登入遥side走行する車のエンジン音だけが静まり返った車内に低く響いている。私は、自分の人生を狂わせた「あの日」の記憶を言葉に変えていった。「私が住吉と初めて会ったのは、ある財界が主催した大規模なパーティーだったわ。その日、私は西村家の家政婦として会場の裏方で休む間もなく働いていた。……休憩時間に手渡された一杯の飲み物を口にしたのだけれど、それからの記憶が綺麗に抜け落ちているの。……そして、次に目が覚めた時には、朝日が差し込む見覚えのないホテルのベッドの上で、隣には住吉がいたわ」「記憶がない? ……ホテルのベッド……」直人の声が、低く震えている。ハンドルを握る指が白くなるほど力が入っているのが、横目からでも分かる。険しい横顔には怒りと困惑が複雑に混ざり合っている。私は彼の返答を待たず、一気に言葉を重ねた。「ええ。住吉も私と同じようにすぐには事態を飲み込めていなかったけれど、誤解されることを避けるためにすぐにその場を去ったの。……だけど、誰かに見られたようですぐに週刊誌に記事と写真が載った。住吉商事が、その責任問題と商談への影響を最小限に抑えるために出した答えが、私との『結婚』だった。住吉は……私が名家の妻の座を奪い取るために罠に嵌めたのだと考え、私を深く憎んでいたわ」「そんなことって……。たとえ誤解だとしても、結婚までする必要があったのか? 現に、君は妊娠
遥side「遥、なんだか疲れた顔をしているけれど大丈夫? もしかして、あまり眠れなかったのかい?」朝食のテーブル。湯気の立つコーヒーを手に俊がいつもの穏やかな笑顔で私に話しかける。いつもなら特に気にすることなく返していただろう。けれど今は、何気ない会話のはずなのに、戸惑って指先がピクリと動いてしまう。「ええ、少し……。でも大丈夫よ、ありがとう」平然を装って短く答えたが、持っていたカトラリーがカチリと震えるのを必死に抑え込んだ。心の中は、昨夜見たあの『調査報告書』の文面で埋め尽くされている。今ここで口にし、「どうしてあんなものを調べていたの?」と尋ねる勇気は、私にはなかった。迎えの車に乗り込み、ぼんやりと外の景色を眺める。窓の外を流れる東京の街並みは、足早にオフィスへ向かう人々、背中を丸めて歩く老人、笑い合う学生たちと無数の日常が溢れているのに、今の私は、自分だけが透明な硝子の箱に閉じ込められたような気分だった。瞳に映るすべてが、実感を伴わない映像としてただ流れ去っていく。「遥……? どうした? なんだか、さっきから元気がないみたいだけれど」取引先への訪問のためにオフィスを出て、二人きりになると直人がそっと私の顔を覗き込んできた。俊も直人も私の変化にすぐに気が付くことに嬉しくもあり、そんなに顔に出てしまっているのかと心の中で苦笑していた。
遥side私と兄の俊、そして直人の三人は、息つく暇もないほどの喧騒の中にいた。今夜のパーティーは、私たちが開発した新しいシステムに興味を持つ経営者たちに説明をする「商談会場」と化していた。私は新会社の社長として、そしてシステムの責任者の一人として、次々と訪れるゲストに説明を重ねていた。「貴重なご意見をありがとうございます。詳細は改めて担当からお送りいたしますね」最後の一組を笑顔で見送り、私は小さく息をついた。ふと背後を振り返ると、俊と直人はまだ熱心に別の経営者と話し込んでいた。私の担当分はすべて終わった。少しだけ、一人でこの高揚感を味わおうとした、その時だった。「少し話を……いいだろうか」声を掛けられて笑顔で振り返ると、目の前に立つ人物を認識した瞬間、顔が強張った。「何の用かしら。今、取り込んでいて忙しいの」奏多は以前のような傲慢なオーラを削ぎ落としたかのように、どこかやつれ、神妙な顔つきで私を見つめていた。「君はもう話が終わったんじゃないのか?邪魔したら悪いと思ってしばらく観察をしていたが、さきほどからもう話はしていないじゃないか」「……ずっと見ていたの? あなただって経営者の一人として、交流を深めるためにここに来たはずでしょう。私を『観察』するなんて、そんな時間があるというの?」「今日、俺にとって一番大事な用事は、遥、君と話をすることだ」奏多は迷いのないまっすぐな瞳でそう言い切った。その言葉が、私の胸を不快にざわつかせる。この人は今まで一度だって私を優先したことがあっただろうか。いつも優先されるのは麗華で、私はただ麗華の機嫌を損ねないように立ち回る家政婦の一人に過ぎなかった。奏多だってそう思っていたはずだ。それが、離婚して「東宮遥」となった今になって、私と話すことが「一番の用事」だと恥ずかしがることも冗談でもなく真剣に言ってきている。(何を今さらそんなこと言っているの?私はもうあなたと話すことは……)突き放そうとした瞬間、ふと、ずっと胸の奥に閉まっていた疑問を思い出した。ここで聞かなければ、もう二度と本人に問いただすことはないだろう。「……そう。それなら、私からも一つだけ聞きたいことがあるわ。ここだと人が多すぎる。場所を移動しましょう」会場を出て静まり返った重厚な廊下へと移動すると、遠くで仕事の電話をしている人が数人いる程度で
遥side夜になり花蓮と屋敷の中でかくれんぼをして遊んでいた。私が鬼で花蓮を探しているがなかなか見つからない。。(小さい頃は、お布団の膨らみでバレバレだったり、隠れている途中にクスクス笑い声を出しちゃったりしてすぐに見つけられたのに。今は隠れるのも上手になって……難しいわね)花蓮の成長が愛おしくもあり、同時に鬼ごっこを難しくしていることに、私は内心苦笑した。「花蓮ー、どこかな? もう見つけちゃうわよー」わざと大きな声で呼びかけながらゆっくりと廊下を歩く。リビングでは俊と直人が食後のコーヒーを飲みながらくつろいでいるはずだが、ふと、俊の部屋から微かな物音が聞こえてきた。「花蓮、そこにいるの?俊叔父さまの部屋には、お仕事の大事な書類があるかもしれないから勝手に入ったらだめよ。いるなら出てきなさい」私が扉を開けて声を掛けると、数秒の沈黙の後、書斎の重厚なデスクの下から「ゴンッ」という鈍い音が響いた。「いったーい! ぶつけちゃったぁ……」花蓮はデスクの下に潜り込んでいたようだ。見つからないようにと椅子を限界まで引き寄せていたせいで、出そうとした瞬間に頭を強打したらしい。
遥side穏やかな日曜日の昼下がり。東宮家の庭園には、初夏の訪れを告げる柔らかな光が満ち溢れていた。花壇から少し離れたところで、花蓮が直人を捕まえようと一生懸命走って追いかけている。「直たん、絶対捕まえるからね」そう意気込む花蓮に直人も追いつけるようなスピードでわざとゆっくり走り、タッチされると「花蓮ちゃん、走るの早いね」と大げさに驚いている。そのまま花蓮が抱き着いて、じゃれあって楽しそうな笑い声が響いてくる。その光景を私はテラスから眺めていた。隣に座っていた俊もにこにこしながら静かに見守っている。まったりとした時間が流れていたが、不意に俊が私の方に顔を向けて声を落として尋ねてきた。「遥。……言いたくなければ、無理に話さなくていい。ただ、どうしても気になっていたことがあるんだ」俊の横顔はいつになく真剣で、私をじっと見つめたまま言葉を選ぶように続ける。「……どうして住吉奏多と結婚したんだ?」「えっ……急にどうしたの?」心臓がドクリと跳ねた。あまりに唐突な問いに、持っていたカップがカチリと音を立て
遥side私と兄の俊、そして直人の三人は、息つく暇もないほどの喧騒の中にいた。今夜のパーティーは、私たちが開発した新しいシステムに興味を持つ経営者たちに説明をする「商談会場」と化していた。私は新会社の社長として、そしてシステムの責任者の一人として、次々と訪れるゲストに説明を重ねていた。「貴重なご意見をありがとうございます。詳細は改めて担当からお送りいたしますね」最後の一組を笑顔で見送り、私は小さく息をついた。ふと背後を振り返ると、俊と直人はまだ熱心に別の経営者と話し込んでいた。私の担当分はすべて終わった。少しだけ、一人でこの高揚感を味わおうとした、その時だった。「少し話を……いいだろうか」声を掛けられて笑顔で振り返ると、目の前に立つ人物を認識した瞬間、顔が強張った。「何の用かしら。今、取り込んでいて忙しいの」奏多は以前のような傲慢なオーラを削ぎ落としたかのように、どこかやつれ、神妙な顔つきで私を見つめていた。「君はもう話が終わったんじゃないのか?邪魔したら悪いと思ってしばらく観察をしていたが、さきほどからもう話はしていないじゃないか」「……ずっと見ていたの? あなただって経営者の一人として、交流を深めるためにここに来たはずでしょう。私を『観察』するなんて、そんな時間が
奏多side土曜日、朝食を終えて着替えを済ませてからクローゼットの中を見渡すと、一昨日届いたばかりの新品のスーツと鞄だけが美しく並んでいた。ゆとりの感じられる風通しのいいクローゼットは、見ていてとても清々しい。「さて、神山に移動させた荷物の場所を聞いて確認するか……」階段を降りて執事の神山を探すと、電話をしている最中だった。受話器を両手で持ち、時折深く頭を下げながら対応していてまだ時間がかかりそうだ。「奏多様、いかがなさいましたか?」神山の様子を伺っていた俺に、古くからこの屋敷に仕えている家政婦の一人が声をかけてきた。「ああ。一昨日からクローゼットの整理を頼んでいたが、出した荷物が
奏多side「……会長! 子会社の代表を、五十嵐から星野麗華に決定したとはどういうことですか」週明けの月曜、午前九時。 住吉ホールディングスの会長である父に呼び出され、部屋に入ると、麗華の社長就任の話を言い渡された。「な
遥side月島さんの言葉が、狭い車内の中に熱を持って留まっている。今まで恋愛に縁がなかった私でも二人が言っている『特別な関係』の意味は分かる。単なるビジネスパートナーではなく男女としての友人や知人、もしかしたら家族と同じくらい近い存在である人。(奏多は、私と月島さんが『特別な関係』だと疑っていたけれど、月島さんは本当にそうなればいいと願って
奏多side「麗華が……社長?」耳を疑うとは、まさにこのことだ。俺は椅子に深く背を預けたまま、目の前で意気揚々と胸を張る麗華と、その背後で借りてきた猫のように縮こまっている五十嵐を交互に見やった。「そうよ! 私ならSNS