Mag-log in手術から数日後。
桐生倫子は、予定より早く退院した。
右手にはまだ包帯が巻かれている。
医師からは無理をしないようにと言われていたが、一刻も早く離婚を成立させ、復学に備えたかった。
タクシーを降り、自宅の前に立つ。
ここはもう、自分の帰る場所ではない。
最後の一仕事をするのだ。
夕日が、沈もうとしていた。
玄関のドアを開けると、リビングから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「ただいま」
声をかけても、返事はない。
倫子がゆっくりとリビングへ入ると、ソファに座っていた桐生智也が顔を上げた。
その隣には、直也がいる。
「……もう退院したのか」
智也の第一声は、それだった。
右手のことを気遣う言葉は、一つもなかった。
「ええ。問題なく終わったから」
「そうか」
たった一言、それだけだった。
智也は、すぐにスマートフォンへ視線を戻した。
倫子はしばらくその姿を見つめていたが、意を決して口を開いた。
「花火は、楽しかった?」
智也の指が止まる。
「……何の話だ」
「つい、五日前の話よ。ヘリコプターで花火を見るのって、楽しいんでしょうね」
智也の表情が変わった。
直也はようやくゲーム機から顔を上げた。
「美琴さんを悪く言うな!」
「悪くなんて言っていないわ。事実を確認しただけよ」
直也は口を尖らせた。
「僕、美琴さんと一緒に暮らしたい。こんなママ、いらないよ」
躾のために叱る倫子と、会うたびに甘やかす美琴。
まるで、心臓が握り潰されたように痛い。
すると、智也が面倒そうに口を開いた。
「子どもの前で変な話をするなよ」
「変な話?」
智也が何を言おうとしているのか、理解できなかった。
「あのSNSのことを言っているなら、仕事の付き合いだ」
「人生を一緒に歩むっていうのが?」
「演出だよ」
智也は眉をひそめた。
「お前も、もう少し妻としての自覚を持ったらどうだ」
倫子は思わず笑いそうになった。
妻としての自覚。
手術前日に連絡を無視され、当日にすっぽかされ、夫が親友と新しい人生を歩むと発表する。
そんな状況で、自分に足りないのは妻としての自覚なのだろうか。
倫子はバッグから一枚の書類を取り出し、テーブルの上に置く。
「何だ、これ」
智也が書類を見る。そして、表情が変わった。
「離婚届?」
「ええ」
倫子はまっすぐ夫を見つめた。
「署名して」
智也は呆然としながら、倫子の顔を眺めた。
そして――吹き出した。
「は? 何を言い出すんだ」
「何がおかしいの?」
「お前が、俺と離婚?」
智也は心底おかしそうに笑った。
「できるわけないだろ」
「……」
「お前、俺に生活の面倒を見てもらっているじゃないか。離れて生きていけるわけがないだろ」
その言葉を聞いて、倫子の闘争心に火がついた。
「本当の家族になるのに、私は邪魔でしょう」
智也の笑みが消える。
「美琴さんと、直也
「何を言って――」
「不貞の慰謝料を払ってくれたら、財産分与は求めないわ」
「本気か?」
「本気よ」
倫子は、迷いなく答えた。
「私は、自分の人生を取り戻したいの」
智也はしばらく倫子を見ていた。倫子の燃えるような目を見るのは初めてだ。
だがすぐに、怒りで興奮しているだけだろうと、軽く考えた。
「好きにすればいい」
どうせ冷たくされた腹いせだろう。
医学部を中途半端に辞め、右手に大きな傷を負った倫子が、一人で生きていけるはずがない。
役所に提出する勇気もないだろう。智也はそう確信していた。
だから、離婚届に署名した。
倫子は離婚届を鞄に入れた。
智也がスマートフォンを操作し、倫子は銀行アプリで入金通知を確認した。
その後、倫子は黙ってやり取りを見ていた直也に目を向けた。
「……元気でね。ああ、上手に書けていたわよ。『だいすき』って」
直也はぎくりと顔を強ばらせ、何も答えなかった。
倫子も、それ以上何も言わなかった。
親権は智也が持つことになる。
自分がここにいても、誰も幸せにならない。
だから、もう、終わりにしよう。
倫子はリビングのローテーブルに結婚指輪を置き、左手でボストンバッグを持った。
「お世話になりました」
心ならずも、挨拶だけは口をついて出た。
そして一度も振り返らず、玄関へ向かう。
「どうせすぐ戻ってくるさ」
背後から聞こえた声に、倫子は振り返らない。
「そう思っていればいいわ」
これが、桐生倫子として過ごした最後の日だ。
***
一年後、
奨学金の義務を果たすため、故郷の医師不足の病院で研修を始める。
右手の感覚は、完全には戻らなかった。
それでも、高校時代の同級生で、作業療法士になっていた
「私は、まだ、終わらない」
あの日、病室で自分に言った言葉を、何度も繰り返した。
***
そして四年後。離婚からは六年経っていた。
白木美琴は智也と結婚して、桐生美琴になっていた。
「『再生の魔術師』が、日本に来るんだから、お近づきにならなくちゃ」
空港へ向かう車の中で、美琴はスマートフォンを見つめていた。
「海外で数々の難しい手術を成功させた、正体不明の外科医よ。トップジャーナルに論文も掲載されたわ」
「わざわざ空港まで行かなくても……」
「うちの医療法人と関係を結べたらいいと思わない?」
「いつまで白木の人間のつもりでいるんだ」
智也は苦笑した。
医療法人理事長の娘という肩書きと桐生家の支援、そして智也のメディア系の人脈を利用し、今では「天才女医」と呼ばれている。
もっとも、その評判が実力によるものではないことを、美琴自身が一番よく知っていた。
到着ロビーには、すでに多くの医療関係者や報道陣が集まっている。
「どんな人なのかしら」
美琴が人混みの向こうを見つめる。
そのとき。
VIPゲートが開いた。
「来たぞ!」
海外の医療関係者とスタッフに囲まれ、一人の長身の男がいた。
端正な顔立ちに、洗練された濃紺のスーツ。
「……あの人かしら?」
美琴が呟く。
だが、その直後。
二人の表情が凍りついた。
男の隣を、一人の女性が歩いている。
自信に満ちた足取り。
そして――見間違えるはずのない顔。
「……嘘」
美琴の唇が震える。
「倫子……?」
六年前、何も持たずに自分たちの前から去った女。
二度と会うことはないと思っていた。
その女が今――。
まるで、誰も手の届かない別世界の人間になったかのように、VIPゲートから姿を現した。
飛行機の中で、イーサンが時計を見ながら朝倉倫子に尋ねた。「六時間ほど時差がありますが、大丈夫ですか?」「一日が長くなる感じよね。寝る時間で調節するわ。ともかく、無事に会議が終わってよかったわ」 倫子は、ほっと息を吐いた。 パリでの国際学会は、予想以上に実りの多いものになった。中井教授の発表は注目を集め、倫子自身も海外の研究者たちから声をかけられた。今後の共同研究につながる話もあり、忙しくなりそうだ。 倫子たちには、大きな仕事を終えたという安堵感があった。 *** 一方、日本に帰国した智也のスーツケースには、厄介なものが残されていた。 突き返されたジュエリー。 智也は乱暴にベッドの上に投げた。 会社の秘書にでもやるか。 いや、駄目だ。渡した相手がそれを身につけているのを見たら、あのときの屈辱を思い出してしまう。 それなら、母親のご機嫌取りにでも使うか。 少し前に乳がんと診断されて、パニックになっていた。そろそろ落ち着いて、自分の入院準備を始めている頃だろう。見舞い代わりに贈ったら、喜ぶかもしれない。 そんなことを考えながら、智也はスーツケースから洗濯物などを取り出していく。 倫子がいた頃はスーツケースごと任せることができたのに、と舌打ちしたくなった。仕分けして、家の中で元の場所に戻すもの、職場に持っていくものと整理してくれた。 当時は、当たり前だと思って、感謝することもなかった。 こんなことは、美琴には頼めない。 秘書を愛人にしてしまえば……そんなことが頭に浮かんでしまう。智也は首を振って、その考えを頭から追い出した。 疲れていた智也はあまり深く考えずに、ジュエリーケースを寝室のサイドテーブルの引き出しに入れた。 そのあと美琴と直也にお土産を渡して一仕事終えた智也は、突き返されたジュエリーのことをすっかり忘れてしまった。 *** 数日後。 美琴は寝室のサイドテーブルを開けて、箱を見つけた。 先日のパリ土産と同じブランドだ。一瞬、自分がこんなところにしまったのだろうかと、記憶を辿る。 記憶にはないと、美琴は首をかしげた。 手に取ると、箱のサイズが小さい。自分がもらったブレスレットではないようだ。 そっと開けると、水色の石がついたイヤリングが出てきた。 青系統は倫子を思い出させる。それに、ピアスではなくイヤ
「これ、どうすればいい? 私、受け取りたくないわ」 倫子はプレゼントをまるで汚い物のようにテーブルに置いた。 かつて結婚していたときでさえ、アクセサリーなどもらったことがない。今さら贈ってくるなんて、どういう神経をしているのだろう。「ジュエリーショップに連絡します。購入されたのはミスター・キリュウですから、店から本人に返してもらいましょう」 イーサンはジュエリーケースを見て、そう言った。「受け取り拒否ということでホテルから店に返してもらうか、購入した店舗に引き取りに来てもらうか……。最終的には、店からミスター・キリュウに連絡してもらうことになるでしょう。明日、対応しますので、もう、これのことは忘れてください」 イーサンの提案に、倫子はほっと息を吐いた。「そうしてくれる? こんなもの、持っていたくないわ」 倫子はジュエリーケースから目をそらした。「承知しました」 イーサンはそう答えると、鞄の中にジュエリーケースを入れた。「あ、お化粧を落として、シャワーを浴びなきゃ」 倫子はすぐに戻ると言って、イーサンの部屋を出て行った。「そのまま自分の部屋で寝たらいいのに……」 イーサンは両手で顔を覆った。 *** 翌日。 桐生智也は、顔を真っ赤にしていた。 店から連絡を受けたのだ。倫子が受け取らなかったので、ジュエリーを引き取りに来て欲しいと。 こんな屈辱はない。 気の利いたサプライズのつもりだった。思いがけない贈り物に、倫子は涙を流して感激するだろうと思っていた。 それなのに、突き返してくるだと? 気に入らなくても、受け取るのが礼儀ではないのか。――そう考えて、智也は屈辱に震えた。 そもそも、結婚していた頃から倫子のことは気に食わなかった。 美琴に頼まれて、いたずらに参加しただけなのに、結婚させられた。 おどおどと自信なさげで、人を苛つかせるだけの存在だった。 そういえば、あいつに何か贈り物をしたことはあっただろうか。 あいつと結婚している間、美琴は愛人という立場だった。気の毒に思ったから、様々なものをプレゼントしてやった。 そのとき、倫子には? 何も思い出せない。 いや、何も買っていないはずがない。美琴のついでに、ランクを下げたものを贈ったのだろう。今は思い出せないだけだ。 妻に何一つ贈っていないなんて、甲斐
「買ってやろうか。どれがいいんだ?」 朝倉倫子は桐生智也の挑発には乗らず、店員の方へ向き直った。「結構です。関係のない人に買ってもらう必要はありません」「可愛くないな」 智也が顔をしかめる。「そろそろ、絡むのはやめていただけますか」 イーサン・タンが二人の間に入った。 店員たちや周囲の客も、智也の振る舞いに眉をひそめている。「ムシュー・キリュウ。どうか節度ある振る舞いをお願いいたします」 店員が静かな声で告げた。「ふん。面白みのない女だな。メールの返信くらいしろよ」 智也の言葉に、倫子は尋ねるようにイーサンを見上げた。 智也からのメールはイーサンに転送するようにしていて、倫子は読んでいないのだ。 イーサンは小声で答える。「返事を必要とする内容ではありませんでした」「そう。よかったわ」 倫子はそれ以上、智也を気にしないことにした。 三人の様子を見ていた店員が、倫子たちを別室へ案内した。最終的に決めるためには、落ち着いた場所がいいだろうということらしい。 智也は、美琴へのジュエリーを選び終えたら、もう一度話しかけるつもりだった。「おい、待てよ」 慌てて手を伸ばしたが、店員がすかさず立ちはだかった。「お客様」 制止された智也は、舌打ちをした。 *** ホテルで着替えて、倫子は買ったばかりのネックレスとイヤリングを着ける。「確かに、服もアクセサリーも引き立て合っているわね」 自分の部屋を出て、隣のイーサンの部屋をノックした。「ドクター・リン。素敵ですよ」「も、もう。イーサンったら。……ありがとう」 ストレートな褒め言葉に照れながら、会場へ向かった。 パーティーは立食形式で行われた。 学会の出席者たちは食事を摘まみながら、自由に会話を楽しんだ。「ドクター・アサクラ。先ほどのお話は興味深かったです。神経の再建後、表情が戻るまでにはかなり時間がかかりますよね」「ええ。神経をつなげば終わり、というわけではありませんから。筋肉がどこまで反応できるか、リハビリをどう進めるかも重要です。そこは山本准教授が担当されていますけど」 倫子は功績を独り占めすることなく、他者の働きを認める。それが誠実に映り、一緒に仕事をしたいと思わせた。「培養した皮膚組織と神経再建を組み合わせる研究
中井教授が、パリで開催される再生医療の国際学会に参加することになった。 手術を担当した医師として、朝倉倫子にも同行してほしいという。「勉強になりそうだし、行きたいわ」 倫子は、医療コーディネーターのイーサン・タンに相談した。「そう言うと思っていました。スケジュールを調整します」 イーサンは微笑んだ。 *** 国際学会には、世界各国から再生医療の研究者や臨床医が集まっていた。 会場では最新の研究成果が発表され、活発な質疑応答が続いている。 中井教授が壇上で研究内容を説明し、山本准教授と倫子は、専門的な質問への回答を担当した。「どきどきしましたね」 中井教授から次の発表者に代わり、倫子はほっとして手で胸を押さえた。「みんな真剣だからな。まあ、立場が逆なら根掘り葉掘り訊きたくなるよ」 山本准教授は軽く笑った。 全ての発表が終わると、各国の研究者たちが互いに意見を交わす時間となる。 発表者を中心に、いくつもの輪ができている。 倫子は中井教授の輪の中にいた。 倫子は執刀医として手術手技について質問を受け、山本准教授が術後の経過について補足する。 どんな質問にも落ち着いて答える倫子に、聴衆の関心が集まった。 話し合いの中で、自国の患者について倫子に相談したいという研究者もいた。 そばに控えていたイーサンがすっと近づき、国際医療グループを通じて相談や依頼を進める方法を説明していく。 医師になることを諦めなかったから、倫子はこの場にいるのだ。 手の神経を繋いでくれた五味医師とリハビリに付き合ってくれた三枝哲郎に、改めて感謝の気持ちが湧いてきた。 倫子は幸せを噛みしめた。 ***「さて。少し時間がありますから、ジュエリーショップに行きましょう」 学会の会場を出ると、イーサンが倫子を誘った。「どうして?」 倫子は首をかしげた。「デザイナーのジュンコから、できればもう少し映えるネックレスを合わせてほしいと言われています」「今のネックレスじゃ駄目なの?」 倫子は透き通った水色のアクアマリンのネックレスに手を当てた。癒やしの効果があり、旅のお守りになると言われている石だ。「駄目というわけではありません。ただ、せっかくの機会ですから、心惹かれるものが見つかるかもしれませんよ」 倫子は小さくため息をついた。「
桐生智也は実家に呼び出された。「ああ、どうしましょう。私が乳がんだなんて……」 母親が嘆いている。「母さん、落ち着いて。手術できるんだろう?」「あなたの知り合いで一番腕のいい医師を手配してよ」 母は軽くパニック状態になっていて、キンキンと甲高い声で喚いた。 がんと告知されたらショックだろうが、手術して治療できるのだから、すればいいのだろう。 智也はそう軽く考えて、寄り添おうとは思わなかった。それよりも、問題は――「医療関係の人たちとは、最近ちょっと……」 朝倉倫子が帰国したときのパーティーで、今までと同じように話しかけた。それなのに変な対応をされたから、厳しく言い返してやった。 現在の妻の美琴がいたから、元妻に舐められたらいけないという思いもあった。 どうも、その時の言い方がまずかったらしい。医療関係者から、少し距離を置かれている気がする。 あれは、医療関係者の親睦を深めるこのパーティーだった。 主催側の責任者は、藤堂という男だ。彼は医療、製薬など幅広い分野で国内に大きな影響力を持つグループの理事をしている。 その彼に、倫子の邪魔をするなと睨まれた。 頼りにしていた医学会の副会長は、自分も彼に睨まれたら堪らないと言い出した。「次の会長になれなかったら困る」と、逃げ腰になった。 医学会の副会長ということで、大きな口を叩いていた。だが、よく聞いたら、医学会はいくつもの専門に分かれているので、その中の一つの副会長には、それほど権力はないらしい。 医学界ではなく、医学会ということに気がつかなかった。 副会長が「自分に言えば、何でも解決してやる」と豪語するから、心強いと思っていたのに。 忌々しい記憶を脇に置いて、智也は意識を母親に向けた。「母さんが不安なのはわかるよ。まずは、今の主治医に相談して、納得いかなかったら転院を考えよう。それでいいね?」「ああ、智也。頼りになるのはあなただけよ」 母は智也の腕を掴んで、泣き出した。「そんなことないよ。父さんだっているだろ」「あんな人! 入院する前に家事代行の手配はしておけよ、ですって」 父がIT分野で起業し、事業を拡大するために資産家の娘と結婚した。 それが智也の母だ。お嬢様気質で、家政を取り仕切ることができなかった。 父
朝倉倫子は自分が特別扱いされていることに気がついた。 日本では、患者とのトラブルを医師が自分で解決しなければならない。それで疲弊してしまう医師も多い。 この病院でも、多くの医師たちはそうだ。 その場で、あるいは当日中に上司や警備担当者を呼んで状況を鎮静化するようになっている。けれど、それでも、最初に患者と向き合うのは医師だった。 それを、倫子の場合は、医療コーディネーターのイーサン・タンが代わりに引き受けてくれるのだ。 イーサンは一度スタッフルームに戻ってきたが、また呼び出しを受けて出ていった。警備員が女性から聞いたことの事実確認をしたいらしい。 それからしばらく、イーサンは戻ってこなかった。 倫子はなんとか意識を論文に向けたが、予定より読み進められないうちに勤務時間が終わった。 だが倫子は、イーサンが戻ってくるのを待っている。 昼間に病院に怒鳴り込みに来た女性の動向がわからないからだ。もしかしたら、話し合いの末に解放されているかもしれない。 説教されて大人しくなったならいいが、逆恨みを募らせ、倫子が襲われたら困る。「何もしないで待っているなら、メイクのチェックをしましょうか」 看護師のクララ・リムが、そう言って付き合ってくれた。「普段なら、待っている間に仕事を片付けるんだけど。気になって、それどころじゃなくて」 倫子は、そんな言い訳をした。「眉山はもう少し、外側の方がいいですね。眉尻ももう少し伸ばした方が大人っぽいです」 片方の眉毛だけを描き直される。鏡で見ると、左右でずいぶんと顔の印象が違う。「まだまだね」 倫子はため息を吐いた。「いえ、上達していますよ。まずは、続けて習慣にするのが大事ですからね」「私はこんなにのんびりしていていいのかしら。イーサンに面倒なことをやらせてしまって……」 倫子は、ちらりと扉の方に視線を向けた。「罪悪感ですか? でも、彼はそれが仕事