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絶望から生まれ変わった彼女

絶望から生まれ変わった彼女

By:  白い森の王Kumpleto
Language: Japanese
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私に危篤の知らせが届いたあの午後、神山時矢(かみやま ときや)は研究室でシャンパンを開けた。 SNSには、夕陽を浴びる彼と京本玲奈(きょうもと れいな)の後ろ姿が映っていた。 白衣は金色に染まり、添えられた文はたった一行——【十年。ようやく、成功した】 誰もが口をそろえて言った。神山教授は一途な人だ。私を救うために十年間、眠る間も惜しんで研究を続けたのだと。 看護師が涙ぐみながらスマホを差し出したとき、私はモニターの上で波打つ心拍の線をただ見つめていた。 彼らは知らない。その薬は、一年前にはすでに完成していたということを。 そして私は——その薬を使う資格のない、ただ一人の候補者だった。

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Kabanata 1

第1話

私に危篤の知らせが届いたあの午後、神山時矢(かみやま ときや)は研究室でシャンパンを開けた。

SNSには、夕陽を浴びる彼と京本玲奈(きょうもと れいな)の後ろ姿が映っていた。

白衣は金色に染まり、添えられた文はたった一行——【十年。ようやく、成功した】

誰もが口をそろえて言った。神山教授は一途な人だ。私を救うために十年間、眠る間も惜しんで研究を続けたのだと。

看護師が涙ぐみながらスマホを差し出したとき、私はモニターの上で波打つ心拍の線をただ見つめていた。

彼らは知らない。その薬は、一年前にはすでに完成していたということを。

そして私は——その薬を使う資格のない、ただ一人の候補者だった。

……

深夜、時矢はようやく病院に現れた。

全身に酒の匂いをまとい、白衣には女の香水の香りが残っていた。

「桜、気分はどうだ?」

私は彼を見つめ、静かに問う。

「時矢、その薬、いつになったら私にも使わせてくれるの?」

彼は眉をひそめた。

「玲奈が言ってた。今使ったら生存率は三十パーセントしかない。危険すぎる」

「先月、横峯社長の娘さんが使ったときは生存率どれくらいだったの?」

時矢は一瞬、言葉を詰まらせた。

「彼女はまだステージⅢだった。君とは違う」

「彼女は六億円の研究資金を寄付したよね」

私は彼を見据える。

「それが違うところなの?」

彼の表情が曇る。

「桜、まさか、俺のことをそんなふうに見ていたとはな……俺がこの薬を研究してきたのは君のためなんだぞ」

正義を振りかざすようなその顔を見て、私は思わず笑ってしまった。

「時矢、この病気がどうして私に起きたのか、覚えてる?」

十年前——彼の研究室が爆発した。

私は火の中に飛び込み、彼を引きずり出した。そのとき吸い込んだ化学ガスがすべての始まりだった。

診断書にはこう記されていた。「急性化学性肺障害。後期線維化は不可逆性」と。

あのとき彼は病室のベッドのそばで跪き、誓った。

「桜、俺が必ず君を治してみせる」

彼が何か言おうと口を開いた瞬間、スマホが鳴った。

画面には——京本玲奈。

「先生、研究室の明かりが切れちゃって……ちょっと怖いんです。来てくれませんか?」

泣きそうな甘い声だった。

時矢はすぐに立ち上がった。

「怖がるな、すぐ行く」

私は彼の白衣の裾をつかむ。「時矢、まだ話の途中なの……」

「また今度にしよう。玲奈は一人なんだ、心配で放っておけない」

彼は私の手を振りほどき、振り返りもせずに去っていった。

——時矢が出て行ったあと、私は介護士に頼んで例の富豪の娘のことを調べてもらった。

やはり、彼女が使ったのは時矢の新薬だった。

三ヶ月経った今、病状は安定し、もう普通の生活ができるという。

一方の私は、すでに三度目の危篤通知を受け取っていた。

翌日、私は壊れかけた身体を引きずり、こっそり彼の研究室へ向かった。

扉の外に立つと、中から玲奈の声が聞こえてきた。

「先生、この新しい薬、青森社長の娘さんに回してあげましょうよ。10億追加で投資してくれるそうですよ」

中はしばらく静まり返り、やがて時矢の穏やかな声が聞こえた。それはもう長い間私が耳にしていなかった、柔らかな声だった。

「玲奈、君が研究室のことを思って言ってくれてるのはわかる。でも……」

「でも、何なんですか?」

玲奈が遮る。声にはわずかな涙の色が混じっていた。「先生、こんなこと言いたくないけど……桜さんの病気って、本当にそんなに重いんですか?

毎回の危篤って、先生が一番忙しいときばかりですよね。この前の国際会議のときもICUに入って……今回は成功祝いの日にまた危篤通知……偶然にしては出来すぎてません?」

彼女は小さくため息をつく。

「先生は桜さんのためにあまりにも犠牲を払いすぎました。でも、今回の青森社長の投資は研究室の未来に関わるんです。もうこれ以上、桜さんに……引きずられないでください」

時矢はしばらくのあいだ言葉を失っていた。

私は息を呑み、その答えを待った。

「……君の言うとおりだな」彼はようやく口を開いた。「もしかしたら、俺はあいつに甘すぎたのかもしれない……いい、君の言う通りにしよう。この新しい薬は青森社長の娘に回してくれ」

その声は冷たく変わっていた。

「どうせ桜の病状だって、彼女が言うほど切迫してはいないだろう」

——何度も生と死の狭間でもがいたあの日々が、彼の目にはすべてわざとに見えていたのだ。

私は扉を押し開けた。中の空気が一瞬で凍りつく。

驚いたように時矢の腕へ身を寄せた玲奈。そして、反射的に彼女を庇うよう半歩前に出る時矢。

時矢の表情がわずかにこわばった。

「桜?どうしてここに?そんな身体で歩き回って、いったい何を考えてるんだ?」
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第1話
私に危篤の知らせが届いたあの午後、神山時矢(かみやま ときや)は研究室でシャンパンを開けた。SNSには、夕陽を浴びる彼と京本玲奈(きょうもと れいな)の後ろ姿が映っていた。白衣は金色に染まり、添えられた文はたった一行——【十年。ようやく、成功した】誰もが口をそろえて言った。神山教授は一途な人だ。私を救うために十年間、眠る間も惜しんで研究を続けたのだと。看護師が涙ぐみながらスマホを差し出したとき、私はモニターの上で波打つ心拍の線をただ見つめていた。彼らは知らない。その薬は、一年前にはすでに完成していたということを。そして私は——その薬を使う資格のない、ただ一人の候補者だった。……深夜、時矢はようやく病院に現れた。全身に酒の匂いをまとい、白衣には女の香水の香りが残っていた。「桜、気分はどうだ?」私は彼を見つめ、静かに問う。「時矢、その薬、いつになったら私にも使わせてくれるの?」彼は眉をひそめた。「玲奈が言ってた。今使ったら生存率は三十パーセントしかない。危険すぎる」「先月、横峯社長の娘さんが使ったときは生存率どれくらいだったの?」時矢は一瞬、言葉を詰まらせた。「彼女はまだステージⅢだった。君とは違う」「彼女は六億円の研究資金を寄付したよね」私は彼を見据える。「それが違うところなの?」彼の表情が曇る。「桜、まさか、俺のことをそんなふうに見ていたとはな……俺がこの薬を研究してきたのは君のためなんだぞ」正義を振りかざすようなその顔を見て、私は思わず笑ってしまった。「時矢、この病気がどうして私に起きたのか、覚えてる?」十年前——彼の研究室が爆発した。私は火の中に飛び込み、彼を引きずり出した。そのとき吸い込んだ化学ガスがすべての始まりだった。診断書にはこう記されていた。「急性化学性肺障害。後期線維化は不可逆性」と。あのとき彼は病室のベッドのそばで跪き、誓った。「桜、俺が必ず君を治してみせる」彼が何か言おうと口を開いた瞬間、スマホが鳴った。画面には——京本玲奈。「先生、研究室の明かりが切れちゃって……ちょっと怖いんです。来てくれませんか?」泣きそうな甘い声だった。時矢はすぐに立ち上がった。「怖がるな、すぐ行く」私は彼の白衣の裾をつかむ。「時
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第2話
「私が来なかったら——」かすれた声で、それでも彼を射抜くように睨みつけた。「私は自分がどうやって死ぬのかさえ、知らないままだったのね」彼の背後から玲奈が顔を出した。心配そうな口調で、しかし視線は揺れている。「桜さん、どうしてベッドを出たんですか?医者が安静にって——」「安静?」私は冷たく笑った。「あなたたちが、私の命の薬を他の人に渡すのを待ちながら?」時矢の顔が完全に曇る。「桜!その態度はなんだ!玲奈は君を心配して——」「心配?」私は玲奈を指さした。「私の薬を他人に回せって言うのが心配なの?それとも、私が仮病してるって言いたいのが心配なの?」「そんなこと言ってません……」玲奈はすぐに目を潤ませ、時矢を見上げた。「先生、私はただ……先生が疲れすぎてるんじゃないかと思って……」その様子を見て、時矢の声はさらに冷たくなる。「桜、自分の今の姿を見てみろ。疑って、責めて……見苦しいぞ。玲奈はずっと君のことを思ってる。それをそんなふうに悪く取るなんて!」私は耳を疑った。「見苦しい?時矢、ベッドで死を待ってるのは私!薬がもらえないのも私よ!」「もういい!」彼は怒鳴った。「今ここで倒れたら、俺が昔みたいにすべてを投げ出して付き添うとでも思ってるのか?」彼は一歩踏み出し、怒気をはらんだ目で私を睨みつけた。「桜、その茶番、いつまで続ける気だ!」全身が震え、立っているのもやっとだった。「私の危篤が……茶番だと思ってるの?」玲奈がそっと彼の腕を取って、柔らかく言う。「先生、やめましょう……桜さん、きっと怖くなってるだけです……」「怖いんじゃない、こいつは——自分勝手なんだ!」時矢はまるで抑えていたものを吐き出すように叫んだ。「十年前、俺がいなかったら、君はもう死んでたんだぞ!今生きてることに感謝しろ!もうこれ以上、自分だけを考えるな!ようやく研究が形になって、玲奈が投資家を見つけてくれたんだ。それなのに君は自分のことしか考えてない!」彼は玲奈の肩を抱き寄せ、まるで宣言するように言った。「玲奈がずっとそばで支えてくれなかったら、俺はとっくに潰れてた!君はどうだ?病気を盾に、俺を縛ることしかしてこなかったじゃないか!」私は二人を見つめた。見慣れたはずの
Magbasa pa
第3話
激しい感情の波がその夜、再び私を危篤に追い込んだ。呼吸は荒くなり、血中酸素はどんどん下がっていく。人工呼吸器を使う寸前だった。ずっと私を看てくれていた看護師長の佐藤(さとう)は涙ぐみながら薬を打ち、背中を優しく叩いてくれた。「桜、しっかりして。頑張るのよ。神山教授はもう成功したんでしょう?昨日ニュースで見たの、あの新薬が奇跡を起こしたって……」そう言いながら、彼女の声は震えた。「覚えてる?あんたが倒れたばかりの頃、神山教授がどれだけ大事にしてたか。夜通しベッドのそばにいて、『桜、怖がるな。俺が必ず助ける』って手を握ってたのよ……ようやく成功したんだから、もうすぐ楽になるはずよ」私はその言葉を聞きながら、唇の端をわずかに歪めた。少し落ち着いたあと、佐藤が湯を汲みに出ていった。病室には私ひとりだけが残された。そのとき、扉の向こうに玲奈の姿が現れた。手には小さな薬箱を持ち、眩しいほどの笑みを浮かべていた。「桜さん、見て?これ、先生が開発した新薬よ」彼女はわざと薬箱を私の目の前で揺らし、すぐに引っ込めた。「でもね……この薬、とても高いの。一本1000万円もするのよ。桜さん、今は入院費も払えてないんでしょ?たぶん、使えないわね」私は息を整え、かすれ声で言った。「……両親が残した医療基金がある」「あの二億円のこと?」玲奈はふっと笑った。「桜さん、まだ知らないんだ?」彼女はベッドに近づき、見下ろすように私を見つめた。「そのお金、もうとっくに先生が使い切っちゃったの」「嘘よ!」私は上体を起こそうとして、身体が震えた。「嘘?」彼女はスマホを取り出し、一枚の写真を私の前に投げた。財務報告書の画像——資金の出所と使途がはっきり記されていた。「見て。先生はそのお金で研究室を建てて、川沿いの別荘を買って、高級車を乗り回してるの」「それからね……」と彼女は笑って指差した。「この生活費の欄、私のよ。全部で二千万円以上になってるわ」全身の血の気が引いた。震える指先でその報告書をなぞる。——私に使われた医療費の欄はあまりにも少なかった。「ねえ、どうして桜さんの病気がこの十年間、少しも良くならずに、むしろ悪化していったか……分かる?」玲奈は顔を近づけ、一言ずつ区切るように囁いた。
Magbasa pa
第4話
「何でも手伝うわ」佐藤はそう言った。「じゃあ……一人、連絡を取ってほしい人がいるんです」私はかすれた声で名前を告げた。「松野弁護士。両親の生前、ずっと顧問をしてくれていた人」松野(まつの)弁護士が病室に来たのは翌日の夕方だった。五十代半ば、髪には白いものが混じっていたが、瞳の奥は鋭く光っていた。私を見るなり、彼の目に涙が滲んだ。「桜……どうしてこんなに痩せて……」「松野さん」私は弱々しく笑った。「ごめんなさい。ずっとご無沙汰してしまって」「馬鹿だな。病気なんだから仕方ないじゃないか」彼はベッドのそばに腰を下ろし、穏やかに言った。「急に呼ばれて驚いたけど……何かあったのか?」数秒の沈黙のあと、私はこの十年の出来事を一つ一つ語った。聞き終えた松野弁護士の顔はみるみるうちに青ざめた。そして机を拳で叩きつけた。「畜生め!人間のすることじゃない!お前のご両親が亡くなったとき、私は神山を信頼していたんだ。お前にあれほど優しくしていたし、医学博士でもあったから、安心して、監護権と資金の管理をやつに任せてしまったんだ……まさか、こんなことになるとは!」「松野さん、もう怒っても仕方ないです」私は静かに言った。「お願いがあります。いくつか、手伝ってほしいことが」「言ってごらん」「一つ目。両親が残した全財産の調査です。特に二億の医療基金の行方を。二つ目。時矢の資金流用と、病歴の改ざんの証拠を集めてほしいです。三つ目。国内で一番腕のいい病院を紹介してください。私は転院したいんです。そして四つ目……」少し間を置き、私は言葉を継いだ。「訴訟の準備をお願いします」松野弁護士の目に、驚きと同時に安堵の色が浮かんだ。「桜……強くなったな」「追い詰められただけです」私は苦笑した。「安心しなさい。必ず取り返してやる。ご両親も、きっと天国から見守ってる」その後の一週間、松野弁護士の動きは早かった。彼は両親が生前に雇っていた会計士を見つけ出し、この十年間の財務記録をすべて調べ上げた。——結果、あの二億円の医療基金は確かに時矢に使い込まれていた。研究室の設備購入に6000万円。川沿いの別荘の頭金に8000万円。高級車に1400万円。玲奈への生活費三年間
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第5話
佐藤は涙をぬぐいながら言った。「桜、あんた、行っちゃったら……もう戻ってこないの?」「戻らりませんよ、佐藤さん」私は彼女の手を握った。「ここには、つらい記憶が多すぎるんです。新しい人生を始めたいです」「じゃあ、私は?私も一緒に行っていい?」佐藤の言葉に、思わず息をのんだ。「桜、私はあんたが小さいころから見てきたのよ。この十年、どんなに苦しんできたかも全部見てた。もう、この病院にはいたくないの。子どもたちはみんな海外だし、この街には何の未練もない。神山教授の顔を見るたび、あんたの涙を思い出すんだもの……」彼女は泣きながら続けた。「だから、私もついて行っていい?これからもあんたのそばでお世話したい」鼻の奥がつんとした。私はこらえきれず、涙を流した。「うん、一緒に行きましょう、佐藤さん」——三日後、時矢はスイスへ学会出張に発った。その翌日、私は退院手続きを済ませた。松野弁護士が手配した救急車で、私は直接に京市第一病院へ運ばれた。山里教授と初めて会ったのはICUの会議室だった。彼は私のカルテをめくりながら、眉間の皺を深くした。「十年前、吸入性の化学損傷から肺線維化を発症……この十年、どんな治療をしてきた?」私が答える前に、彼は検査データを見て顔をしかめた。「このビタミンと栄養剤は何だ?」そして突然、机の上にカルテを叩きつけた。「肺線維化の患者にビタミンを処方?これは殺人だ!」そばにいた看護師が小さな声で言った。「……神山教授の指示で……」「神山時矢だと?」山里教授は立ち上がり、怒鳴るように言った。「あの男の恩師がこれを知ったら、墓の中で怒りのあまり飛び起きるぞ!」私はうつむき、何も言わなかった。「だが、まだ間に合う」彼の声が少し柔らかくなる。「君は若い。肺機能にはまだ回復の余地がある。新しい標的治療薬で線維化の進行を止め、リハビリで肺を鍛えよう」「どれくらい……かかりますか?」「君次第だ」彼はまっすぐ私を見た。「だが保証する。半年で酸素チューブを外せる。一年後には自分の足で二階まで上がれる」——治療は、想像以上に苦しかった。朝六時、呼吸療法士が来て、気道のクリーニングから始まる。その後は呼吸マスクをつけてトレーニング。何度も
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第6話
時矢がスイスのホテルでその電話を受けたとき、窓の外では雪が降っていた。「神山教授、佐久間さんが……いなくなりました!」焦った看護師の声が電話越しに響いた。彼は翌日の講演用のスライドを整理していた手を止めた。「……いなくなった?どういう意味だ?」「三日前に退院の手続きを……私たちはご自宅で療養されていると思っていたんですが、今日、赤井先生が病室を確認したところ、荷物も全部なくなっていて……」時矢は立ち上がり、手にしていたノートパソコンが床に落ちて激しい音を立てた。「彼女の身体で退院だと?ありえない!」「私たちにも分かりません……教授、どうか早く戻ってきてください!」通話が切れるや否や、彼は最短の便を予約した。十数時間のフライトのあいだ、一睡もできなかった。頭の中には、あの弱々しい佐久間桜(さくま さくら)の姿しか浮かばない。——どこへ行った?——この身体で、医療の支えなしにどれだけ持つ?空港に着くと同時に、彼は真っすぐ病院へ向かった。病室は驚くほど空っぽだった。ベッドサイドのテーブルの上に、ひとつの茶色い封筒だけが残っていた。震える手で開けると、まず一枚の名刺が滑り落ちた。松野文哉(まつのふみや)——弁護士。その下には、太い黒字で書かれた2つの文字。「訴状」添えられた証拠ファイルはまるでレンガのように厚かった。別荘の購入資金が赤線でマークされた財務記録、「ビタミンC」と記された薬剤検査報告、そして三年前、彼自身の署名がある「対照群」文書——「先生」ヒールの音を響かせて、玲奈が入ってきた。「だから言ったじゃないですか、あの人——」「黙れ!君が何を言ったんだな!」玲奈の顔がこわばる。「せ、先生、私は……」「出て行け!」その一言は、これまでで最も荒々しかった。——三日後。松野弁護士から、研究室に直接電話が入った。「神山教授、私は佐久間桜さんの代理人です」「説明してもらえますか。なぜ佐久間さんの監護口座にあった2億円の資金が、十年でわずか956万円しか残っていないんですか?」「それは……すべて新薬の研究に使ったんです。彼女を救うための——」「新薬の開発のためなら、患者の命を救うための金を流用してもいいとでも?」松野弁護士の声が冷たく遮
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第7話
そのニュースは、すぐに医学界全体を駆け巡った。「聞いた?神山時矢、訴えられたって」「えっ、あの賞を取った天才の?」「天才?笑わせるわ。婚約者に十年間プラセボを飲ませて、対照データを集めてたんだって!」「そんなの、人間のすることじゃない!」医学会はすぐに調査を開始した。「神山教授、説明してもらえますか?」調査室で、専門委員の声が冷たく響いた。時矢は調査室の椅子に座り込み、やつれきった顔をしていた。「わ、私は……あの時、こう考えていました。まず完全な対照データを集めてから、新薬が完成した時点で——彼女に使おうと……」「つまり、十年間も佐久間さんにプラセボを与えていたと?」専門委員の声は鋭かった。「それが何を意味するのか、お分かりですか?佐久間さんは本来なら回復できた病を、あなたのせいで重症化させられたということです。この十年間の苦しみはすべて無駄だったんですよ。神山教授、あなたは医師でありながら、患者を実験体として扱った。医学倫理に対して、恥ずかしくないのですか?」時矢は何も答えられなかった。十年間、桜がどんな日々を過ごしていたのか——思い出すことさえ、恐ろしかった。「もう一つ、確認したいことがあります」別の専門委員が資料を開く。「佐久間さんの一部の投薬記録と、実際の検査結果に食い違いが見つかりました。たとえばカルテには栄養注射液と書かれていますが、検査では中身はただのブドウ糖注射液でした。これらの記録には——京本玲奈医師の署名があります」「……京本玲奈?」時矢が顔を上げる。「はい。薬の差し替えがあったと見ています。これは重大な医療事故です。徹底的に調査します」専門委員の一人が厳しい声で言った。時矢の頭の中で、何かが崩れ落ちた。玲奈がこの数年、いつも自ら志願して桜の投薬を担当していたことを思い出す。彼女の言葉が耳の奥で蘇る——「先生、桜さんのデータはとても参考になります。もう少し観察を続けたほうがいいかと」調査の結果はすぐに公表された。医学会の処分は明確だった。——神山教授、一年間の医師免許停止。すべての学術的栄誉を剥奪し、関連論文は再審査のうえ撤回。——京本玲奈、医師免許剥奪。司法機関に送致。このニュースは瞬く間に医学界を駆け巡った。
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第8話
時矢は自宅に戻り、初めてじっくりとこの川沿いの別荘を見つめた。——桜の両親が残した金で、自分が買った家を。フランス風の内装。天井にはクリスタルのシャンデリア。大きな窓の向こうには、きらめく夜の川の景色。彼は寝室へ入り、クローゼットを開いた。中には玲奈の服が掛かり、高級ブランドのバッグが一面に並んでいた。吐き気が込み上げ、胸の奥が焼けるように痛んだ。彼はそれらをすべて掴み、玄関へ運び出して放り投げた。一つ残らず。「せ、先生?何してるんですか?」ドアの外から玲奈の声がした。この数日、彼女はずっと身を隠していた。時矢が病院に行っていないと知って、ようやく戻ってきたのだ。「出て行け!」時矢の声は氷のように冷たかった。「せ、先生……」「出て行けと言ってる!」怒号が部屋に響く。「今この瞬間から、二度とこの家に入るな!」玲奈の顔が真っ青になった。「先生、そんな!私がどれだけ尽くしてきたか、忘れたんですか?」「尽くした?」時矢は冷笑した。「桜の薬をすり替え、治療を遅らせたことか?」「自分だけは潔白だと思ってるの?」玲奈の表情が歪み、そして笑った。爪が彼の手首に食い込む。「薬をすり替えてた時、カルテはいつもあんたの机の上に開いてたわ!データが素晴らしいって褒めた時、その下に桜の報告書があったの、見えなかったの?今さら何を被害者ぶってるの?」「やめろ!」時矢は彼女の腕をつかみ、玄関まで引きずった。「——出て行け!」玲奈の体が外に弾き出され、ドアが激しく閉まった。夜更け。時矢は桜の部屋の扉を開けた。——彼女のために作った部屋。しかし、彼女が一度もここに泊まったことはなかった。部屋には彼女の服、彼女の本、そして——彼女が描いた絵があった。机の上に積まれたスケッチブックをめくる。そこには何枚も何枚も、自分の顔が描かれていた。仕事に没頭する横顔。微笑むときの柔らかな表情。眉をひそめるときの真剣な眼差し。どの一枚も驚くほど丁寧で、温かかった。最後の一枚をめくると、眠っている自分の絵の隅に、小さな文字が書かれていた。「時矢、疲れたら少し休んで。私はずっと待ってる——桜」翌朝。時矢は京市第一病院の門の前に立っていた。無精ひげを伸ばし、
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第9話
一か月後、裁判が開かれた。桜は出廷しなかった。彼女はすべてを松野弁護士に一任していた。法廷には、すべての証拠が並べられていた。時矢は何も反論できなかった。「被告・神山時矢——被後見人の医療資金を私的に流用し、その金額は多額にのぼり、病状の悪化を招いた結果、情状は極めて重大である」裁判官の声が響く。「よって、被告・神山時矢を懲役三年、執行猶予五年とする。また、原告に対し、経済的損害および精神的損害として三億円の賠償を命ずる」「被告・京本玲奈——患者の薬剤を無断で差し替え、深刻な結果をもたらしたため、懲役七年、医師免許を永久に剥奪する」「認めません!認めません!全部、神山先生の指示だったんです!」玲奈は法廷で泣き叫んだ。時矢は彼女を見つめた。その瞳には、もはや何の感情もなかった。——かつて信じ、かばい、守ろうとさえした女。今思えば滑稽だった。判決が言い渡されたあと、時矢は傍聴席を見渡した。——桜の姿を探して。だが、そこは空っぽだった。彼女は、最初から来ていなかった。そこへ松野弁護士が近づき、一つの封筒を差し出した。「神山さん。佐久間さんから預かっています」封を開けると、中には小切手と手紙が入っていた。小切手の金額は1000万円——ちょうど、時矢が十年間で桜に使った医療費とほぼ同じ額だった。手紙は短かった。【時矢——この1000万円は、あなたが十年間で私に使ったお金。返します。これで私たちの関係は終わりです。佐久間桜より】——終わり。たった三文字が、鋭い刃のように心臓を貫いた。二年後。私は完全に回復していた。父が遺した会社も、再び自分の手に取り戻した。走ることも、旅をすることも、普通の人と同じように、何でもできるようになった。「桜さん、今日は特別な日だよ」望が笑いながら言った。「特別な日?」「君が回復して、一年の記念日だよ」彼は花束を差し出しながら言った。「おめでとう。新しい人生の始まりに」私は花を受け取り、目頭が熱くなった。「ありがとう、望くん。この一年、そばにいてくれて本当にありがとう」「バカだね。言っただろ。待つって」彼の声は優しくて、あたたかかった。「もう一度聞くよ。僕にチャンスをくれるかな?」私は
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