登入執事は、スマホの画面に並ぶ周防取締役たちからの不在着信を見つめていた。折り返す勇気は、どうしても出なかった。理由は分かっている。彼らは蓮司と連絡が取れず、自分を通じて、蓮司に会社へ戻るよう伝えたいのだ。執事は義人へ電話をかけ、どうすべきか指示を仰いだ。電話の向こうで義人は事情を聞き終えると、数秒ほど沈黙してから口を開いた。「取締役たちにはこう伝えてください。まずは蓮司の役職を維持すること。蓮司の業務は副社長たちに代行させ、しばらく休暇を取らせる、と」執事はそれを聞き、「承知いたしました」と答えた。今はそうするしかなかった。蓮司は何も手につかない状態だ。けれど、だからといって会社をみすみす他人へ差し出すわけにはいかない。執事は先ほどの取締役たちに電話をかけた。蓮司がまだ深い悲しみから抜け出せずにいることを伝え、会社のことはしばらく皆様にご負担をおかけする、と丁重に頼んだ。取締役たちは事情を理解したうえで、遅くとも来週には出社するよう、蓮司へ伝えてほしいと念を押した。執事は言葉を濁しながらも、ひとまず了承した。だが内心では、来週の出社も難しいだろうと思っていた。蓮司の受けた打撃はあまりにも深い。いつ立ち直れるのか、今は誰にも分からなかった。一方、周防取締役たちもすでに対策を練り終えていた。来週開かれる取締役会で、近藤取締役たちの主張をどう退けるか。今の彼らにとって、橘家の支援は何よりも強い切り札だった。だが、彼らの勝算が高まる一方で、近藤取締役たちも黙って手をこまねいているわけではなかった。瑞相グループと新井グループのプロジェクト提携のニュースが流れると、彼らはすぐにネット記事を買い取り、海外のプラットフォームで情報を拡散し始めた。記事の要旨は、こうだった。瑞相グループのたった一人の令嬢は、新井グループの現社長である蓮司に、かつて深く傷つけられた。それにもかかわらず、瑞相グループはこのタイミングで、これほどまでに「寛大」に救いの手を差し伸べたのだ、と。記事を仕掛けた対立派は、狡猾だった。商業上の対抗策を、あえてゴシップ記事の形に落とし込んだのだ。表面上はただのゴシップに見える。だから、新井グループ内部の権力争いだとは受け取られにくい。そのうえ、ネットユーザーはこうした話題に食いつきやすく、拡散力も強い。怒りや同情を
その一方で、周防取締役を筆頭とする、蓮司が引き続き新井グループのトップを務めるべきだと考える取締役たちは、大いに奮い立っていた。彼らは勝裕たちと面会し、この起死回生の機会を必ずつかむよう念を押した。瑞相グループの方から差し伸べられた、まさに天から降ってきたような好機だったからだ。勝裕たちも当然、万全の構えで臨んだ。その日のうちに国外へ飛び、自らプロジェクトの進行を陣頭指揮して、いささかの問題も起きないように素早く動き出した。社内では当初、この件は執事や義人の働きかけによるものだと思われていた。だが、大輔がプロジェクト提携の話を執事に伝えた時、執事は驚いて固まった。「ご存じなかったんですか?」大輔も驚いて尋ねた。「ええ。今、佐藤さんから聞いて初めて知りました」執事は我に返って答えた。「それなら、水野社長が裏で動いてくださったんですね」大輔は納得したように言った。だが、執事は別の考えを抱いていた。「橘家が提示してきたプロジェクトは、規模があまりにも大きすぎます。しかも一度に三つも。水野社長は橘会長と親戚関係にあるとはいえ、そこまで絶大な発言権はないはずです」大輔はそれを聞いて黙り込んだ。たしかに筋が通っている。だが、義人でないなら誰なのか。この絶妙な時期に橘家をこれほど気前よく動かし、蓮司を直接助けられる人間など他にいるだろうか。大輔がまだ首をひねっていると、執事が続けて言った。「おそらく、栞お嬢様が動いてくださったのだと思います。実は今回、わたくしはお嬢様に助力をお願いしていたのです」その言葉を聞いた大輔は、愕然として口を開けた。「栞お嬢様ですか?でも、栞お嬢様と社長の間には、あれだけのことが……」大輔は思わずそう言いかけて、ハッと口を閉じた。理由に思い当たったのだ。蓮司は以前、クルーズ船で命がけで透子を助けた。だから透子も今回、蓮司の危機を救うために手を貸したのだと。それは純粋な恩返しであって、決して個人的な情によるものではない。執事が言った。「栞お嬢様は義理堅い方です。過去に若旦那様との間に深い確執があったとしても、それが新井グループへのご助力を妨げる理由にはならなかったのでしょう」それに、新井のお爺さんの顔もある。おそらく、それこそが最も大きな理由だったのだろう。二人は通話を終えた。執事
新井グループの取締役たちが病院から戻ったあと、蓮司がその場で退任を口にした件はまだ正式には決まっていなかった。それでも、悠斗を支持する派閥は、これを好機と見て一気に押し進めるつもりでいた。博明はまだ留置場にいる。そのため、彼らの中の数人が悠斗と連絡を取り、この件について裏で話を通した。そして、来週に取締役会を開き、正式にこの議題を提出すると伝えた。悠斗は殊勝な口ぶりで礼を言った。「分かりました。近藤取締役、お手数をおかけします。夜に、ある人物の履歴書をデータでお送りします。皆さんにはその時、彼を新しい最高経営責任者として推薦していただければと思います」それを聞き、電話の向こうの近藤取締役は一瞬言葉に詰まり、聞き返した。「君自身が就くわけではないのか?なぜ外部の人間を雇う。これは君が上に立つ絶好の機会だろうに」悠斗は言った。「このタイミングで僕がトップに就けば、世間へ向かって、僕が社長の座を狙って蓮司を引きずり下ろしたのだと宣言するようなものです」近藤取締役は鼻で笑った。「何をそんなことを気にしている。昔から、身内同士で後継の座を争うことなど珍しくもない。そんな噂を恐れるようでは、大成はできんぞ」悠斗は淡々と答える。「分かっています。ただ、外部から最高経営責任者を招いた方が、取締役会のもう一方の派閥も受け入れやすくなります。皆さんが話を進める時も、そのほうがずっと円滑にいくはずです」それを聞き、近藤取締役は考え込んだ。たしかに、今の蓮司を引きずり下ろす自信はある。だが、もう一方の派閥もかなり強硬であり、正面からぶつかれば交代劇は必ず長引く。もし実力のある外部人材を招いて後任に据えれば、「隠し子が権力を奪いに来た」という大義名分を外すことができる。そうなれば、蓮司派の連中も何も言えなくなるはずだった。近藤取締役は頷いた。「分かった。君の提案通りにしよう。その外部人材の身元はどうなんだ。本人の能力は?そこに説得力がなければ、やはり弱いぞ」悠斗は自信ありげに答えた。「そこはご安心ください。彼は僕がG国の金融街から引き抜いた人材です。誰がどう調べても、文句のつけようがない実力者だと分かります」それを聞き、近藤取締役は安心した。履歴書を送るように言い、来週の会議でどう話を進めるか、ほかの取締役たちとも相談すると告げて通
それを聞き、執事は慌てて尋ねた。「では、どうすれば若旦那様は気力を取り戻されるのでしょうか」医師は執事を見て答えた。「まずは専門の心理カウンセラーによる介入が必要です。必要であれば、精神面に作用する薬を使うこともあります。ただ、新井社長の病歴には、過去に薬を注射した記録があります。そのため、薬を主な方法にすることはお勧めしません。まずは心理面のケアを中心にするべきです。神経系の薬は万能ではありません。精神的な依存を起こしやすく、薬に頼る状態が続くと、自力で気持ちを立て直す力が弱くなることがあります。その結果のほうが、さらに深刻です」それを聞き、執事の顔は不安と憂いに覆われた。「若旦那様ご自身で立ち直られるしかないとなると、いったいどれほど時間がかかるのでしょうか。わたくしは、若旦那様の心の病がまた出てしまうのではないかと、それが怖いのです……」医師は助言した。「ご家族の皆さんが、できるだけそばにいてあげてください。話をして、少しでも早く今の陰りから抜け出せるように支えてあげることです」執事には、それがひどくやるせなく、どうしようもない話に聞こえた。 自分たちに何ができるというのか。蓮司の心の中で、新井のお爺さんの代わりになれる者などいるはずがない。先ほど蓮司を検査に連れてくる前、自分が言ったことも、蓮司は一言も聞き入れていなかった。たとえ義人が話したとしても、今の蓮司の意識は戻ってこないのではないか。体はまだ生きている。けれど、それはただの器にすぎない。魂は体を離れ、新井のお爺さんについて行ってしまったのかもしれなかった。蓮司は最後に、元の病室へ移された。病室とはいっても、普通の部屋に近い。中の調度はとっくに替えられ、ずっと普通の部屋のように整えられていた。蓮司はボディーガードに支えられ、ソファに座らされた。目は壁を見ているようでもあり、壁際の棚を見ているようでもある。全身から生気が消えていた。「蓮司……」義人が小さな声で呼んだ。けれど、蓮司からは何の反応もなかった。義人は蓮司のそばに座り、重い表情で慰めた。「蓮司、もう事は決まってしまった。生きている者が、いつまでも過去に沈んだまま出てこられないわけにはいかない。新井のおじ様が君のこんな姿を知ったら、きっと悲しむ。新井のおじ様は、誰よりも君を可愛が
義人の言葉を聞き、執事は涙を拭いながら、声を詰まらせて言った。「そうであってほしいと願うばかりです。どうか、これ以上の刺激で、また心の病がぶり返すようなことにだけはならないでいただきたい……」蓮司が幼い頃に患った心の病は、母親の死が原因だった。今、新井のお爺さんまで逝こうとしている。蓮司がこの衝撃に耐えきれずに心が壊れてしまうのではないかと、執事は心底恐れていた。執事は過度な不安と悲観をどうにか押し殺し、蓮司が社長を辞任しようとしている件を義人に伝えて懇願した。「水野社長、どうか若旦那様を説得してくださいませ。今ここで辞任するのは、会社を博明様の一家へみすみす譲り渡すようなものでございます。しかも、あの一家は旦那様を害した真犯人である可能性すらあります。法の裁きを受けさせるどころか、のうのうと好きにさせるなど、決してあってはならないことでございます」それを聞き、義人はわずかに唇を引き結んで沈黙した。博明たちとの清算はいずれ必ず果たす。今もっとも気がかりなのは、甥である蓮司自身の状態だった。義人は扉のそばに立ち、診察台に座って医師の検査を受けている蓮司を見つめた。蓮司はされるがままになっており、まるで糸の切れた操り人形のようだった。目に光はなく、底が抜けたように空っぽだった。今回の件は、蓮司にとってあまりにも大きな打撃だった。すぐには立ち直れないだろう。この状態では、たしかに仕事など手につかない。だからこそ……「蓮司の選択を尊重する」義人が静かに口を開いた。執事は一瞬ぽかんとし、意味が理解できないという顔をした。そしてすぐに、信じられないという表情で問い返す。「水野社長、それは……若旦那様に、このまま会社を諦めさせろということでございますか」義人は視線を移し、執事に言った。「所詮は経営を預かる立場にすぎない。新井家の最終的な財産分配は遺言に従う。その点については、新井のおじ様がとっくに決めているはずだ。蓮司の取り分をこちらから一歩でも譲るつもりはない」執事は食い下がった。「ですが、会社は利益を生み続ける巨大な資産に等しいものです。これだけは絶対に、みすみす明け渡すわけにはまいりません」まして、博明とあの隠し子に無条件で渡すなど、到底納得できるはずがない。まったく関係のない他人に渡すほうがまだましだ。あの忌まわ
新井のお爺さんの件は、蓮司にとってよほど大きな打撃だったのだろう。そうでなければ、自ら社長の座を明け渡そうとするはずがない。以前の蓮司は、博明や悠斗と何度も激しく争ってきた。そのたびに、一歩も譲らなかったのだ。蓮司を支持する取締役の一人は、それでもなお言い張った。「この件はひとまず置いておきましょう。あなたはまず休んでください。取締役会のほうは、我々で抑えておきますから」そう言うと、彼は蓮司の返事を待たず、そのまま背を向けて去っていった。人が全員去ってから、蓮司も病室の方へ戻っていった。執事はそのそばについて歩きながら、たまらず説得にかかった。「若旦那様、どうか衝動的なことはなさらないでください。この時期に辞任すれば、博明様とあの隠し子を喜ばせるだけでございます。旦那様が倒れられた件も、もしかするとあの二人が裏で仕組んだことかもしれません。今もまだ容疑者は捕まっておりません。若旦那様は、あの二人を許しておいてはなりません。まして、会社をみすみす差し出すようなことだけは、どうかおやめください」執事は懸命に言い聞かせた。けれど蓮司は、光のない目でただ前を見つめているだけだった。聞こえているのか、聞こえていないのかさえ分からない。先ほど蓮司が口にした言葉に、嘘はなかった。今は何もしたくない。何も欲しくない。もう誰かと争う気力もなかった。お爺様は、もうすぐ死ぬ。それはすべて、自分が招いたことだ。ドローンが引き金だったとしても、根本的な原因は自分にある。海外プロジェクトで問題が起きたのは、自分の人を見る目がなかったからだ。会社の株価が暴落したことも事実だ。お爺様がそれを知っていたかどうかにかかわらず、それらはすべて自分が引き起こした現実だった。それに、最初にお爺様が脳卒中で倒れたこと。あれも、たしかにお爺様が透子に対する自分の異常な執着を知り、怒りのあまり容態を急変させたのだ。当時の自分は、いろいろと理由をつけて疑い、自分の非を認めようとしなかった。お爺様は以前もひどく怒ったことがある。昔、自分がもっと取り返しのつかないことをしでかした時でさえ、お爺様は脳卒中になどならなかったではないか、と。けれど、事実は事実だった。お爺様は脳卒中で倒れた。自分の言葉にショックを受け、あまりにも腹を立てたせいだった。蓮司はぼ
「社長……お体にお気をつけください。お医者様も、胃のためにはあまりお怒りにならない方がと……」大輔の声は恐ろしく弱々しく、おどおどしていたが、アシスタントとして口を開けるのは彼しかおらず、実に不運な役回りだった。蓮司の理性は怒りで崩壊寸前だった。彼は狂ったようにボタンを連打したが、エレベーターはもう上には行かなかった。「1」の表示で止まり、ドアが開くと、蓮司は再び最上階のボタンを押した。しかし、このエレベーターは下り専用なのか、押しても反応はなかった。蓮司は思った。くそっ!あの野郎!柚木聡、絶対にわざとだ!!彼はスマホを取り出し、あのクソ野郎に電話をかけたが、相手は
新井のお爺さんはその言葉を聞き、負けん気に言った。「誰が心配などするか。死んでわしの育てた苦労を無駄にされるのが癪なだけだ。でなければ、わしが構うものか!」執事はその言葉に額から冷や汗を流した。旦那様は一度激怒されると、心にもない言葉で人を傷つける癖がある。二人の会話を聞き、蓮司は冷静さを取り戻し、頭を支えていた手を下ろした。だが、相変わらず二人の方を見ようとはしない。彼はかすれた声で言った。「俺は、病気じゃない」病室は十分に静かで、蓮司の声は低く、ダミ声で聞き取りにくいが、新井のお爺さんの耳にははっきりと届いた。彼はカッとなり、目を剥いて怒鳴った。「病気じゃないだと?
恐ろしい……もし控訴審で負けて、蓮司と復縁を強いられたら、その先に待っているのは死ではないだろうか? 離婚がこれほど難しいとは思ってもみなかった。婚前契約書さえあれば、一審で離婚が確定すると思っていたのに、これほど二転三転するなんて……翼の言う「重大な傷害」や「常習的なDV」には当てはまらない。 前者については、確かに亀裂骨折はしたが、その程度には達しない。 後者については、自分で保存した証拠は骨折した時のものだけだ。 足の甲の水ぶくれは、病院で薬をもらっただけ。それに、厳密に言えばあれは蓮司が原因ではなく、美月のせいだ。 ガス中毒の件も、同じく美月の仕業で、防犯カ
「早く通報して!この狂犬女を警察に突き出してやる!先に手を出してきたのはそっちよ!」一人のモデルが頭を押さえながら怒鳴った。頭皮が剥がされそうなほどの痛みだ。「朝比奈、警察が来たら逃げられると思わないで!愛人のくせに、嫌われ者のあんたが。パトロンにも捨てられたのに、よくもまあ私たちに手を出せたものね。いい気になりやがって!」美月はその脅し文句を聞いても、もはや恐れはしなかった。どうせこれは内部の揉め事だ。そうなれば本部長が仲裁に入り、事が大きくなるはずがない、と。「あんたたちこそ何様のつもりよ。今日こそ、その減らず口を叩けなくしてやる!」美月は息巻いた。その時、守衛のお







