Share

第8話:終わっていない生活

Author: Sunny
last update publish date: 2026-07-02 19:09:37

紺色のタンブラーが、キッチンのカウンターに置かれている。

中身はもう空だった。

それでも洗ってしまう気になれず、私は椅子に座ったまま眺めていた。

翔太が淹れたコーヒー。

五年前、私がよく飲んでいたものと似た味。

覚えていたのか。

ただの偶然か。

考えても答えは出ない。

翔太に聞くつもりもなかった。

スマホが震える。

さやかからだった。

『ちゃんと休んでる?』

私はタンブラーの写真を撮りかけ、やめた。

代わりに短く返す。

『休んでる。コーヒー飲んでた』

すぐに返信が来た。

『自分で淹れたの?』

『もらった』

『誰に』

数秒迷ってから、正直に打つ。

『翔太』

既読がつく。

そのまま、しばらく返事がなかった。

嫌な予感がする。

数秒後。

スマホが鳴った。

通話だった。

「もしもし」

『何で翔太くんからコーヒーもらってるの?』

挨拶もなく聞かれる。

「昨日、荷物を持ってもらって。代わりに預かった袋を返しに行っただけ」

『それでコーヒー?』

「ちょうど淹れてたから」

『部屋に入ったの?』

「入ってない」

即答すると、さやかが少し黙った。

『入らなかったんだ』

「何、その言い方」

『別に。愛子がちゃんと距離を考えてるんだなと思って』

「普通でしょ」

『じゃあ、何で写真送ろうとしてやめたの?』

私はタンブラーへ向けていたカメラ画面を閉じた。

「見てたの?」

『さっき一瞬、入力中になって消えたから』

「写真だったとは限らないでしょ」

『でも当たってる』

言い返せない。

私はタンブラーを手に取り、底に残った水滴を指で拭った。

『気になる?』

さやかが聞く。

「翔太が?」

『うん』

「前も言ったけど、そういう意味じゃない」

『好きかどうかは聞いてない』

「じゃあ何」

『今の翔太くんを、もっと知りたいと思ってる?』

言葉に詰まった。

仕事。

暮らし。

この五年間に何があったのか。

少し気になっている。

けれど、それは恋愛とは違う。

私の中で二十一歳のまま止まっていた人が、知らない大人になって目の前にいる。

空白を意識してしまうだけだ。

「何も知らないから、気になるだけ」

『それを、知りたいって言うんじゃない?』

「さやか」

『責めてないよ』

さやかの声が少し柔らかくなる。

『翔太くんと普通に話せたなら、それは悪いことじゃないと思う』

私はタンブラーをカウンターへ戻した。

「普通に話しただけ」

『うん』

「コーヒーをもらっただけ」

『うん』

「それ以上はないから」

『分かってる』

あっさり返された。

「本当に分かってる?」

『愛子が、今すぐ誰かと恋愛する状態じゃないことは分かってる』

その言葉に、胸の奥が少し沈んだ。

さやかは続ける。

『だって、拓也のこともまだ終わってないでしょ』

指先が止まった。

翔太のことを話していたはずなのに。

突然、別の名前が置かれた。

「終わったよ」

『別れたことはね』

「同じでしょ」

『違うよ』

さやかは静かに言った。

『拓也と戻りたい?』

「戻りたくない」

迷わず答えられた。

『じゃあ、もう何とも思わない?』

今度は答えられなかった。

拓也の顔を見たいとは思わない。

前の部屋へ戻りたいとも思わない。

別れをやり直したいわけでもない。

でも。

三年間暮らした部屋。

休日に二人で買い物へ行ったこと。

冷蔵庫の中に並んでいた二人分の飲み物。

玄関に置かれた靴。

眠る前に隣から聞こえた呼吸。

それらは、数日前まで私の日常だった。

恋人を失ったというより。

生活の半分が急になくなった。

その空白には、まだ慣れていない。

『愛子』

「……何」

『好きじゃなくなったら、傷つかないわけじゃないよ』

声が出なかった。

拓也に戻りたいわけではない。

それなのに、別れたことが痛い。

その二つが、私の中でうまく並ばなかった。

だから。

平気なふりをして。

仕事を詰めて。

すぐに新しい部屋を決めた。

立ち止まらなければ、失恋したことを考えずに済むと思っていた。

「私、別に」

大丈夫。

そう言いかけて、やめた。

翔太にも。

正人にも。

大丈夫ではない時ほど、大丈夫と言うと見抜かれている。

電話の向こうで、さやかが待っていた。

「……まだ、慣れてないだけ」

ようやく言う。

『うん』

「戻りたいわけじゃない。でも、三年分が急になくなるのは、思ったより変な感じ」

『それなら、それでいいんじゃない?』

「何が」

『無理に終わったことにしなくて』

さやかの言葉は、五年前の翔太について話した時と似ていた。

好きか嫌いか。

終わったか終わっていないか。

私はいつも、早く答えを決めようとする。

曖昧なまま持っているのが苦手だから。

「……うん」

小さく答えた時。

スマホが震えた。

通話画面の上に、別の着信が表示される。

名前を見た瞬間、身体が固まった。

【拓也】

『どうした?』

さやかの声が遠くなる。

「拓也から電話」

『出る?』

「分からない」

画面の中で、名前が点滅している。

引っ越してから、拓也とは必要な連絡しかしていなかった。

退去。

公共料金。

残った荷物。

どれも短いメッセージで済ませていた。

電話が来たのは、別れてから初めてだった。

『一回出た方がいいんじゃない?』

「でも」

『戻りたいわけじゃないなら、なおさら』

その言葉に背中を押され、私はさやかとの通話を切った。

一度深く息を吸う。

着信が切れる直前に、通話ボタンを押した。

「……もしもし」

『愛子?』

久しぶりに聞く声だった。

胸の奥に、鈍い痛みが広がる。

懐かしい。

そう思ってしまったことが、少し苦しかった。

「どうしたの」

『急にごめん』

拓也の声も、いつもより硬かった。

『前の部屋に、愛子のものが残ってて』

「郵送でいいよ」

反射的に答える。

『俺もそうしようと思ったんだけど』

拓也が言葉を切る。

『観葉植物、覚えてる?』

窓際に置いていた、大きな鉢植え。

一緒に暮らし始めた頃、私が気に入って買ったもの。

水やりも。

植え替えも。

実際に世話をしていたのは、ほとんど拓也だった。

「……覚えてる」

『あれ、愛子が選んだものだから』

「でも、育ててたのは拓也でしょ」

『そうだけど』

短い沈黙。

『やっぱり、愛子に返した方がいいと思って』

植物は郵送しにくい。

宅配業者へ頼むことはできるだろう。

それでも拓也が電話してきた理由を、考えたくなかった。

「処分してもいいよ」

言った途端、胸が痛んだ。

自分で選んだ植物。

二人の部屋で三年間育ったもの。

別れたからといって、簡単に捨てていいものには思えなかった。

拓也も、私の沈黙で分かったのかもしれない。

『今、持ってきてる』

「え?」

身体が起き上がる。

『勝手にごめん』

「今って、どこ?」

拓也が少しだけ迷ってから答えた。

『マンションの前』

立ち上がった拍子に、椅子が床を擦った。

窓へ近づく。

ここからエントランスは見えない。

それでも、カーテンの向こうに誰かがいるような気がした。

「どうして住所を」

『前に、引っ越し先だけは送ってくれたでしょ』

そうだった。

必要な書類が届くかもしれないからと、新しい住所は伝えていた。

『会いたくないなら、管理人に預けて帰る』

拓也の声が遠慮がちになる。

『でも植物だから、一度下まで来てもらえると助かる』

「……分かった」

電話を切る。

部屋の静けさが急に重くなった。

ついさっきまで。

翔太のコーヒーの味を考えていた。

知らない五年間を少し気にしていた。

その直後に。

三年間一緒に暮らした拓也が、このマンションの下にいる。

キッチンを見る。

紺色のタンブラー。

翔太の部屋から持ち帰ったもの。

その隣には、まだ片づけきれていない段ボールがある。

拓也との生活から運んできたもの。

新しい部屋の中に。

二つの過去が、同時に置かれていた。

私はタンブラーから視線を外し、玄関へ向かった。

拓也に会いたいわけではない。

戻りたいわけでもない。

それでも。

ドアノブへ伸ばした指は、少し震えていた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる   第249話:ちゃんとするって決めてるから

    バラバラの材料が、会話の中で整っていく感じ。自分が見ているものを、相手も違う角度から見てくれている安心感。それは恋愛とは別の場所にある信頼だった。でも今は、その信頼ごと、正人を好きになっていくのかもしれないと思う。ふと、正人の視線が少し長く止まる瞬間があった。私がカレーの辛さに少しだけ目を細めた時。水を飲んで、息を吐いた時。会議の話をしながら、身振りで資料の構成を説明した時。正人は何でもない顔をしている。でも、見ている。前からそうだったのかもしれない。ただ、今はその視線に少しだけ意味が乗っているように感じてしまう。気づかないふりをした。まだ少し、恥ずかしかった。カレー屋を出ると、空はほとんど夜になっていた。夕方の橙色はビルの向こうに消えて、街灯の光が歩道に落ちている。少しだけ冷たい風。スパイスで温まった身体には、ちょうどよかった。帰り道。気づけば、当たり前みたいに手を繋いでいた。昨日みたいな確認はない。でも、勝手ではない。二人とも、同じくらい自然に手を近づけて、同じくらい自然に重ねた。少しだけ力がある。信号待ちで、正人の親指が私の手の甲にほんの少し触れる。何気ない動き。でも、その小さな触れ方に、妙に慣れてしまいそうで少し怖い。住宅街へ入ると、急に静かになった。コンビニの灯り。遠くの犬の鳴き声。夜の空気に混じる、どこかの家の夕飯の匂い。実家の近くまで来る頃には、どちらともなく歩く速度が少しだけ遅くなっていた。終わる空気。でも、終わりたくない空気。それが言葉にならないまま、繋いだ手の間に残っている。家の前で立ち止まる。門灯の下で、正人の横顔が少しだけ明るく見えた。「ありがと」私は小さく言った。「今日も」少し笑う。「楽しかった」正人も少し笑った。「うん」少し間。「俺も」それで終わっていいはずだった。おやすみ、と言って、手を離して、家に入る。それだけでいいはずなのに、空気が終わらない。帰るタイミングなのに、どちらも少し動けない。正人が少し視線を落とした。何かを言いかける。でも、やめる。小さく息を吐いて、困ったように笑った。「……いや」「何?」「なんでもない」その言い方が、妙にぎこちなかった。距離を測っている感じ。何かを飲み込んでいる感じ。それが分かったか

  • 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる   第248話:その心地よさ

    表参道から御茶ノ水へ戻る電車の中は、日曜日の夕方らしく少し空いていた。窓の外には、休日の終わりに近づいている街が流れていく。明るかった空は、少しずつ色を薄めていて、ビルの隙間に残る光も、昼間より柔らかい。紙袋を抱えた人。疲れた顔でスマホを見ている人。子どもの手を引く親。日曜日の夕方特有の、楽しかった時間がゆっくり終わっていくような空気が、車内にも静かに漂っていた。でも、隣に座る正人との距離は、昨日より少しだけ自然だった。肩が時々、ほんの少し近づく。電車が揺れた時、腕がかすかに触れる。わざとじゃない。でも、離れない。その曖昧な近さが、妙に落ち着いた。手は繋いでいない。けれど、その代わりに、身体の距離が少し変わった気がする。隣にいることを、必要以上に意識しなくてもいい。でも、完全に忘れることもできない。話すテンポも、沈黙も、前より少しだけ柔らかい。友達だった時の自然さが残っていて、そこにまだ慣れない甘さが薄く重なっている。少しずつ、恋人になってきている。そんな感覚があった。「眠い?」正人が小さく聞いた。私は窓に映る自分の顔を見て、少しだけ笑う。「ちょっと」「歩いたしね」「正人は?」「俺も少し」そう言いながら、正人は全然眠そうな顔をしていなかった。姿勢は変わらず綺麗で、膝の上に置いた手も落ち着いている。でも、よく見ると、目元だけがほんの少し柔らかい。休日の正人。仕事の時とは違う、余計な力が抜けた横顔。それを隣で見られることが、まだ少し不思議だった。彼氏。また、その言葉が頭の中で小さく転がる。今朝よりは少しだけ慣れた気がする。でも、完全にはまだ馴染まない。馴染まないまま、その違和感ごと少し嬉しい。御茶ノ水駅を出る頃には、空が少し橙色になっていた。ビルの隙間から夕方の光が斜めに落ちて、駅前の人の流れを薄く照らしている。昼間より風が冷たい。春の光なのに、夜へ向かう気配だけはちゃんと残っていた。正人がふと口を開く。「好きなカレー屋あるんだけど」私は顔を上げる。正人は少しだけ前を向いたまま、自然な声で続けた。「軽くディナー食べてく?」その言い方は、本当にさりげなかった。無理に引き止める感じではない。でも、ほんの少しだけ、もっと一緒にいたい、が滲んでいる。私がそれに気づく前に、正人

  • 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる   第247話:彼氏の距離

    本屋を出たあと、少し歩いてカフェに入った。大通りから一本入った、静かな店だった。向かいの席も空いていたのに。 なぜか自然と、隣に座る。メニューを一緒に覗く。肩が近い。それだけのことを、まだ少し意識してしまう。正人がメニューをこちらへ傾けた。「これ、好きそう」「また?」「また」「見すぎじゃない?」「彼氏なので」最近、そればかりだ。でも言われるたび、少し照れる。コーヒーが届き、ケーキを半分ずつ分ける。話は自然と学生時代のことになった。サッカー。 本。 ピアノ。知っているつもりだった正人に、まだ知らない部分がいくつもある。「絶対モテたでしょ」何気なく言うと。 正人がコーヒーを飲みながら、少し困ったように笑った。「普通に友達のノリでそこまで聞かれると」カップを置く。「今、ちょっと答えづらいな」そこで、気づいた。あ。そうか。彼氏なんだ。昨日までなら、軽く聞けた。 元カノの話だって、友達なら笑って聞けたかもしれない。でも今は。 答えによっては、自分が傷つく側にいる。「……ごめん」「謝るほどじゃないよ」正人は笑った。それから、少しだけ私を見る目を細める。「愛子、まだ友達の聞き方するよね」「え?」「距離感が、たまに親友のまま」柔らかい声だった。責めているわけじゃない。 ただ、曖昧にはしない。「それはそれで愛子らしいけど」正人がカップへ手を伸ばす。「俺、今は彼氏だから」胸の奥が、小さく跳ねた。「……慣れてないだけ」「うん。知ってる」すぐに返ってくる。少し安心したところで。「だから、慣らす」顔を上げる。正人は何でもない顔でコーヒーを飲んでいた。「それ、昨日も言ってた」「何回でも言う」「強い」「彼氏なので」笑ってしまった。でも。正人の言葉は、胸の中に残った。友達の距離。 彼氏の距離。私はまだ、その違いをうまく掴めていない。正人は急かさない。 けれど、友達のままでいるつもりもない。「正人って、恋愛観とかある?」聞くと、正人は少しだけ窓の外へ目を向けた。しばらくして。「俺、相手に合わせすぎるんだよね」さっきまでより、声が落ち着いていた。「合わせようとして、無理して」少し苦笑する。「自分でダメにすること、多かった」それ以上を軽く聞いてはいけな

  • 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる   第246話:付き合って初めての日曜

    日曜日になった。少しだけ遅く起きた朝だった。実家のリビングは静かで、楓も母もいない。 窓から入る春の光だけが、床にぼんやり落ちていた。何も起きていない朝。なのに、私の中だけが少し落ち着かない。昨日、別れ際に繋いだ手。思い出そうとしているわけでもないのに、ふとした瞬間、その熱だけが蘇る。少し大きかった手。 思っていたより骨ばっていた指。 信号待ちで、ほんの少し強くなった力。『思ったより、嬉しい』正人の低い声まで思い出して、胸の奥がくすぐったくなる。付き合うと決めた。 手を繋いだ。 彼氏になった。まだ、どれも少し現実味がない。スマホが震えた。正人だった。『おはよう』 『13時くらい、表参道で大丈夫?』いつも通り、余計な飾りのない文章。でも。彼氏。その言葉にはまだ慣れないのに。 会うのが楽しみだと思っている自分には、ちゃんと気づいていた。*休日の表参道は人が多かった。交差点の少し外側。 街路樹の近くに、正人は立っていた。白いシャツ。 濃いネイビーのパンツ。 袖を二回だけ無造作に折っている。休日なのに、姿勢が綺麗だ。通り過ぎる女の人が、一度だけ正人を見る。たぶん、普通にモテる。派手ではないのに目に留まる。 本人がそれを武器にしていないところも、たぶんずるい。けれど今日は、いつもと少し違った。時々スマホを確認しては、人混みへ視線を戻している。あ。緊張してる。そう気づいた瞬間。 正人も私を見つけた。目元が、分かりやすく緩む。「おはよ」「おはよう。待った?」「いや」少しだけ視線が逸れる。「ちょっと早く着いただけ」思わず笑った。「何、その言い方」「待ってた感じ出るの、何か悔しいじゃん」「別に、待ってたでいいじゃん」正人が苦笑する。「彼女のこと待ってた、って?」自分で言って、自分で照れたみたいに笑うから。 今度は私が視線を逸らした。「……慣れない」「俺も」交差点を渡る。昨日までと同じように隣を歩いているだけなのに。 正人の腕や、シャツの袖から覗く時計が、妙に目に入る。今まで見ていなかったわけじゃない。ただ。 意味を持たせていなかっただけなのかもしれない。青山通り沿いの本屋が見えて、私は足を止めた。「ちょっと寄っていい?」「また?」「この前の続き」

  • 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる   第245話:手くらいは

    「……ちょっとくらい」小さく笑う。でも、その声には、さっきまでの照れとは違う温度があった。「彼女として、距離近くなってもいいのかなって思う」胸が少しだけ跳ねた。風が吹く。髪が揺れる。さっきまでのジャズバーの煙草の匂いが、まだ少しだけ正人に残っていた。その匂いが、妙に近い。少しだけ大人っぽくて。少しだけ、ずるい。私は思わず視線を逸らした。正人が少し苦笑いする。「愛子が嫌なことはしないけど」その声は静かだった。当たり前みたいに言う。でも、その当たり前が胸に触れる。急がない。勝手に踏み込まない。ちゃんと確認する。その丁寧さが、思ったより温かい。そして、ふとよぎる。危機感なさすぎ。翔太に言われた言葉。強引だった距離。急だった熱。考えないようにしていたこと。でも、隣にいる正人は違う。近づきたいと思っていても、ちゃんと止まる。確認する。私が困らないように、先に逃げ道を作る。その距離の作り方に、少しだけ安心する。同時に、その安心がまた少しだけ苦しい。正人を選んだのは、この優しさがあるからだ。そう思いたい。でも、それだけではなくて、私はきっと、正人のこういう丁寧さに救われている。正人が、空気を軽くするみたいに少し笑った。「でも」少し間。今度は少しだけ軽く。「手くらいは握ってもいいでしょ」その言い方は、少しだけずるかった。冗談みたいに聞こえる。でも、ちゃんと聞いてくれている。それでいて、少しだけ本音も見える。私は少し止まった。聞くんだ。ちゃんと。そのことに、少し驚く。そして、少しだけ嬉しい。「……いいよ」小さく答えると、正人が少しだけ目を伏せた。「よかった」本当に小さい声だった。でも、少しだけ安心したみたいだった。なのに、すぐには触れない。少し沈黙がある。二人で歩幅を合わせながら、ゆっくり歩く。何も変わらないみたいに。でも、さっきより少しだけ距離が近い。ふと、指先がかすかに触れる。離れる。また、少しだけ近づく。まるで確かめるみたいに。正人の手が、すぐ隣にある。私は自分の指先が少し冷えていることに気づいた。緊張しているのか、夜風のせいなのか分からない。それから、少し間を置いて。躊躇うように。でも、もう離したくないみたいに。そっと、手を包まれた。

  • 隣の部屋には、捨ててしまった恋が住んでいる   第244話:そっか

    「本当に、何もない?」正人の声は低かった。強いわけではない。責めているわけでもない。でも、さっきまでの柔らかさとは違う、静かな重さがあった。私はグラスを置いたまま、しばらく何も言えなかった。ジャズバーの低い照明。グラスの氷が溶ける音。煙草の残り香。ピアノの音。全部が少し遠くなる。胸の奥に、あの日の記憶がまだ残っていた。翔太の部屋。近すぎた距離。逃げるなら今だと言われた声。触れた唇。私は、その全部を正人に言えていない。だから、本当に何もないのかと聞かれた時、すぐに答えられなかった。でも。今ここで、その記憶を言葉にすることもできなかった。正人と付き合うと決めたばかりで。正人が私を信じようとしてくれているこの夜に。私は、喉の奥に残っている罪悪感を押し込めるようにして、静かに答えた。「……ないよ」声は思ったより小さかった。でも、ちゃんと聞こえたと思う。正人はすぐには返さなかった。グラスに添えていた指を少しだけ動かして、それから、ゆっくり私を見る。その目は、優しかった。優しいのに、少しだけ探っていた。たぶん、私の声が完璧ではなかったことに、気づいている。でも、正人はそこを追わなかった。少しだけ間が空く。その沈黙が、胸に触れる。やがて、正人が小さく息を吐いた。「そっか」こぼれるような声だった。信じる、と決めた人の声に聞こえた。全部を分かったわけではない。完全に安心したわけでもない。でも、今はそれ以上踏み込まない。私がそう答えたなら、そこに立つ。そんな声だった。その大人っぽさが、また胸に痛かった。私は少しだけ視線を落とした。言えなかった。また、ひとつ。言えないものが増えた。正人はそれ以上、その話をしなかった。灰皿の上の煙草は、もう消えていた。彼はグラスの底に残ったカクテルを少しだけ飲んで、店内の奥へ視線を流す。その横顔は、いつも通り落ち着いているように見えた。けれど、さっきまでより少しだけ口数が減った。それは怒っているからではなく、きっと考えているからだった。私も、うまく話せなかった。付き合い始めたばかりなのに。本当なら、もっと浮かれてもいい夜のはずなのに。私たちの間には、甘さと同じくらい、慎重さが残っていた。それでも、正人は最後に店員を呼び、いつものように会計を

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status