เข้าสู่ระบบ紺色のタンブラーが、キッチンのカウンターに置かれている。
中身はもう空だった。
それでも洗ってしまう気になれず、私は椅子に座ったまま眺めていた。
翔太が淹れたコーヒー。
五年前、私がよく飲んでいたものと似た味。
覚えていたのか。
ただの偶然か。
考えても答えは出ない。
翔太に聞くつもりもなかった。
スマホが震える。
さやかからだった。
『ちゃんと休んでる?』
私はタンブラーの写真を撮りかけ、やめた。
代わりに短く返す。
『休んでる。コーヒー飲んでた』
すぐに返信が来た。
『自分で淹れたの?』
『もらった』
『誰に』
数秒迷ってから、正直に打つ。
『翔太』
既読がつく。
そのまま、しばらく返事がなかった。
嫌な予感がする。
数秒後。
スマホが鳴った。
通話だった。
「もしもし」
『何で翔太くんからコーヒーもらってるの?』
挨拶もなく聞かれる。
「昨日、荷物を持ってもらって。代わりに預かった袋を返しに行っただけ」
『それでコーヒー?』
「ちょうど淹れてたから」
『部屋に入ったの?』
「入ってない」
即答すると、さやかが少し黙った。
『入らなかったんだ』
「何、その言い方」
『別に。愛子がちゃんと距離を考えてるんだなと思って』
「普通でしょ」
『じゃあ、何で写真送ろうとしてやめたの?』
私はタンブラーへ向けていたカメラ画面を閉じた。
「見てたの?」
『さっき一瞬、入力中になって消えたから』
「写真だったとは限らないでしょ」
『でも当たってる』
言い返せない。
私はタンブラーを手に取り、底に残った水滴を指で拭った。
『気になる?』
さやかが聞く。
「翔太が?」
『うん』
「前も言ったけど、そういう意味じゃない」
『好きかどうかは聞いてない』
「じゃあ何」
『今の翔太くんを、もっと知りたいと思ってる?』
言葉に詰まった。
仕事。
暮らし。
この五年間に何があったのか。
少し気になっている。
けれど、それは恋愛とは違う。
私の中で二十一歳のまま止まっていた人が、知らない大人になって目の前にいる。
空白を意識してしまうだけだ。
「何も知らないから、気になるだけ」
『それを、知りたいって言うんじゃない?』
「さやか」
『責めてないよ』
さやかの声が少し柔らかくなる。
『翔太くんと普通に話せたなら、それは悪いことじゃないと思う』
私はタンブラーをカウンターへ戻した。
「普通に話しただけ」
『うん』
「コーヒーをもらっただけ」
『うん』
「それ以上はないから」
『分かってる』
あっさり返された。
「本当に分かってる?」
『愛子が、今すぐ誰かと恋愛する状態じゃないことは分かってる』
その言葉に、胸の奥が少し沈んだ。
さやかは続ける。
『だって、拓也のこともまだ終わってないでしょ』
指先が止まった。
翔太のことを話していたはずなのに。
突然、別の名前が置かれた。
「終わったよ」
『別れたことはね』
「同じでしょ」
『違うよ』
さやかは静かに言った。
『拓也と戻りたい?』
「戻りたくない」
迷わず答えられた。
『じゃあ、もう何とも思わない?』
今度は答えられなかった。
拓也の顔を見たいとは思わない。
前の部屋へ戻りたいとも思わない。
別れをやり直したいわけでもない。
でも。
三年間暮らした部屋。
休日に二人で買い物へ行ったこと。
冷蔵庫の中に並んでいた二人分の飲み物。
玄関に置かれた靴。
眠る前に隣から聞こえた呼吸。
それらは、数日前まで私の日常だった。
恋人を失ったというより。
生活の半分が急になくなった。
その空白には、まだ慣れていない。
『愛子』
「……何」
『好きじゃなくなったら、傷つかないわけじゃないよ』
声が出なかった。
拓也に戻りたいわけではない。
それなのに、別れたことが痛い。
その二つが、私の中でうまく並ばなかった。
だから。
平気なふりをして。
仕事を詰めて。
すぐに新しい部屋を決めた。
立ち止まらなければ、失恋したことを考えずに済むと思っていた。
「私、別に」
大丈夫。
そう言いかけて、やめた。
翔太にも。
正人にも。
大丈夫ではない時ほど、大丈夫と言うと見抜かれている。
電話の向こうで、さやかが待っていた。
「……まだ、慣れてないだけ」
ようやく言う。
『うん』
「戻りたいわけじゃない。でも、三年分が急になくなるのは、思ったより変な感じ」
『それなら、それでいいんじゃない?』
「何が」
『無理に終わったことにしなくて』
さやかの言葉は、五年前の翔太について話した時と似ていた。
好きか嫌いか。
終わったか終わっていないか。
私はいつも、早く答えを決めようとする。
曖昧なまま持っているのが苦手だから。
「……うん」
小さく答えた時。
スマホが震えた。
通話画面の上に、別の着信が表示される。
名前を見た瞬間、身体が固まった。
【拓也】
『どうした?』
さやかの声が遠くなる。
「拓也から電話」
『出る?』
「分からない」
画面の中で、名前が点滅している。
引っ越してから、拓也とは必要な連絡しかしていなかった。
退去。
公共料金。
残った荷物。
どれも短いメッセージで済ませていた。
電話が来たのは、別れてから初めてだった。
『一回出た方がいいんじゃない?』
「でも」
『戻りたいわけじゃないなら、なおさら』
その言葉に背中を押され、私はさやかとの通話を切った。
一度深く息を吸う。
着信が切れる直前に、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『愛子?』
久しぶりに聞く声だった。
胸の奥に、鈍い痛みが広がる。
懐かしい。
そう思ってしまったことが、少し苦しかった。
「どうしたの」
『急にごめん』
拓也の声も、いつもより硬かった。
『前の部屋に、愛子のものが残ってて』
「郵送でいいよ」
反射的に答える。
『俺もそうしようと思ったんだけど』
拓也が言葉を切る。
『観葉植物、覚えてる?』
窓際に置いていた、大きな鉢植え。
一緒に暮らし始めた頃、私が気に入って買ったもの。
水やりも。
植え替えも。
実際に世話をしていたのは、ほとんど拓也だった。
「……覚えてる」
『あれ、愛子が選んだものだから』
「でも、育ててたのは拓也でしょ」
『そうだけど』
短い沈黙。
『やっぱり、愛子に返した方がいいと思って』
植物は郵送しにくい。
宅配業者へ頼むことはできるだろう。
それでも拓也が電話してきた理由を、考えたくなかった。
「処分してもいいよ」
言った途端、胸が痛んだ。
自分で選んだ植物。
二人の部屋で三年間育ったもの。
別れたからといって、簡単に捨てていいものには思えなかった。
拓也も、私の沈黙で分かったのかもしれない。
『今、持ってきてる』
「え?」
身体が起き上がる。
『勝手にごめん』
「今って、どこ?」
拓也が少しだけ迷ってから答えた。
『マンションの前』
立ち上がった拍子に、椅子が床を擦った。
窓へ近づく。
ここからエントランスは見えない。
それでも、カーテンの向こうに誰かがいるような気がした。
「どうして住所を」
『前に、引っ越し先だけは送ってくれたでしょ』
そうだった。
必要な書類が届くかもしれないからと、新しい住所は伝えていた。
『会いたくないなら、管理人に預けて帰る』
拓也の声が遠慮がちになる。
『でも植物だから、一度下まで来てもらえると助かる』
「……分かった」
電話を切る。
部屋の静けさが急に重くなった。
ついさっきまで。
翔太のコーヒーの味を考えていた。
知らない五年間を少し気にしていた。
その直後に。
三年間一緒に暮らした拓也が、このマンションの下にいる。
キッチンを見る。
紺色のタンブラー。
翔太の部屋から持ち帰ったもの。
その隣には、まだ片づけきれていない段ボールがある。
拓也との生活から運んできたもの。
新しい部屋の中に。
二つの過去が、同時に置かれていた。
私はタンブラーから視線を外し、玄関へ向かった。
拓也に会いたいわけではない。
戻りたいわけでもない。
それでも。
ドアノブへ伸ばした指は、少し震えていた。
金曜日。ようやく。本当にようやく。楓が実家へ帰る日だった。「ほんとに帰るの?」玄関で聞くと、楓がスーツケースを閉じながら、不満そうな顔をした。「追い出すの?」「追い出してる」「冷たい」「三日って言った」「まだ一週間しかいない」「十分」本当に十分だった。洗面所は占領される。急にハグされる。冷蔵庫は荒れる。仕事中でも話しかけてくる。なぜか私の恋愛事情を勝手に観察してくる。しかも、いつの間にか翔太を気に入っている。本気で疲れていた。でも。なんだかんだ、少し寂しい気もする。家族って、たぶんそういうものだ。うるさくて。邪魔で。距離感がおかしくて。それでも、いなくなると少しだけ部屋が静かになりすぎる。「土曜また来る」「来なくていい」「映画あるじゃん」「それは翔太と——」途中で止まった。楓がにやっと笑う。「翔太と?」「……」「俺、楽しみにしてる」空気を読まない。本当に読まない。もともと翔太とは、ホラー映画を観て、そのあとアートバーに行こうという話をしていた。でも、楓が翔太の部屋でバスケの話で盛り上がってから、なぜか流れが変わった。楓が勝手に、「俺もちょうど映画観たかった」と言い出して。翔太が、「じゃあ一緒に行きます?」と、普通に受けてしまった。私はその場で止めようとした。でも楓は、「ホラーなら人数多い方が楽しいじゃん」と言い。翔太も、「愛子、怖いの好きだけど文句言うタイプなので、ツッコミ役増えるのは助かります」なんて言った。そこが妙に自然だった。変に私を取り合うような空気ではなく。男同士で気が合って、遊びの予定に一人増えただけみたいな軽さ。楓は陽キャで、距離を詰めるのが異常に早い。翔太はそれを嫌がらず、適度に受けて、適度に流す。会話のテンポが、意外と噛み合っていた。それが少しだけ面白くて。少しだけ落ち着かなかった。「映画はまだ確定じゃない」私が言うと、楓はスーツケースの取っ手を伸ばした。「確定でしょ。翔太がチケット見るって言ってたし」「なんでそんな仲良くなってるの」「相性?」「腹立つ」楓は楽しそうに笑った。そして、スーツケースを引きながら、なぜか隣のチャイムを押した。「ちょ、楓?」「挨拶」「いらない」でも、もう遅い。少しして、扉が開く
会議はさらに続いた。ゆうとのスケジュール。現地の撮影許可。雨季のリスク。SNS用ショート動画の切り出し。縦型素材の撮れ高。事務所確認。ひとつひとつを潰していくうちに、夕方の光が窓の外で少しずつ薄くなっていった。提案が終わる頃には、かなり暗くなっていた。会議室を出ると、オフィスの照明がいつもより白く感じる。正人が隣で資料を閉じながら言った。「金曜、水族館は無理しないでね」「うん」「楓くん対応で限界だったら、リスケでいい」少し笑った。「でもペンギン見たい」「じゃあペンギンだけでも」「それ、水族館としてどうなの」「目的が明確でいいと思う」正人の軽さに、少しだけ救われる。こういう会話が、自然にできるようになっている。私はそのことに、また少しだけ気づいてしまった。「タイ、行くことになりそう?」歩きながら聞く。正人は少し考える顔をした。「行った方が良さそうではある。現地で決めた方が早い部分が多いから」「うん」「でも、まだ確認する。俺が行くのが一番いいか、他のメディア担当で足りるかも含めて」仕事の話なのに、どこか心臓が落ち着かなかった。一ヶ月先。海外。正人。その並びが、今の自分には少しだけ遠くて、少しだけ近い。「行くことになったら、忙しくなりそうだね」「たぶん」正人は少しだけこちらを見る。「でも、行くとしても、今週のペンギンは別」思わず笑った。「優先順位おかしくない?」「愛子が見たいって言ったから」さらっと言う。本当に、さらっと。でも、その言葉はちゃんと胸に残る。私はすぐに返事ができなくて、視線を少しだけ外した。「……ありがとう」「どういたしまして」正人は、それ以上は何も言わなかった。押してこない。でも、消えない。その距離の置き方が、また少し苦しかった。夜。家に帰ると、楓は相変わらずソファにいた。「金曜から実家帰ってね」私が言うと、楓は不満そうに顔を上げた。「えー」「えーじゃない。三日って言った」「実家、親いないじゃん」「鍵あるでしょ」「愛子冷たい」「冷たいんじゃなくて限界」楓は少し笑った。でも、それ以上はごねなかった。たぶん、私が本気で疲れていることは分かっている。分かっていても、絡むのをやめないのが楓なのだ。「金曜、予定あるの?」楓が聞く。「あ
楓が来てから、私の生活は少しだけ荒れていた。少しだけ、ではない。かなり荒れていた。朝起きると、テーブルの上にコンビニの袋が増えている。冷蔵庫には、なぜかプリンと炭酸水と海外のプロテインバーが詰め込まれている。洗面台には楓の整髪料が並び、ソファには楓のジャケットが雑に投げられている。本人は悪びれもせず、「日本のコンビニやっぱ神」と言いながら、朝からおにぎりを食べていた。私は心底うんざりしていた。仕事は相変わらず忙しい。新商品のローンチは細かい調整が続き、ゆうとの次の動画撮影に向けた提案も控えている。そのうえ、家に帰っても楓がいる。嫌いではない。むしろ、放っておけない。久しぶりに帰国して、真っ先に私のところへ来る弟を、本気で邪険にできるほど冷たくはなれない。でも、疲れる。本当に疲れる。楓は明るい。空気を変える。勝手に冷蔵庫を開けるし、勝手にソファを占領するし、勝手に私の恋愛事情を読もうとする。それなのに、疲れていることには妙に気づく。「痩せた?」とか。「ちゃんと食べてる?」とか。そういうところだけ、やけに鋭い。だから余計に面倒くさい。昼休み。私は正人とのチャットを開いた。『ごめん、今週末の水族館、楓がうざすぎて行けないかも』送ってから、少しだけ罪悪感が湧いた。ペンギンが見たいと言ったのは自分だ。正人はちゃんと調整してくれようとしていた。それなのに、理由が「弟がうざい」。あまりにも雑。数分後、返信が来た。『了解。大丈夫?疲れてそう』その一文で、肩の力が抜けた。責めない。予定が変わることに不満も出さない。ただ、最初に体調を気にする。正人はそういう人だ。続けてメッセージが来る。『平日の夜に空いてる水族館にする?』『金曜なら遅めまでやってるところあるし、長く歩かなくて済むと思う』私はスマホを見つめた。金曜の夜。仕事終わり。短めの水族館。ちゃんと疲れている前提で考えてくれている。その自然さが、胸にじんわり沁みた。『金曜の方がいいかも』『楓も金曜からようやく実家帰るから、少し解放される』すぐに返事が来る。『じゃあ金曜にしよう』『ペンギン優先で組む』思わず笑った。ペンギン優先。そんな言い方を、正人がする。それが少し意外で、少し嬉しい。『ありがとう。助かる』『無理しなく
楓もいる。会話もしている。なのに、目が合う時だけ空気が少し柔らかい。私は妙に落ち着かなくなる。「飲める」「甘くしましょうか」「子供扱い?」「疲れてる人扱い」その言い方が、軽いのに優しかった。ミルの音が部屋に広がる。豆の香り。翔太の手元。量る。挽く。カップを温める。迷いのない動き。私はぼんやり見ていた。懐かしい。五年前。朝のカフェ。カウンターの中にいた翔太。「今日は眠そうですね」なんて笑っていた人。「ちゃんとバリスタっぽいね」小さく言うと、翔太が少し笑った。「元なので」「懐かしい」その言葉に、翔太の手が少しだけ止まった。本当に、わずかに。でも、何も言わない。ミルの音が止み、部屋にコーヒーの香りだけが残った。「バスケ、好きなんですか?」楓が棚の一角を見る。そこには、バスケットボール関連の雑誌と、小さなチームロゴのグッズが並んでいた。「結構好きです」「チームどこ?」翔太が答えた瞬間、楓が顔を上げる。「え、俺も」「本当ですか」「子供の頃、西海岸住んで。親の仕事で」「あ、そうなんですね」「現地で試合見てから好きで」そこから、急に打ち解け始めた。試合。選手。プレーオフ。時差。現地観戦。不思議なほど会話が噛み合う。楓は基本的にテンションが高い。でも、スポーツの話になると、ただ騒ぐだけではなくなる。見てきたもの。好きなプレー。印象に残っている試合。そういうものを、ちゃんと言葉にする。翔太は楓の勢いに自然に合わせながら、必要なところだけ少し落ち着かせる。転がしている。大人だ。その横顔を見て、私は少しだけ感心してしまった。楓は扱いづらい。悪い人間ではないけれど、距離の詰め方が乱暴だし、テンションで押してくる。それなのに、翔太は変に引かない。近づきすぎもせず、突き放しもしない。自然に受け止めている。「砂糖いります?」翔太がこちらを見る。「疲れてそうだから、少し甘めにしたら?」目が合う。優しい。ちゃんと見ている。楓と話しながらでも、私の方を見ている。その視線に、少しだけどきっとする。なんでそんな顔をするんだろう。自然すぎる。正人の言葉がまた頭をよぎる。――まだ好き。違う。考えすぎ。私はコーヒーに視線を落とした。カップを受け取ると、手の
翔太からのメッセージを見て、私は少しだけ肩の力を抜いた。「疲れてるなら、一瞬こっちに逃げます?』『コーヒー入れるし』その言い方が、妙に翔太らしかった。心配しているのに、重くない。気遣っているのに、踏み込みすぎない。ただ、「逃げます?」という言葉。来ます? でも。話聞く? でもなく。逃げ場として部屋を開けてくれる感じが、今の私には少しだけありがたかった。一方で、正人の言葉が一瞬だけ頭をよぎる。――彼、多分まだ愛子のこと好きだよ。小さく眉を寄せる。違う。あれは正人の憶測。翔太はただ、優しいだけ。隣人として。昔付き合っていた相手として。気を遣ってくれているだけだ。変に意識する方がおかしい。向かいでは楓が、コンビニのチキンを食べながらソファに寝転がっていた。コンビニで買ってきた戦利品が、テーブルいっぱいに散らばっている。おにぎり。グミ。ポテチ。カップ麺。そして、なぜか大量のプリン。「弟が急に日本帰ってきてて、ほんと疲れてる……」小さく呟くと、楓が顔だけこちらに向けた。「なにその言い方」「事実」「久々なのに」「羽田なうで来る人に優しくする余裕ない」「サプライズじゃん」「迷惑」即答した。楓は笑う。悪びれない。本当に悪びれない。昔からこうだ。距離感が近い。愛情表現が重い。しかも本人に、シスコンの自覚が一ミリもない。私はテーブルに置いていた紙袋を見る。少し良いアラビカ豆。色サンプルのお礼に買ったもの。前に翔太が、家でもちゃんとコーヒーを淹れると言っていたから、なんとなく渡したかった。今なら口実になる。スマホを手に取る。『色サンプルのお礼で渡したいものあるから、少しだけ行ってもいい?』すぐ返信が来た。『どうぞ』『鍵開けときます』私は立ち上がった。「ちょっと隣行ってくる」楓がプリンを咥えたまま止まる。「隣?」「今日助けてもらったから、お礼」「男?」「隣人」「男?」「男だけど」楓の顔が一瞬で嫌そうになる。「え、嫌だよ一人にしないで」「は?」「俺も行く」深く息を吐いた。始まった。「来なくていい」「てか、一人で男の部屋に行くの?」「隣」「隣でも男の部屋でしょ」「コーヒー飲むだけ」「ご近所にしては近くない?」「楓」「はい」「ほんと面倒くさい」
いつも余裕そうに、少し斜めから見てくる翔太が。同じ階で楓を見て、私の部屋に入るところを見て、すぐにメッセージを送ってきた。その事実が、胸の奥を変なふうにくすぐった。「何笑ってんの」楓が袋からプリンを取り出しながら聞く。「別に」「さっきの男?」私は無言で楓を見る。楓はにやっと笑った。「やっぱ知り合いじゃん」「楓」「はい」「余計な詮索しない」「じゃあ質問を一個にする」「だめ」「昔の男?」「うるさい!!」即答だった。「なんでそうなるの!」「だって反応がそれ」「何でも茶化さないで」「茶化してない。観察」「もっと悪い」楓は笑いながら、ビールを一本開けた。「でもさ」「何」「正人さんといい、今の隣の男といい」嫌な予感がした。楓はコンビニの袋を漁りながら、何でもない顔で続ける。「愛子、趣味一貫してるね」「どういう意味」「背高くて、顔がよくて、ガタイが良くて、ちょっと落ち着いてて、でも中身に熱ある感じ」私は言葉に詰まった。当たっているようで、当たっていない。いや、当たっている部分があるからこそ、腹が立つ。「正人はそういうんじゃない」「そう?」楓はプリンの蓋を開ける。「でもあの人、愛子を見る時、めっちゃ大事そうだったよ」胸が少し揺れた。「……見すぎ」「見てなくても分かる。空気が違かったから」楓はスプーンを探しながら言う。「で、隣の人は?」「ただの隣人」言った瞬間、自分でも少し引っかかった。ただの隣人。何度この言葉を使えば、そうなるんだろう。楓は私の顔を見て、また笑った。「今の顔、ただの隣人じゃないね」「うるさい」「昔の男?」「しつこい」「図星なんだ」「楓」「はい」「本当に黙って。殺すよ」楓は両手を軽く上げた。「黙る」三秒後。「でも、あの人も愛子のこと気にしてたよ」私は返事をしなかった。スマホの画面をもう一度見る。翔太からの最後のメッセージ。『びっくりした』それだけ。たったそれだけなのに、いつもの翔太よりもずっと感情が見える気がした。私は少し迷って、返信を打った。『急に弟が帰国してきた』『今日ってか、しばらくソファに泊めることになってる』すぐ既読がつく。『仲良いんですね』いつもの軽さが少し戻ってきた。私は少し安心する。『いや本当にすごく迷惑







