その日、聡は何度も振り返りながら歩いていった。窓の外の夜景がまるで背景のように彼を包み込み、心の中の陰を無遠慮に映し出していた。そしてその彼とすれ違うように、政宗が夜の闇から一歩ずつ光の中へと現れ、微笑みながら私を抱き寄せた。「ねえ、結婚式を挙げようか。みんなに知らせたいんだ、これからは絶対に離れないって」彼の興奮した様子に、私は笑みを浮かべてうなずいた。「ええ、全部あなたに任せるわ」私たちは式の形を語り合った。誰一人、聡の足取りがふらついていることには気づかなかった。まるで私たちの言葉が、彼に大きな傷を刻んでいくかのように。けれど、たとえ気づいたとしても、私はもう気にすることはなかった。政宗が傍にいるなら、わざわざホテルを変える必要もない。二人で部屋に入り、扉を閉め、無数の灯火の中に一つの灯りをともした。その外では、聡が夜闇と完全に溶け合っていた。聡は約束どおり、それ以上私の前に現れることはなかった。そして私と政宗の結婚式当日。私は不思議な贈り物を受け取った。中には美しい数珠が入っていて、署名はなく、ただ数行の言葉が残されていた。【恵理、俺は触れてない。きれいなままだから】それが彼から届いた最後の便りだった。噂によれば、彼は悔いを示すために遥か遠い国へ渡り、修行に身を投じたらしい。その後どうなったのか、誰も知らない。あるいは、若き日の衝動を今も悔い続けているのかもしれない。
私は動画の最後まで目を通した。聡の父がカメラに深々と一礼している。「宮坂さん、聡はもう過ちに気づきました。どうかご懇情をお収めになり、内藤家をお許しください」私は閉じるボタンを押し、彼らの長々しい言い訳にもう耳を傾ける気はなくした。解決の条件はすでに提示してある。聡が二度と私に会わなければ、私は手を引く。だが彼らはこんな手段でしか許しを得ようとしない。まるで内藤家の側が追い詰められた被害者であるかのように振る舞う。ピッ。エレベーターの扉が開いた。私はスマホをしまい、内藤家のことにはこれ以上関わらないつもりでいた。ホテルの扉を押して中へ入ると、水の音が聞こえた。後ずさる間もなく、浴室から聡が出てきた。全身に巻いたのはただ一枚のタオルだけだった。白い肌が湯で淡く赤らみ、水滴が肌を伝って落ちる。濡れた黒髪が額に張り付き、なお一層切なげに見える。彼は私の前に跪き、自分を丸ごとさらけ出す。「恵理、俺は間違ってた。本当にお前を愛しているだけで、どう伝えればいいか分からなかった。もう一度だけチャンスをくれないか。洗った。ちゃんと綺麗にした。もう汚れてない」彼は仰ぎ見て、懇願のまなざしを私に向ける。私は驚いてその光景を見つめる。まさかこんな方法で再び現れるとは思わなかった。だがすぐに冷静さを取り戻す。彼の体を視線で確かめていき、全身が淡く紅に染まるまで見つめ続ける。彼は私を見る目が期待に変わった。彼は私が心を動かしたと勘違いした。だが実に私は考えていた。あの子供の頃、私の後をついて「姉さん」と呼んでいた男の子が、なぜこんなにも堕ちてしまったのかと。「聡、浮気したその日から、あなたはずっと汚れている。汚れは、洗っても落ちない」私は視線を引き、彼を一瞥もしないで背を向ける。ヒールの音が床を打ち、彼の全ての勢いを奪っていくようだ。彼は呆然と私の後ろ姿を見つめ、言いたいことがあるようだったが、最後には嗄れ声で私を呼び止める。「恵理、あなたの目には、柿沼みたいな人だけが綺麗に見えるのか」私は足を止め、細めた目で振り返る。彼は急いで立ち上がり、必死の様子だ。「ただ一言言ってくれたら、俺は二度と煩わせない」政宗は幼い頃から私以外の女性と深く関わることがほとんどない。
あの日、聡はボディーガードに引きずられて連れて行かれ、道中で泣き喚きながら自分が間違っていたと叫んでいた。政宗の反撃は私の想像より遥かに早かった。三か月も経たないうちに、内藤家の者たちが私の前に頭を下げに来る。聡の母は内藤お祖父様の遺影を抱きしめ、声を震わせながら私にすがる。「恵理、内藤家はあなたに恩がない。むしろあなたには随分と助けられた。でも、お祖父様の面目を立てて、どうか許してください」私は遺影の中の内藤お祖父様を見つめる。彼も自分の死がこんな騒ぎになるとは思わなかっただろう。「おばさん、内藤家のことは墓前の監視映像を見れば分かります。長年の縁を考えれば、本来は追求するつもりはなかったんです。しかし聡が『内藤家が倒産しなければ手放せない』とおっしゃいました。私が直接手を下さなかったことは、親情を汲んでいるからです」私がそう言い終えると、聡の母は顔色を失って立ち尽くす。墓地での、聡が私に強要した監視映像のことを、彼らは既に知っていた。おそらく、聡がわざわざ追いかけてきて、そんな言葉を口にするとは思ってもみなかった。彼女は茫然自失のまま立ち去った。数日後、内藤家から動画が送られてくる。桜がベッドに縛られ、無理やり中絶させられている映像だった。画面の中で桜は必死に抵抗し、「聡くんに会わせて」と叫び続ける。通話を受け取った聡の父が画面に入ってくる。表情は陰鬱で、電話を桜の手に押し付ける。電波の向こうで聡の苛立った声が聞こえる。「父さん、いったい何だ」その声を聞いた桜は救いの手が差しのべられたかのように飛びつき、震える手で電話を握る。「聡くん、私だよ、桜よ。助けて、彼らが私を殺そうとしている、助けて」彼女は涙で声を震わせるが、通話は途切れた。桜は唖然とし、次に無理に笑みを作って言う。「聡くんがきっと私を見捨てるはずがない。もう一度掛けさせて。お腹の中には内藤家の子供がいるんだから!彼は私のことが一番好きだって言ってた、見捨てるなんてありえない」だが、周囲は沈黙し、カメラだけがその様子を映している。再び通話がつながると、桜は必死に電話を握る。「聡くん、お願い、助けて。私、お腹にあなたの子がいるの。あなたは脚が長くて腰が細いのが好きだって言ったでしょ。あの女じゃ満
三日後。私は自宅の門前で聡に詰め寄られていた。彼は私の想像以上に執着深い。住所を割り出して夜通し京市へ飛び、徹夜で私の家の前に張り込んでいたらしい。顔にはくっきりとしたクマがあり、陰鬱そのものだ。「恵理、俺のこと愛してるって言ったじゃないか。どうしてもう一度チャンスをくれないんだ」彼は立ち上がる私を見つめ、執拗さと恨みの混ざった口調で言う。私は眉を寄せ、上から下まで彼を一瞥した。「中に入って話しなさい」私は扉を開ける。だが彼はそこで立ち尽くし、何度も同じ問いを繰り返す。どうしてもう一度チャンスをくれないのか、と。私は足を止め、静かに彼を見下ろす。「どんなチャンスが欲しいの?この何年か、私は十分すぎるほどチャンスを与えてきたんじゃないの?」彼が最初の女の子を家に連れてきたとき、私は「きれい好きな男が好きだ」と伝えた。それでも彼はその女を手放した。その夜、私は彼のために食卓いっぱいの料理を作った。彼はモデルの写真を抱いて地元のニュースに出た。その情報を抑えるのは私だった。私は何度も折れて説明の機会を与えた。私は一歩ずつ譲歩し、それが彼の図々しさを助長した。さらに彼は離婚届を何度も私の前に投げつけるようにもなった。この三年、私は彼が差し出した数え切れない離婚届を拒み続けた。それでもまだ足りないというのなら、いったい何がチャンスなのか。聡は構わず私の目の前に来て、目に溜まった涙を堪えながら訴えるように言う。「そんなことはない、全部俺が無理やりやらせたんだ。お前が離婚できなかったからだ。お前は本気でチャンスをくれてなんかない」彼はわざと声を低くして、語尾をのばしながら言った。私は子犬みたいなその甘えた様子に弱い。かつて彼が私を怒らせるたび、あの仕草で許しを乞うた。あの頃の懐かしい演技に、私はつい溜め息をつく。もし彼があの態度で私を騙さなければ、私は彼と結婚することなど決してなかっただろう。「聡、幼い頃みたいに慰めてほしいの?」彼の目の中の涙は一瞬で期待に変わる。私は手を上げ、強く平手をくらわせた。力は強く、彼は顔を横に向け、信じられないという表情で私を見る。「聡、外の女たちにいい思いをさせすぎたんじゃないの?それで私がどういう人間だったか忘れてしまったの?」
その日から、私は携帯番号も連絡先もすべて変え、宮坂家の令嬢として、本来の世界へ戻った。二週間ほど経った頃、聡が突如ネットに私の写真を大量に投稿し、ネットで妻を探す騒ぎを始めた。彼はカメラの前で私に向かって謝罪する。もともと整った顔立ちは、哀れっぽい表情によってさらに注目を集める。【クソ男だけど、そこまでするのが本当に胸を打つよね】【聡の奥さん、旦那さんが追いかけてるよ】【いいなあ、こんな弟がいたら共有でもいいわ】ネットのコメントはどんどん過熱していき、私のこめかみはずきずきした。聡の狙いは分かっている。私の心を揺さぶって戻らせたいのだ。しかし彼が浮気したその日を境に、私たちの間にはもう何も残っていない。それでも彼の謝罪パフォーマンスはエスカレートしていった。日に日に痩せていき、歴代の彼女たちをひとりずつ引き合いに出し、彼女たちの中に私の影を探し出す。「恵理、俺が悪かった。罰するならどんな罰でも受ける。ただ一度でいい、愛してると言ってほしい。俺はそんなに疑ってはいけなかった。一目だけでいいから戻ってきてくれ。もう多くは望まない」彼はカメラの前に跪き、ひと言ひと言が配信の視聴者を湧かせる。見ている人々はこぞって私に許しを求める声を上げる。私は彼に電話して見せしめをやめさせようかと考え始めた。その瞬間、配信画面が突然きらめき、「宮坂恵理が柿沼政宗と結婚」というコメントが流れた。柿沼家の公式アカウントがコメントで「内藤さん、人の奥さんに向かって『妻』と呼ぶのはまずくないか」と書き込む。ネット民がすぐに柿沼家の公式サイトから婚姻届の写真を掘り出し、話は一気に大逆転する。聡は発狂し、「あり得ない、絶対にあり得ない」と叫び、画面に向かって怒鳴る。「恵理は俺の妻だ、これは重婚だ」証明を出そうとするが見つからない。結婚後の書類は内藤家に預けてあったのだが、彼自身がそれを忘れている。彼は配信の中で獅子のように別荘をめちゃくちゃにした。最後は視聴者に婚姻状態を公式で確認するよう促される。結果が出たとき、彼はまるで命を抜かれたかのようにその場に座り込む。画面には「離婚済み」の文字がはっきりと出ていた。その時、彼はやっと私が先日口にした「通知」の意味を理解したらしい。配
私は振り向き、政宗の車に乗り込んだ。聡の言い訳を一言も聞くつもりはない。「本当に、もう一度彼にチャンスを与えるつもりはないのか?」車内で、政宗は慎重に探るように尋ねる。彼はすでにスーツに着替えていて、手首には数珠が巻かれている。かつての雰囲気とは違い、今は抑えきれない禁欲さが増している。私は彼の襟をつかみ、顔を近づけるように引き寄せる。「私にもう一度彼を許してほしいって、あなたは望んでるの?」政宗ははっきりと荒い息をつき、私を見つめ、しばらくして薄い唇からやっと絞り出す。「望まない」「恵理さん、この何年、僕がどれだけ想っていたか、わかってるか?」声はだんだん掠れてきて、私が引っ張った力で、彼は私をコーナーに追い詰める。距離はどんどん縮まり、肌同士が触れ合うまで迫る。運転手がタイミングよく仕切り板を上げる。車内の空気は一瞬で薄くなる。彼は私の腰を抱き寄せ、全身を震わせながら囁く。「恵理さん、キスしてもいいか」先ほどまで拒絶するように冷たかった声が、今は震えていて、情けなくも愛おしい。「政宗」私は彼の名前をそっと呼び、後頭部を引き寄せて強く抱きしめ、唇を重ねた。彼は一瞬こわばったが、まるで何か抑えを外されたかのように私をぎゅっと抱きしめ、まるで酸素を奪い取るかの勢いだ。そのとき、スマホの着信音が鳴り出す。あの着信音は、聡のために私が特別に設定したものだ。彼が子供だった頃、着信音を設定しないと地団駄を踏んで騒いでいたから。政宗もそれを知っていて、体を起こし、私の服の内側からスマホを取り出す。声は低く、誘惑的だ。「恵理さん、面白いことをしよう」ボタンが押されると、聡の声が向こうから漏れる。「なんで電話に出ないんだ?政宗と何してるんだ?前はこんなことなかっただろう!」彼の声は次第に被害者ぶって切なげになる。だが私は口を開く余裕がない。政宗のキスは激しく、スマホを遠ざけながらも私をひたすら挑発する。熱い吐息がスマホを通じて伝わっていく。聡は一瞬言葉を切り、続けて椅子の音が聞こえる。「おまえら何してるんだ?恵理?そいつと一緒にいるとそんなに嬉しいのか?俺には触れもしないくせに」彼の崩れ落ちるような叫び声が、私たちの情事の音楽になる。政宗の従順さとワイルドさが同居した