできないし、一日中髪もボサボサで薄汚い格好して……翔が嫌がるのも無理ないわ」

敵意を剥き出しにしてくるこの親子を見て、私は思わず笑いが漏れた。

エプロンの油汚れは、翔の食事を作っていて跳ねたもの。

ゆったりしたコットンのワンピースは、妊娠中でも楽に着られて、きれいに見えるように作られている。

爪先の開いたスリッパは、妊娠で浮腫んだ足でも便利に履けるようにするためだ。

それを、この人は「ボサボサで薄汚い」と言うのだ。

「翔が潔癖症なのは、私が誰よりもよく知っています。

だから毎日消毒液で床を三回拭いて、食器は毎食除菌乾燥機に入れているし、部屋の隅まで埃一つないようにしてます。

お義母さんには、それが見えないんですか?」

私の反論に義母は言葉を詰まらせたが、すぐに顔を真っ赤にして逆ギレした。

「ベビー服をベランダなんかに干しっぱなしにして!埃や雑菌まみれになるじゃない!」

彼女はベランダを指差した。

そこには、今日私が手洗いして干したばかりのベビー服が並んでいる。

すべて最高級の赤ちゃん用洗剤を使って、私が一枚一枚丁寧に洗ったものだ。

それさえも、彼らにとっては「汚い」証拠になるらしい。

「洗い直せ」

翔が冷たく言い放った。

「熱湯消毒して、乾燥機で乾かせ。外に干すなんてありえねえ。汚ねえぞ!」

露骨な嫌悪感に、心臓を雑巾絞りにされたように痛む。

私はその場から動かなかった。

「翔、あの服は綺麗よ」

「ふざけるな!」

彼はやっと顔を上げ、私を睨みつけた。

かつて私をときめかせたその顔には、今や冷ややかな軽蔑しか残っていない。

「ふざける?私が?」

「優、お前、どうかしてるぞ。

俺はただ綺麗に生活がしたいだけだ。それが何が悪い?

お前が薄汚いのは勝手だが、俺の子供までこんなゴミ溜めに引きずり込むな!」

ゴミ溜め?

私が宝物のように大切にし、毎日必死に守ってきたこの家が、彼にとってはゴミ溜めなのだ。

怒りで体が震えた。

「あなたの言う綺麗って何よ?

私が消えれば、この家は綺麗になるって言いたいの?」

私の問いかけに、彼は激昂した。

「また始まったか!話になんねえよ!」

彼が勢いよく立ち上がった拍子に、傍らにあった観葉植物の鉢が倒れた。

ガシャーンという音と共に鉢が割れ、土と破片が床に散乱する。

翔は咄嗟に飛び退き、散らかった床を指差して私に怒鳴った。

「何ボーっとしてんだ?さっさと片付けろ!見てるだけでイライラする!」

義母もここぞとばかりに口を挟む。

「まったく、これだから気の利かない女は!

あんたなんか嫁に貰うんじゃなかった。

とんだ貧乏くじを引いたわ!」

私は散らかった床を見つめ、それからそっくりな冷たい顔をした親子を見やった。

何も言わず、私はキッチンに入り、作ったばかりの一汁三菜をすべて生ゴミ入れにぶちまけた。

音を聞きつけた翔が、キッチンの入り口に飛んできた。

「何してんだ!俺はまだ飯食ってねえんだよ!」

私は振り返り、彼を静かに見つめた。

「汚いでしょう? こんな汚いものを食べたらお腹を壊してしまうから」

言い終わると、私はエプロンを外してゴミ箱に叩き込み、寝室に入って鍵をかけた。

「おい!」

翔は怒鳴りながら追いかけてきたが、閉ざされたドアに阻まれた。

私はドアに背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。

スマホの画面では、莉奈の挑発的な笑顔がまだ光っている。

私はその写真を削除も返信もしなかった。

ただ、その写真と、添えられた悪意に満ちたメッセージを保存しただけだ。

そして、別のチャット画面を開いた。

【起きてる?調べてほしい人がいるの。これから離婚するわ】
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第1話
私の名前は篠原優(しのはら ゆう)。妊娠七ヶ月、夫の長谷川翔(はせがわ かける)は私を「汚い」と嫌った。「俺に触るな!」玄関先で、彼は嫌悪感を露わにして私を突き飛ばした。「油臭えんだよ、吐き気がする」その声を聞きつけて部屋から出てきた義母は、煮込んだばかりの特製スープを翔に差し出した。「優、翔が潔癖症だって知っているのに。妊娠してるからって、自分の身なりくらい清潔にできないの?翔は仕事で疲れてるんだから、少しは気を遣いなさいよ」私はその母子を見て、胃の中が引っくり返るような吐き気を催した。背を向けた瞬間、スマホの画面が光り、一枚の写真が目に飛び込んできた。翔の新しいアシスタント、小林莉奈(こばやし りな)だ。写真の中の女は、親しげに翔の肩に寄りかかり、満面の笑みを浮かべている。「翔、どういうつもり?」私の問いかけは静かだったが、リビングにいた母子二人の動きを止めるには十分だった。翔は、手を拭いたウェットティッシュをゴミ箱へ投げ入れた。「人の言葉が分からねえのか?俺に触るなっつってんだよ」その声には隠しきれない嫌悪が滲んでおり、その言葉が針のように私の皮膚に突き刺さる。義母もすかさず加勢した。「私の時はねえ、夫のために家事を完璧にこなして、主人のスリッパだって私が手洗いしてたのよ。それなのにあんたは?専業主婦のくせに家事もろくにできないし、一日中髪もボサボサで薄汚い格好して……翔が嫌がるのも無理ないわ」敵意を剥き出しにしてくるこの親子を見て、私は思わず笑いが漏れた。エプロンの油汚れは、翔の食事を作っていて跳ねたもの。ゆったりしたコットンのワンピースは、妊娠中でも楽に着られて、きれいに見えるように作られている。爪先の開いたスリッパは、妊娠で浮腫んだ足でも便利に履けるようにするためだ。それを、この人は「ボサボサで薄汚い」と言うのだ。「翔が潔癖症なのは、私が誰よりもよく知っています。だから毎日消毒液で床を三回拭いて、食器は毎食除菌乾燥機に入れているし、部屋の隅まで埃一つないようにしてます。お義母さんには、それが見えないんですか?」私の反論に義母は言葉を詰まらせたが、すぐに顔を真っ赤にして逆ギレした。「ベビー服をベランダなんかに干しっぱなしにして!埃や雑菌ま
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第2話
送信完了。顔を上げると、薬指に嵌めた結婚指輪がまばゆく輝き、視界に入り込んだ。鼻の奥がツンと痛んだ。私と翔は、大学の弁論大会で知り合った。あの頃の彼は、潔癖症なんてなかった。私が残したものを平気で食べてくれた。一本のストローで飲み物を回し飲みしてくれた。生理でシーツを汚した時だって、嫌な顔一つせず洗ってくれた。結婚してからも、記念日を欠かさず覚えていて、サプライズを用意してくれていた。それから、私は妊娠した。初期の頃はつわりが酷く、ホルモンバランスの影響で何を食べても吐いてしまい、心も体もやつれ果てていた。最初は翔も心配して、抱きしめて優しくしてくれたりした。それが次第に、指一本触れようとしなくなり、帰りも遅くなっていった。やがて、私が汚いと罵り始めた。私が吐いた後のトイレを嫌がり、私から「妊婦の酸っぱい臭いがする」と言い出した。ついには、寝室まで別になった。私はこれを、妊娠中特有の倦怠期だと思い込もうとしていた。子供が生まれれば、また元通りになると信じていた。莉奈という女が現れるまでは。彼女は翔の新しいアシスタントだ。若くて綺麗で、愛想がいい。私はすぐに、二人の間に漂う甘ったるい空気を感じ取った。彼女が翔を見る目は、あまりにも熱っぽく、隠そうともしていなかった。そして翔もまた、彼女に対しては特別だった。彼女がパクチー苦手なのを覚えていてわざわざ取り除いてやったり、彼女の冗談に声を上げて笑ったり……私が久しく聞いていない、あの屈託のない笑い声で。ただ、確証だけがなかった。――ピロン。通知音が私の回想を断ち切った。親友の桐島遥(きりしま はるか)からのメッセージだ。【小林莉奈。S市出身、1999年2月11日生まれ。現住所は南区6丁目。両親は他界】添付された写真には、翔が莉奈にネックレスをつけてやっている姿が写っていた。見覚えのあるネックレスだ。つわりで苦しむ私を慰めるために、翔が「買ってやる」と約束してくれたものだ。けれど三ヶ月待たされた挙句、彼が言ったのはこの一言だけだった。「たかがネックレスに数百万円なんて、金の無駄だ」今、その「無駄」なはずのネックレスが、別の女の首で輝いている。無駄なんかじゃない。私にはその価値がな
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第3話
翌日、私は翔が投げつけた金で新しいスマホを買った。そして銀行へ行き、共有口座の取引履歴を確認した。案の定、一ヶ月前に五千万円の送金記録があった。送金先は見知らぬ名だったが、最終的に誰の手に渡ったかは明らかだ。私は取引履歴を写真に撮り、保存した。ここ数日、翔は帰ってこなかった。義母だけが相変わらず私を罵り続けている。私は部屋に引きこもり、家事も料理も一切しなくなった。好きに言わせておけばいい。離婚して、財産分与を勝ち取るためには、写真一枚では足りない。もっと多くの、決定的な証拠が必要だ。リビングで水を飲んでいる時、書斎のドアが半開きになっているのが目に入った。ピンときた。翔には仕事用のサブスマホがある。主に「裏」の仕事を処理するためのものだ。いつも書斎の引き出しに入れているはずだ。義母が台所へ行った隙に、私は書斎へ忍び込んだ。引き出しを開けると、案の定、黒いスマホがあった。パスワードがかかっている。翔の誕生日……違う。私の誕生日……やっぱり違う。莉奈の誕生日を打ち込んでみた。ロックが解除された。アルバムを開いた瞬間、背筋が凍りついた。目に飛び込んできたのは、翔と莉奈の生々しい写真の数々。海辺でのキス、レストランでの抱擁、それどころか……私たちのベッドでの自撮りまである。莉奈は私のシルクのネグリジェを身にまとい、挑発するように微笑んでいる。日付を見ると、私がつわりで入院していた時期だった。私は画面録画をしながら、写真をスクロールし続けた。心が千切れそうだ。夫として私のそばにいるべきだった時間は、すべて莉奈に費やされていたのだ。涙が溢れ出し、視界が滲む。「何してんだ!」背後で怒号が響いた。ビクッとして、手からスマホが滑り落ちた。翔が大股で駆け寄り、床のスマホを拾い上げる。私は素早く自分のスマホを隠した。顔を上げると、殺気立つほどの怒りに燃える彼の目とぶつかった。彼は私の手首を掴み、骨が砕けそうなほど強く握りしめた。「優、お前、恥知らずか?誰の許可で人のもん漁ってんだ?」翔はスマホを壁に叩きつけた。「弱みでも握ったつもりか?ああ?」彼は私に詰め寄り、鼻先に指を突きつけた。「見たからなんだってんだ?俺はあい
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第4話
病院へ向かう車中、翔は一言も発さなかった。前だけを見て運転する彼は、まるで隣に座る私が、赤の他人であるかのように冷淡だった。彼は私がシートを汚さないよう、私の体の下に何重にもペット用シートを敷いた。さらに窓を全開にし、容赦なく冷風を浴びせてきた。私が寒さで震えていようと、お構いなしだ。私の血の臭いがして、吐き気がすると言ったのだ。病院に着くと、彼は手早く手続きを済ませ、私を一人病室に残して去っていった。まるで厄介な荷物を捨てていくかのように。幸いにも、子供は無事だった。どれくらい時間が経っただろう。病室のドアが開いた。翔かと思った。顔を上げると、そこには私が一番会いたくない人が立っていた。莉奈だ。彼女は保温弁当箱を手に提げ、完璧な営業スマイルを浮かべていた。「翔さんが急な仕事で抜けられないので、私が代わりに来ました。これ、翔さんが私のために作ってくれた特製薬膳スープなんですけど、ちょうど余ったので。温かいうちにどうぞ。赤ちゃんのためにも、栄養つけないといけません」彼女が弁当箱を開ける。濃厚なスープの香りが、病室いっぱいに広がった。かつて、私が一番好きだった翔の手作りスープ。だが今は、吐き気が込み上げてくるだけだ。「要らない」私は冷たく言った。「ここはあなたの来る場所じゃないわ。持って帰って」私の言葉で、彼女の偽善の仮面が剥がれた。莉奈から笑顔が消える。彼女は私の耳元に顔を寄せ、氷のように冷たい声で囁いた。「優さん、あんた自分が何様のつもり?その腹のガキを盾にして、一生長谷川夫人の座に居座れるとでも思ってんの?翔さんが一番好きなのは私よ。あんたみたいに翔さんに寄生して血を啜るだけの能無しは、死ねばいいのよ」彼女の一言一句が、ナイフのように私の心を抉った。怒りで震えが止まらず、私は彼女を叩こうと手を振り上げた。だが、鈍った私の動きは簡単にかわされた。同時に、莉奈の手からスープがこぼれ落ちた。煮えたぎるスープが、私の手の甲にかかる。「あっ!」熱い!激痛に悲鳴を上げる。手の甲はみるみる赤く腫れ上がり、焼けるように痛んだ。その時、病室のドアが勢いよく開いた。翔が飛び込んでくる。莉奈は即座に嘘泣きを始めた。「翔さん!
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第5話
翔の表情が凍りついた。まさか私がこんな状況で、奥の手を隠し持っているとは夢にも思わなかったのだろう。「お前!」彼は反射的に飛びかかり、レコーダーを奪い取って床に叩きつけ、粉々に踏み砕いた。証拠を消して安堵する彼を見て、私は思わず笑ってしまった。「翔、私がそんなに馬鹿だと思った?それはただのコピーよ。停止ボタンを押した瞬間、データはクラウドに自動アップロードされたの。もちろん暗号化済み」遥に連絡したその瞬間から、私はずっと離婚の準備を進めてきたのだ。「優、俺を脅す気か?」怒りと恐怖で、彼の声が裏返った。「脅してなんかいないわ」私は布団をはねのけ、ゆっくりとベッドから降り、靴を履いた。足取りはしっかりしていた。「事実を教えてあげただけよ。今の発言があれば、離婚裁判であなたは完敗よ。不貞行為、財産隠し、妊婦への虐待、脅迫……」罪状を並べるたびに、翔の顔から血の気が引いていく。莉奈も青ざめ、翔の腕を揺すった。「翔さん、騙されないで!デタラメよ!専業主婦のくせにクラウドだの暗号だの、分かるわけがないわ!」残念ながら、手遅れだ。翔は彼女の手を振り払った。初めて彼女に対して苛立ちを見せた。「黙れ!」今の彼の頭の中は、あの忌々しい録音データのことで一杯だ。愛人の機嫌を取る余裕などない。私は二人を一瞥もしないまま、病室の出口へと歩き出した。「どこへ行くんだ!」背後で翔が怒鳴った。「あなたのいない、綺麗な場所へ」私はドアを開け、出て行った。彼は追いかけてこようとしたが、結局、足を踏み出すことはなかった。私の読み通り、彼は恐れたのだ。病院の廊下で騒ぎになり、事が公になるのを恐れたのだ。彼のそのちっぽけで哀れな誇りが、今の私にとって最強の盾となった。私は自宅にも、実家にも帰らなかった。手持ちの数万円を使い、古びているが清潔なホテルに宿を取った。最初にしたことは、スマホの電源を切ること。すべての知人、すべての煩わしさをシャットアウトした。手の甲の火傷がズキズキと痛む。洗面所の流水で冷やし続け、ようやく痛みが引いてきた。鏡に映る自分は酷い有様だった。顔色は白く、髪はボサボサ、片手は赤く腫れ上がっている。だが分かっていた。あの病室を出
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第6話
それから一週間、私は外界との接触を一切断った。スマホの電源は切ったまま。食事と睡眠以外は、遥と連絡を取るだけの日々を過ごした。遥の仕事は早かった。すぐに裏が取れた。あの五千万円の送金先は、莉奈の従兄弟だった。着金の翌日、莉奈は都心の一等地にマンションの頭金を支払っている。それだけではない。遥が雇った探偵の調査によると、過去半年間で、翔は職権を乱用し、架空の経費請求やプロジェクト費の名目で、実家の会社から七千万円近くの資金を横領していた。その金の大部分が、莉奈とその家族に流れていたのだ。これは単なる不倫ではない。業務上横領、背任、立派な経済犯罪だ。遥が分厚い資料を目の前に積み上げた時、私は不思議と冷静だった。「優、この手札があれば、長谷川を身一つで追い出すどころか、数年刑務所にブチ込むこともできるよ」遥は真剣な眼差しで私を見た。「どうする?」そうね……窓の外を見た。空は鉛色で、今にも雨が降り出しそうだ。翔の数々の冷酷な表情が脳裏をよぎる。義母のあくどい罵声も。莉奈が浴びせた熱いスープも。そして、生まれる前から実の父親に「やつ」「ガキ」と呼ばれた私の子供も。「あいつを一文無しにしてやりたい」私は一言一句、噛み締めるように言った。「それから小林莉奈。あいつが貪ったお金を、倍にして吐き出させる」遥がニヤリと笑った。「了解」一方、翔と義母は発狂寸前だった。私が消えた数日間、彼らはあらゆるツテを使って私を探し回った。私の実家や友人、思いつく限りの場所に連絡したようだ。だが、何の手がかりも掴めなかった。私は煙のように消えてしまった。行方が知れない時間が長くなるほど、彼らの焦りは恐怖へと変わっていった。特に翔は、あの「クラウドにアップされた」録音データが、ダモクレスの剣のように頭上にぶら下がっているのだ。彼は私にメッセージを送り、電話をかけまくった。最初は怒りの罵倒、何がしたいんだという尋問。無視されていると悟ると、態度は一変して軟化した。泣き落としに変わっていった。【優、俺が悪かった。戻ってきてくれ。あの日は酔っ払ってて、つい口が滑ったんだ。本心じゃない。どこにいるんだ?返事をしてくれ。お前と赤ちゃんが心配なんだ。帰ってき
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第7話
翌日、私は入念に身なりを整え、完璧な状態でスターライト法律事務所の会議室に現れた時、翔と義母は呆然としていた。彼らの予想は、やつれ果て、涙に暮れる惨めな私が来るというものだったはずだ。だが目の前の私は、かつてないほど冷静で、毅然としていた。「優……」翔が私の手を取ろうと歩み寄る。私は一歩下がり、彼の接触を避けた。「触らないで」私は彼を見据え、かつて彼が私に放った言葉をそのまま返した。「汚らわしい」彼から血の気が引いていき、差し出された手は行き場を失って宙を彷徨った。それを見た義母が、すぐに飛びかかってきた。「優!何よその態度は!翔がわざわざ迎えに来てやったっていうのに、いい加減にしなさい!」遥が一歩前に出て、私を庇うように立ちはだかった。「発言にはご注意ください。現在、私の依頼人とあなたの息子さんは離婚協議中です。これ以上取り乱されるようでしたら、ご退室願います」遥の迫力に押され、義母は口ごもった。「あ、あんた誰よ?」「私は優の代理人弁護士、桐島遥と申します」翔は遥の名前を知っていたらしく、顔から血の気が引いた。「桐島……あの離婚裁判の女王、桐島遥か?」遥は優雅に微笑んだ。「お会いできて光栄ですわ、長谷川さん」私たちは会議テーブルの両側に分かれて座った。翔の隣には彼の母親と、やり手そうな中年弁護士が座っている。「さて、全員お揃いのようですし、本題に入りましょう」遥は録音データ、浮気の証拠写真、そして書類の束を彼らの前に押しやった。「こちらが離婚協議書の草案です。当方の請求は簡単です。以下となります。第一に、子供の親権は当方が持つこと。第二に、婚姻期間中の共有財産、すなわち不動産、車、預貯金はすべて当方に分与すること。第三に、長谷川氏が保有する長谷川グループの株式の30%を無償で当方に譲渡すること」遥が言い終わるや否や、相手方の弁護士が反論した。「依頼人は同意しません。裁判になっても、そのような請求が認められることはありえません」義母に至っては、バンと机を叩いて立ち上がった。「ふざけるんじゃないわよ!長谷川家を食い物にする気!?」翔も我に返り、信じられないという顔で私を見た。「優、本気で言ってるのか?長年連れ添った
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第8話
「チャンス?」私は嘲笑を浮かべ、翔を見下ろした。「私があなたにあげたチャンス、まだ足りないって言うの?私がつわりで苦しんでいる時、あなたは何をした?私があなたのお母さんにいじめられ、愛人に侮辱されていた時、あなたは何をした?あなたに突き飛ばされ、流産しかけて冷たいベッドで震えていた時、あなたは何をしてた?あなたは愛人を守り、私を罵倒し、あまつさえ、私に手を上げたのよ」私が言葉を重ねるたび、翔の頭は低く垂れていく。義母の顔色も、みるみる悪くなっていく。「チャンスはあげたわ。でも、あなたがそれを踏みにじったのよ」そう言い放ち、私はペンと離婚協議書を、再び翔の前に滑らせた。「サインして、これがあなたに残された、唯一の道よ」翔の弁護士も、すでに抵抗を諦めていた。彼は翔の耳元で囁いた。「長谷川さん、サインしましょう。会社さえ守れば、再起は可能です。もし裁判になれば、会社ごと終わります」そう、会社だ。彼らが一番大切にしているのはそれだ。親子の愛も、夫婦の絆も、巨額の資産の前では無価値に等しい。義母もようやく状況を理解したようだ。彼女は悪態をつくのをやめ、悲劇の母親を演じ始めた。情に訴えようという魂胆だ。「優、私たちは家族じゃないの?本当にそこまで非情になれるの?本気で翔を破滅させる気?お腹の子だって、長谷川家の血を引いてるのよ!子供のためだと思って、どうか許してちょうだい」私はその白々しい顔を見て、ようやく口を開いた。「お義母さん、そんなのはやめてください?」私のお腹の子は、どうでもいいガキじゃなかったんですか?どうして急に、長谷川家の大事な血筋になったんです?」私の言葉は強烈なビンタのように、二人の顔を打ち据えた。義母の顔は朱に染まり、青ざめ、目まぐるしく変わる。翔は恥ずかしさのあまり、顔を上げられずにいる。「それに」私は続けた。「この子は今後、私の籍に入ります。長谷川家とは赤の他人です」「なんと?!」義母は私を指差して震えたが、反論の言葉が出てこない。最終的に、圧倒的なプレッシャーの中、翔は震える手で、全身の力を絞り出すようにペンを走らせる。サインした瞬間、彼は糸が切れたように崩れ落ちた。その姿は、一気に老け込んだように見え
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第9話
離婚後の生活は、想像以上に穏やかだった。翔は協議書の内容通りに、手続きを済ませた。家も、車も、すべて私の名義になった。長谷川グループの株式30%も、私の名義に書き換えられた。私は一夜にして、夫の顔色を窺うだけの専業主婦から、莫大な財産を持つ資産家へと転身したのだ。嫌な思い出ばかりのこの街を私は迷わず後にした。家を売却し、その巨額の資金を持って、両親の住む街へと戻った。手元の資金を使い、私は小さい頃から、住み慣れた故郷に広々とした高級マンションを購入した。そして両親を呼び寄せ、一緒に暮らし始めた。残った資金を元手に、小さな投資会社を立ち上げた。昔から得意としていた分野だ。毎日は忙しく、そして充実していた。お腹の子も日に日に大きくなり、胎動も力強さを増している。まるで「僕は元気だよ」と伝えてくれているようだ。時折、遥から翔と莉奈の近況が聞こえてくる。あの件が原因で、翔は一族内での信用を完全に失ったらしい。会社を守るため、両親は彼を経営陣から外し、閑職に追いやったそうだ。手にするのは、雀の涙ほどの基本給だけ。個人資産のほとんどを私に譲渡したため、今の彼の生活は、しがないサラリーマン以下だろう。莉奈はもっと悲惨だ。例の七千万円など、払えるはずもない。彼女の実家は金を工面するために家を売り払い、それでも足りずに借金を抱えた。彼女も職を追われ、悪評が広まって完全に居場所をなくした。聞くところによると、翔との仲も完全に決裂したようだ。二人は街中で掴み合いの喧嘩をして警察沙汰になり、笑い者にされているという。そんな話を聞いても、私の心は凪のように静かだった。すべては自業自得だ。ある日、自宅で育児書を読んでいると、見知らぬ番号から着信があった。少し迷ったが、通話ボタンを押した。「もしもし?」電話の向こうから聞こえてきたのは、聞き覚えがあるはずなのに、まるで別人のように枯れた声だった。翔だ。「……優か、俺だ」その声は、酷くしゃがれて疲れ切っていた。私は沈黙したまま、何も答えなかった。「その……SNSを見たんだ。もうすぐ、生まれるんだろ?」そういえば、この番号を着信拒否にするのを忘れていた。「何の用?」私の声は冷ややかだ。「いや、その……子供
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