LOGINイベントの報告がすべて終わると、数週間ぶりに仕事の時間が通常の速度へ戻った。朝から鳴り続けていた通知も減り、会議室の予約にも少し余白が出てきた。誰かが「やっと息できる」と笑っていて、その声につられるように、オフィス全体が小さく緩んでいる。それでも、私の中だけはまだ少し落ち着かなかった。正人との距離は、前よりずっと丁寧になった。仕事では変わらず助けてくれる。資料の穴にも気づくし、先方との調整も早い。困った時には、必要なことを必要なだけ渡してくれる。でも、雑談の余白や、肩が触れそうな距離や。何も言わなくても隣にいる感じだけが、少しずつ消えている。消えたというより、正人が意識してそこに線を引いている。そのことが、私にはよく分かった。だからこそ、丸の内の媒体社へ二人で向かうことになった時、少しだけ息が詰まった。正人が関係を持っている媒体社で、私が担当するクライアント案件のクリエイティブ面を詰める必要が出た。正人がメディア側の調整役として入り、私がクリエイティブ営業として要件を握る。仕事としては、これ以上なく自然な同行だった。東京駅を出ると、丸の内のビル群が午後の光を反射していた。高いガラス壁。整えられた歩道。黒いスーツの人たちが、迷いなくビルからビルへ流れていく。その中を、正人と並んで歩く。「最後の資料、差し替えた?」正人が前を向いたまま聞く。「朝入れた。媒体別のクリエイティブ案も追加してる」「なら大丈夫。あそこ、最後に急に条件足してくることあるから」「それ先に言って」「今言った」私が少し睨むと、正人はかすかに笑った。そのやり取りは、昔の二人に似ていた。でも、完全には戻らない。信号待ちで立ち止まった時、正人は以前より半歩だけ離れていた。近すぎず、遠すぎず、仕事の相手として不自然ではない距離。たぶん、誰が見ても何も思わない。でも私は、その半歩の意味を知っている。媒体社の会議室は、窓から皇居側の緑が少し見える部屋だった。テーブルの上には水のペットボトルが並び、プロジェクターの光が白い壁に薄く滲んでいる。打ち合わせは、最初のうちは順調だった。媒体側の営業、三浦さんは愛想がよく、話も早い。正人とは以前から付き合いがあるらしく、軽口も多かった。問題が出たのは、最後のスケジュール確認に入った時だった。「追加の
いつも通りの夜。さやかとのご飯は、恵比寿の少し暗めのビストロだった。金曜の店内は、ほどよく騒がしい。なのに、私だけが少し落ち着かなかった。さやかは前菜を取り分けながら、じっとこちらを見る。「で?」「何」「最近、情緒どうなってんの」私は眉を寄せる。「壊れてない」「壊れてる人の返事だよ、それ」さやかが笑う。でも、笑いながらも目は優しかった。「正人?」フォークを持つ手が止まる。図星だった。「……まあ」さやかは「だよね」と言うように、小さく頷いた。「で、元彼?」「なんでそこまで分かるの」「顔」即答だった。「愛子、わかりやすくなったね」「やめて」私はワインをひと口飲む。喉を通る冷たさで、少しだけ呼吸が整った。その時、スマホが震えた。宮沢さんだった。『イベントも落ち着いたと思うので、よければ近々軽く飲みに行きませんか?』画面を見たまま、少し黙る。宮沢さん。マッチングアプリ案件で会った、大学の先輩。大人になって再会したら、印象が少し良い方に変わった人。仕事の話もできる。距離感も悪くない。好意も、たぶんある。でも、私の中で何かが大きく動いたことはない。さやかが画面をちらっと見る。「あ」「宮沢さん」「いい人?」「うん」「でも好きじゃない顔してる」否定できなかった。いい人。本当に。だけど、その“いい人”という感想の先に、何も続いていない。そのことを、自分でも分かっている。ふと、私は思った。自分が今感じているものは、特別なのだろうか。正人に対する苦しさも。翔太に対するざわつきも。ただ状況が重なっただけなのか。自分が混乱しているだけなのか。誰かから好意を向けられれば、同じように揺れるのか。それとも、違うのか。一度、ちゃんと確かめたい。「……会ってみようかな」さやかが少し眉を上げる。「へえ」「変な意味じゃなくて」私はグラスの中の赤を見つめる。「自分の気持ちが、よく分からないから」さやかは茶化さなかった。ただ静かに頷いた。「確かめたいんだ」「うん」たぶん、そういうことだった。***宮沢さんとは、その夜のうちに軽く会うことになった。さやかとのご飯を終えたあとに。駅から少し離れたバーで待ち合わせた。店内は落ち着いていた。暗すぎない照明。磨かれたカウン
金曜日。イベントの報告が終わった週の終わりに、ようやく日常が戻ってきた。数週間続いていた慌ただしさが嘘みたいに、オフィスには少しだけ緩い空気が流れている。大型案件が終わったあとの、独特な静けさ。誰もが少し疲れていて、でも少しだけ気が抜けている。会議室の予約もいつもより少なく、社内チャットの通知も、イベント直前の嵐みたいな勢いでは鳴らなくなっていた。窓の外では、夕方の光が高層ビルのガラスに反射している。私は会議室から戻る途中、給湯スペースでコーヒーを淹れた。紙コップを持つ手に、まだ少し疲れが残っている。けれど、疲れの種類は変わっていた。体力を削られるような忙しさではなく、少し時間ができたせいで、考えたくないことまで考えてしまう疲れ。正人のこと。翔太のこと。そして、正人との距離が変わってしまったこと。「愛子」呼ばれて、足を止める。振り返ると、正人がいた。少し疲れた顔。でも、いつも通りに見せようとしている声。それだけで、胸の奥が少しだけ揺れた。まだ慣れない。正人を、ただの正人として見られない自分に。「ちょっとタバコ行くけど」正人が言った。それは、昔からの言葉だった。何百回も聞いた気がする。私は煙草を吸わない。けれど、正人がタバコに行く時、なぜかついていくのが習慣になっていた。喫煙所の近くで、私は缶コーヒーを持って立っている。正人は煙草を吸いながら、仕事の愚痴を言う。どうでもいい話をする日もあれば、資料の相談をする日もあった。何も話さない日もあった。でも、それすら自然だった。だから私は、反射的に言いかけた。「あ、私も——」そこで止まった。空気が、ほんの少しだけ静かになる。正人も一瞬だけ止まった。たぶん、同じことを思い出している。前なら。何も考えなかった。「行く?」「行く」それだけで済んだ。正人が喫煙所へ向かう背中を、当たり前みたいに追いかけていた。エレベーターを待ちながら、くだらない話をした。外の喫煙スペースで、正人が煙を吐く横で、私は缶コーヒーを飲んでいた。寒い日には「中戻れよ」と言われて、それでも何となくそこにいた。そんな距離だった。でも今は違う。私は言葉を飲み込む。正人は少しだけ目を細めた。それから、困ったように笑った。「……いや」小さく首を振る。「今は、や
「え、顔の話じゃん」「顔の話でも」「昔から知ってるでしょ」「知ってるけど」翔太は視線を逸らした。けれど、耳のあたりがほんの少し赤いように見えた。それが意外で、私は少し笑ってしまう。「照れてる?」「照れてない」「嘘だ」「愛子が変なこと言うから」その言い方に、胸が少しだけ揺れた。愛子。名前を呼ばれることには、もう少し慣れてきているはずだった。でも、こういう会話の中で呼ばれると、まだ少しだけ昔の温度が混ざる。それでも私は、その言葉の危うさに気づいていなかった。本当に、ただ顔の話をしているつもりだった。翔太に意識が向いているわけではない。むしろ、向いていないからこそ言えた。安全な距離にいる人だと思っているから。終わった相手だと思っているから。今さらそんな言葉で何かが動くとは思っていないから。でも、翔太の表情は違った。一瞬だけ、嬉しそうに見えた。そのあとすぐに、困ったように笑った。何かを飲み込むみたいに、視線を夜道へ戻した。「愛子って、たまに本当に危なっかしい」「何それ」「褒めてるつもりで、普通に刺してくる」「刺した?」「だいぶ」翔太は軽く笑った。でも、笑いきれていないようにも見えた。その表情が、少しだけ胸に残る。マンションのエレベーターを待つ間、翔太がふと外を見た。「このマンション、ベランダからの景色いいですよ」「そうなの?」「出たことないんですか」「ない。正直、ベランダって何する場所か分からない」翔太が少し笑った。「夏は暑すぎて無理ですけど、今くらいなら気分転換になる」押しつけるでもなく、ただ知っていることを教えるみたいな声だった。「春とか秋は、夜風がちょうどいいです」「翔太、そういうのするんだ」「たまに。仕事が詰まった時とか」エレベーターが来る。二人で乗る。鏡に、少し疲れた自分と、隣に立つ翔太が映る。「仕事、忙しそうだよね」私が何気なく言うと、翔太は少しだけ考えてから答えた。「まあ、忙しいです」「外資系で働いてるんだっけ?」「うん」少し間。「転職も考えてます。ずっとこんな働き方できないし」その声は淡々としていた。でも、どこか現実的だった。私は少し驚く。知らなかった。この五年、翔太は翔太で、ちゃんと別の場所で戦っていた。忙しく働いて。自分の体力や将来
金曜日の夜。ジムを出る頃には、外の空気が少し冷えていた。身体を動かしたおかげで、頭の中のざわつきは少しだけ薄くなっている。汗を流して、髪を乾かして、更衣室を出る。エントランスへ向かう途中で、私は足を止めた。「あの、よかったら……連絡先聞いてもいいですか?」若い女性が、翔太に話しかけていた。翔太はジムウェアのまま、タオルを首にかけている。少し汗で乱れた髪。黒いTシャツの肩のライン。静かな立ち姿。目立とうとしているわけではないのに、自然と視線を集める人。ああ、やっぱり。普通にモテる。昔から顔は良かった。でも今は、それだけではない。寡黙で、落ち着いていて、無駄に愛想を振りまかない。顔がいいから少し近寄りがたいのに。気になってしまう。たぶん、そういう人になっている。翔太は少しだけ困ったように目を伏せた。けれど、相手を傷つけるような冷たさはなかった。「すみません。あまり知らない人と連絡先は交換しないようにしていて」声は穏やかだった。でも、線ははっきりしている。「そうですよね。すみません」女性は少し照れたように笑い、足早に離れていった。翔太は軽く会釈して、それ以上追わない。そっけない。でも、失礼ではない。その誠実な距離感に、少しだけ感心した。ふと、翔太が顔を上げる。目が合った。その瞬間、翔太の表情がほんの少し緩む。さっきまでの静かな顔とは違う。目元だけが柔らかくなる。「お疲れ」その笑顔に、胸が小さく跳ねた。別に、特別なことを言われたわけじゃない。ただ挨拶されただけ。それなのに、さっきの女性に向けた表情と違うことに気づいてしまった。気づきたくなかったのに。「……お疲れ」少し遅れて返す。翔太は自然に横に並んだ。ジムを出て、マンションへ向かう道を歩く。夜風が、汗の残る肌に少し冷たかった。「遅かったね」翔太が言う。「仕事が長引いた」「寝不足、まだ続いてそうだけど」「分かる?」「歩き方が少し重い」真面目な声だった。私は思わず笑った。「見るところが変」翔太は少しだけ目を逸らす。「でも合ってるでしょ」その言い方が、昔と少しだけ重なる。心配の仕方が、少し変だった。熱を出した時も、「何食べられるか分からなかったから」と言ってゼリーを三種類買ってきた。励ましの言葉は少ないのに
金曜日。朝から、私はずっと落ち着かなかった。仕事はしている。会議にも出ている。資料の修正も、先方への返信も、いつも通りにこなしている。けれど、ふとした瞬間に、昨日の夜の空気が戻ってくる。正人の低い声。止まった指先。触れそうで触れなかった距離。いつも、触れたいと思ってた。その言葉を思い出すたびに、胸の奥が小さく波打った。嫌だったわけではない。むしろ、嫌ではなかった。それが一番困る。「そこ、先方の最新版に差し替えた?」会議室で資料を見ていると、少し離れた席から正人が声をかけた。私は画面に目を戻す。「あ、まだ」「共有フォルダに入れておいたから、あとで見て」「ありがとう」短いやり取りだった。仕事としては、何も問題ない。むしろ、正人は相変わらず的確で、優しくて、ちゃんと助けてくれる。でも、近くない。以前なら、正人は当たり前みたいに隣へ来て、肩越しに画面を覗き込んでいた。「また抜けてる」そう笑いながら、勝手にキーボードへ手を伸ばしていた。私はそれを、何も考えずに受け入れていた。今は違う。近づきすぎない。触れない。踏み込まない。その線の引き方があまりにも丁寧で、私はかえって苦しくなる。正人は変わらず優しい。けれど、こちらを見る目だけが少し違った。寂しそうで。それなのに、どこか愛おしそうで。私が何か言えば、すぐにでも前の距離へ戻ってしまいそうな熱を、必死で抑えているように見える。その視線に触れるたび、私は自分の中にある曖昧な感情を持て余した。嫌ではない。でも、同じ熱で返せるのかは分からない。正人が私を女として見ていると、昨日はっきり分かった。そして私は、それを拒めなかった。けれど、拒まなかったことと、同じ温度で好きだと言えることは、全然違う。その差が、胸の中でずっと引っかかっている。昼前。後輩の麻衣ちゃんが、正人の席に近づいた。いつもより少しだけ背筋が伸びている。手元には資料を持っているけれど、確認事項だけを聞きに来た顔ではなかった。「正人さん、今日ランチどうですか?」声が、ほんの少し明るかった。私は画面を見ているふりをしたまま、すぐに分かってしまった。ああ、好きなんだろうな。正人は一瞬だけ、困ったように笑った。でも、その断り方は優しかった。「ごめん。今日ちょっと昼に片づ







