LOGIN透子は嬉しそうに頷いた。「うん、そうこなくっちゃ。理恵は男なんかに凹まされるタイプじゃないもんね。じゃあ決まり。彼にお店の場所を送っておくから、二人で行ってきて」理恵は、親友がてきぱきと話をまとめていくのを呆然と眺めていた。ほんの数分で、自分の食事相手が見ず知らずの男にすり替わっている。……なんか、うまく乗せられた気がするんだけど。正直なところ、知らない男との食事は気が進まなかった。今の自分には、見知らぬ男に割く興味なんて一ミリもない。透子が嬉々としてスマホに何か打ち込んでいる。相手にお店の場所を送っているのだろう。理恵は口を開きかけた。やっぱりやめると言おうとした。だが、喉まで出かかった言葉を、結局飲み込んだ。――いいわよ、行ってやろうじゃない。知らない男と食事するくらい、どうってことない。――ここで断ったら、透子にまた「やっぱり雅人を諦めきれてないんだ」って思われる。冗談じゃない。自分から追いかけていくような女じゃないのよ、この私は。――むしろ引く手あまたなんだから。今夜の相手くらい、ちょちょいと落としてみせるわ。そして雅人に思い知らせてやる。私の価値がわからなかったのは、あなたの見る目がなかっただけだって。理恵の瞳に、ふつふつと闘志が灯った。――とはいえ、筋金入りの面食いとして、最終確認だけは怠らない。「本当にイケメンなのよね?」「太鼓判を押すわ。私のおすすめを信じて、間違いないから」透子が自信たっぷりに答えた。「で、名前は?あなたとどういう知り合い?仕事は何してる人?」理恵が畳みかけた。透子の目利きは信じているが、自分でもちゃんと確認しておきたい。実質、お見合いのようなものなのだから。透子は顔を上げ、一拍置いてから答えた。「名前はね――やっぱり秘密にしておくわ。先に全部教えちゃったら、会った時に話すことなくなるでしょ。仕事の関係で知り合ったのよ。それと、会社の役員クラスよ。かなり上のポジション。安心して、釣り合いの取れない変な人は紹介しないから」――嘘ではない。兄に連れられてプロジェクトを進めているのだから、仕事上の知り合いには違いない。透子の表情はどこまでも真剣で、誠実そのものだった。理恵はそれを見て、疑う気持ちが消えた。親友がいい加減な相手を回してくるはずがない。案外
ほかの男については――やめておこう。どこの馬の骨かもわからない男に捕まるくらいなら、うちのお兄ちゃんに嫁いでもらった方がよっぽどマシだわ。理恵はそう思い直し、スマホを取り出して兄にメッセージを送った。チャンスは目の前なんだから、しっかりしなさい――そんな気持ちを込めて……柚木グループ、社長室。聡がパソコンで資料に目を通していると、デスクのスマホが震えた。妹からだった。【お兄ちゃん、しっかりしてよ!さっさと透子を射止めなさい!透子、お兄ちゃんと一緒に愛情を育てていきたいって言ってたわよ。もうほかの男たちから大差つけてリードしてるんだから!】聡は画面を見つめた。透子が自分と愛情を育てていく意志を示してくれた――それは素直に嬉しかった。だが同時に、昨夜のことが頭をよぎる。彼女を食事に誘った。何というか……すべてが順調だった。会話も弾んだ。食事も和やかだった。家まで送り届けるまで、何一つ問題はなかった。けれど、気のせいだろうか。自分と透子の間には、目に見えない薄い膜が一枚張られているような感覚が、どうしても拭えなかった。友達以上、恋人未満。その膜の正体は、まさにそれだった。ただ、聡にもわかっている。透子は恋愛に対して慎重な人間だ。こちらが焦って距離を詰めれば、逆効果にしかならない。【わかってる、頑張るよ。妹殿の尽力に感謝する】聡はそう打って送信した。……ティーラウンジにて。理恵は兄の返信を見て、にやりと口角を上げた。――ふうん、恋がしたくなったら、途端にまともな口きくようになるじゃない。ちょうどその時、向かいの透子のスマホからも通知音が鳴った。透子が画面を確認し、理恵に声をかけた。「聡さんから、今夜、食事と映画はどうかって。あなたも一緒にどう?」理恵は兄の行動の速さに内心驚いたが、こんな場面に自分が割り込めるわけがない。完全にお邪魔虫だ。「私はいいわよ。二人でしっかり愛を育んできなさいな」透子はからかいを含んだその言葉に少し頬を染めながら、なおも食い下がった。「そんな……もともと今日は理恵と食事する約束だったのに、置いていくなんてできないわ」「大丈夫よ、置いてかれたぐらいで拗ねないわよ。子供じゃあるまいし」理恵は笑って返した。透子は何度か引き留めたが、理恵は頑として譲らず、最後に
透子は顔を上げ、少し間を置いてから口を開いた。「うーん……順調に、進んでるんじゃないかな」理恵はそれを聞いて片眉を上げた。「何よその言い方。お兄ちゃんと業務提携でも結ぶつもり?」透子はうつむいてコーヒーを啜った。他にうまい言い回しが見つからないのだから仕方がない。「ねえ、もしかしてお兄ちゃんに対して、ときめくとか、そういうの全然ないの?」理恵が重ねて訊く。透子が再び顔を上げた。その瞳は澄み切っていて、堂々としていて、一点の曇りもない。――答えを聞くまでもなかった。理恵にはもう、はっきりとわかってしまった。「はあ……お兄ちゃん、ダメね。ときめかせる入り口にすら立ててないじゃない」理恵がため息をつく。「そんなことないわよ。聡さんはルックスも家柄もいいし、仕事だってすごく……」透子が聡を弁護しようとした。「そうよね。じゃあ、なんで好きにならないの?」理恵はストローをくわえたまま、あっさりと遮った。透子は言葉に詰まり、しばし黙り込んだ。何か返そうと口を開きかけたが、理恵がそれを制して先に続けた。「いいのよ、私にも自分自身にも嘘をつかなくて。顔を見れば全部わかるんだから。お兄ちゃんの話をしてる時の透子の目、真っ直ぐすぎるのよ。好きな人のことを語る目じゃないわ。優秀なビジネスパートナーを評価する時の目よ。本当に人を好きになったら、ふとした表情に出ちゃうものでしょ。でも透子、あなた堂々としすぎ。恋してる女特有の、あのフワフワした感じが、欠片もないんだもの」透子は親友の言葉を聞き、また黙り込んだ。――理恵の目には、聡さんについて語る私が、そんなふうに映っていたのか。胸に手を当てて、自分自身に問いかけてみる。恋愛経験はあまりにも乏しく、誰かを好きだという気持ちが最も鮮烈だったのは、十代の頃だ。あの頃と今を比べてみれば――確かに、今の自分が聡に抱いている感情には、あの、人知れず胸が弾み、心臓がどうしようもなく暴れ出すような熱がない。だが、あれはもう終わったことだ。ただの悪縁だった。もう完全に断ち切って前へ進むと決めたのだ。過去の人間とは、二度と交わらない。「……まだ、一緒にいる時間が短いだけかもしれないわ」透子はぽつりと呟いた。――そう、まだ時間が足りないだけ。だから聡さんにときめけないのだ。愛情は、一
蓮司が、透子の来訪を知らないはずはなかった。見舞い客があれば、必ず警護から彼にも報告が上がる仕組みになっている。つまり、知っていてなお、あえて近づこうとしなかったということになる。それで執事も、ようやく肩の力を抜くことができた。蓮司が現れないおかげで、透子ものびのびと新井のお爺さんとの会話を楽しめるようになり、お爺さんの顔色もずいぶん明るくなった。四日目、透子が病院を訪れた時、隣には理恵の姿があった。物静かな透子と、賑やかな理恵。正反対の二人が揃ったことで、病室はいつにも増して明るく、温かな空気に包まれた。見舞いを終えて病棟を出た後、二人は並んで歩きながらおしゃべりを始めた。理恵が感心したように言った。「いやあ、透子って本当にマメよね。知らない人が見たら、新井のお爺様の実の孫娘だって思うわよ」透子は穏やかに答えた。「お爺様にはずっとよくしてもらってたから。寝たきりになってしまったし、時間がある時はなるべく顔を出したくて」理恵は、親友と新井のお爺さんの間にある深い縁を知っている。大学時代、学内のプロジェクトコンペで透子の才能にいち早く目をつけたのが新井のお爺さんだったこと。そしてその後、透子が二年間あの家で嫁として暮らしていた。理恵はきょろきょろと周囲を見回した。「正直ね、この病院に来たら絶対あいつがしつこく絡んでくると思ってたの。でも今日ついて来てみたら、意外とおとなしくしてるのね。病院にいないか、さもなきゃ奇跡が起きたかのどっちかね」透子はそれには何も答えなかった。初日こそ蓮司は現れたが、その後は執事がうまく手を回して押さえ込んでいるのだろうと察していた。理恵はなおも落ち着かない様子で、後ろや左右を何度も確認している。あの蓮司がおとなしく引っ込んでいるなんて、どう考えてもありえない。後ろにも横にも人影はない。「まさか本当に改心したの?」と半信半疑になりかけた、その時。ふと、何気なく視線を上に向けた理恵の目が、ある一点で釘づけになった。三階の窓辺から、じっとこちらを見下ろしている人影がある。――やっぱり!あのストーカー、覗き見してるじゃない!理恵はあの男がおとなしくしているわけがないと確信した。慌てて透子の袖を引っ張り、上を指さす。「三階!左から五番目の窓!」透子が言われた方向を見上
その言葉を聞いて、執事は合点がいった。「では、以前は若旦那様が原因で海外行きをお考えになっていた、ということですね」透子は何も答えなかった。沈黙が、そのまま肯定だった。「それが今回、国内に残ると決められたということは……その理由が、栞お嬢様の中ではもうなくなったということでしょうか」執事がさらに踏み込む。新井蓮司という人間が消えたわけではない。消えたのは、透子の心に及ぼしていた影響の方だ。「ええ。新井さんと顔を合わせても、もう平気だとわかったんです。苛立つことも、逃げ出したくなることも、もうありませんから」透子は静かに答えた。執事は深く頷いた。本当に過去を乗り越えるとは、こういうことなのだろう。たとえ目の前に立たれても、心は凪いだ水面のように微動だにしない。――それならば、昨日の長電話にも説明がつく。若旦那様が三十分以上も電話を続けられたのは、栞お嬢様にとってあの通話がもはやただの電話でしかなかったからだ。相手が誰であろうと構わない。それほどに、何も感じなくなっていたのだ。透子が車に乗り込み、走り去っていくのを見届けてから、執事は病室に戻った。透子が国内に長期定住する旨を、新井のお爺さんに報告する。話し終えるか終えないかのところで、ドアが荒々しく開き、一人の男が飛び込んできた。医者のもとから逃げ出してきた蓮司だった。今回はあっさり入れた。鍵がかかっていないことを不思議に思いつつ室内を見回すが、透子の姿はどこにもない。落胆が顔をよぎったが、それも一瞬のこと。蓮司はすぐに執事へ目を向けた。たった今、執事が新井のお爺さんに報告していた内容が耳に入っていたのだ。「透子が、国内に定住するのか?!」蓮司の声が震えていた。興奮を抑えきれていない。その浮かれた顔を見て、新井のお爺さんは露骨に白目を剥いた。透子が残ろうが残るまいが、お前に何の関係がある。浮かれおって。これで自分にもまだ望みがあるとでも思っているのか。どこまで思い上がれば気が済むのだ!執事が振り返り、静かに、しかし容赦なく釘を刺した。なぜ蓮司がこれほど喜んでいるか、痛いほどわかっている。だからこそ、頭から冷水を浴びせるように言った。「若旦那様、どうか落ち着いてください。栞お嬢様が国内に残られるのは、ご本人のお考えによるものです。お嬢様はこうおっしゃって
透子は向き直り、執事とともに歩き出した。後方では、蓮司がまだ引きずられていた。屈強な大男三人を相手にしては、一人で敵うはずもない。押されるままに連れ去られながらも、彼は首がもげんばかりに後ろを振り返ろうとしている。「透子、出国やめたのか?俺の言葉で気が変わったんだろ?」蓮司は諦めきれず、声を張り上げた。昨日メッセージを送ったばかりで、今日こうして透子が海の向こうではなくこの病院に現れたのだ。舞い上がらないわけがない。自分の言葉が彼女の心を動かしたのだと、ひそかに確信しかけていた。もし自分の想いが届いたのなら、透子はもう以前ほど自分を嫌っていないのではないか。ということは、まだ――そんな妄想に浸っていた蓮司の目に、前方で透子が足を止め、振り返る姿が映った。蓮司の笑みがいっそう大きくなる。――やっぱり当たりだ。彼は興奮のまま口を開きかけようとした瞬間、透子の冷ややかな声が飛んできた。「自惚れないで。思い上がりもいいところよ。私が国内に残るかどうかは私自身の問題であって、あなたには一切関係ないの」蓮司の表情がぴたりと固まった。胸に鋭い矢が突き刺さったような痛みが走る。だが、すぐに彼は一つの事実だけにすがりつき、無理やり笑みを作り直して言った。「ああ……俺の思い上がりだった。でも、君が国内にいてくれる。それだけで、俺は嬉しいよ」透子は何も返さず、背を向けて再び歩き出した。「透子、これからたまに会ってくれないか?もう迷惑はかけない、世間を騒がせるようなこともしないから!」蓮司が叫ぶように問いかけた。その声には期待と怯えが入り混じっていた。透子は振り向かなかった。答えもしなかった。代わりに執事が足を止めて振り返り、無表情のまま告げた。「お断りいたします。栞お嬢様が国内に残られたからといって、若旦那様がまたつきまとってよい理由にはなりません。旦那様に代わり、私がしっかりお目付けいたします。それから、ご自分で迷惑をかけないとおっしゃるのでしたら、栞お嬢様の前に姿を現さないことが何よりの誠意かと存じます」蓮司は奥歯を噛み締めた。それでも透子本人の口から答えを聞きたくて、その姿を目で必死に追いかけた。だが、透子はすでに廊下の角を曲がっていた。ちらりと見えていた背中さえ、もう見えない。「透子、透子
「どけ!提携の話をしに行くんだ!邪魔して責任が取れるのか?莫大な違約金を払えるのか?」蓮司は凶悪な顔で言った。ボディーガードたちはその言葉に、顔に戸惑いと疑いの色を浮かべた。若旦那様は本当に提携の話をしに行くのだろうか?こんなに慌てて、しかも秘書からの連絡もなしに。「まだどかないのか!」蓮司は再び怒鳴った。ボディーガードたちは互いに目配せをし、一緒に後を追うことに決めた。「ちっ、最近おとなしいと思ったら、監視されてたのか」携帯から、聡の嘲るような声が聞こえてきた。「お前には関係ない」蓮司は冷たく言った。「透子は怪我したのか?」彼はまた尋ねた。警察
理恵は手を叩き、親指を立てた。「でも、管理会社はプライバシーを理由に絶対に断るわ。手伝ってくれる?」透子は頼んだ。理恵は彼女の肩を抱き、胸を叩いて任せてと言った。堂々たる柚木家のお嬢様が、管理会社の防犯カメラの映像を手に入れるくらい、お安い御用よ、と。透子は心から感謝し、その夜、理恵のために腕振って豪華な夕食を作った。その頃、バルコニーでは。「それで?面倒な仕事は全部俺に押し付けて、兄貴をこき使っておいて、手柄は全部お前が独り占めか。俺には知る権利すらないって?」聡は電話の向こうで言った。「もう、お兄ちゃん!透子にした数々の酷い仕打ちを思い出してみてよ!それでも
美月の名前を聞いて、蓮司は一瞬固まり、それから唇を引き結んで反論した。「いや、俺は彼女とは何の関係もない」そのあまりにきっぱりとした言葉に、美月の目から涙が溢れ、嗚咽が漏れた。「はは、誰が信じるか。彼女とのスキャンダルでネットを騒がせたのは、どこのどいつだ?」聡は嘲るように言った。蓮司は拳を握りしめ、歯を食いしばりながら、かろうじて弁解した。「あれは全部誤解だ!」「誤解だろうが何だろうが知ったことか。一億円、さっさと振り込め」聡は言った。「ふざけるな!誰がやったことか、そいつに払わせろ。俺をカモにすんな!」蓮司は罵った。「俺は朝比奈美月とはもう何の関
右側のドアはもともと閉まっていなかったが、今や外から直接開けられた。ボディーガードが口を開いた。「若旦那様、お降りください」蓮司は怒りに満ちた顔で彼を見た。ボディーガードは再び言った。「お降りにならないのでしたら、我々が無理やりお降ろしすることになりますよ」蓮司はまだ黙って無言の抵抗を続け、周囲の人間を観察しながら、車を降りた後どうやって逃げるかを考えていた。しかし、現実は彼の思い通りにはならなかった。別のボディーガードが携帯電話を手に近づき、スピーカーフォンにしたからだ。「蓮司!さっさと戻ってこい!」新井のお爺さんの、気力に満ちた怒声が響き渡り、鼓膜が破れんばかり







