LOGIN奏多side
「……会長! 子会社の代表を、五十嵐から星野麗華に決定したとはどういうことですか」
週明けの月曜、午前九時。 住吉ホールディングスの会長である父に呼び出され、部屋に入ると、麗華の社長就任の話を言い渡された。
「なぜ、彼女が選ばれたのですか。麗華は住吉でも五十嵐工業でも、現場を一度経験したことがない。それどころか社会人としてまともに働いた経験すらない。そんな人間に、経営難に直面している会社の代表を任せるなんて、無謀を通り越して狂気です」
俺はデスクの向こう側に座る父に一気にまくしたて、強く抗議し反対の意を伝えた。だが
遥side「ねえ……今の」やっとのことで絞り出した私の声は、夜風にさらわれて消え入りそうに細かった。視界がぼやけ、街灯の明かりが歪んで滲む。そんな私を直人は言葉を失ったような切ない瞳で見つめ、私の両肩を静かに抱き寄せた。その体温だけが、今の私を繋ぎ止める。「遥……大丈夫だ。何か、俊さんには俊さんなりの理由があるはずだよ。理由もなしに、あんなふうに君を突き放すような人じゃない……」「でも…………」直人は私の言葉を遮るように、深く息を吐いた。「それにしても彼女は、なぜ今になって俊さんに近づくんだ。仮に過去のことを嘘で塗り固めて話したとしても、もう君と住吉社長は赤の他人じゃないか。もし言っていることが本当で、住吉社長と結婚する運命だったのなら、今なら何の障壁もなく結ばれるはずだ。わざわざ東宮家に踏み込んでくる必要なんてないはずなのに……」直人の指摘はもっともだった。けれど、麗華という女は、論理や合理性では測れない底なしの悪意で動いている。「きっと麗華は、私のことが憎くて、憎くてたまらないのよ。自分
遥side「このサラダ、おいしいね。無花果のドレッシングなんて珍しいけれどサッパリしていて案外合うものなんだね」直人が明るく話しかけてくるも私の耳には届かない。私の頭には麗華と一緒に車に乗り込んで去っていた光景が何度も何度も繰り返されている。(この前のカフェだけじゃなくて、今度は会社の前で堂々と会うなんて……。会社の車に乗せるのもそれほどまで麗華を信用しているという証なの?)「……遥、大丈夫?さっきの俊さんのこと、気になるよね。でも大丈夫だよ。俊さんは遥が悲しむようなことはしないよ。遥だってそう思っているでしょ?」「ええ、だけど……こんな期間を空けずに二人でいる姿を見ることなんてないから。もしかしたら、私が知らないところで頻繁に連絡をしたり会っているのかもって。それも最近ではなくもっと前から……」そう言えば麗華の就任パーティーの時も、呼ばれたのは俊と私だった。麗華の嫌がらせに反論してくれたのは直人で、俊は一言も口を出していない……考え出すとネガティブな思考が止まらない私に、直人はそっと手を重ねて優しく撫でた。「心配になるのは分かるけれど、今までの彼女の悪事を見てきたら誰も興味を持たないよ。むしろ敬遠して距離を置くはずだ。それが敢えて近づくと言うことは、それ以上の目的があるんじゃないかな?」
遥side俊と麗華の密会を目撃してから二週間が経った日のことだった。この日は夕方から会社の実績を報告する会議があり、親会社の社長である俊や役員たちに今年度の状況について説明をしていた。初めての報告会ということもあり、資料作成や説明のために先週から直人と準備に準備を重ねていた。「ふー、やっと終わったな」「ええ、役員たちからの反応もよくてほっとしたわ」会議が終わって隣に座っていた直人と小声で話をしていると、一番奥の上座の席に座っていた俊が笑顔で私たちに向かって話しかけて来てくれた。「二人ともお疲れさま。資料、良く出来ていたよ。それに実績も上場じゃないか」二人でお礼を言うと、俊は社長の顔から兄の顔へ切り替わり優しい笑みを浮かべている。「今日はこの後は予定はある?なければ食事でもどう?」「大丈夫です。予定は何もありませんので喜んで」直人が答えてから私も頷くと俊も満足したように微笑んでから「それなら六時にエントランス待ち合わせで」と言って手をひらひらと降ってから会議室を去っていった。オフィスに
遥side「なんだって? 遥……それは誰なんだ?」直人の声がこれまでにないほど低く緊迫した響きを帯びる。私は小さく息を吸い込み、ずっと胸の奥底に沈めていた呪わしい名前を口にした。「岡田……岡田は、私の養父なの」その名を呼ぶだけで、幼い頃から私を縛り付けていた冷たい鎖の感触が蘇るようだった。「普段、あの規模の財界パーティーにお供として同行するのは経験を積んだベテランの執事や家政婦の役割だったわ。だから、私が選ばれることなんて一度もなかったのよ。なのに、その日に限って、同行する予定だった人たちが体調不良や急用で全員いなくなってしまって……岡田の指示によって私が代わりに会場へ行くことになったの。それに、結婚してからも私の知らないところで、岡田は住吉から毎月多額の『仕送り』を受け取っていたのよ」「仕送り……? 一体、なんのために? 君は住吉社長と結婚して一緒に暮らしていたんだろう?なぜ養父にお金を支払う必要があるんだ」「私はずっと後になってから知らされたんだけど……。急遽、私が結婚することになって西村家の家政婦を辞めることになったから、その『迷惑料』、そして私をここまで育てたことに対する『恩義』として、毎月決まった額を仕送りとして支払うように岡田が住吉家に要求していたそうなの」
遥side走行する車のエンジン音だけが静まり返った車内に低く響いている。私は、自分の人生を狂わせた「あの日」の記憶を言葉に変えていった。「私が住吉と初めて会ったのは、ある財界が主催した大規模なパーティーだったわ。その日、私は西村家の家政婦として会場の裏方で休む間もなく働いていた。……休憩時間に手渡された一杯の飲み物を口にしたのだけれど、それからの記憶が綺麗に抜け落ちているの。……そして、次に目が覚めた時には、朝日が差し込む見覚えのないホテルのベッドの上で、隣には住吉がいたわ」「記憶がない? ……ホテルのベッド……」直人の声が、低く震えている。ハンドルを握る指が白くなるほど力が入っているのが、横目からでも分かる。険しい横顔には怒りと困惑が複雑に混ざり合っている。私は彼の返答を待たず、一気に言葉を重ねた。「ええ。住吉も私と同じようにすぐには事態を飲み込めていなかったけれど、誤解されることを避けるためにすぐにその場を去ったの。……だけど、誰かに見られたようですぐに週刊誌に記事と写真が載った。住吉商事が、その責任問題と商談への影響を最小限に抑えるために出した答えが、私との『結婚』だった。住吉は……私が名家の妻の座を奪い取るために罠に嵌めたのだと考え、私を深く憎んでいたわ」「そんなことって……。たとえ誤解だとしても、結婚までする必要があったのか? 現に、君は妊娠
遥side「遥、なんだか疲れた顔をしているけれど大丈夫? もしかして、あまり眠れなかったのかい?」朝食のテーブル。湯気の立つコーヒーを手に俊がいつもの穏やかな笑顔で私に話しかける。いつもなら特に気にすることなく返していただろう。けれど今は、何気ない会話のはずなのに、戸惑って指先がピクリと動いてしまう。「ええ、少し……。でも大丈夫よ、ありがとう」平然を装って短く答えたが、持っていたカトラリーがカチリと震えるのを必死に抑え込んだ。心の中は、昨夜見たあの『調査報告書』の文面で埋め尽くされている。今ここで口にし、「どうしてあんなものを調べていたの?」と尋ねる勇気は、私にはなかった。迎えの車に乗り込み、ぼんやりと外の景色を眺める。窓の外を流れる東京の街並みは、足早にオフィスへ向かう人々、背中を丸めて歩く老人、笑い合う学生たちと無数の日常が溢れているのに、今の私は、自分だけが透明な硝子の箱に閉じ込められたような気分だった。瞳に映るすべてが、実感を伴わない映像としてただ流れ去っていく。「遥……? どうした? なんだか、さっきから元気がないみたいだけれど」取引先への訪問のためにオフィスを出て、二人きりになると直人がそっと私の顔を覗き込んできた。俊も直人も私の変化にすぐに気が付くことに嬉しくもあり、そんなに顔に出てしまっているのかと心の中で苦笑していた。
遥side月島さんの言葉が、狭い車内の中に熱を持って留まっている。今まで恋愛に縁がなかった私でも二人が言っている『特別な関係』の意味は分かる。単なるビジネスパートナーではなく男女としての友人や知人、もしかしたら家族と同じくらい近い存在である人。(奏多は、私と月島さんが『特別な関係』だと疑っていたけれど、月島さんは本当にそうなればいいと願って
奏多side「麗華が……社長?」耳を疑うとは、まさにこのことだ。俺は椅子に深く背を預けたまま、目の前で意気揚々と胸を張る麗華と、その背後で借りてきた猫のように縮こまっている五十嵐を交互に見やった。「そうよ! 私ならSNS
遥side「……そうでしたか。お見苦しい会話を聞かせてしまって、本当にすみませんでした。それで、どこから会話を聞かれたのですか?」膝の上でバッグのストラップをギュッと握りしめながら尋ねると、月島は前を向いたまま、静かに慎重に言葉を選んで答えた。
奏多side土曜日、朝食を終えて着替えを済ませてからクローゼットの中を見渡すと、一昨日届いたばかりの新品のスーツと鞄だけが美しく並んでいた。ゆとりの感じられる風通しのいいクローゼットは、見ていてとても清々しい。「さて、神山に移動させた荷物の場所を聞いて確認するか……」階段を降りて執事の神山を探すと、電話をしている最中だった。受話器を両手で持ち、時折深く頭を下げながら対応していてまだ時間がかかりそうだ。「奏多様、いかがなさいましたか?」神山の様子を伺っていた俺に、古くからこの屋敷に仕えている家政婦の一人が声をかけてきた。「ああ。一昨日からクローゼットの整理を頼んでいたが、出した荷物が







