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それでも、愛に遅すぎることはない

それでも、愛に遅すぎることはない

By:  九葉(くよう)Completed
Language: Japanese
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病院の入り口で。 伊坂悠川(いさか はるかわ)は、妊娠中に大量出血していた私を置き去りにして、離婚相談中の女性依頼人を送っていくのだと言い張る。 足元を伝って血が溢れ出していても、彼は一度も振り返らず、焦った様子でその女のもとへ去っていった。 深夜、本来なら私の付き添いで病室にいるはずの悠川は、なぜかその女のツイッターに登場していた。 【頼りになる私の弁護士先生。酔っ払ってもちゃんと二日酔いのお味噌汁が出てくるの、あれ?それって私だけ?】 私は一睡もできなかった。 翌朝早く、静かに電話をかける。 「お父さん、私、決めた。三日後、家に帰って会社を継ぐから」

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Chapter 1

第1話

病院の入り口で。

伊坂悠川(いさか はるかわ)は、妊娠中に大量出血していた私を置き去りにして、離婚相談中の女性依頼人を送っていくのだと言い張る。

足元を伝って血が溢れ出していても、彼は一度も振り返らず、焦った様子でその女のもとへ去っていった。

深夜、本来なら私の付き添いで病室にいるはずの悠川は、なぜかその女のツイッターに登場していた。

【頼りになる私の弁護士先生。酔っ払ってもちゃんと二日酔いのお味噌汁が出てくるの、あれ?それって私だけ?】

私は一睡もできなかった。

翌朝早く、静かに電話をかける。

「お父さん、私、決めた。三日後、家に帰って会社を継ぐから」

電話の向こうで、父は少し黙ったあと、深くため息をついた。

「そうか、帰ってくるんだな。よかった、家で待ってるよ」

父の声を聞きながら、胸の奥が苦しくなって、私は電話を切った。

すでに平らになったお腹をそっと撫でる。止めようのない涙が溢れ出す。

医者は私に言った。「赤ちゃんはやっと形になったばかりです。もう少し早く来ていれば、違う結果だったかもしれません……」

赤ちゃん、ごめんね。ママがちゃんと守ってあげられなかった。許して……

私は声を抑えきれず、泣き続けた。

見回りに来た若い看護師さんがドアを開けて入ってきた。似たようなことは何度も見ているだろうに、それでも少し目を潤ませている。

「流産なんて大変だったでしょう、どうして一人なの?ご主人は?」

その優しい声に、私はますます涙が止まらなくなる。

見知らぬ看護師さんだけが、私を気遣ってくれる。

私の夫は、今ごろ他の女のぬくもりの中で目覚めているんだろう。

私はだんだんと泣き止み、苦い笑みを浮かべて呟いた。「夫、死んだんです……」

看護師さんは気まずそうに謝り、私への同情が目に浮かぶ。

私は医者の忠告も聞かず、無理を言って退院手続きをした。

手元の流産報告書を見つめる。足元がふらつく。

あんなに大事にしていた命が、ただの紙切れになってしまうなんて。

でも、この痛みを私一人だけで背負うつもりはなかった。

家に戻った。

誰もいないリビング。やっぱり悠川は帰っていない。

男女が夜遅くに二人きり、何もなかったなんて、誰が信じるだろう。

以前なら、怒りの電話を何十回もかけていただろう。

でも今は、もうただただ疲れていた。

電話が鳴った。悠川からだった。

出ると、すぐに彼の気遣う声が聞こえた。

「楓(かえで)、大丈夫か?清美がちょっと大変なことになってな、昨夜飲み過ぎて、今朝は熱まで出してる。今、彼女を病院に送ってるところなんだ……」

彼の言い訳が終わるのを待って、私は静かに言った。「昨日の夜、あなたたちは一緒だったのね」

事実を淡々と述べる。反論ではない。

電話の向こうで、悠川が一瞬黙った。そして逆ギレした声が返ってくる。

「楓、お前、なんて下品な考え方するんだ。清美は俺の依頼人だぞ?彼女が飲み過ぎたから、ちょっと面倒見たっていいだろうが!

今だって隣にいるんだ。離婚して気が沈んでるところに、風邪までひいて……頼むからさ、お前の汚い想像で彼女を傷つけるなよ!」

自分の夫が、他の女のためにここまで必死になるのを聞きながら、私は静かに問いかけた。「昨日、私を病院の前に置き去りにした時、私の体調のこと、少しでも考えた?」

悠川は一瞬、言葉に詰まったようだったが、すぐにイライラした声が返ってきた。

「お前、もう病院の前に着いたんだろ?何も問題ないじゃないか!もういい加減にしろよ。清美に謝れ、それでこの話は終わりだ」

彼の言葉に、私は思わず笑ってしまった。

その笑い声を聞いて、悠川はもう怒っていないと勘違いしたらしい。「じゃあ今度、彼女と飯でも食いに行って、お前、ちゃんと謝っとけよ?」

電話を切った後、私はすぐに悠川の連絡先をすべてブロックした。

そして三日後、最も早い便の飛行機を予約した。

悠川とは大学で出会い、三年付き合い、三年結婚生活を送った。

七年目の危機を待つまでもなく、私たちの結婚は壊れかけていた。

私たちの喧嘩は、いつも何かしらあの新井清美(あらい きよみ)が原因だった。

結婚記念日には清美の家の水道が壊れ、私の誕生日には清美が火傷をした。

そのたびに、悠川は彼女の一報で飛んでいった。

そして、私が妊娠して流産した時でさえ、彼は夫としても父親としても、何一つ責任を果たさなかった……
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第1話
病院の入り口で。伊坂悠川(いさか はるかわ)は、妊娠中に大量出血していた私を置き去りにして、離婚相談中の女性依頼人を送っていくのだと言い張る。足元を伝って血が溢れ出していても、彼は一度も振り返らず、焦った様子でその女のもとへ去っていった。深夜、本来なら私の付き添いで病室にいるはずの悠川は、なぜかその女のツイッターに登場していた。【頼りになる私の弁護士先生。酔っ払ってもちゃんと二日酔いのお味噌汁が出てくるの、あれ?それって私だけ?】私は一睡もできなかった。翌朝早く、静かに電話をかける。「お父さん、私、決めた。三日後、家に帰って会社を継ぐから」電話の向こうで、父は少し黙ったあと、深くため息をついた。「そうか、帰ってくるんだな。よかった、家で待ってるよ」父の声を聞きながら、胸の奥が苦しくなって、私は電話を切った。すでに平らになったお腹をそっと撫でる。止めようのない涙が溢れ出す。医者は私に言った。「赤ちゃんはやっと形になったばかりです。もう少し早く来ていれば、違う結果だったかもしれません……」赤ちゃん、ごめんね。ママがちゃんと守ってあげられなかった。許して……私は声を抑えきれず、泣き続けた。見回りに来た若い看護師さんがドアを開けて入ってきた。似たようなことは何度も見ているだろうに、それでも少し目を潤ませている。「流産なんて大変だったでしょう、どうして一人なの?ご主人は?」その優しい声に、私はますます涙が止まらなくなる。見知らぬ看護師さんだけが、私を気遣ってくれる。私の夫は、今ごろ他の女のぬくもりの中で目覚めているんだろう。私はだんだんと泣き止み、苦い笑みを浮かべて呟いた。「夫、死んだんです……」看護師さんは気まずそうに謝り、私への同情が目に浮かぶ。私は医者の忠告も聞かず、無理を言って退院手続きをした。手元の流産報告書を見つめる。足元がふらつく。あんなに大事にしていた命が、ただの紙切れになってしまうなんて。でも、この痛みを私一人だけで背負うつもりはなかった。家に戻った。誰もいないリビング。やっぱり悠川は帰っていない。男女が夜遅くに二人きり、何もなかったなんて、誰が信じるだろう。以前なら、怒りの電話を何十回もかけていただろう。でも今は、もうただただ疲れていた。
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第2話
私は体調が悪く、ぼんやりしたままベッドで夜中まで眠っていた。不意に寝室の灯りがつき、悠川が帰ってきた。彼は少し険しい顔つきで、「なんで俺の連絡先、ブロックした?」と問いかけてきた。私は目を閉じたまま、無言で答えなかった。すると彼は無理やり近づいてきて、冷たい手を私のパジャマの中に差し入れ、お腹にぴたりと当ててきた。元々具合の悪かった体が、さらにしんどくなる。悠川は手を引っ込めながら、「また拗ねてるのか?前にも言っただろ、俺と彼女はただの弁護士と依頼人の関係だ。かわいそうだから手助けしただけだ」と、声を低くして言う。お腹がキリキリ痛むし、もう彼と口論する気力もない。悠川は少し困ったように、「まあまあ、もう怒るなよ。昨日は俺が悪かった。今度からちゃんとするからさ」となだめてくる。その場しのぎの言葉を、私は何度も聞かされてきた。結局、本気で信じていたのは私だけだったのだ。そう思うと、胸が少し苦しくなる。悠川は私の顔色が悪いのに気づいて、自分から言ってきた。「もしかして、生理か?また体調管理サボってたんだろ。しょうが湯でも作ってやるよ、な?俺、こんなに優しくしてやってるのに、なんで毎回俺のこと怒らせるんだよ」と、恩着せがましい口ぶりで言う。その優しさが、どこか空虚に感じて、私は一瞬動きを止めた。妊婦は生理なんて来ない。悠川は、私のことを本当に気にかけたことなんて一度もなかった。彼はキッチンで何やらしているが、携帯をテーブルに置き忘れていた。ふと画面が光り、「ウザ子清美」からメッセージが届いていた。私はそっと視線を外し、ベッドサイドのポットに手を伸ばしてお湯を取ろうとした。いつの間にか悠川が戻ってきて、素早く携帯を手に取る。その拍子に私のカップが倒れ、熱いお湯が手の甲にかかって真っ赤に腫れてしまった。「一体何がしたいんだよ!清美とは何の関係もないって言ってるだろ。俺のいない間に勝手に携帯を覗くなよ。そんなに神経質になるなよ」彼の目に一瞬、焦りがよぎったのを私は見逃さなかった。私は、静かに、「水が飲みたかっただけ」とだけ答えた。私の態度に悠川は一瞬きょとんとして、それから「強がっちゃって。手、火傷したじゃないか。見せてみろ」と言いながら、私の手を取って優しく息を吹きかけた。「俺はお前の夫だぞ
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第3話
「大丈夫、今日はうちに泊まって。明日の朝、何とかしてあげるから。ほら、これ着て、風邪ひくなよ」清美の目が、どこか挑発的に私を見つめてくる。彼女は唇を噛みしめながら言った。「楓さん、もし嫌だったら、私が先に帰るから。私と伊坂先生のことで怒らないで」悠川は少し怒った顔で、「彼女、こんなに落ち込んでるんだ。女同士で争うのはやめてくれよ。彼女はまだ離婚したばかりなんだし、もう少し優しくしてやれないのか?」と言った。私はもう立っているのもやっとで、下腹の痛みがひどく、悠川が何を言っているのかさえよく聞き取れなかった。「好きにすれば」そう言い残し、私は寝室へと向かった。悠川は一瞬きょとんとしたが、すぐに清美を客間へ案内した。私のために作ったはずのしょうが湯も、客間に運ばれた。悠川はその夜、一度も私の部屋には戻らなかった。誰と夜を過ごしたかなんて、考えるまでもない。私と悠川は大学の頃から付き合っていた。ある晩、デートの帰りに学校へ向かう途中、不良に絡まれたことがあった。彼らは私に下品な言葉を浴びせ、体に触れようとしてきた。その時、悠川は何の迷いもなく私の前に立ちはだかった。けれど相手は三人の大人の男だった。私はこっそり警察に通報した。警察が駆けつけたときには、悠川は血を流して地面に倒れて、意識を失った。涙が目尻を伝う。どうして、私たちはこんな風になってしまったんだろう。翌朝。家には私一人だけで、少ない荷物をまとめ始めた。悠川からもらった物は、そのままにしておいた。客間の扉は開いていて、ベッドの端にはセクシーな下着が無造作に落ちている。私はまっすぐそれに近づき、写真を撮って悠川に送った。出かけようとしたその時、悠川の両親に鉢合わせた。彼らは嬉しそうに私を見て、「赤ちゃんの百日祝いの会場見に行こう」とか「産後ケアセンターの予約しなきゃ」などと盛り上がっていた。胸が痛んで、私は苦笑いしながら「まだ早いよ」と返した。それでも彼らは気にせず、悠川に電話をかけ始めた。「もしもし、どうしたの?」悠川の声が聞こえる。すぐに、女の声も混じった。「悠川、私の下着、悠川の家に忘れちゃったみたい。どうしよう、あの人にバレちゃうかな?」伊坂家の両親は一瞬呆然とし、慌ててスマホのスピーカーを切った。「
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第4話
悠川は、ほっと胸をなでおろしたように小さく息をつき、それから私に言い訳を始めた。「誤解だよ。俺、本当に知らなかったんだ。清美があんな下着を置いていくなんて……昨日はリビングのソファで寝たんだ。信じられないなら、防犯カメラを確認してくれてもいい」私は無言でトランクの蓋を閉じ、「信じてるよ」とだけ答えた。あまりに落ち着いた私の態度に、悠川は眉をひそめ、声を柔らかくした。「なあ、怒らないでくれ。俺、本当に清美とは何もないんだ。信じてくれ。信じられないなら、今から彼女に電話するよ」伊坂家の両親が彼に何を言ったのか知らないが、彼は本当にスマホを取り出し、電話をかけ始めた。「清美、どういうつもりだ?なんでわざと下着を俺の家に置いて、楓に誤解させるんだ?」私はそのやりとりを見て、心の中で思わず呟いた――お芝居が下手すぎるよ。少し微笑んだけれど、結局何も言わなかった。彼が演じたいなら、好きなだけ演じさせてあげよう。明日になれば、もう私たちは他人だ。悠川も笑い、まるで昔の恋人同士のように私を抱きしめた。「怒ってないならそれでいい。これからは何でも楓の言うことを聞くし、もう清美とは一切関わらない」その笑顔がやけにまぶしくて、私はそっと視線を外した。本当に……もう、別人みたい。かつては、私のことを命よりも大切にしてくれたはずの悠川が、いつの間にこんな風になってしまったのか。「今夜は、楓が一番好きなレストランに連れて行くよ。プレゼントも用意してあるんだ」明日にはもうサヨナラだ。余計なトラブルを避けるため、私は黙ってうなずいた。夜、テーブルいっぱいの料理を前にしても、私はなかなか箸が進まなかった。私は辛いものが苦手なのに、悠川の好みに合わせて、毎回たっぷり唐辛子を入れていた。「ほら、食べて。全部楓の好きなものだよ。楓は辛いのがないとダメだもんな」「そうだ、娘のために学資保険も組んだんだ。18歳まで支払い済みのやつ。それに、かわいい服もいっぱい買ったんだ。早く会いたいよな、俺たちの赤ちゃん」私はそっと目を伏せた。「すぐに、会えるわ」その時、悠川のスマホが鳴った。彼は画面をちらりと見て、すぐに切った。だが、すぐにまた電話がかかってきた。私の顔を覗き込むようにして、今度は電話を取った。電話が終わると、私は静
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第5話
飛行機が着陸したその瞬間、私はすぐに弁護士に連絡を取った。弁護士の動きは早く、離婚届はすぐに悠川の元へと送られた。父の目尻の皺を見つめながら、どこか胸が締め付けられるような思いがした。かつて父は、私が悠川と結婚することに反対していた。「あいつは見た目は穏やかでも、腹の底は何を考えてるかわからん。楓が損するだけだ」と。でも私は父の言葉を信じず、意地を張って大浜市に住む悠川の元へと押しかけるように嫁いだ。あの頃の悠川は、何も持っていないただの青年で、事務所を立ち上げる資金さえ、父が出してくれたものだった。あの時の愛は本物だったけれど、今の冷めきった気持ちも、紛れもない現実だった。「夢を叶えた途端、一番近くにいた人を真っ先に切り捨てる」なんて言葉があるけれど、誰も未来の変化なんて予測できないのだ。父は私をじっと見つめながら言った。「このまま進んで奈落に落ちるくらいなら、今ここで引き返す方がまだ救いがある」その言葉に、私はどうしようもなく後悔の念が湧いた。母は早くに亡くなり、私と父は二人っきりで生きてきたのに、私はまた父をがっかりさせてしまった。「お父さん、もうどこにも行かない。これからずっとそばにいるから」父は会社に行かず、一日中家で私と過ごしてくれた。夕暮れが近づいた頃、不意に清美から電話がかかってきた。「楓さん、伊坂先生、酔っ払ってうちに泊まるって言ってるの。何度言っても聞かなくて、どうしようもなくて…」次の瞬間、彼女の声がトーンを変えた。「ちょ、伊坂先生、やだ……ちょっと!」あまりにも分かりやすい清美の態度に、私は鼻で笑った。「新井さん、私に生の艶めかしい芝居でも聞かせるおつもり?申し訳ないけど、そういう趣味はないの」清美は少し困った声で言った。「伊坂先生、私はただ楓さんに迎えに来てもらいたかっただけで、本当に、あなたたちの家庭を壊そうなんて思ってない」電話口の悠川の声が、酒に濁って聞こえてくる。「楓、妊娠してからますます気が強くなったな。清美は親切で言ってくれてるのに、どうして……」「離婚届は送ったから、時間がある時にサインして。あと、部屋にプレゼントを置いておいたから、忘れず見てちょうだい」私は冷たい声で言い放ち、これ以上二人の声を聞きたくなくて電話を切った。その瞬間、悠川は
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第6話
あの日の電話を最後に、私は悠川から一切の連絡を受け取っていなかった。調べてみたら、なんと彼、飲酒運転で拘留されていたらしい。私はちょうど流産したばかりで、体調も戻らず、家で静養する日々を送っていた。そんなある日、気分転換にと、親友が新しくオープンしたワインバーに誘ってくれた。「だから言ったでしょ、あの悠川ってさ、目つきはネチネチしてるし、顔もいかにも性格悪そうだったじゃん?楓にはもっといい男がふさわしいって!まあ、今さらどうでもいいけどさ。そうそう、最近可愛い年下くん見つけたんだ。紹介するよ」親友のマシンガントークを聞きながら、私も少し心が軽くなった気がした。ふと、目の前に見覚えのある人影が現れた。何と、そこにいたのは、あの清美。彼女もこちらに気づいたようで、口元に皮肉な笑みを浮かべながら、わざとらしく私に歩み寄ってきた。「あら、楓さん、こんなところで何してるの?悠川があなた探して、どれだけ大変だったか知ってる?」そう言って、彼女はわざとらしく残念そうな顔を作った。「ふふ、あなたさぁ、赤ちゃんを駒に使うのは一番ダメでしょ。そういうの、悠川がますます嫌がるだけだよ?惨めに負けるのが怖いの?あたしたち、もうすぐ結婚するから、そのときは事務所の社長夫人の座ももらうつもり。楓さんとその赤ちゃん、ぜひ式には来てね?あ、そっか。赤ちゃん、もういないんだっけ?」その瞬間、私の中で何かが切れた。思いっきり力を込めて、彼女の左頬に平手打ちを食らわせた。みるみるうちに頬が腫れ上がっていくのがわかったが、彼女はまだ状況が飲み込めない様子。私はためらいなく、もう一発、今度は右頬に叩き込んだ。「悠川があなたと結婚するかどうかなんて、私には関係ない。そんなに自信あるなら、さっさと離婚届にサインさせてみなさいよ。事務所の株も、私がほとんど持ってる。棚からぼたもちが落ちてくるって本気で思ってるの? 落ちたら潰されるだけよ!それと、私の子供のこと、口にする資格なんてあんたにはない!」言い終わると、さらに二発、お仕置きのビンタを見舞ってやった。彼女の顔はすっかり腫れ上がり、豚みたいになっていた。ようやく我に返った彼女は、今にも殴り返さんとばかりに睨みつけてきた。「な、何すんのよ!あんた、よくも私を……」だが、彼女の
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第7話
事態はすぐに鎮静化された。誰の仕業かなんて、考えるまでもなかった。悠川からは、いつまで経っても連絡が来なかった。私はもう法的手段に訴えるしかないと覚悟を決めた矢先、彼が現れた。彼は私の家の門前に立っていた。全身から重い空気を漂わせ、目に宿る怒りは隠しようもなくて、むしろ滑稽にすら思えた。悠川は私を見るなり、早足で詰め寄ってきた。「お前、何考えてるんだ!子供のことを冗談にして、楽しいか!」私は悠川の顔を見つめた。あまりに見慣れたはずの顔が、なぜだろう、まるで知らない人に見えた。もしかしたら、私は本当の彼を一度も知らなかったのかもしれない。彼の目には、私の全ての行動も言葉も、ただのワガママにしか映っていなかったのだろう。「場所を変えよう」近くのレストランに入った。個室で向かい合うと、悠川は真っ直ぐ私を見つめてきた。「はっきり答えてくれ。いったい、どういうことなんだ?」私もじっと彼を見返し、淡々と微笑んだ。「答えなら、もう伝えたわ。どうしてももう一度聞きたいなら、言ってあげる。あなたの子供はもういないし、私たちの結婚も終わったの」悠川の顔は、怒りでますます険しくなった。彼の声は低く、言葉は心に突き刺さる。「お前の勝手な妄想と嫉妬で、子供の命を弄ぶなんて……そんな奴に母親としての資格があると思うか?」「私に母親の資格がない?言ってやるわ、一番資格がないのは、あなただよ!私はあなたを愛していたから、冷たい言葉も我慢した。愛していたから、何度も何度も、何も言わずにあなたに置いていかれるのも耐えた。でも、結局私が手に入れたのは何?夫の裏切り、女の挑発、そして失った子供だけ?答えてよ!答えて!」私は椅子から立ち上がり、感情が抑えきれず問い詰めた。悠川は、今まで見たことのないような顔で、震える声で言った。「子供……本当にいなくなったのか?」彼のその顔を見て、私はただ嫌悪感しか湧かなかった。私は立ち上がり、静かに言った。「三日以内に離婚届を送ってこなきゃ、法的手段に出るから、伊坂先生」悠川の瞳には悲しみが溢れていた。私の言葉を聞いて、何かを思い出したように、信じられないといった様子で呟く。「本当に、離婚する気なのか?」もう彼と無意味な口論を繰り返す気はなかった。その問いにも、私は答えなかった。部
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第8話
エレベーターの扉が開いた瞬間、私の目の前に現れたのは悠川と清美だった。悠川は私を見た途端、その瞳が一瞬だけ輝いた。だが、その視線が私の後ろにいる慎時に移った瞬間、目の奥に潜む感情が一気に曇った。「楓、そいつは誰だ?」私は彼の隣に立つ清美をちらりと見て、皮肉っぽく微笑んでみせた。「さあ、どう思う?」清美は私と目が合った瞬間、ビクッと肩を震わせた。きっと、嫌な記憶が甦ったのだろう。悠川は眉をひそめ、私の言外の意図を察したようだった。「子どもの件は俺が悪かった。認める。でもこれは清美には関係ない。怒るなら俺にしろ」私は冷たい目で悠川を見据えた。「伊坂先生、私の言葉を忘れないで。明日が最後の期限だ」そう言い残し、私は慎時とともに個室の方へ歩き出した。私の決意を感じ取ったのか、悠川の目に一瞬、焦りの色が走った。彼は大股で近づき、私の腕を掴もうとしたが、思いがけず慎時がさっと私の前に立ちふさがった。悠川の手は空を切り、その顔に何かが崩れるような表情が浮かぶ。鋭い視線で睨みながら、彼は怒りを含んだ声で言い放つ。「俺が妻と話してるんだ。お前に関係ないだろう。どけ!」しかし慎時は全く怯まず、「彼女は今、あなたに会いたくないそうです」と静かに返す。その瞬間、悠川は拳を振り上げ、慎時の顔を殴りつけた。大学を出たばかりの慎時が、悠川に敵うはずもなく、すぐに押さえ込まれてしまう。私は慌てて二人の間に割って入り、慎時を庇いながら言った。「いい加減にして。怒るなら私にしなさい。彼には関係ない」私は、さっき悠川が言った言葉をそのまま返してやった。悠川は複雑な表情で私を見つめ、「そいつはただの他人だぞ。お前は俺の妻だ。まだ離婚してないんだぞ、楓!」私は彼に冷たい視線を投げつけ、代わりに慎時に向き直る。「大丈夫?ケガしてない?」慎時はちらりと悠川を見ながら、柔らかく微笑んだ。「平気です。社長が無事ならそれで」悠川は怒りで震えながら私を指さした。「俺たちが離婚しない限り、お前は俺の妻だ。あいつを追い出せ!」その時、清美が慌てて前に出てきた。「楓さん、今回はあなたも少しやりすぎだよ。私と悠川は何もないの。ただ彼が私を可哀想に思ってくれて……もう悠川に意地を張るのはやめて?お願い、彼があんな顔してるのを見て、私まで辛くな
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第9話
「さっさとサインしちゃいなよ。あなたにも、私にも、それに清美にも、その方がいいんだから」慎時は去り際に、嫌味を忘れない。「新井さん、今度時間があったら愛人業のノウハウでも語り合いましょうか?」私たちが立ち去る背中を見ながら、悠川は焦った様子で駆け寄ってくる。「楓、落ち着いて話し合おう」私は静かに彼を見据える。「私たちにまだ話すことなんてある?」悠川は頑なに私の前に立ちふさがり、しばし沈黙した後、重い声で口を開く。「これまでのことは俺が浅はかだった。お前に辛い思いをさせた。子どものことも……」一拍置いて彼は続ける。「お前にも、子どもにも、悪かった。だけど、きっとまた子どもに恵まれるさ。前みたいに、またやり直せる。だから、離婚なんてやめよう」この二年、悠川との間には問題が山積みだった。どんなに揉めても、彼はいつも問題から逃げてばかり、解決しようとしなかった。こんな風に誠実そうな顔を見せたのは、もう何年も前のことだった気がする。時間は残酷で、記憶も、愛情さえも、ぼやけてしまった。「もう遅いのよ」私は彼を押しのけ、約束していた個室へと向かった。悠川はその場に立ち尽くし、どこか打ちひしがれている。「悠川、戻ろう。クライアントが待ってるよ」清美が恐る恐る悠川の腕に手を伸ばすが、彼は無言でそれを避けた。私は隣にいる慎時を見て、彼がわざと私のために一芝居打ってくれたと気づく。「ありがとう、音羽君」慎時の耳がふわっと赤く染まり、少し照れくさそうに笑った。「いえ、当然のことをしただけです」私はその赤く染まった耳に気づき、なんだか可愛らしく思えて、ふと尋ねた。「音羽君はどこの大学だったの?」「浜大です」浜大、私と悠川の母校だった。「浜大出身なのに、どうして大浜市に残らなかったの?」慎時は口を開きかけて、そこに割って入る声が響く。「遅くなってすみません、道が混んでいて……」取引先の社長が私と握手し、「我々も今着いたところです」と笑った。商談は順調に進み、現地調査でも特に問題はなかった。契約を交わすと、私は大浜市にとどまらず、そのまま飛行機で帰路についた。案の定、悠川から離婚届が送られてくることはなかった。私は弁護士に連絡を取ろうとした矢先、悠川から電話がかかってきた。「楓、ちゃんと話
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第10話
彼は私を強く抱きしめると、突然、私の首筋にひんやりとした感覚が走った。悠川は泣いていた。彼の声はかすかに震えている。「楓、お願いだ。もう一度だけ、もう一度だけチャンスをくれ。俺を捨てないでくれ。楓と離れたくないんだ。本当に……頼む、行かないで」愛することは簡単だ。愛さなくなることも、実は簡単。難しいのは、互いが愛し合うことだ。私は力を込めて彼の手を振りほどき、振り返って涙に濡れた悠川の瞳を見つめる。「私の幸せを願うなら、サインして」悠川は私の去っていく背中を見つめ、胸を締めつけられたように呼吸が苦しそうだった。楓、彼の楓……悠川は結局、離婚届にサインした。私は彼のことをよく知っている。立派な弁護士である彼が、このようなことを自分の身に許せるはずがない。会社の様々な案件にも慣れ、私は徐々に経営者としての腕を上げていった。デスクの上に、突然、熱いミルクが置かれる。持ってきたのは、慎時だ。「社長、もう少し体に気をつけてください。ちゃんと休んだ方がいいですよ」その時、私は既に三日間ぶっ通しで働いていた。凝り固まった首を揉みながら、「肩、ちょっと揉んでくれる?」慎時は素直に肩を揉み始めた。その手は思いのほか上手で、凝り固まった首も少し楽になった。「もう大丈夫」私は、いまだにその場に立ち尽くしている慎時を見上げる。「何か、他に用?」慎時は少し躊躇したが、思い切って口を開いた。「前に聞かれましたよね。どうして大学卒業後、大浜市に残らなかったのかって。実は、それは……社長のためなんです」私?予想外の答えに思わず驚いた。「僕が大学一年のとき、社長と伊坂さんが母校に来て、講演と事例分析をしてくれたでしょう。その時から、ずっと社長のことが気になっていました。それから密かにずっと追いかけていて、離婚されたと聞いて……」「それでうちに就職したの?」慎時はコクリと頷いた。「私のことが好きなの?」私は遠慮なく聞いた。青年の顔は一気に赤く染まり、目を合わせようとしなかった。その日以降、私は慎時を他の部署に異動させた。けれど、どうしても時々彼と会ってしまう。この話を知った親友がからかう。「楓、まさか一生独身でいるつもり?いい人がいたら付き合ってみなよ。人生は長い、一人じゃ寂しいわよ」私は微
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