LOGIN私に危篤の知らせが届いたあの午後、神山時矢(かみやま ときや)は研究室でシャンパンを開けた。 SNSには、夕陽を浴びる彼と京本玲奈(きょうもと れいな)の後ろ姿が映っていた。 白衣は金色に染まり、添えられた文はたった一行——【十年。ようやく、成功した】 誰もが口をそろえて言った。神山教授は一途な人だ。私を救うために十年間、眠る間も惜しんで研究を続けたのだと。 看護師が涙ぐみながらスマホを差し出したとき、私はモニターの上で波打つ心拍の線をただ見つめていた。 彼らは知らない。その薬は、一年前にはすでに完成していたということを。 そして私は——その薬を使う資格のない、ただ一人の候補者だった。
View More一か月後、裁判が開かれた。桜は出廷しなかった。彼女はすべてを松野弁護士に一任していた。法廷には、すべての証拠が並べられていた。時矢は何も反論できなかった。「被告・神山時矢——被後見人の医療資金を私的に流用し、その金額は多額にのぼり、病状の悪化を招いた結果、情状は極めて重大である」裁判官の声が響く。「よって、被告・神山時矢を懲役三年、執行猶予五年とする。また、原告に対し、経済的損害および精神的損害として三億円の賠償を命ずる」「被告・京本玲奈——患者の薬剤を無断で差し替え、深刻な結果をもたらしたため、懲役七年、医師免許を永久に剥奪する」「認めません!認めません!全部、神山先生の指示だったんです!」玲奈は法廷で泣き叫んだ。時矢は彼女を見つめた。その瞳には、もはや何の感情もなかった。——かつて信じ、かばい、守ろうとさえした女。今思えば滑稽だった。判決が言い渡されたあと、時矢は傍聴席を見渡した。——桜の姿を探して。だが、そこは空っぽだった。彼女は、最初から来ていなかった。そこへ松野弁護士が近づき、一つの封筒を差し出した。「神山さん。佐久間さんから預かっています」封を開けると、中には小切手と手紙が入っていた。小切手の金額は1000万円——ちょうど、時矢が十年間で桜に使った医療費とほぼ同じ額だった。手紙は短かった。【時矢——この1000万円は、あなたが十年間で私に使ったお金。返します。これで私たちの関係は終わりです。佐久間桜より】——終わり。たった三文字が、鋭い刃のように心臓を貫いた。二年後。私は完全に回復していた。父が遺した会社も、再び自分の手に取り戻した。走ることも、旅をすることも、普通の人と同じように、何でもできるようになった。「桜さん、今日は特別な日だよ」望が笑いながら言った。「特別な日?」「君が回復して、一年の記念日だよ」彼は花束を差し出しながら言った。「おめでとう。新しい人生の始まりに」私は花を受け取り、目頭が熱くなった。「ありがとう、望くん。この一年、そばにいてくれて本当にありがとう」「バカだね。言っただろ。待つって」彼の声は優しくて、あたたかかった。「もう一度聞くよ。僕にチャンスをくれるかな?」私は
時矢は自宅に戻り、初めてじっくりとこの川沿いの別荘を見つめた。——桜の両親が残した金で、自分が買った家を。フランス風の内装。天井にはクリスタルのシャンデリア。大きな窓の向こうには、きらめく夜の川の景色。彼は寝室へ入り、クローゼットを開いた。中には玲奈の服が掛かり、高級ブランドのバッグが一面に並んでいた。吐き気が込み上げ、胸の奥が焼けるように痛んだ。彼はそれらをすべて掴み、玄関へ運び出して放り投げた。一つ残らず。「せ、先生?何してるんですか?」ドアの外から玲奈の声がした。この数日、彼女はずっと身を隠していた。時矢が病院に行っていないと知って、ようやく戻ってきたのだ。「出て行け!」時矢の声は氷のように冷たかった。「せ、先生……」「出て行けと言ってる!」怒号が部屋に響く。「今この瞬間から、二度とこの家に入るな!」玲奈の顔が真っ青になった。「先生、そんな!私がどれだけ尽くしてきたか、忘れたんですか?」「尽くした?」時矢は冷笑した。「桜の薬をすり替え、治療を遅らせたことか?」「自分だけは潔白だと思ってるの?」玲奈の表情が歪み、そして笑った。爪が彼の手首に食い込む。「薬をすり替えてた時、カルテはいつもあんたの机の上に開いてたわ!データが素晴らしいって褒めた時、その下に桜の報告書があったの、見えなかったの?今さら何を被害者ぶってるの?」「やめろ!」時矢は彼女の腕をつかみ、玄関まで引きずった。「——出て行け!」玲奈の体が外に弾き出され、ドアが激しく閉まった。夜更け。時矢は桜の部屋の扉を開けた。——彼女のために作った部屋。しかし、彼女が一度もここに泊まったことはなかった。部屋には彼女の服、彼女の本、そして——彼女が描いた絵があった。机の上に積まれたスケッチブックをめくる。そこには何枚も何枚も、自分の顔が描かれていた。仕事に没頭する横顔。微笑むときの柔らかな表情。眉をひそめるときの真剣な眼差し。どの一枚も驚くほど丁寧で、温かかった。最後の一枚をめくると、眠っている自分の絵の隅に、小さな文字が書かれていた。「時矢、疲れたら少し休んで。私はずっと待ってる——桜」翌朝。時矢は京市第一病院の門の前に立っていた。無精ひげを伸ばし、
そのニュースは、すぐに医学界全体を駆け巡った。「聞いた?神山時矢、訴えられたって」「えっ、あの賞を取った天才の?」「天才?笑わせるわ。婚約者に十年間プラセボを飲ませて、対照データを集めてたんだって!」「そんなの、人間のすることじゃない!」医学会はすぐに調査を開始した。「神山教授、説明してもらえますか?」調査室で、専門委員の声が冷たく響いた。時矢は調査室の椅子に座り込み、やつれきった顔をしていた。「わ、私は……あの時、こう考えていました。まず完全な対照データを集めてから、新薬が完成した時点で——彼女に使おうと……」「つまり、十年間も佐久間さんにプラセボを与えていたと?」専門委員の声は鋭かった。「それが何を意味するのか、お分かりですか?佐久間さんは本来なら回復できた病を、あなたのせいで重症化させられたということです。この十年間の苦しみはすべて無駄だったんですよ。神山教授、あなたは医師でありながら、患者を実験体として扱った。医学倫理に対して、恥ずかしくないのですか?」時矢は何も答えられなかった。十年間、桜がどんな日々を過ごしていたのか——思い出すことさえ、恐ろしかった。「もう一つ、確認したいことがあります」別の専門委員が資料を開く。「佐久間さんの一部の投薬記録と、実際の検査結果に食い違いが見つかりました。たとえばカルテには栄養注射液と書かれていますが、検査では中身はただのブドウ糖注射液でした。これらの記録には——京本玲奈医師の署名があります」「……京本玲奈?」時矢が顔を上げる。「はい。薬の差し替えがあったと見ています。これは重大な医療事故です。徹底的に調査します」専門委員の一人が厳しい声で言った。時矢の頭の中で、何かが崩れ落ちた。玲奈がこの数年、いつも自ら志願して桜の投薬を担当していたことを思い出す。彼女の言葉が耳の奥で蘇る——「先生、桜さんのデータはとても参考になります。もう少し観察を続けたほうがいいかと」調査の結果はすぐに公表された。医学会の処分は明確だった。——神山教授、一年間の医師免許停止。すべての学術的栄誉を剥奪し、関連論文は再審査のうえ撤回。——京本玲奈、医師免許剥奪。司法機関に送致。このニュースは瞬く間に医学界を駆け巡った。
時矢がスイスのホテルでその電話を受けたとき、窓の外では雪が降っていた。「神山教授、佐久間さんが……いなくなりました!」焦った看護師の声が電話越しに響いた。彼は翌日の講演用のスライドを整理していた手を止めた。「……いなくなった?どういう意味だ?」「三日前に退院の手続きを……私たちはご自宅で療養されていると思っていたんですが、今日、赤井先生が病室を確認したところ、荷物も全部なくなっていて……」時矢は立ち上がり、手にしていたノートパソコンが床に落ちて激しい音を立てた。「彼女の身体で退院だと?ありえない!」「私たちにも分かりません……教授、どうか早く戻ってきてください!」通話が切れるや否や、彼は最短の便を予約した。十数時間のフライトのあいだ、一睡もできなかった。頭の中には、あの弱々しい佐久間桜(さくま さくら)の姿しか浮かばない。——どこへ行った?——この身体で、医療の支えなしにどれだけ持つ?空港に着くと同時に、彼は真っすぐ病院へ向かった。病室は驚くほど空っぽだった。ベッドサイドのテーブルの上に、ひとつの茶色い封筒だけが残っていた。震える手で開けると、まず一枚の名刺が滑り落ちた。松野文哉(まつのふみや)——弁護士。その下には、太い黒字で書かれた2つの文字。「訴状」添えられた証拠ファイルはまるでレンガのように厚かった。別荘の購入資金が赤線でマークされた財務記録、「ビタミンC」と記された薬剤検査報告、そして三年前、彼自身の署名がある「対照群」文書——「先生」ヒールの音を響かせて、玲奈が入ってきた。「だから言ったじゃないですか、あの人——」「黙れ!君が何を言ったんだな!」玲奈の顔がこわばる。「せ、先生、私は……」「出て行け!」その一言は、これまでで最も荒々しかった。——三日後。松野弁護士から、研究室に直接電話が入った。「神山教授、私は佐久間桜さんの代理人です」「説明してもらえますか。なぜ佐久間さんの監護口座にあった2億円の資金が、十年でわずか956万円しか残っていないんですか?」「それは……すべて新薬の研究に使ったんです。彼女を救うための——」「新薬の開発のためなら、患者の命を救うための金を流用してもいいとでも?」松野弁護士の声が冷たく遮
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