LOGIN電話を切ってからも。
しばらく動けなかった。
拓也が、マンションの前にいる。
数日前まで一緒に暮らしていた人。
三十二歳の誕生日に、私へ別れを告げた人。
もう会わなくていいと思っていたのに。
名前を見ただけで、指先が冷たくなる。
スマホが震えた。
『エントランスの外にいる』
私はコートを羽織り、部屋を出た。
廊下は静かだった。
隣の扉を見ないようにして、エレベーターのボタンを押す。
今は。
翔太には会いたくなかった。
拓也に会う自分も。
まだ動揺している自分も。
見られたくない。
到着音が鳴る。
扉が開いた。
誰も乗っていない。
安堵して足を踏み出した時。
隣の扉が開いた。
「待って」
振り返ると。
翔太がこちらへ歩いてくる。
黒いニットに、同じ色のパンツ。
片手にスマホと鍵を持っていた。
「出かけるの?」
「少し買い物に」
翔太が乗り込む。
避ける方が不自然で、私も続いた。
扉が閉まる。
翔太が一階のボタンを押す。
私はスマホを握ったまま、階数表示を見つめた。
「何かありました?」
不意に聞かれる。
「何が?」
「顔」
「普通だけど」
「そういう時の普通は、あまり信用してないので」
五年経っても。
翔太は、変なところだけよく見ている。
「人に会うだけ」
「この時間に?」
「まだ朝だけど」
「朝だからです」
問い詰める声ではなかった。
答えたくなければ、これ以上は聞かない。
その距離で待っている。
言う必要はない。
翔太には関係のないことだ。
それなのに。
「拓也」
名前が口から落ちた。
翔太の目が、僅かに止まる。
「……拓也さん?」
「別れた人」
翔太は短く頷いた。
「今、マンションの前に来てる」
「そうですか」
それ以上は何も聞かなかった。
だからか。
聞かれてもいないのに、言葉を続けてしまう。
「前の部屋に残ってた植物を持ってきただけ」
「植物?」
「私が買って、拓也が育ててたもの」
「愛子が育てるんですか」
「分からない」
正直に答えると。
翔太が少しだけ目を見開いた。
「会いたくないなら、預けてもらえばよかったのに」
「そう言われた」
「じゃあ、どうして下りるんですか」
答えに迷う。
植物が大きいから。
直接受け取った方が早いから。
理由はいくらでもあった。
でも。
本当は。
「会えば分かる気がしたから」
「何が?」
「ちゃんと終わったのか」
口にした途端。
胸の奥が鈍く痛んだ。
翔太は黙った。
鏡に映る横顔が、少しだけ硬くなる。
けれど。
何も言わなかった。
一階へ着く。
扉が開いた。
ガラス張りのエントランスの向こうに、大きな鉢植えが見える。
その隣に立つ男。
見慣れたコート。
少し猫背になる立ち方。
拓也だった。
心臓が強く鳴った。
数日前まで。
仕事が終われば、あの人のいる部屋へ帰っていた。
それが今は。
ガラス一枚向こうに立つ拓也が、遠い人のように見える。
自動ドアの前で、足が止まった。
「愛子」
翔太に呼ばれる。
「……大丈夫」
答えた直後。
また同じことを言っていると気づいた。
翔太も何か言いかけたが。
結局、黙った。
ガラスの向こうで。
拓也がこちらを見る。
目が合う。
その表情が、僅かに緩んだ。
懐かしいと思った。
同時に。
胸の奥が痛んだ。
戻りたいわけではない。
会いたかったわけでもない。
それでも。
三年間、毎日見ていた顔を。
すぐに他人として見ることはできなかった。
自動ドアが開く。
冷たい風が頬へ触れる。
「……愛子」
拓也が私の名前を呼ぶ。
身体の方が先に、その声を覚えていた。
「急にごめん」
「ううん」
拓也は鉢へ視線を落とした。
大きく伸びた葉が、風に揺れている。
「思ったより大きくなってて。車じゃないと運べなかった」
「元気そうだね」
「愛子がいなくなってからも、水はやってたから」
胸の奥が詰まる。
「育ててたのは拓也でしょ」
「でも、選んだのは愛子だから」
拓也が鉢へ手を添える。
「持っていたくないなら、俺が引き取る。でも、一度聞いた方がいいと思って」
優しい声だった。
嫌いになって別れたわけではない。
だからこそ。
恋人だった頃の会話と。
今の会話の違いが分からなくなる。
拓也の視線が、私の横へ移る。
そこで初めて、翔太に気づいたらしい。
「ごめん。誰かと一緒だった?」
「違う。たまたまエレベーターで」
翔太を見る。
少し離れた場所に立ち。
会話へ入るつもりはないようだった。
ただ。
拓也に名前を呼ばれた時の私を、静かに見ていた。
視線が重なる。
翔太はすぐに目を逸らした。
「俺、行くので」
「あ」
止める理由はない。
それでも、声が漏れた。
翔太が一度だけ振り返る。
「タンブラー、急がなくていいです」
「……うん」
「じゃあ」
翔太が歩き出す。
拓也は、その背中を目で追った。
「同じマンションの人?」
「うん」
「隣?」
「どうして分かったの?」
「タンブラーの話してたから」
「ああ……」
拓也はそれ以上聞かなかった。
恋人だった頃なら。
気になったことは、そのまま聞いていた。
今はもう。
その権利がないと思っているのかもしれない。
「これ、部屋まで運ぶよ」
拓也が鉢へ手を掛ける。
「重いでしょ」
「ここまで持ってきたんだから大丈夫」
昔から。
私が欲しいと言ったものを。
私より丁寧に扱う人だった。
「……お願い」
答えると。
拓也が小さく頷いた。
二人でエントランスへ戻る。
拓也は鉢を抱え。
私は自動ドアを押さえた。
エレベーターの扉が開く。
拓也が先に乗り、私も続く。
扉が閉まりかけた時。
「すみません」
外から手が差し込まれた。
扉がもう一度開く。
翔太だった。
「忘れ物?」
「財布を部屋に置いてきました」
翔太は、鉢を抱えた拓也を見る。
けれど。
何も聞かず、軽く会釈した。
「どうも」
拓也も返す。
三人を乗せ、扉が閉まる。
狭い箱の中。
誰も話さない。
拓也が鉢を支え直す。
私が手を添えようとすると。
「大丈夫」
と短く言った。
聞き慣れた声だった。
私は手を引く。
その瞬間。
翔太の視線が僅かに上がった。
けれど。
やはり何も言わなかった。
目的の階へ着く。
三人で廊下へ出る。
私の部屋の前で。
翔太が隣の扉へ鍵を差し込んだ。
拓也の視線が、その手元へ向く。
本当に隣なのだと。
そこで初めて分かったようだった。
翔太は部屋へ入る前に、一度だけ私を見る。
「じゃあ、また」
「うん」
扉が閉まる。
廊下に。
拓也と二人だけが残った。
「中まで運ぶよ」
「玄関で大丈夫」
私は鍵を開ける。
拓也が鉢を抱えたまま、部屋へ入った。
床へ下ろすと。
青い葉が、小さく揺れた。
「ここでいい?」
「うん。ありがとう」
拓也は身体を起こす。
新しい部屋の奥を見ようとはしなかった。
数日前まで。
私の暮らす部屋は、拓也の部屋でもあった。
今は。
入っていい場所を確かめなければならない。
「植物、困ったら連絡して」
「分かった」
「水、やりすぎないでね」
「そんなに信用ない?」
「今まで俺がやってたから」
拓也が少し笑う。
その笑い方まで。
以前と変わらなかった。
懐かしいと思った。
同時に。
もう同じ場所へは戻れないとも思った。
拓也が靴を履く。
扉へ手を伸ばす。
これで終わる。
植物を渡して。
少し話して。
拓也は帰る。
そう思った時。
ドアノブの上で、手が止まった。
「愛子」
「何?」
拓也はすぐには振り返らなかった。
背中を向けたまま。
低く息を吐く。
「俺さ」
その声は。
別れを告げた日より、ずっと迷っていた。
「今日、植物を返しに来ただけじゃない」
心臓が強く鳴る。
拓也がゆっくり振り返る。
目が合った。
その目の奥に。
今まで見せなかった揺れがあった。
「愛子がいなくなった部屋に帰って」
言葉を切る。
「思ってたより、きつかった」
呼吸が止まる。
別れを決めたのは、拓也だった。
仕事ばかりの私との将来が見えないと言った。
それなのに。
今にも何かを取り消そうとするような目で、私を見ている。
壁一枚向こうで。
小さく物音がした。
翔太が、すぐそこにいる。
けれど今は。
そのことを考える余裕もなかった。
拓也が私を見たまま。
静かに言った。
「俺、愛子と別れたこと」
胸の奥が強く締めつけられる。
「少し、後悔してる」
バラバラの材料が、会話の中で整っていく感じ。自分が見ているものを、相手も違う角度から見てくれている安心感。それは恋愛とは別の場所にある信頼だった。でも今は、その信頼ごと、正人を好きになっていくのかもしれないと思う。ふと、正人の視線が少し長く止まる瞬間があった。私がカレーの辛さに少しだけ目を細めた時。水を飲んで、息を吐いた時。会議の話をしながら、身振りで資料の構成を説明した時。正人は何でもない顔をしている。でも、見ている。前からそうだったのかもしれない。ただ、今はその視線に少しだけ意味が乗っているように感じてしまう。気づかないふりをした。まだ少し、恥ずかしかった。カレー屋を出ると、空はほとんど夜になっていた。夕方の橙色はビルの向こうに消えて、街灯の光が歩道に落ちている。少しだけ冷たい風。スパイスで温まった身体には、ちょうどよかった。帰り道。気づけば、当たり前みたいに手を繋いでいた。昨日みたいな確認はない。でも、勝手ではない。二人とも、同じくらい自然に手を近づけて、同じくらい自然に重ねた。少しだけ力がある。信号待ちで、正人の親指が私の手の甲にほんの少し触れる。何気ない動き。でも、その小さな触れ方に、妙に慣れてしまいそうで少し怖い。住宅街へ入ると、急に静かになった。コンビニの灯り。遠くの犬の鳴き声。夜の空気に混じる、どこかの家の夕飯の匂い。実家の近くまで来る頃には、どちらともなく歩く速度が少しだけ遅くなっていた。終わる空気。でも、終わりたくない空気。それが言葉にならないまま、繋いだ手の間に残っている。家の前で立ち止まる。門灯の下で、正人の横顔が少しだけ明るく見えた。「ありがと」私は小さく言った。「今日も」少し笑う。「楽しかった」正人も少し笑った。「うん」少し間。「俺も」それで終わっていいはずだった。おやすみ、と言って、手を離して、家に入る。それだけでいいはずなのに、空気が終わらない。帰るタイミングなのに、どちらも少し動けない。正人が少し視線を落とした。何かを言いかける。でも、やめる。小さく息を吐いて、困ったように笑った。「……いや」「何?」「なんでもない」その言い方が、妙にぎこちなかった。距離を測っている感じ。何かを飲み込んでいる感じ。それが分かったか
表参道から御茶ノ水へ戻る電車の中は、日曜日の夕方らしく少し空いていた。窓の外には、休日の終わりに近づいている街が流れていく。明るかった空は、少しずつ色を薄めていて、ビルの隙間に残る光も、昼間より柔らかい。紙袋を抱えた人。疲れた顔でスマホを見ている人。子どもの手を引く親。日曜日の夕方特有の、楽しかった時間がゆっくり終わっていくような空気が、車内にも静かに漂っていた。でも、隣に座る正人との距離は、昨日より少しだけ自然だった。肩が時々、ほんの少し近づく。電車が揺れた時、腕がかすかに触れる。わざとじゃない。でも、離れない。その曖昧な近さが、妙に落ち着いた。手は繋いでいない。けれど、その代わりに、身体の距離が少し変わった気がする。隣にいることを、必要以上に意識しなくてもいい。でも、完全に忘れることもできない。話すテンポも、沈黙も、前より少しだけ柔らかい。友達だった時の自然さが残っていて、そこにまだ慣れない甘さが薄く重なっている。少しずつ、恋人になってきている。そんな感覚があった。「眠い?」正人が小さく聞いた。私は窓に映る自分の顔を見て、少しだけ笑う。「ちょっと」「歩いたしね」「正人は?」「俺も少し」そう言いながら、正人は全然眠そうな顔をしていなかった。姿勢は変わらず綺麗で、膝の上に置いた手も落ち着いている。でも、よく見ると、目元だけがほんの少し柔らかい。休日の正人。仕事の時とは違う、余計な力が抜けた横顔。それを隣で見られることが、まだ少し不思議だった。彼氏。また、その言葉が頭の中で小さく転がる。今朝よりは少しだけ慣れた気がする。でも、完全にはまだ馴染まない。馴染まないまま、その違和感ごと少し嬉しい。御茶ノ水駅を出る頃には、空が少し橙色になっていた。ビルの隙間から夕方の光が斜めに落ちて、駅前の人の流れを薄く照らしている。昼間より風が冷たい。春の光なのに、夜へ向かう気配だけはちゃんと残っていた。正人がふと口を開く。「好きなカレー屋あるんだけど」私は顔を上げる。正人は少しだけ前を向いたまま、自然な声で続けた。「軽くディナー食べてく?」その言い方は、本当にさりげなかった。無理に引き止める感じではない。でも、ほんの少しだけ、もっと一緒にいたい、が滲んでいる。私がそれに気づく前に、正人
本屋を出たあと、少し歩いてカフェに入った。大通りから一本入った、静かな店だった。向かいの席も空いていたのに。 なぜか自然と、隣に座る。メニューを一緒に覗く。肩が近い。それだけのことを、まだ少し意識してしまう。正人がメニューをこちらへ傾けた。「これ、好きそう」「また?」「また」「見すぎじゃない?」「彼氏なので」最近、そればかりだ。でも言われるたび、少し照れる。コーヒーが届き、ケーキを半分ずつ分ける。話は自然と学生時代のことになった。サッカー。 本。 ピアノ。知っているつもりだった正人に、まだ知らない部分がいくつもある。「絶対モテたでしょ」何気なく言うと。 正人がコーヒーを飲みながら、少し困ったように笑った。「普通に友達のノリでそこまで聞かれると」カップを置く。「今、ちょっと答えづらいな」そこで、気づいた。あ。そうか。彼氏なんだ。昨日までなら、軽く聞けた。 元カノの話だって、友達なら笑って聞けたかもしれない。でも今は。 答えによっては、自分が傷つく側にいる。「……ごめん」「謝るほどじゃないよ」正人は笑った。それから、少しだけ私を見る目を細める。「愛子、まだ友達の聞き方するよね」「え?」「距離感が、たまに親友のまま」柔らかい声だった。責めているわけじゃない。 ただ、曖昧にはしない。「それはそれで愛子らしいけど」正人がカップへ手を伸ばす。「俺、今は彼氏だから」胸の奥が、小さく跳ねた。「……慣れてないだけ」「うん。知ってる」すぐに返ってくる。少し安心したところで。「だから、慣らす」顔を上げる。正人は何でもない顔でコーヒーを飲んでいた。「それ、昨日も言ってた」「何回でも言う」「強い」「彼氏なので」笑ってしまった。でも。正人の言葉は、胸の中に残った。友達の距離。 彼氏の距離。私はまだ、その違いをうまく掴めていない。正人は急かさない。 けれど、友達のままでいるつもりもない。「正人って、恋愛観とかある?」聞くと、正人は少しだけ窓の外へ目を向けた。しばらくして。「俺、相手に合わせすぎるんだよね」さっきまでより、声が落ち着いていた。「合わせようとして、無理して」少し苦笑する。「自分でダメにすること、多かった」それ以上を軽く聞いてはいけな
日曜日になった。少しだけ遅く起きた朝だった。実家のリビングは静かで、楓も母もいない。 窓から入る春の光だけが、床にぼんやり落ちていた。何も起きていない朝。なのに、私の中だけが少し落ち着かない。昨日、別れ際に繋いだ手。思い出そうとしているわけでもないのに、ふとした瞬間、その熱だけが蘇る。少し大きかった手。 思っていたより骨ばっていた指。 信号待ちで、ほんの少し強くなった力。『思ったより、嬉しい』正人の低い声まで思い出して、胸の奥がくすぐったくなる。付き合うと決めた。 手を繋いだ。 彼氏になった。まだ、どれも少し現実味がない。スマホが震えた。正人だった。『おはよう』 『13時くらい、表参道で大丈夫?』いつも通り、余計な飾りのない文章。でも。彼氏。その言葉にはまだ慣れないのに。 会うのが楽しみだと思っている自分には、ちゃんと気づいていた。*休日の表参道は人が多かった。交差点の少し外側。 街路樹の近くに、正人は立っていた。白いシャツ。 濃いネイビーのパンツ。 袖を二回だけ無造作に折っている。休日なのに、姿勢が綺麗だ。通り過ぎる女の人が、一度だけ正人を見る。たぶん、普通にモテる。派手ではないのに目に留まる。 本人がそれを武器にしていないところも、たぶんずるい。けれど今日は、いつもと少し違った。時々スマホを確認しては、人混みへ視線を戻している。あ。緊張してる。そう気づいた瞬間。 正人も私を見つけた。目元が、分かりやすく緩む。「おはよ」「おはよう。待った?」「いや」少しだけ視線が逸れる。「ちょっと早く着いただけ」思わず笑った。「何、その言い方」「待ってた感じ出るの、何か悔しいじゃん」「別に、待ってたでいいじゃん」正人が苦笑する。「彼女のこと待ってた、って?」自分で言って、自分で照れたみたいに笑うから。 今度は私が視線を逸らした。「……慣れない」「俺も」交差点を渡る。昨日までと同じように隣を歩いているだけなのに。 正人の腕や、シャツの袖から覗く時計が、妙に目に入る。今まで見ていなかったわけじゃない。ただ。 意味を持たせていなかっただけなのかもしれない。青山通り沿いの本屋が見えて、私は足を止めた。「ちょっと寄っていい?」「また?」「この前の続き」
「……ちょっとくらい」小さく笑う。でも、その声には、さっきまでの照れとは違う温度があった。「彼女として、距離近くなってもいいのかなって思う」胸が少しだけ跳ねた。風が吹く。髪が揺れる。さっきまでのジャズバーの煙草の匂いが、まだ少しだけ正人に残っていた。その匂いが、妙に近い。少しだけ大人っぽくて。少しだけ、ずるい。私は思わず視線を逸らした。正人が少し苦笑いする。「愛子が嫌なことはしないけど」その声は静かだった。当たり前みたいに言う。でも、その当たり前が胸に触れる。急がない。勝手に踏み込まない。ちゃんと確認する。その丁寧さが、思ったより温かい。そして、ふとよぎる。危機感なさすぎ。翔太に言われた言葉。強引だった距離。急だった熱。考えないようにしていたこと。でも、隣にいる正人は違う。近づきたいと思っていても、ちゃんと止まる。確認する。私が困らないように、先に逃げ道を作る。その距離の作り方に、少しだけ安心する。同時に、その安心がまた少しだけ苦しい。正人を選んだのは、この優しさがあるからだ。そう思いたい。でも、それだけではなくて、私はきっと、正人のこういう丁寧さに救われている。正人が、空気を軽くするみたいに少し笑った。「でも」少し間。今度は少しだけ軽く。「手くらいは握ってもいいでしょ」その言い方は、少しだけずるかった。冗談みたいに聞こえる。でも、ちゃんと聞いてくれている。それでいて、少しだけ本音も見える。私は少し止まった。聞くんだ。ちゃんと。そのことに、少し驚く。そして、少しだけ嬉しい。「……いいよ」小さく答えると、正人が少しだけ目を伏せた。「よかった」本当に小さい声だった。でも、少しだけ安心したみたいだった。なのに、すぐには触れない。少し沈黙がある。二人で歩幅を合わせながら、ゆっくり歩く。何も変わらないみたいに。でも、さっきより少しだけ距離が近い。ふと、指先がかすかに触れる。離れる。また、少しだけ近づく。まるで確かめるみたいに。正人の手が、すぐ隣にある。私は自分の指先が少し冷えていることに気づいた。緊張しているのか、夜風のせいなのか分からない。それから、少し間を置いて。躊躇うように。でも、もう離したくないみたいに。そっと、手を包まれた。
「本当に、何もない?」正人の声は低かった。強いわけではない。責めているわけでもない。でも、さっきまでの柔らかさとは違う、静かな重さがあった。私はグラスを置いたまま、しばらく何も言えなかった。ジャズバーの低い照明。グラスの氷が溶ける音。煙草の残り香。ピアノの音。全部が少し遠くなる。胸の奥に、あの日の記憶がまだ残っていた。翔太の部屋。近すぎた距離。逃げるなら今だと言われた声。触れた唇。私は、その全部を正人に言えていない。だから、本当に何もないのかと聞かれた時、すぐに答えられなかった。でも。今ここで、その記憶を言葉にすることもできなかった。正人と付き合うと決めたばかりで。正人が私を信じようとしてくれているこの夜に。私は、喉の奥に残っている罪悪感を押し込めるようにして、静かに答えた。「……ないよ」声は思ったより小さかった。でも、ちゃんと聞こえたと思う。正人はすぐには返さなかった。グラスに添えていた指を少しだけ動かして、それから、ゆっくり私を見る。その目は、優しかった。優しいのに、少しだけ探っていた。たぶん、私の声が完璧ではなかったことに、気づいている。でも、正人はそこを追わなかった。少しだけ間が空く。その沈黙が、胸に触れる。やがて、正人が小さく息を吐いた。「そっか」こぼれるような声だった。信じる、と決めた人の声に聞こえた。全部を分かったわけではない。完全に安心したわけでもない。でも、今はそれ以上踏み込まない。私がそう答えたなら、そこに立つ。そんな声だった。その大人っぽさが、また胸に痛かった。私は少しだけ視線を落とした。言えなかった。また、ひとつ。言えないものが増えた。正人はそれ以上、その話をしなかった。灰皿の上の煙草は、もう消えていた。彼はグラスの底に残ったカクテルを少しだけ飲んで、店内の奥へ視線を流す。その横顔は、いつも通り落ち着いているように見えた。けれど、さっきまでより少しだけ口数が減った。それは怒っているからではなく、きっと考えているからだった。私も、うまく話せなかった。付き合い始めたばかりなのに。本当なら、もっと浮かれてもいい夜のはずなのに。私たちの間には、甘さと同じくらい、慎重さが残っていた。それでも、正人は最後に店員を呼び、いつものように会計を