ログイン奏多side
「佐藤、こんなところでどうした? 何かあったのか?」
社長室の手前の廊下で秘書の佐藤が落ち着かない様子で立っているのが見えた。秘書は通常、秘書室で業務をこなし、連絡や言付けがある時のみこうして部屋や廊下の前で待機している。佐藤が、待ち構えているのは何か俺に伝えることがあるということだ。眼鏡の奥の瞳が不安げに揺れているのを見て、俺は嫌な予感を覚えた。
「…………実は、アポなしで来客がありまして。現在、社長室の前でお待ちになっています」
「アポなし? いきなり俺のところへ通さずに関係部門の責
遥side「遥さん、つきました……」屋敷の正面ロータリーにつくと、月島さんの低い声が静まり返った車内に響いた。車のエンジン音が止まると、静寂が私たちを包み込む。「ここで少し待っていていただけますか。すぐに戻ります」月島さんにそう言い残し、車を降りて屋敷に入った。月島さんにどうしても話さなければならないこと。それは、『花蓮』のことだった。月島さんの真っ直ぐな思いは純粋に嬉しかった。月島さんのような誠実な人が、私の事を心から想い、隣にいたい、支えたいと言ってくれる。そのことに、今まで感じたことのない心の温かさを感じていた。だからこそ、私も真っ直ぐに月島さんと向き合わなければならないと思った。花蓮は、私にとってかけがえのない宝物だ。花蓮の存在を隠したまま、月島さんの好意を受け止めることは出来ない。それに、花蓮に対しても母親が自分の存在を隠して恋愛に夢中になっているなんて、生涯に残るトラウマとなるだろう。また、どんな結果を招くとしてもこの子の父親のことは月島さんには話さなくてはいけない。リビングに入ると、花蓮は兄の俊の膝の上に乗り絵本を読んでもらっていた。「花蓮、良かった。起きていたのね。……ちょっと外に出てくれる? 花蓮に紹介したい人がいるの」「紹介したい人? だあれ?」
遥side新会社の始動を翌日に控え、私の日常は目まぐるしい速さで動き続けていた。登記手続き、役員人事の最終確認、そしてオフィスの設営。慌ただしいスケジュールをこなす私の横には、月島さんの姿があった。「遥さん、明日のスケジュールです。初日だけあってタイトな予定となっていますが、頑張りましょうね」差し出されるタブレットとブラックコーヒー。月島さんのサポートがなければ、私は今頃パンクしていただろう。そんな私たちを、共同出資者であるハリーはニヤニヤしながら眺めていた。その日の夜。社員が帰り、広いオフィスには私と月島さんの二人だけになった。窓の外には、東京の夜景が宝石を撒き散らしたように広がっている。「いよいよ明日ですね。……遥社長、改めてよろしくお願いします」月島さんが少し改まった様子で差し出してきた手を、私は両手で包み込んだ。その手は驚くほど温かい。「『遥社長』ですか。なんだか、くすぐったくて変な感じです。でも、こちらこそよろしくお願いしますね、月島社長」「……本当だ。『社長』とつけると不思議な感じがしますね」おどけて肩をすく
遥side来期より父が会長、俊が社長に就任し、東宮グループは私たち親子が中心となる。世間への公表をする二か月前、新しい組織と新会社設立のことを伝えるために、ハリーと月島さんに連絡をして、都内の小料理屋で会食をした。「実は、この度、東宮グループの代表が変わることになりまして、来期より私が社長に就任することになりました」俊の報告にハリーと月島さんは目を丸くして驚いていたが、すぐに祝福をし満面の笑みをみせた。「俊が社長か。それはGoodニュースだ。これから、ますます私たちと東宮グループの仕事の機会が増えるかもしれませんね」「俊さん、おめでとうございます。俊さんのような指導者がトップなら東宮グループは今後めまぐしい成長を遂げて、巨大企業になるのでしょうね」二人が祝福の言葉を投げると、俊も笑顔で答えてから真面目な顔で話を続けた。「ありがとうございます。そしてプロジェクトの件なのですが、現在、一年以内の製品化を目標に動いていますが、ちょうど就任の時期と被ってしまいそうなんです。我々としても、このプロジェクトは社運を賭けた大事なもので、絶対に成功させたい。そのためにスピード感を持って動けるように、新会社を設立しようと思っています。そして、その代表は遥が務めさせていただきます」「遥が?」
遥side「……私が、社長、ですか?」父の言葉に、耳を疑った。父と俊が私を信頼してくれて抜擢してくれることはとても嬉しいし、その期待に応えたいという想いは確かにあった。しかし、社長という言葉を聞いて即座に頭に浮かんだのは麗華のことだった。「……私は、経営経験がありません。そんな人物を会社の代表にするなんて、社員の士気を削いだり、ご迷惑にならないでしょうか……」五十嵐工業が、今どんな状況なのか私は知らない。けれど、麗華が以前のまま自分の行動を顧みないなら内部から何かしらの問題や影響が出るのではないかと危惧していた。そして、麗華のように、経営や実務を何も分からない私が、自分の器もわきまえずにその座に座れば、同じ過ちを繰り返すのではないか。そんな恐怖が、受け入れることを躊躇している。私の言葉を聞いた父は、少し意外そうな顔をした後、静かに問いかけてきた。「それは、責任の重さから逃げたくて断っているのか?」「……いえ、そうではありません。お父様たちが私を抜擢してくださったことは、大変光栄に思います。ただ、仕事というのは社員がいてこそ成り立つものです。彼らの日々の働きがあるからこそ、事業として、会社が成り立ちます。経験も実績もない私を、彼らが納得してくれるのか……。社長や専務のように『この人に付いていきたい』と思わせる器量が私
遥sideハリーの会社と東宮グループの共同プロジェクトが始動して、もうすぐ一年が経とうとしていた。現在は実務面で想定されるあらゆるトラブルの洗い出しや、現場スタッフ向けのオペレーションマニュアルの作成など、製品化に向けた最終段階の真っ只中だ。「この調子でいけば、早ければ半年、遅くとも一年後には正式な販売が開始できそうだ。みんな、今は大変な時期だと思うが、どうか力を貸してくれ」責任者である兄で専務・俊からの力強い言葉に、チームメンバーから歓声と拍手が沸きあがった。「できたらいいな」という構想段階から、検証と議論を積み重ねてなんとか「形」に変えてきたこの一年。製品化と販売時期のゴールが見えたことで、現場にはこれまでにない熱気と心地よい高揚感が漂っていた。一方の私は、月島さんと以前にも増して一緒にいる時間が長くなっていた。 プロジェクトリーダーとして、Webや対面での打ち合わせ、現場サイドの意見を伝えるためにメールや電話でやり取りなどの業務上のやり取りはもちろんのこと、仕事帰りに車で送ってもらったり、時間によっては食事に行ったりすることも増えた。いつしかハリーや俊から認められる『公認の仲』になっていた。 けれど、実際のところは、月島さんから明確な告白があったわけでも、手を繋いだり、恋人らしいことをすることもない。ただ、私の隣に月島さんがいることが自然で当たり前の風景になっているだけだった。
遥side私が、麗華の就任パーティーに出席すると言ったので月島さんまで付き合わせてしまった。忙しい時間を割いてくれた月島さんにせめてもの気持ちで、送迎は東宮家がすることにした。帰りの車のリムジンの中で私の隣に俊、そして向かい側に月島さんが座っている。窓の外を流れていく都心の夜景は、先ほどまでの悪意に満ちた視線とは無縁で煌びやかに光り輝いていた。私は膝の上で組んだ手に視線を落とし、小さく息を吐いた。「今日は、二人まで巻き込んでしまって本当に申し訳ないわ……」俊の言う通り、最初から麗華の招待など無視していれば、こんな不快な思いを二人にさせることはなかったはずだ。そう悔やんでいる私に、俊と月島さんは顔を見合わせた。「遥さんのせいではありませんよ。あのような不躾なことをした新社長の品格の問題です。むしろ、あなたの毅然とした振る舞いに会場の誰もが圧倒されていたはずです」「そうだよ、遥は何も悪くない。あそこで堂々と立ち向かた遥を誇りに思うよ。気にするkとなんて何もないさ」月島さんは考え込むように指先を顎に当てた。「しかし、あの星野麗華という人物……想像以上に癖のある厄介な人物ですね。実務経験がないこと以上に、自らの感情をコントロールできず公私混同を厭わない。彼女が五十嵐工業のトップになることは、会社にとって致命的なリ
遥sideある日の朝、書斎で資料に目を通していた私に俊が穏やかな笑みを浮かべて語りかけてきた。「遥、今度の財界のパーティーがあるのだけれど、僕と一緒に出席しないかい?」その言葉に手にしていたペンを止めた。華やかなパーティー、それは使用人として奏多と
遥side東宮俊の車で連れてこられたのは、博物館のような立派な洋館の屋敷だった。重厚な門構えの中に入ると手入れのいき届いた広大な庭が広がり、ガレージには高級車が何台も停められている。住吉家以上に豪華な佇まいに圧倒していると、玄関前に車が到着して運転手がすぐさま後部座席のドアを開けてくれた。車から降りると、私たちの
奏多side遥が俺に離婚を突きつけるなんて冗談でも考えたことがなかった。大事な話があると電話で言われた時も、電話を切った俺に秘書が慌てた様子で話しかけてきた。「社長、星野麗華様から連絡があり、お腹の具合が悪いから至急来て欲しいとのことです。」麗華を優先しても遥は何も言わずに許すだろう。先日の流産の件もあり、麗華の体調を心配してすぐに駆けつけた。「奏多、来てくれてありがとう。この前のお茶の件もあるし、不安でおかしくなりそうだった。でも、奏多がきてくれたおかげで安心したわ」「もう、身体は大丈夫なのか?」「ええ、少し横になって休めば大丈夫よ。だけど、体調が悪くなった時に誰もいないのは不安
遥side住吉商事の特別監査は、一通りの調査を終えて残すは明日の社長ヒアリングのみとなった。 今回の不祥事の主な原因は、子会社社長の五十嵐が取引先の倒産リスクを度外視し、相手企業を信頼しきって多少の入金の遅延には目を瞑り、独断で融資に近い延納を認めていたことにあった。「五十嵐社長は、義理人情を大事にするタイプだったんだろうが…