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第9話:マンションの前

Author: Sunny
last update publish date: 2026-07-02 19:09:44

電話を切ってからも。

しばらく動けなかった。

拓也が、マンションの前にいる。

数日前まで一緒に暮らしていた人。

三十二歳の誕生日に、私へ別れを告げた人。

もう会わなくていいと思っていたのに。

名前を見ただけで、指先が冷たくなる。

スマホが震えた。

『エントランスの外にいる』

私はコートを羽織り、部屋を出た。

廊下は静かだった。

隣の扉を見ないようにして、エレベーターのボタンを押す。

今は。

翔太には会いたくなかった。

拓也に会う自分も。

まだ動揺している自分も。

見られたくない。

到着音が鳴る。

扉が開いた。

誰も乗っていない。

安堵して足を踏み出した時。

隣の扉が開いた。

「待って」

振り返ると。

翔太がこちらへ歩いてくる。

黒いニットに、同じ色のパンツ。

片手にスマホと鍵を持っていた。

「出かけるの?」

「少し買い物に」

翔太が乗り込む。

避ける方が不自然で、私も続いた。

扉が閉まる。

翔太が一階のボタンを押す。

私はスマホを握ったまま、階数表示を見つめた。

「何かありました?」

不意に聞かれる。

「何が?」

「顔」

「普通だけど」

「そういう時の普通は、あまり信用してないので」

五年経っても。

翔太は、変なところだけよく見ている。

「人に会うだけ」

「この時間に?」

「まだ朝だけど」

「朝だからです」

問い詰める声ではなかった。

答えたくなければ、これ以上は聞かない。

その距離で待っている。

言う必要はない。

翔太には関係のないことだ。

それなのに。

「拓也」

名前が口から落ちた。

翔太の目が、僅かに止まる。

「……拓也さん?」

「別れた人」

翔太は短く頷いた。

「今、マンションの前に来てる」

「そうですか」

それ以上は何も聞かなかった。

だからか。

聞かれてもいないのに、言葉を続けてしまう。

「前の部屋に残ってた植物を持ってきただけ」

「植物?」

「私が買って、拓也が育ててたもの」

「愛子が育てるんですか」

「分からない」

正直に答えると。

翔太が少しだけ目を見開いた。

「会いたくないなら、預けてもらえばよかったのに」

「そう言われた」

「じゃあ、どうして下りるんですか」

答えに迷う。

植物が大きいから。

直接受け取った方が早いから。

理由はいくらでもあった。

でも。

本当は。

「会えば分かる気がしたから」

「何が?」

「ちゃんと終わったのか」

口にした途端。

胸の奥が鈍く痛んだ。

翔太は黙った。

鏡に映る横顔が、少しだけ硬くなる。

けれど。

何も言わなかった。

一階へ着く。

扉が開いた。

ガラス張りのエントランスの向こうに、大きな鉢植えが見える。

その隣に立つ男。

見慣れたコート。

少し猫背になる立ち方。

拓也だった。

心臓が強く鳴った。

数日前まで。

仕事が終われば、あの人のいる部屋へ帰っていた。

それが今は。

ガラス一枚向こうに立つ拓也が、遠い人のように見える。

自動ドアの前で、足が止まった。

「愛子」

翔太に呼ばれる。

「……大丈夫」

答えた直後。

また同じことを言っていると気づいた。

翔太も何か言いかけたが。

結局、黙った。

ガラスの向こうで。

拓也がこちらを見る。

目が合う。

その表情が、僅かに緩んだ。

懐かしいと思った。

同時に。

胸の奥が痛んだ。

戻りたいわけではない。

会いたかったわけでもない。

それでも。

三年間、毎日見ていた顔を。

すぐに他人として見ることはできなかった。

自動ドアが開く。

冷たい風が頬へ触れる。

「……愛子」

拓也が私の名前を呼ぶ。

身体の方が先に、その声を覚えていた。

「急にごめん」

「ううん」

拓也は鉢へ視線を落とした。

大きく伸びた葉が、風に揺れている。

「思ったより大きくなってて。車じゃないと運べなかった」

「元気そうだね」

「愛子がいなくなってからも、水はやってたから」

胸の奥が詰まる。

「育ててたのは拓也でしょ」

「でも、選んだのは愛子だから」

拓也が鉢へ手を添える。

「持っていたくないなら、俺が引き取る。でも、一度聞いた方がいいと思って」

優しい声だった。

嫌いになって別れたわけではない。

だからこそ。

恋人だった頃の会話と。

今の会話の違いが分からなくなる。

拓也の視線が、私の横へ移る。

そこで初めて、翔太に気づいたらしい。

「ごめん。誰かと一緒だった?」

「違う。たまたまエレベーターで」

翔太を見る。

少し離れた場所に立ち。

会話へ入るつもりはないようだった。

ただ。

拓也に名前を呼ばれた時の私を、静かに見ていた。

視線が重なる。

翔太はすぐに目を逸らした。

「俺、行くので」

「あ」

止める理由はない。

それでも、声が漏れた。

翔太が一度だけ振り返る。

「タンブラー、急がなくていいです」

「……うん」

「じゃあ」

翔太が歩き出す。

拓也は、その背中を目で追った。

「同じマンションの人?」

「うん」

「隣?」

「どうして分かったの?」

「タンブラーの話してたから」

「ああ……」

拓也はそれ以上聞かなかった。

恋人だった頃なら。

気になったことは、そのまま聞いていた。

今はもう。

その権利がないと思っているのかもしれない。

「これ、部屋まで運ぶよ」

拓也が鉢へ手を掛ける。

「重いでしょ」

「ここまで持ってきたんだから大丈夫」

昔から。

私が欲しいと言ったものを。

私より丁寧に扱う人だった。

「……お願い」

答えると。

拓也が小さく頷いた。

二人でエントランスへ戻る。

拓也は鉢を抱え。

私は自動ドアを押さえた。

エレベーターの扉が開く。

拓也が先に乗り、私も続く。

扉が閉まりかけた時。

「すみません」

外から手が差し込まれた。

扉がもう一度開く。

翔太だった。

「忘れ物?」

「財布を部屋に置いてきました」

翔太は、鉢を抱えた拓也を見る。

けれど。

何も聞かず、軽く会釈した。

「どうも」

拓也も返す。

三人を乗せ、扉が閉まる。

狭い箱の中。

誰も話さない。

拓也が鉢を支え直す。

私が手を添えようとすると。

「大丈夫」

と短く言った。

聞き慣れた声だった。

私は手を引く。

その瞬間。

翔太の視線が僅かに上がった。

けれど。

やはり何も言わなかった。

目的の階へ着く。

三人で廊下へ出る。

私の部屋の前で。

翔太が隣の扉へ鍵を差し込んだ。

拓也の視線が、その手元へ向く。

本当に隣なのだと。

そこで初めて分かったようだった。

翔太は部屋へ入る前に、一度だけ私を見る。

「じゃあ、また」

「うん」

扉が閉まる。

廊下に。

拓也と二人だけが残った。

「中まで運ぶよ」

「玄関で大丈夫」

私は鍵を開ける。

拓也が鉢を抱えたまま、部屋へ入った。

床へ下ろすと。

青い葉が、小さく揺れた。

「ここでいい?」

「うん。ありがとう」

拓也は身体を起こす。

新しい部屋の奥を見ようとはしなかった。

数日前まで。

私の暮らす部屋は、拓也の部屋でもあった。

今は。

入っていい場所を確かめなければならない。

「植物、困ったら連絡して」

「分かった」

「水、やりすぎないでね」

「そんなに信用ない?」

「今まで俺がやってたから」

拓也が少し笑う。

その笑い方まで。

以前と変わらなかった。

懐かしいと思った。

同時に。

もう同じ場所へは戻れないとも思った。

拓也が靴を履く。

扉へ手を伸ばす。

これで終わる。

植物を渡して。

少し話して。

拓也は帰る。

そう思った時。

ドアノブの上で、手が止まった。

「愛子」

「何?」

拓也はすぐには振り返らなかった。

背中を向けたまま。

低く息を吐く。

「俺さ」

その声は。

別れを告げた日より、ずっと迷っていた。

「今日、植物を返しに来ただけじゃない」

心臓が強く鳴る。

拓也がゆっくり振り返る。

目が合った。

その目の奥に。

今まで見せなかった揺れがあった。

「愛子がいなくなった部屋に帰って」

言葉を切る。

「思ってたより、きつかった」

呼吸が止まる。

別れを決めたのは、拓也だった。

仕事ばかりの私との将来が見えないと言った。

それなのに。

今にも何かを取り消そうとするような目で、私を見ている。

壁一枚向こうで。

小さく物音がした。

翔太が、すぐそこにいる。

けれど今は。

そのことを考える余裕もなかった。

拓也が私を見たまま。

静かに言った。

「俺、愛子と別れたこと」

胸の奥が強く締めつけられる。

「少し、後悔してる」

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