Masukその頃、処置室の外にある花壇のそばで、透子は理恵からの電話を受けていた。理恵はネット上の反応をリアルタイムで透子へ伝えている。一通り重要な話を終えると、最後に呆れたような愚痴をこぼした。「いやもう、顔さえ良ければ何でも許されると思ってる人って本当にいるのね。あんな動画なのに、新井の顔だけで推してる人まで湧いてるんだけど。ほんと無理よ、透子。あんたにも見せたいくらいだわ、あの節操のないコメント欄。新井は顔がいいとか、最後に目を赤くして一番きつい言葉を吐くところが最高だとか、迫力がすごい、オーラ全開とかね。あれが芝居だったら映画賞を総なめできる、なんてことまで言われてるのよ」理恵のぼやきを聞きながら、透子の頭には、理恵が転送してきた動画の最後の場面が自然と浮かんでいた。あの時の蓮司の言葉は、本心から出たものだった。黒幕に向けた怒りも憎しみも、作り物ではなく、あまりにも濃く、まっすぐだった。透子が理恵に返事をしようとした時、斜め後ろから音もなく人影が近づいてきた。「誰と電話しているんだ?」透子は反射的に振り返り、思わず答えてしまった。「理恵よ」言い終えてから、目の前に立っている相手に気づく。まさに今、電話の向こうで理恵が散々こき下ろしていた本人、蓮司だった。透子はわずかに黙り込んだ。今のは、あまりにも口が先に動きすぎた。本来なら、蓮司の問いに答える必要などなかったのだ。まるで二人が穏やかに会話できる関係に戻ったように見えてしまう。けれど実際には、透子は蓮司とこれ以上関わりたくなかった。透子は立ち上がり、その場を離れて距離を取ろうとした。だが、体を起こしきるより先に、手の中のスマホを蓮司にあっさり抜き取られた。透子は眉をひそめ、蓮司を見た。スマホを返すよう言うより早く、蓮司は画面を操作して通話をスピーカーに切り替えた。理恵の声が、その場にそのまま流れ出す。「……ねえ透子、あの人たち本当に目がおかしいんじゃないの。新井なんて見た目だけ取り繕ったクズなのに、どれだけまともな男を見てこなかったら、あんなのを有り難がれるわけ?ゴミを見て喜んでるようなものじゃない」透子は無言になった。蓮司も無言になった。数秒の沈黙のあと、蓮司は無表情のまま口を開いた。「理恵さん。俺がどれだけ最低な人間だろうと
「若旦那様、医師たちの処置を妨げてはなりません。今は一刻を争う時です」執事に止められ、蓮司は足を止めた。医師たちがストレッチャーを押して遠ざかっていく。蓮司はただ、目の前で新井のお爺さんが運ばれていくのを見ているしかなかった。そこへ、少し遅れて出てきた看護師がいた。蓮司はすぐにその腕をつかみ、声を押し殺して尋ねた。「お爺様はどうなった」看護師は足を止め、できるだけ落ち着いた声で答えた。「社長、会長のバイタルはひとまず安定しています。ただ、このまま処置室へ移り、設備の整った環境で引き続き処置を行う必要があります」その言葉を聞き、蓮司はゆっくりと手を離した。ようやく、詰めていた息を吐けた気がした。バイタルは安定している。ならば、お爺様は本当にまだ大丈夫なのだ。蓮司が呆然とそう考えている間に、看護師はその場を離れた。だが、背を向ける直前、看護師は一瞬だけ蓮司を見た。何か言いたげに唇を動かしかけ、結局何も言わずに視線を逸らす。そのわずかな変化に気づいた者はいなかった。蓮司は放心していた。執事は、蓮司を安心させることに気を取られていた。ただ一人、少し離れた場所にいた透子だけが、その表情をはっきり見ていた。胸の奥に、嫌な予感が沈む。透子はその感覚を無理やり押し込め、看護師のあとを追った。角を曲がったところで、透子は看護師を呼び止めた。声を低く抑え、そっと尋ねる。「本当のことを教えてください。新井のお爺様の状態は、かなり厳しいんですか?私は家族です。新井のお爺様のことが心配でたまらないんです」看護師は透子を見た。この若い女性の姿は、ここ数日、病室で何度も見ている。新井のお爺さんのそばにいる姿も、よく覚えていた。だが医療スタッフである以上、処置が続いている最中に、詳しいことを軽々しく話すわけにはいかない。看護師は少しだけ間を置き、遠回しに告げた。「良い結果であれ、そうでない結果であれ、どちらにも備えておいてください」それだけ言うと、看護師は足早に処置室のほうへ向かった。透子はその場に立ち尽くした。良い結果であれ、そうでない結果であれ。つまり、悪い結果への覚悟もしておけということだ。はっきり言われたわけではない。けれど、言われたも同然だった。透子は唇を強く引き結び、両手を固く握りしめた。
蓮司は少しだけ冷静さを取り戻した。その場に立ち尽くし、しばらく地面を見つめて黙り込んだ。やがて顔を上げ、透子を見た。「今日はわざわざ来てくれて、ありがとう」透子は何も答えなかった。その頃、執事もようやく悲痛な感情をどうにか押し殺せるようになっていた。蓮司のそばへ歩み寄り、低い声で告げる。「若旦那様、ドローンの件はすでに調べさせております。結果が分かり次第、すぐにご報告いたします」蓮司はその言葉には答えなかった。ただ執事を見つめ、静かに尋ねる。「高橋、お爺様は本当はどういう状態なんだ。なぜ、あんなふうに泣いていた?」これまで新井のお爺さんが二度倒れ、緊急処置を受けた時でさえ、執事がここまで取り乱すことはなかった。それなのに今日は違う。執事は人目もはばからず、声を詰まらせるほど泣いていたのだ。蓮司は指をきつく握りしめた。手の甲に青筋が浮かぶ。その視線は、執事の表情に釘づけになっていた。その答えを聞くのが怖い。それでも、新井のお爺さんの本当の状態を知らずにはいられなかった。「旦那様は、急に意識を失われただけでございます。強いショックを受けて、お倒れになったのです」執事はそう答えた。リハビリ担当者や透子が見た光景は、蓮司には伏せておいた。先ほどまでの蓮司は、怒りで完全に我を失いかけていた。透子が止めて、ようやく落ち着きを取り戻したところなのだ。ここで残酷な真実を告げれば、蓮司はさらに崩れ、再び怒りに飲まれてしまうだろう。だが、蓮司は恐ろしく勘が鋭い。執事の答えを聞いても、納得した様子は微塵もなかった。「ただ意識を失っただけなら、どうしてお前が泣くんだ。前の二度は泣かなかった。なのに、なぜ今回は泣いた?」執事は口を開きかけ、一瞬だけ言葉に詰まった。それでも、すぐに答えを絞り出す。「旦那様のことが、あまりにも心配だったからでございます。今回で三度目です。以前から医師にも、これ以上強い刺激を受ければ危険だと言われておりました。ですから、心配のあまり、つい取り乱してしまいました」執事は短い時間のなかで、もっとも筋が通り、説得力のある理由を必死にひねり出した。どうかこれで蓮司が信じてくれればいい。せめて今だけは、これ以上疑いを深めないでほしい。しかし蓮司はまだ疑っていた。執事を見つめたまま、眉間に
「だが、リハビリ室は正門とは反対側にある。お爺様がどうして入口の騒ぎを知るんだ。誰かが余計なことを吹き込んだのか!」蓮司の矢継ぎ早の問いに、リハビリ担当者は一つずつ答えた。新井のお爺さんは、ドローンに積まれた拡声器から新井グループのプロジェクト事故や株価下落の話を耳にし、その直後に容体が急変した。そう知った瞬間、蓮司の目は血走り、握りしめた拳がぎりっと音を立てるほど強くこわばった。「誰だ……誰が仕組んだ!」蓮司は怒りに任せて吠えた。「あの拡声器を仕掛けたのはどこの記者だ。それとも博明の仕業か!」相手は、わざと新井のお爺さんに聞かせたのだ。病状を悪化させるために。これは単なる騒ぎではない。新井のお爺さんを直接死に追いやる、殺人に等しい行為だ。犯人には命で償わせる。関わった者すべてに、必ず相応の代償を払わせる。「社長、拡声器はドローンに取り付けられていました。当時、我々はフェンスの外に群がる記者たちへの対応に追われていました。警察車両へ連行する手筈を整えていたところで、まさか上空からドローンが飛来するとは予想だにしませんでした」その場にいたボディーガードの一人が説明した。「気づいてすぐに撃ち落としました。ですが、位置を確認して狙いを定めるまでの二、三分の間に、拡声器から一通りの内容が流れてしまいました。そのため、会長のお耳にもすべて入ってしまったのだと思われます」その言葉を聞いた途端、蓮司は振り向きざまにボディーガードの胸ぐらをわし掴みにした。血走った目で、今にも噛みつきそうな勢いで怒鳴りつける。「なぜもっと早く落とせなかった!なぜ事前に予測して止められなかったんだ!お前たちの怠慢だ。役立たずどもが!」胸ぐらをつかまれたボディーガードは、抵抗も反論もしなかった。ドローンの出現があまりにも突発的で、誰も予測できなかったのは事実だ。だが、それでも警備に穴があったことは否定できない。あらゆる可能性を想定し、防げなかったのは自分たちの落ち度だった。ボディーガードはうつむいたまま、蓮司の怒りを無言で受け止めた。蓮司の怒りには行き場がなかった。感情も理性も振り切れ、目の前の男を引き裂こうとする獣のような殺気をまとっている。彼が拳を振り上げた、その時だった。横から伸びてきた細い手が、蓮司の拳をしっかりと掴んだ
そうでなければ、リハビリ担当者が「新井のお爺さんはもう危ないかもしれない」などと言い、透子があれほど取り乱して泣くはずがない。リハビリ担当者も、医療に携わる資格を持つ専門職だ。軽々しくそんな死の宣告を口にする人間ではない。そう考えてはいけないと分かっていても、執事の頭の中では最悪の想像が勝手に膨らんでいく。それでも信じたくなくて、執事は透子をじっと見つめた。彼女の口から、何か別の答えを聞きたかった。透子はまだ嗚咽をこらえていた。必死に呼吸を整え、震える唇を開く。「お爺様が……その時、目の焦点が……合わなくなって……」透子は伝えたいことを何とか言葉にしようとした。けれど、声は途切れ途切れで、息を吸うたびに喉が震えた。最後にはまた嗚咽がこみ上げ、言葉はそこで崩れ落ちてしまった。その横で、「焦点が合わなくなった」という言葉を聞いた瞬間、執事の頭の中で凄まじい轟音が鳴り響いた。全身から一気に力が抜け、体がグラリと横へ傾く。ボディーガードたちが素早く手を伸ばし、倒れかけた執事を支えた。執事の赤く充血した目から、ついに涙がこぼれ落ちる。体は震え、指先まで小刻みに揺れていた。「……旦那様ッ!」胸の奥には、言いたいことが山ほど詰まっていた。だが、何一つ言葉にならない。最後に絞り出せたのは、悲痛に引き裂かれたような、その一声だけだった。執事は深い悲しみに打ちのめされ、突然突きつけられた残酷な現実をどうしても受け入れられずにいた。だからリハビリ担当者はあんな宣告をしたのか。だから透子は、あれほど泣き崩れていたのか。旦那様は……旦那様は、本当にもう危ないのだ。「お爺様!お爺様はどうなったんだ!」廊下の入口から、切羽詰まった声が響いた。蓮司だった。病院の外に記者たちが押し寄せていると聞き、自ら戻って事態を収拾するつもりだったのだ。だが、記者への対応どころではない。蓮司を待っていたのは、それよりはるかに重く残酷な凶報だった。執事はボディーガードに支えられたまま振り返った。若旦那様を見て何かを言おうとしたが、口を開いても嗚咽が漏れるだけで、一言も発することができなかった。蓮司は執事のその悲痛な姿を見た。さらに、傍らで涙を拭っている透子を見た。その瞬間、最悪の予感が氷の刃のように胸を突き刺した。「お爺様……まさか
ボディーガードに制止され、執事はようやく我に返ったかのように足を止めた。その場に立ち尽くし、少し離れた場所からベッドのほうを呆然と見つめる。だが、幾重にも医師たちに囲まれていて、新井のお爺さんの姿はまったく見えない。今どんな状態なのかも分からない。執事にできることは、ただ祈るように待つことだけだった。やがて、リハビリ担当者と透子が執事のそばへ歩み寄ってきた。リハビリ担当者はボディーガードへ目配せし、執事を室外へ連れ出すよう促す。三人は重い足取りでリハビリ室を出た。廊下に出ると、執事は声を殺して泣きじゃくる透子を見た。先ほど電話越しに透子の悲鳴を聞いたからこそ、執事は血相を変えて駆けつけたのだ。彼はどうにか激しく波打つ心を立て直し、二人へ問いかけた。「栞お嬢様、リハビリの先生。旦那様に、いったい何が起きたというのですか?」透子は口元を覆っていた手をゆっくりと下ろした。答えようと口を開いたが、嗚咽に喉が詰まり、声にならない。そばにいたボディーガードが、すかさずティッシュを差し出した。代わりに、リハビリ担当者が努めて冷静な声を保ちながら事情を説明した。「私は新井会長のリハビリを行っていました。始める前に体調確認も済ませています。その時はあなたもその場にいらっしゃいましたよね。リハビリの最初の段階では、会長に目立った不調はありませんでした。状態は極めて安定していました。ですが、外からあの拡声器の声が聞こえた直後、急に体が痙攣し始め、必死にベッドから降りようとなさいました。拡声器では、新井グループのプロジェクトで死者が出たことや、株価が大きく下がったことが叫ばれていました。おそらく会長は、それがご自身の会社のことだとすぐに理解されたのだと思います。それで、急激なショックを受けられて……」リハビリ担当者の話を聞きながら、執事もすでにおおよその事態を察していた。──旦那様は新井グループに関する絶望的な知らせを耳にし、感情が一気に高ぶってしまったのだ。「それで、旦那様のお加減はどうなのですか!今、どういう状態にあるのですか!」執事は問い詰めた。それこそが、彼が今もっとも知らなければならないことだった。あの拡声器による奇襲は、完全に執事の不意を突いていた。外に群がっていた記者たちは警察に連行させたはずだった。まさか、
その言葉を言い終えると、まるで幼い頃からずっと抱えてきた何かが、ぷつりと切れたように。あるいは、張り詰めていた息が、完全に抜け落ちたように。透子は再び目を閉じ、意識を手放した。その声はひどく弱々しかったが、雅人の父と母の耳には、はっきりと、そして重く届いていた。娘が再び意識を失うのを見て、二人はさらに悲痛に泣き崩れる。医師が言った。「皆さん、一度外へ!処置を続けます!」雅人の母は離れたがらず、看護師に抱えられるようにして部屋の外へ連れ出された。医師たちは、再び慌ただしく透子の周りに集まる。雅人と父は、よろめきながら後ずさり、ベッドの上の妹から目を離せないまま、病室のドアの外
シャワーを浴びて髪を洗い、スキンケアとメイクを終える頃には、キッチンで煮込んでいたスープとお粥も、ちょうどよく出来上がっていた。食事はあっさりとして消化の良いものが中心なので、野菜は蒸し料理にした。それから手際よく容器に詰め、寝室で服と靴に着替え、団地の外へと向かった。理恵が手配してくれたのだろう、すでに一台の車が彼女を待っていた。運転手が車から降りてドアを開けてくれたが、その相手が聡のアシスタントであることに、透子は驚いた。アシスタントは微笑みながら言った。「どうぞ、如月さん」透子は無意識に車内を一瞥する。アシスタントは彼女の考えを察したかのように、自ら口を開いた。
透子には、そのメッセージが信じられなかった。きっと理恵が、自分を安心させるために作った偽物の画像に違いない。親友の気遣いはありがたい。でも、自分はもう、そこまで弱くはない。何が起ころうと、受け入れる覚悟はできている。彼女に返信を送った後、透子はグラスに水を注いだ。それを飲んでいるとき、ふと、昨夜の奇妙な男のことが頭をよぎった。宴会場から出てきた自分を支えてくれた、あの男だ。あの男は、どこかおかしかった。名前と年齢を尋ねてきたが、ただのナンパなら、家柄や職業を聞くのが普通だろう。なぜ、家族がいるかどうか、などと尋ねたのだろうか。自分の身に、いざという時に守ってくれる家族がいるかど
衝撃で倒れ込んだのも束の間、透子は必死に体を起こした。腕や膝は擦りむいていたが、そんな痛みは感じない。蓮司の方へと、よろめきながら歩み寄った。「新井さん……新井さん?」透子は彼を呼んだ。その声は、震えていた。地面には血だまりが広がり、痛ましい光景が目に飛び込んでくる。それを見た瞬間、透子の心臓は激しく波打ち、パニックに陥った。全力での衝突だった。しかも、頭を打っている……透子は最悪の事態を考えまいとしながら、震える手を伸ばし、彼の鼻の下に当てて呼吸を確かめた。もし蓮司が死んでしまったら。もし、自分を庇って死んでしまったら……透子の顔は恐ろしいほど真っ青になり、指