LOGIN遥side
玄関を開けると眩しい朝の光が差し込んできた。その光を感じながら、私は最後にもう一度だけ家の中を見渡す。私も住んでいたはずの場所なのに、自分には関係ないどこか遠い世界のもののように感じられ不思議な気分だった。
キャリーケースの車輪の転がる音が、私と過去を切り離す合図のように響いている。バッグの奥から、ずっと大事にしていた銀色のペンダントを取り出すと、陽光を受けて細い鎖が小さく輝いた。首にかけた瞬間、スマートフォンが岡田からの着信を告げ、激しく震えた。
「住吉家から今月のお金がまだ振り込まれてないぞ!何をしてるんだ!」
耳が痛くなるほどの怒鳴り声に、私は深く息を吸い込んで答えた。
「……もうお金は渡せません。奏多さんとは離婚して、もう住吉家とは何の関わりもなくなりました。」
「はあ?何だって。お前、捨てられたのか?なんてことしてくれるんだ」
岡田の声が一段と甲高くなる。
「離婚だろうが何だろうが関係ねえ!金は毎月きっちり振り込んでもらうからな!」
全身に染みついた長年の恐怖が一瞬で蘇る。私は胸元のペンダントを強く握りしめた。
(――もうこの人に縛られる人生は嫌だ。)
「もう十分払いました。もし今後も連絡をしてくるようなら、西村家に今までのことを全て話します。」
「この恩知らずが! 誰が育ててやったと思ってる!」
「……ええ、育ててもらいました。その代わり、私の給料も全部あなたの懐に入れていましたよね?結婚してからも二年間で三千万円振り込んでいる。十分に恩は返しているはずです」
岡田が叫ぶ声が聞こえてきたが、通話を切り番号を即座にブロックした。
震える指先とは裏腹に、心の中は不思議なほど静かで穏やかだった。見知らぬ街の通りを歩きながら空を見上げると、新しい生活を祝福するかのようにまぶしい太陽の光が顔に降り注いでいる。
結婚後に岡田に渡していたお金とは別に、自分の口座に貯めていたお金でマンションを買い、住吉家とは全く縁のない街で新しい生活をスタートすることにした。
まだ荷物のないこの部屋は、殺風景で真っ白だ。この余白をこれから自分で作り上げていくかと思うと少しだけ胸が弾む。奏多と住んでいた家のような広さや豪華さはないが、誰の顔色を伺うこともしなくていい生活に私の心は満たされていた。
日用品を買いに行こうと外に出ると、真昼の日差しが容赦なく私に突き刺さってくる。くらくらする暑さの中、目の前の信号が青になり一歩踏み出した瞬間――腹部に激痛が走った。
「っ……あ、ああ……!」
崩れるように膝をつき、その場に倒れこんだ。呼吸が乱れ、冷たい汗が背中を伝い落ちる。
意識が遠のく中で、腹の奥で小さな命が動いた気がした。
(――大丈夫。ママ、がんばるからね……)
そう心の中で呟いた瞬間、周囲の悲鳴が聞こえてきた。顔を上げた私の目の前に飛び込んできたのは、信号無視をして猛スピードで暴走する車。逃げなきゃと頭では分かっているのに、お腹の痛みと恐怖で足がすくんで動かない。
絶望の中、私は本能的にお腹を庇い、目をぎゅっと閉じた。
(ごめんね、赤ちゃん……)
キキキキィ―――――――ガシャン
次の瞬間、地鳴りのようなブレーキ音と何かがぶつかったような激しい音が鳴り響いた。不思議と身体の痛みはなく、焦げたゴムの匂いがしている。恐る恐る目を開けると、一台の黒いマセラティが私の目の前に停まっていた。その車が、私を守るように暴走車にぶつかり、ボディが大きく凹んでいる。
ギィ……とドアが開く音と共に逆光の中から、長身で整った顔の黒いスーツを着た男が歩み寄ってきた。男の冷たい瞳には、焦りと安堵が入り混じっているようだった。
「……大丈夫か?」
低く響くその声は、不思議なほど心に残る音色だった。助けてくれたお礼を言おうとすると視界がぐらりと揺れる。視界の奥に奏多の乗っている車と同じものが映った気がしたが、私はそのまま意識を失ってしまった。
――――次に目を覚ましたとき、私は天蓋付きのベッドの上にいた。
雲のように柔らかな感触と天井からは光を散らすクリスタルのシャンデリアにホワイトムスクの香りが部屋中に漂い、手の甲に点滴がされている。
「目が覚めた?」
静かな声が隣から響く。顔を向けると、さっきの男性がソファから立ち上がりこちらへ歩いてきた。
「ここは……どこ? それに……私の子どもは?」
私は反射的にお腹を押さえると、彼はすぐに首を横に振り、穏やかな声で言った。
「ここは僕のプライベート病院だ。心配しなくていい。子どもも無事だ。」
「……あなたは誰?」
私が尋ねると、男は愛おしそうに優しい眼差しを私にむけて、ゆっくりと口を開いた。
「僕は東宮グループの社長の東宮俊。そして、君の兄だ」
奏多sideカランカラン。表彰式が終わると、俺はネクタイを緩めてある場所へと向かっていた。扉を開けると、備え付けの小さなベルが控えめな音を立てて俺の訪問を告げる。店主は入口へ視線を向け、穏やかな眼差しを浮かべた。「住吉さん、お久しぶりですね。どうぞ、お好きな席へ」最近は仕事に追われ、すっかり足が遠のいていた会員制バー。遥と離婚したばかりの頃、俺は毎晩のようにここへ来ては入り浸っていた。何倍飲んだか分からない。あの頃の俺にとって、この店は抑えきれない感情をやり過ごすための隠れ家に過ぎなかった。「お飲み物はどうされますか? いつもと同じウイスキーのダブルで?」数年ぶりの来訪にもかかわらず、マスターは俺の好みを正確に記憶していた。時の経過を少しも感じさせないそのプロの振る舞いに、どこか救われるような心地がする。「ああ、頼む」店の雰囲気もマスターも何も変わらないはずだ。しかし、不思議なことに、以前の記憶がぼんやりとしか覚えていない。記憶にあるのは、カウンターのテーブルとメニュー表のみ。店内の内装はしっかり見渡したの
遥side「社長、やりました!」広報担当の社員が、興奮を隠しきれない様子で息を乱し小走りでオフィスへ飛び込んできた。駆け寄ってくるその表情には、明らかな達成感が浮かんでいる。「一体、どうしたの? そんなに慌てて」「ビッグニュースです! 先方から連絡がありまして、今年度のトレンド大賞において、我が社の会計システムが最優秀賞を受賞しました! 他社にも類似製品はありますが、我が社が先駆者として市場シェアを独走している点と高い操作性が評価されたようです。来月、都内で授賞式が開催されますので、是非ご出席を、とのことでした!」その瞬間、オフィス内には社員たちの歓声が響き渡った。このシステムを開発するまでの道のりは、決して平坦ではなかった。連携作業での不具合、深夜に及ぶエラー対応など幾多の困難を乗り越えてようやく形にしたものが、こうして一般の方々にも広く使われ社会に認められたのだ。その喜びは、言葉にできないほど大きかった。授賞式当日、都内の高級ホテル。三百人を収容できる広大な宴会場は、華やかな空気に包まれていた。直人と共に会場へ足を踏み入れると、報道陣やTVカメラがひしめき合い、活気に満ちている。ノミネートされるだけでも企業として大きなステータスとなるこの賞は、今後の事業展開においても極めて重要な宣伝となる。「それにしても、すごい人ね…&helli
遥side柔らかな太陽の光が差し込む朝、目が覚めてリビングに降りると執事や家政婦たちが一斉に深々と頭を下げた。「遥様、おはようございます。そして、お誕生日おめでとうございます」「みんないつもありがとう。これからもよろしくね」食卓の席に着くと、直人と花蓮が既に起きていて私を見るなりパッと表情を輝かせて「おめでとう!」と声を合わせて祝福してくれた。「遥、誕生日は本当にディナーだけでいいのかい? 欲しいものがあったら、何でも遠慮なく言ってほしいんだ。君が喜ぶものなら、世界中から取り寄せてくるよ」「そうだよママ!せっかくの誕生日なんだからパパに甘えて欲しい物を買ってもらえばいいのに」「ありがとう。……でも、いいの。こうして二人がお祝いしてくれるだけで十分幸せだもの」私がそう言って笑うと、二人は少し呆れたような、でも愉快な眼差しで目を合わせている。結婚してから三年。奏多との息苦しい結婚生活よりも長くなったけれど、今も私と直人の関係は新婚当初と変わらなかった。花蓮もこの暮らしにすっかり馴染み、いつの間にか直人のことを『パパ』と呼ぶようになっていた。直人も花蓮の良き理解者で時には私よりも心を許して直人に相談や甘えることもある。
奏多side「佐藤、午後の会議資料はこれで問題ない。参加者に送っておいてくれ。それから、別件で来月に薔薇の手配を頼む。送り先は……」言い淀むまでもなく、秘書の佐藤は全てを察したように頷いた。「遥様のところですね。住所は存じ上げておりますので、滞りなく手配いたします」俺は深く溜め息をつき、それ以上は何も言わなかった。薔薇の花束を贈るのも、今年で三回目になる。一年目は驚きに目を丸くし、理由を尋ねてきた佐藤も、今では年間行事の一つとして何も言及せずに粛々と遂行してくれるようになった。「……あれから、もう三年か」オフィスビルから街を見下ろしながら、あの河川敷での出来事を思い出す。遥と最後に会った、あの誘拐事件の日のことだ。あの時、遥は俺に対して一点の曇りもない瞳で自らの信念を突きつけてきた。俺が過去の過ちを謝罪し、本当に愛していたのはお前だけだったと募る想いで伝えても、遥の心は微塵も揺れなかった。迷う素振りなど皆無で毅然と拒絶された。「……俺がかつて麗華をあしらい、冷たく突き放したように、今度は俺が遥に拒まれるなんてな。あの時の遥の瞳には、俺の入る隙間なんて最初から一ミリも残されていなかったな……」
遥side「えっ……遥?」驚きのあまり、声も出せずにこちらを見つめる直人だったが、チャペルな扉がゆっくりと開き、私は前を向いたまま一歩、また一歩とバージンロードを踏みしめる。祝福の拍手と、参列者たちのざわめき。その中にかつて私を地獄から引き上げてくれた恩人たちの顔がある。周囲の拍手を聞き、ふいをつかれて動揺していた直人も真剣な眼差しに切りかえてゆっくりと進んでいった。参列してくれたハリー、俊、そして私のこれまでの全てを知る信頼できる友人たち。彼らは心からの笑顔で私を見守り、中にはうっすらと涙を浮かべて「おめでとう」と眼差しで語りかけてくれる人もいた。私たちの結婚式を、こんなにも多くの人が祝福してくれる。自分の人生が、決して誰かの付属品ではなく、これほど多くの人々に支えられ、愛されていたという実感が、胸の奥を熱く突き上げて感動で視界が滲む。壇上には、未来の私たちが立っている。壇上に辿り着くと、リングガールを務める花蓮が大勢の視線を一身に浴びながらも、誇らしげに胸を張って歩いてくる。彼女は小さな宝物を届けるように、慎重に私たちの元へ指輪を運んでくれた。その役目を果たし、安堵したのか壇上の脇へ戻ろうとしたその時、直人が素早く花蓮の手をそっと握り、壇上の真ん中へと促した。「……え? 直たん、花蓮はもう終わったから
遥side「遥、準備はできたかい? 開けても大丈夫かな」俊がドアをノックする音に、私は慌てて髪を整えながら返事をする。鏡に映る自分は、八年前に経験した結婚式とは別人のような穏やかな笑みを浮かべていた。「大丈夫よ。でもあと少しだけ待って……髪飾りを留めたら終わるから」ドアが開く音と同時に、仕立ての良いスーツに身を包んだ俊と、淡いピンクのドレスでおめかしした花蓮が部屋に入ってくる。二人の顔を見た瞬間、心から力が抜けていくのが分かった。「ママ、すっごく綺麗!プリンセスみたい!」「そうだね。遥、本当に綺麗だよ。直人君もすごく喜ぶんじゃないかな」ウェディングドレスを纏い、髪をアップにまとめた私を見て、花蓮は興奮気味に小さな手を叩いている。私は屈みこみ、花蓮の鼻先を軽くつついた。「プリンセスだなんて大袈裟よ……でも、ありがとう。みんなに祝福されて本当に幸せだわ」「それにしても……遥、今日はウェディングドレスを着ないのかい? 結婚パーティーなんだから、白を着ても誰も文句は言わないのに」