LOGIN朝倉倫子:奨学金で医師を目指すが、妊娠により休学。夫・桐生智也に冷遇されて離婚し、復学して医師になる。 桐生美琴(旧姓白木):医療法人の理事長の娘。広告塔になるべく「天才外科医」を名乗る。 桐生智也:美琴の恋人だったが、倫子と結婚した。離婚して、美琴と再婚。IT企業の二代目社長。 イーサン・タン:国際医療グループに所属する医療コーディネーター。 三枝哲郎:倫子の高校時代の同級生。作業療法士。
桐生美琴は、病院の院長室に呼びつけられた。そこには父親の白木総一郎もいる。「朝倉医師と連絡は取れたのか? まだ日本にいるんだろうな」 院長を押しのけて、理事長の総一郎がその場を仕切る。「倫子はSNSをやっていないから、同行を追いづらいのよ」 美琴は院長をちらりと見ただけで、遠慮なくソファに座った。「国際医療グループに問い合わせても、手術の依頼を受け付けても医師の指名はできないと突っぱねられてしまう。そうなんだろ?」 総一郎にジロリと睨みつけられ、院長の声は妙に甲高くなった。「は、はい。そうなんです」 総一郎は不機嫌なまま、今度は美琴を責めた。「どうして西園寺の手術が成功する前に、つなぎを取っておかなかったのだ」「それよりも、パク・ミンジェと繋がった方が良くない?」 美琴は別の提案をした。「同じように活躍していても、頻繁に日本に来る医師でなければ意味がないだろう。出張依頼になる分、値も張ってしまう。 それに、昔からの知り合いということで、便宜を図ってもらうこともできないではないか」 総一郎は、娘の浅知恵を鼻で笑った。「お父様。私と倫子は、前妻と現妻なのよ。普通に考えて、仲良くできるわけないじゃない」 親子の会話を聞いていた院長が、珈琲を吹き出しそうになった。「できないのなら、最初から言え! そうしたら、別の者を動かしたのに。本当に駄目な奴だな。仕方ない、智也君に連絡を取らせるか」「お父様! 『再生の魔術師』が誰かわからなかったんだから、後手に回るのも仕方ないでしょう」 「わかった時点で相談せず、情報を抱え込みおって。他にいい手があるのか?」 総一郎は、あるなら言ってみろと言わんばかりに、顎をしゃくって見せた。「……彼女から離婚を言い出したのよ。きっと智也のことを恨んでいるわ」「男女の仲は複雑なんだ。別れた時点できっぱり縁を切る者もいるが、情に溺れてずるずると関係を持ってしまう者もいる」「……」 それこそが、美琴が認めたくない可能性だった。 化粧をしてまあまあ見られるようになった倫子を、智也が気に入ってしまったらどうする? 倫子が、奪われた男を奪い返しにくるかもしれない。 薄々感じていたが、直也も以前のように美琴を慕ってこない。どこか、倫子と比べられている気がするのだ。
空港でスーツケースを受け取り、タクシー乗り場へ向かった。 日本で着ていたコートは腕にかけ、ただの荷物になっている。 朝倉倫子はコンドミニアムのドアを開けた。その途端、むわっとした熱気が押し寄せてきた。「……暑い」 日本は冬の終わりかけでまだ寒かったというのに、こちらはもう夏のようだ。「掃除を頼んでおかなかったのですか?」 埃っぽく少しカビ臭い空気に、一緒にいたイーサン・タンが眉をひそめた。「自分がいない部屋に人を入れるのに、抵抗があって……」「そうですか?」 こういうところに、育った文化の違いを感じる。 一か月閉め切っていたせいか、空気だけが少し重い。 エアコンを入れる。 冷たい風が吹き出したところで、ふっと肩の力が抜けた。「明日は普通に出勤すればいいのよね?」「はい。今日はゆっくり休んでください」 イーサンが去ると、エアコンの音が耳についた。 ここ一か月ほど、人といる時間が長かった。 一人の気楽さと共に、少しだけ寂しく思う。 倫子にとって家庭とは、温かく、自分の味方になってくれる場所だ。父と母のような家庭を、いつか作りたいと思っていた。 だが結婚して桐生家に入ると、家の役に立てという空気でピリピリしていた。 流産したときは倫子以外誰も驚かなかった。結婚する前は、「ぜひ産んでくれ、そのためには入籍しないと」と言っていたのに。 その後、智也がどこからか連れてきた直也を実子として届けさせられた。 今思い返すと、あの家はおかしい。 一人の寂しさはあるが、あの家から脱出できたことがとても幸せなことだと、改めて思った。 *** 朝の七時半には、倫子は形成外科のスタッフオフィスにいた。「お土産をパントリーに置いておいたから、食べてね」「センベイだ」 個包装の袋を開け、さっそくパリッと食べる音がする。「日本で手術してきたんでしょ。ドクター・ナカイの自家培養表皮はどうだった?」 もう一人の医師が質問してきた。「すごいクオリティだったわ。生着が早いみたい。自家培養表皮のせいか、患者の体質のせいか、気になるところね」 倫子は少し興奮気味に話した。「マレーシアのパク・ミンジェと一緒に執刀したんだって? 彼はどうだった?」 同じ国際医療グループだが、勤務地が異なるのだ。パクも注目株の一人だった。
朝倉倫子は故郷から東京へ戻った。 まずは大学病院で、西園寺澄子の予後を確認する。彼女は食事もしっかり取れるようになっていた。「いい感じね」 倫子がそう言うと、山本准教授が嬉しそうにうなずいた。「医者の指示をよく聞いてくれる、いい患者さんです」「早く、良くなりたいですから」 澄子はゆっくり、口をあまり動かさないようにしゃべった。 病室を出ると、山本准教授は改まって言った。「とても見事なオペだったと、蒲田から聞きました。今回私は主治医として全体を見ていましたが、次はぜひ、ご一緒したいと思っています。 中井教授も、また新たな可能性が見えてきたとおっしゃっていましたよ」「光栄です」 倫子はにこやかに応じた。 そんな挨拶を交わしていると、イーサンがスマートフォンを操作しながら口を挟んだ。「マスコミの取材希望が、こんなに来ています。主治医は山本准教授だと返していいですか?」「大半が『再生の魔術師』か『美人女医』を取材したいんじゃないですかね。本当に医学の話を聞きたい人は、引き受けますよ」 山本准教授がそう請け負ってくれたところで、倫子たちはホテルに帰ることにした。 ホテルの上層階にあるティールームで一休みする。「一度、記者発表をしたから、必要がなければ私は前面に出なくていいわよね」「そうですね。軽々しく露出を増やして、桐生美琴と『美人女医』の称号を争い、安っぽくなったら困ります」「それは絶対に嫌だわ。今まで以上に難癖を付けられるわよ」 倫子は即答した。 少し前までは美人と言われるのに抵抗があったが、プロにメイクしてもらうとそれなりに見られると認識を新たにした。「美琴はバイタリティがすごいと思うわ。私は、あんなにエネルギッシュに活動できないもの」 倫子はこってりしたベイクドチーズケーキをフォークで口に運んだ。「ドクター・リンは、仕事に全精力を傾けていますからね」 イーサンは珈琲を飲みながら、笑っている。「……医学以外のことにも力を注いでいるのに『天才』と呼ばれるんだから、美琴はすごいわね」 どうしても、美琴に負けたという記憶が倫子を弱気にさせる。 おしゃれをして、デートをして、それをSNSに投稿して、取材を受けて……。倫子にはとても真似できない。「SNSで見
「倫子、病院に来てたんだってな。リハビリルームまで会いに来てくれればよかったのに」 三枝哲郎が、仕事帰りに朝倉家に来て、そう言った。「……哲郎はどうせ家に来ると思ったから」 朝倉倫子は、少し素っ気なく答える。「来るけどさ。冷たいなぁ」 哲郎は笑いながら、温かい室内で曇った眼鏡を拭いた。 病院長から哲郎がいろいろと手を回してくれていたと聞いて、倫子はどんな顔をすればいいのかわからなくなったのだ。「皆揃ったなら、ご飯にするわよ」 母の声がして、みんなで居間に移動した。懐かしい家庭料理が並んでいる。「お母さん。明日、お父さんのお墓参りに行ってくるわ」「もう、急に言うんだから。明日はシフトが入っているから休めないわよ」「一人で行けるわよ。お墓の場所を忘れたりしなし、大丈夫よ」「そういうことじゃないでしょ。一匹狼な体質は相変わらずね」 母との言い合いに倫子は顔をしかめながらも、心の中は弾んでいた。「明日だったら、俺が付き合うよ」「哲郎だって、患者さんとの予定があるでしょう」「いや、元々休む予定だったんだ」「何か用があるからでしょ?」 倫子は煮浸しを箸で摘まんだ。「……倫子が来てるから。お土産を買うとか、手伝ってやろうと思ってさ」「まあまあ。哲郎君ありがとうね。ほら、倫子お礼は?」「お母さん、ご厚意に甘えすぎ。図々しいよ」「遠慮して断る方が失礼なこともあるでしょ。ねぇ?」 そんな光景をイーサン・タンは微笑ましく眺めていた。 翌日、本当に哲郎がやって来た。「ふむ。まあまあ、かな」 倫子の顔を見ながら、哲郎はそう言った。「何が?」「寝不足チェック」 哲郎が自分の目の下を指でトンと叩く。「隈ができてるかってこと?」「哲郎さん、ファンデーションの威力ですよ」 イーサンが横から告げ口をする。 そんな二人のやり取りを眺めながら、家の中が賑やかなのはいいなと改めて思った。 哲郎に車を出してもらい、お寺へ向かう。 代々の墓石を掃除した。母がまめに来ているのか、土埃を拭うくらいですぐ終わる。花立てに花を挿し、線香に火をつけて静かに手を合わせた。 心の中で、海外に渡ってからのことを父とご先祖様に報告した。 線香の煙が空に昇っていく。そんな中で、イーサンが言った。「ドク
朝倉倫子は、研修医時代に最初の一年間を過ごした病院に挨拶に来た。「病院長、その節はお世話になりました」「朝倉君の活躍は聞いている。医師を続けていることが、なにより嬉しいよ」 初老の病院長は、にこやかに席を勧める。「こちら、オーレリア・メディカル・グループのイーサン・タンです」「秘書業務をしておりますので、手術依頼などは私の方へご連絡ください」 イーサンが名刺を差し出した。「朝倉君は人が好いから、こういう窓口になってくれる人がいるなら安心だ」 病院長は、まるで孫の心配をするような口調で言った。「作業療法士の三枝君とは結婚しないのかね?」「そのような関係ではないですよ」 倫子は軽く受け流した。こういう質問には、もう慣れた。「だが、今も仲がいいのだろう?」「三枝君は面倒見がいいですから……」 倫子の言葉を、病院長は遮った。「いや、彼は患者にはフレンドリーだが、基本的に人付き合いは悪い方だろ。仕事が終わったらすぐに帰って、ゲームをやっているそうじゃないか」「高校時代もそうでした。……そういえば女子生徒とは距離があったかもしれません」 華やかで中心になるグループでなければ、そんなものだろうと思うが。「お節介を一つ焼こうか」 病院長が、意味ありげに倫子を見る。「もう七年ほど前になるか。朝倉君が専業主婦をやっている頃に、手の再手術をやっただろう?」「はい。突然の話でしたが……あれから人生が好転したんだと思っています」 倫子は右手の手術痕をそっと撫でた。「執刀した五味常子先生は、そちらの国際医療グループの医師だ。そうだな?」「はい。ドクター・ツネコの強い希望で、日本の病院へ派遣しました」 イーサンが肯定した。「最初に手術をしてくれた医師から連絡があって、最新の術式を受けてみないかと……。まだ成功率が低い手術で、症例を集めたいと――」 倫子は話の流れが読めず、戸惑っていた。「ああ、ずいぶん脅されたんだね。数少ない成功例が、ドクター・ツネコのオペだった。 五味家は、三枝の本家筋だ。三枝君が、親戚の五味医師に頼み込んで手を回した。彼は自分からは言わないだろうが、知っておいてほしい」 病院長が、さらりと言った。「……どうして?」 それが倫子の正直な気持ちだった。 三枝哲郎は高校時代の同
桐生智也と白木美琴は、大学のゴルフサークルで出会った。いくつかの大学が合同で行った合宿だ。 二人とも目立つ容姿をしていて、当然のように異性に囲まれた。 夜は飲み会で親睦を深める。 智也は飲み会を抜けて、合宿をしているホテルの中庭へ出た。整えられた生け垣がライトアップされている。「あら桐生さん。休憩ですか?」「人に囲まれるのも疲れるよ。白木さんも避難してきたんだ?」「ええ。楽しいけれど……あまり飲まされると危ないでしょ」 女の子を酔い潰して不埒なことをする男が、いるかもしれない。「へえ。意外としっかりしてるんだ」「意外とって、失礼ね」 クスクスと二人は笑った。「私、ゴルフが好きなわけじゃないの。接待に必要だから覚えておけと父に言われただけ」「俺も似たようなものだよ。男の場合は遊び慣れているというのも、ステータスになるってさ。父が初代社長だから、二代目のプレッシャーがのしかかる」 智也はおどけて、首をすくめた。「私は代々医者の家系なの。他の選択肢は許されない……」 美琴は儚げに微笑んだ。「お互い、大変だよな」 そんな弱音を吐いたのが、きっかけだった。 当時、智也は大学の三年生だった。 卒業後すぐに父親の会社に入るか、その前に他の会社で経験を積むべきかで悩んでいた。 そんな話を美琴は、真剣に聞いてくれた。心の優しい子なんだと感動した。 それから二人は付き合い始めた。 卒業後、智也は父の会社に入ることにした。 三年が経ち、仕事に余裕が出てきた頃だった。「どうしよう。首席で卒業しないといけないのに」 涙ぐむ美琴を助けたいと思った。 彼女は医学部五年生で二十三歳。智也は二十五歳。「首席じゃなくても、医師免許を取るだけで立派なことじゃないか。俺は美琴を誇らしいと思うよ」 智也はそう慰めた。「それだけじゃ駄目なのよ」 泣いていた美琴の目が、怪しく光った。「その子が、いなくなるだけでいいの。一生のお願いよ。協力して」 美琴を脅かしているのは、朝倉倫子という奨学生だという。 その女と一夜を共にしてくれ、と頼まれた。恋人にそんなことを頼まれ、ショックだった。「今どき、男と寝たってだけで退学にはならないだろう」「大丈夫よ。周りが騒げばいいの。気が弱いから、きっ