病院の入り口で。 伊坂悠川(いさか はるかわ)は、妊娠中に大量出血していた私を置き去りにして、離婚相談中の女性依頼人を送っていくのだと言い張る。 足元を伝って血が溢れ出していても、彼は一度も振り返らず、焦った様子でその女のもとへ去っていった。 深夜、本来なら私の付き添いで病室にいるはずの悠川は、なぜかその女のツイッターに登場していた。 【頼りになる私の弁護士先生。酔っ払ってもちゃんと二日酔いのお味噌汁が出てくるの、あれ?それって私だけ?】 私は一睡もできなかった。 翌朝早く、静かに電話をかける。 「お父さん、私、決めた。三日後、家に帰って会社を継ぐから」
View Moreあの一件の後、悠川と清美の関係は、見るも無惨に崩壊していった。悠川の態度も日に日に冷たくなっていく。そしてある日、清美は別の男と浮気した。行為が激しすぎて、お腹にいた子どもまで流れてしまった。その事実を知った悠川は激怒して、清美をぶん殴った。あまりのことに、彼女はそのまま救急で運ばれる羽目になった。それでも、清美はどこか壊れたように笑っていた。「私を殺したって、私は泰成の社長夫人よ。あなたがこのことを世間に知られるのが怖くないなら、私はもっと怖くないわ」悠川の目は血走り、「てめぇみたいな腐った女が、家庭あるくせに他の男に股開いて……病気でももらったらどうする気だよ!」その言葉に、清美は冷たく嘲笑った。「あんたもこうやって私に引っかかったんじゃなかった?ねぇ、思い出してみなよ?」その一言で、悠川はすべての力を失った。彼は椅子に崩れ落ち、顔を手で覆い、指の隙間から涙がこぼれ落ちた。そして、彼は離婚を切り出した。だが、清美は全力で拒否した。「もし離婚するなら、あんたの過去の悪事、全部世間にばらしてやるから!」そこから彼女はますます調子に乗り、男を自宅にまで連れ込むようになった。悠川は何も言わなかった。目をそらし、ただ黙って受け流すだけ。そんなある日、出張中の悠川が、交通事故に巻き込まれた。病院で昼夜を問わず懸命な救命措置が続けられ、やっと命は取り留めた。だが、意識は戻らず、植物状態となってしまった。この知らせを聞いた清美は、あからさまに喜んだ。「これで事務所も売り払って、新しいところで人生をやり直せる」だが、そんな喜びも二日と持たなかった。すぐに役所関係の人間が家にやってきた。「伊坂悠川は横領と賄賂の疑いがかかっています。その前に、全財産を海外に移した形跡がありまして……」あの悠川が、清美に好き勝手させるはずもなかった。会社の資産も現金も、すべて海外へ移し、この出張も最初から日本へ戻るつもりはなかったのだ。だが、不運にも事故に遭い、その計画は頓挫した。残されたのは、名前だけの妻・清美と、膨大な借金。取り立て屋が毎日のように家の前に押しかけ、清美は怖くて外に出ることすらできなくなった。そんな話を、私は親友から聞かされた。今この瞬間ほど、「変わらぬ風景の中に、変わってしまっ
彼は私を強く抱きしめると、突然、私の首筋にひんやりとした感覚が走った。悠川は泣いていた。彼の声はかすかに震えている。「楓、お願いだ。もう一度だけ、もう一度だけチャンスをくれ。俺を捨てないでくれ。楓と離れたくないんだ。本当に……頼む、行かないで」愛することは簡単だ。愛さなくなることも、実は簡単。難しいのは、互いが愛し合うことだ。私は力を込めて彼の手を振りほどき、振り返って涙に濡れた悠川の瞳を見つめる。「私の幸せを願うなら、サインして」悠川は私の去っていく背中を見つめ、胸を締めつけられたように呼吸が苦しそうだった。楓、彼の楓……悠川は結局、離婚届にサインした。私は彼のことをよく知っている。立派な弁護士である彼が、このようなことを自分の身に許せるはずがない。会社の様々な案件にも慣れ、私は徐々に経営者としての腕を上げていった。デスクの上に、突然、熱いミルクが置かれる。持ってきたのは、慎時だ。「社長、もう少し体に気をつけてください。ちゃんと休んだ方がいいですよ」その時、私は既に三日間ぶっ通しで働いていた。凝り固まった首を揉みながら、「肩、ちょっと揉んでくれる?」慎時は素直に肩を揉み始めた。その手は思いのほか上手で、凝り固まった首も少し楽になった。「もう大丈夫」私は、いまだにその場に立ち尽くしている慎時を見上げる。「何か、他に用?」慎時は少し躊躇したが、思い切って口を開いた。「前に聞かれましたよね。どうして大学卒業後、大浜市に残らなかったのかって。実は、それは……社長のためなんです」私?予想外の答えに思わず驚いた。「僕が大学一年のとき、社長と伊坂さんが母校に来て、講演と事例分析をしてくれたでしょう。その時から、ずっと社長のことが気になっていました。それから密かにずっと追いかけていて、離婚されたと聞いて……」「それでうちに就職したの?」慎時はコクリと頷いた。「私のことが好きなの?」私は遠慮なく聞いた。青年の顔は一気に赤く染まり、目を合わせようとしなかった。その日以降、私は慎時を他の部署に異動させた。けれど、どうしても時々彼と会ってしまう。この話を知った親友がからかう。「楓、まさか一生独身でいるつもり?いい人がいたら付き合ってみなよ。人生は長い、一人じゃ寂しいわよ」私は微
「さっさとサインしちゃいなよ。あなたにも、私にも、それに清美にも、その方がいいんだから」慎時は去り際に、嫌味を忘れない。「新井さん、今度時間があったら愛人業のノウハウでも語り合いましょうか?」私たちが立ち去る背中を見ながら、悠川は焦った様子で駆け寄ってくる。「楓、落ち着いて話し合おう」私は静かに彼を見据える。「私たちにまだ話すことなんてある?」悠川は頑なに私の前に立ちふさがり、しばし沈黙した後、重い声で口を開く。「これまでのことは俺が浅はかだった。お前に辛い思いをさせた。子どものことも……」一拍置いて彼は続ける。「お前にも、子どもにも、悪かった。だけど、きっとまた子どもに恵まれるさ。前みたいに、またやり直せる。だから、離婚なんてやめよう」この二年、悠川との間には問題が山積みだった。どんなに揉めても、彼はいつも問題から逃げてばかり、解決しようとしなかった。こんな風に誠実そうな顔を見せたのは、もう何年も前のことだった気がする。時間は残酷で、記憶も、愛情さえも、ぼやけてしまった。「もう遅いのよ」私は彼を押しのけ、約束していた個室へと向かった。悠川はその場に立ち尽くし、どこか打ちひしがれている。「悠川、戻ろう。クライアントが待ってるよ」清美が恐る恐る悠川の腕に手を伸ばすが、彼は無言でそれを避けた。私は隣にいる慎時を見て、彼がわざと私のために一芝居打ってくれたと気づく。「ありがとう、音羽君」慎時の耳がふわっと赤く染まり、少し照れくさそうに笑った。「いえ、当然のことをしただけです」私はその赤く染まった耳に気づき、なんだか可愛らしく思えて、ふと尋ねた。「音羽君はどこの大学だったの?」「浜大です」浜大、私と悠川の母校だった。「浜大出身なのに、どうして大浜市に残らなかったの?」慎時は口を開きかけて、そこに割って入る声が響く。「遅くなってすみません、道が混んでいて……」取引先の社長が私と握手し、「我々も今着いたところです」と笑った。商談は順調に進み、現地調査でも特に問題はなかった。契約を交わすと、私は大浜市にとどまらず、そのまま飛行機で帰路についた。案の定、悠川から離婚届が送られてくることはなかった。私は弁護士に連絡を取ろうとした矢先、悠川から電話がかかってきた。「楓、ちゃんと話
エレベーターの扉が開いた瞬間、私の目の前に現れたのは悠川と清美だった。悠川は私を見た途端、その瞳が一瞬だけ輝いた。だが、その視線が私の後ろにいる慎時に移った瞬間、目の奥に潜む感情が一気に曇った。「楓、そいつは誰だ?」私は彼の隣に立つ清美をちらりと見て、皮肉っぽく微笑んでみせた。「さあ、どう思う?」清美は私と目が合った瞬間、ビクッと肩を震わせた。きっと、嫌な記憶が甦ったのだろう。悠川は眉をひそめ、私の言外の意図を察したようだった。「子どもの件は俺が悪かった。認める。でもこれは清美には関係ない。怒るなら俺にしろ」私は冷たい目で悠川を見据えた。「伊坂先生、私の言葉を忘れないで。明日が最後の期限だ」そう言い残し、私は慎時とともに個室の方へ歩き出した。私の決意を感じ取ったのか、悠川の目に一瞬、焦りの色が走った。彼は大股で近づき、私の腕を掴もうとしたが、思いがけず慎時がさっと私の前に立ちふさがった。悠川の手は空を切り、その顔に何かが崩れるような表情が浮かぶ。鋭い視線で睨みながら、彼は怒りを含んだ声で言い放つ。「俺が妻と話してるんだ。お前に関係ないだろう。どけ!」しかし慎時は全く怯まず、「彼女は今、あなたに会いたくないそうです」と静かに返す。その瞬間、悠川は拳を振り上げ、慎時の顔を殴りつけた。大学を出たばかりの慎時が、悠川に敵うはずもなく、すぐに押さえ込まれてしまう。私は慌てて二人の間に割って入り、慎時を庇いながら言った。「いい加減にして。怒るなら私にしなさい。彼には関係ない」私は、さっき悠川が言った言葉をそのまま返してやった。悠川は複雑な表情で私を見つめ、「そいつはただの他人だぞ。お前は俺の妻だ。まだ離婚してないんだぞ、楓!」私は彼に冷たい視線を投げつけ、代わりに慎時に向き直る。「大丈夫?ケガしてない?」慎時はちらりと悠川を見ながら、柔らかく微笑んだ。「平気です。社長が無事ならそれで」悠川は怒りで震えながら私を指さした。「俺たちが離婚しない限り、お前は俺の妻だ。あいつを追い出せ!」その時、清美が慌てて前に出てきた。「楓さん、今回はあなたも少しやりすぎだよ。私と悠川は何もないの。ただ彼が私を可哀想に思ってくれて……もう悠川に意地を張るのはやめて?お願い、彼があんな顔してるのを見て、私まで辛くな
事態はすぐに鎮静化された。誰の仕業かなんて、考えるまでもなかった。悠川からは、いつまで経っても連絡が来なかった。私はもう法的手段に訴えるしかないと覚悟を決めた矢先、彼が現れた。彼は私の家の門前に立っていた。全身から重い空気を漂わせ、目に宿る怒りは隠しようもなくて、むしろ滑稽にすら思えた。悠川は私を見るなり、早足で詰め寄ってきた。「お前、何考えてるんだ!子供のことを冗談にして、楽しいか!」私は悠川の顔を見つめた。あまりに見慣れたはずの顔が、なぜだろう、まるで知らない人に見えた。もしかしたら、私は本当の彼を一度も知らなかったのかもしれない。彼の目には、私の全ての行動も言葉も、ただのワガママにしか映っていなかったのだろう。「場所を変えよう」近くのレストランに入った。個室で向かい合うと、悠川は真っ直ぐ私を見つめてきた。「はっきり答えてくれ。いったい、どういうことなんだ?」私もじっと彼を見返し、淡々と微笑んだ。「答えなら、もう伝えたわ。どうしてももう一度聞きたいなら、言ってあげる。あなたの子供はもういないし、私たちの結婚も終わったの」悠川の顔は、怒りでますます険しくなった。彼の声は低く、言葉は心に突き刺さる。「お前の勝手な妄想と嫉妬で、子供の命を弄ぶなんて……そんな奴に母親としての資格があると思うか?」「私に母親の資格がない?言ってやるわ、一番資格がないのは、あなただよ!私はあなたを愛していたから、冷たい言葉も我慢した。愛していたから、何度も何度も、何も言わずにあなたに置いていかれるのも耐えた。でも、結局私が手に入れたのは何?夫の裏切り、女の挑発、そして失った子供だけ?答えてよ!答えて!」私は椅子から立ち上がり、感情が抑えきれず問い詰めた。悠川は、今まで見たことのないような顔で、震える声で言った。「子供……本当にいなくなったのか?」彼のその顔を見て、私はただ嫌悪感しか湧かなかった。私は立ち上がり、静かに言った。「三日以内に離婚届を送ってこなきゃ、法的手段に出るから、伊坂先生」悠川の瞳には悲しみが溢れていた。私の言葉を聞いて、何かを思い出したように、信じられないといった様子で呟く。「本当に、離婚する気なのか?」もう彼と無意味な口論を繰り返す気はなかった。その問いにも、私は答えなかった。部
あの日の電話を最後に、私は悠川から一切の連絡を受け取っていなかった。調べてみたら、なんと彼、飲酒運転で拘留されていたらしい。私はちょうど流産したばかりで、体調も戻らず、家で静養する日々を送っていた。そんなある日、気分転換にと、親友が新しくオープンしたワインバーに誘ってくれた。「だから言ったでしょ、あの悠川ってさ、目つきはネチネチしてるし、顔もいかにも性格悪そうだったじゃん?楓にはもっといい男がふさわしいって!まあ、今さらどうでもいいけどさ。そうそう、最近可愛い年下くん見つけたんだ。紹介するよ」親友のマシンガントークを聞きながら、私も少し心が軽くなった気がした。ふと、目の前に見覚えのある人影が現れた。何と、そこにいたのは、あの清美。彼女もこちらに気づいたようで、口元に皮肉な笑みを浮かべながら、わざとらしく私に歩み寄ってきた。「あら、楓さん、こんなところで何してるの?悠川があなた探して、どれだけ大変だったか知ってる?」そう言って、彼女はわざとらしく残念そうな顔を作った。「ふふ、あなたさぁ、赤ちゃんを駒に使うのは一番ダメでしょ。そういうの、悠川がますます嫌がるだけだよ?惨めに負けるのが怖いの?あたしたち、もうすぐ結婚するから、そのときは事務所の社長夫人の座ももらうつもり。楓さんとその赤ちゃん、ぜひ式には来てね?あ、そっか。赤ちゃん、もういないんだっけ?」その瞬間、私の中で何かが切れた。思いっきり力を込めて、彼女の左頬に平手打ちを食らわせた。みるみるうちに頬が腫れ上がっていくのがわかったが、彼女はまだ状況が飲み込めない様子。私はためらいなく、もう一発、今度は右頬に叩き込んだ。「悠川があなたと結婚するかどうかなんて、私には関係ない。そんなに自信あるなら、さっさと離婚届にサインさせてみなさいよ。事務所の株も、私がほとんど持ってる。棚からぼたもちが落ちてくるって本気で思ってるの? 落ちたら潰されるだけよ!それと、私の子供のこと、口にする資格なんてあんたにはない!」言い終わると、さらに二発、お仕置きのビンタを見舞ってやった。彼女の顔はすっかり腫れ上がり、豚みたいになっていた。ようやく我に返った彼女は、今にも殴り返さんとばかりに睨みつけてきた。「な、何すんのよ!あんた、よくも私を……」だが、彼女の
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