LOGIN執事がそっと問いかけた。「旦那様、何かお伝えになりたいことがございますか」新井のお爺さんは、まだうまく話せない。口を開くことさえ思うようにいかず、ここ数日の回復を経ても、せいぜい指先をわずかに動かせる程度だった。やがて新井のお爺さんは、ひどく苦労しながら指を持ち上げ、病室の扉の方を指した。視線もそちらへ斜めに流れている。その瞬間、執事には何となく意図が分かった。新井のお爺さんは、今日はなぜ蓮司が見舞いに来ないのかと尋ねているのだ。普段なら、蓮司は一日に何度も病室へ顔を出す。たとえ新井のお爺さんが嫌そうな顔をし、まともに相手をしなくても、蓮司が顔を見せない日はなかった。執事は穏やかな声で答えた。「若旦那様はお体の具合が少しよくなられましたので、仕事に戻られました。本日は会社へ出ておられます」ほかの理由を作るわけにはいかなかった。外出していると言っても、検査を受けていると言っても、この時間まで一度も姿を見せない理由にはならない。だから、会社へ行ったと答えるしかなかった。病床の上で、新井のお爺さんは、あの手のかかる孫が顔を出さないのは会社へ行ったからだと知り、ようやく扉から視線を戻した。そしてまた、まばたきを一つした。今度は会社の状況を尋ねたかったのだが、執事にはそこまで読み取れない。新井のお爺さんも、それ以上伝えることを諦めるしかなかった。全身が麻痺するというのは、本当に厄介なものだ。いっそ単なる身体障害のほうが、まだましだっただろう。単なる障害なら、せいぜい『動けない』というだけで済む。だが今の新井のお爺さんは、頭以外、体のどこひとつとして使い物にならないのだ。夜が少しずつ深まり、時刻はもう八時を回っていた。外はすっかり暗い。病室の外では、警備員が何度も報告に来ていた。記者を追い払ったという報告もあれば、見舞いを口実にやって来た取締役会側の人間を止めたという報告もある。博明も面会を求めて来たが、同じく門前で止められていた。執事はそのたびに細かく指示を出した。警備員にはあらかじめ断り文句も伝えてある。今は、誰であろうと面会は一切受けないことになっていた。執事が警備員に尋ねた。「若旦那様はまだお戻りではないか。車は見ていないか」警備員はすぐに答えた。「まだです。社長のお車が病院へ入られましたら、す
執事は静かに首を振った。「事故そのものの対応は、すでに片がついております。補償についても、ご遺族や負傷者のご家族とは話がまとまりました。わたくしが申し上げた厳しい戦いとは、社内の権力闘争のことです。取締役会が開かれました。役員たちは、若旦那様がここ最近、業務から離れていたことに強い不満を示しております」透子は眉をひそめた。「でも、新井さんがわざと仕事をサボっていたわけではないですよね。怪我をして、会社に行けなかっただけなのに」執事の声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。「ええ。ですから、それは彼らにとって都合のいい口実にすぎません。取締役会の一部は、すでに博明様とあの隠し子に煽り立てられています。若旦那様が業務を離れ、トップとしての職責を放棄していると責め立てているのです。さらに、旦那様を激怒させて倒れさせたことや、旦那様への思いやりに欠ける、家族を顧みないこと、また少し前に栞お嬢様へ執着して常軌を逸した振る舞いを重ねたことまで、過去の出来事がすべて蒸し返されています。最後には、若旦那様の人格そのものを問題視する流れに持っていかれました」透子はそれを聞き、黙り込んだ。業務能力から人格、さらに身内への思いやりまで、ありとあらゆる方向から蓮司を攻撃している。執事が「厳しい戦い」だと言った意味が、透子にも痛いほど分かった。これは単なる責任追及ではない。蓮司という人間そのものを、根本から否定して引きずり下ろそうとしているのだ。執事は少し声を整え、毅然と続けた。「とはいえ、降りかかる火の粉は払うまでです。博明様とあの隠し子の企みなど、隠しようもなく見え透いております。こちらにだって、彼らの弱みがないわけではございません。彼らは若旦那様に経営能力がないと言いますが、博明様のほうがよほど話になりません。凡庸で、とてもグループを任せられる器ではございません。人格が欠けている、モラルがないと責め立てるなら、婚姻中に不貞を働き、若旦那様と数か月しか年の違わない隠し子を作った博明様に、他人を非難する資格などございません。彼らが世論を使って攻撃してくるなら、こちらも徹底的に反撃いたします。こうした権力闘争はこれまでにも何度かありましたが、博明様が勝ったことはただの一度もございません。当時の不貞によって、若旦那様のお
「透子、聞いて。新井にとうとう天罰が下ったみたいよ」理恵は掲示板で見つけたばかりの大きなニュースを、興奮気味に透子へ見せた。スマホをそのまま差し出す。透子は画面の見出しに目を落とし、わずかに動きを止めた。理恵が皮肉っぽく舌を鳴らす。「新井グループの広報って本当に優秀ね。掲示板をチェックしてなかったら、こんなニュース、全然目に入らなかったと思う。でも今回は、新井も相当まずいんじゃない?十数人も死傷者が出たなんて、軽く揉み消せる話じゃないわ。海外での安全事故だもの、向こうのメディアはとっくに大騒ぎしてるみたいよ。そういえば、あの腹違いの弟、ずっと権力の座を狙ってるんでしょ?今回の件で、絶好のつけ込む隙ができたわね。新井のせいで新井のお爺様が倒れたってスキャンダルだって、まだ完全には忘れられてないのに」一難去ってまた一難、外から見ればただの騒ぎでも、上流階級や業界内での影響は小さくない。少なくとも今回の件で、蓮司は人間性と経営手腕の両方を疑われることになる。透子は記事の内容を最後まで読み、理恵にスマホを返した。「私たちには関係のないことよ。ただ、プロジェクトの安全管理に問題があって人が死傷したのなら、どんな事情があっても、曖昧に済ませていいことじゃないわ」透子の声は静かだった。理恵も頷いた。「それはそうね。ただ、新井にとっては、この事故のあとにもっと大きな問題が待ってるはずよ。新井グループの取締役会が、穏やかに済むとは思えないもの。この前は怪我で休んでたみたいだけど、もうだいぶ経つし、この間なんて透子を騙して下まで呼び出せたんでしょ。なら体はもう大した問題なさそうだし、うまく乗り切るんじゃない?」透子はそれを聞いても、それ以上は何も言わなかった。目を少し伏せた顔には、これといった表情が浮かんでいない。理恵も、透子が蓮司に関する話題を続けたがっていないことは分かっている。ただ、あまりに大きなニュースだったから、思わず共有しただけだ。それ以上は深追いせず、理恵はすぐ別の話に切り替えた。それは、二人にとってはほんの小さな出来事にすぎなかった。料理が運ばれてくると、二人は食事をしながら、別の話題で賑やかに盛り上がった。ただ、透子は食べながら理恵と話していても、時折ふと上の空になることがあった。午後。
だが、雅人には理恵が頑なに自分を避ける理由が少し分からなかった。やはり以前、彼女の気持ちをはっきり断ったことがあるせいで、今さら顔を合わせづらいのだろうか。雅人は少し考えてから、返信を打った。【それなら二人で食べておいで。支払いは僕が持つ】助手席に座っていた透子は、その返信を見て理恵に伝えた。しかし、理恵はそれすらきっぱりと拒絶した。「いらないわよ。ご飯代くらい自分で払えるわ。私、ランチ代にも困るほど落ちぶれてないから」理恵は完全に雅人との関係を切り離したいようだった。今後一切関わりたくないどころか、同じ通りを歩いて同じ空気を吸うことすら我慢ならないと言わんばかりの勢いだ。透子は仕方なく、雅人の好意をやんわりと断った。雅人はそのメッセージを見て、わずかに沈黙した。その時、スティーブが社長室の奥にある休憩室から出てきた。手にはキャスター付きのハンガーラックを押している。本来なら、わざわざそんなことをする必要はない。服はそのままクローゼットに掛けておき、社長が必要な時にすぐ着替えられるようにしておけば済む話だ。だが、今回は違った。スティーブはにこにこと笑いながら言った。「社長、理恵お嬢様はなかなか独特な審美眼をお持ちですね。社長のために、ひと目で印象に残るような素晴らしい正装をお選びくださいましたよ」雅人が横へ視線を向けると、ハンガーラックには一式のスーツが掛けられていた。全体はチャコールグレーで、その色自体は悪くない。雅人の好みにも合っている。だが、中に合わせるシャツ、なぜ淡いピンクなのか。雅人は無意識に眉をひそめた。明らかに、雅人の普段のスタイルとは合わない。これほど甘い色の服を、雅人は一度も着たことがない。たとえシャツ一枚であってもだ。長くそばに仕えているスティーブも、当然そのことは分かっている。だからこそ、あえて服をクローゼットにしまわず、ハンガーラックごと引っ張り出してきて雅人の反応をうかがったのだ。雅人の眉が寄ったのを見て、スティーブは笑顔のまま説明した。「この一式なら、社長の厳しさが少しやわらぎます。若々しく、活気のある印象にも見えますよ。理恵お嬢様がご自身でお選びになったものですから、きっとかなり心を砕いてくださったのでしょう。社長があまり嫌がられると、せっかくのお気遣いを無
店長はすぐに応じた。「かしこまりました」透子が横から口を挟む。「ピンク?それって、お兄さんにはあまり似合わないんじゃないかな?」店長は透子へ向き直り、プロらしい柔らかな笑みを浮かべて説明した。「いえ、淡いピンクのシャツは清潔感があり、印象もやわらかくなります。年齢を問わずお召しいただけますし、チャコールグレーと合わせると、冷たい色味と温かい色味のバランスがきれいに出ます。全体として、品よく洗練された雰囲気に仕上がりますよ」透子はそれを聞き、納得したように頷いた。その横で、理恵が腕を組んだまま口を開く。「たくましい男ほどピンクを着るべきなのよ。ピンクは可愛い色だし、ああいういい年したおじさんにはちょうどいいわ」透子は素直に黙った。もう疑問を挟むことも、反論することもしなかった。どう見ても、理恵は服の弁償にかこつけて、兄の雅人にささやかな腹いせをしようとしている。最終的に服はきれいに包装され、理恵が会計を済ませた。その後、二人は雅人の会社へ向かった。車を路肩に停めると、理恵はシートベルトを外した。透子も一緒に車を降りる。理恵が紙袋を持ち直しながら言った。「受付に預けるわ。橘さんのオフィスまで届けてもらえばいいから」透子が尋ねる。「自分で持って上がらないの?」理恵は即答した。「行かない。あの顔、見たくない」透子が眉を上げた。「昨日の夜、完全に吹っ切れたって言っていたのは誰だったかな。どうして今日は顔を合わせることすらできないの?」理恵はすぐに反応した。「できないわけじゃないわよ!ただ、私が行く価値がないだけ。わざわざ本人に手渡ししてあげるほど、あの人は偉くないもの」透子は分かっていながら何も言わず、ただ笑った。「はいはい。じゃあ受付に預けようね」受付係は当然、透子のことを知っていた。社長の妹であり、理恵も以前に何度かここへ来たことがあるため、二人の身分は把握している。受付係は丁寧に微笑んだ。「お嬢様、柚木様、どうぞご安心ください。必ずきれいな状態でアシスタント室までお届けいたします」受付係の立場では、社長室へ直接入ることはできない。そのため、届けられるのはアシスタント室までだ。それでも社長宛ての荷物である以上、間違いは許されない。スティーブの手に直接渡す必要がある。理恵は荷
午前十時。理恵は透子と待ち合わせ、高級ブランドのブティックを訪れた。店長自らが付きっきりで接客に当たる中、透子は理恵と一緒に、雅人に弁償するためのスーツを選んでいた。理恵はあまり気乗りしない様子で言った。「適当に黒を一つ見繕えばいいわよね?あの人、普段から黒ばっかり着てるし」理恵には、じっくり品定めをする気などさらさらない。適当なものを一着買って、さっさとこの面倒な用事を片づけてしまいたかった。透子も頷いた。「いいと思う。黒なら定番だし、何にでも合わせやすいから」とはいえ、一口に黒のスーツと言っても、デザインは星の数ほどある。店長は店内にある黒のスーツを次々と運んできては、二人が選びやすいように丁寧に並べてみせた。ところが、口では「適当でいい」と言っていた理恵は、並べられたスーツを一瞥するなり、次々と難癖をつけ始めた。あるものはデザインが古い。あるものはシルエットが野暮ったい。あんなの雅人には似合わない。挙句の果てにはポケットの位置といった細かなディテールまで気になり出し、理恵はどうしても首を縦に振ろうとしなかった。あれこれ見比べた末、理恵は不満そうに店長へ尋ねた。「このお店、海外本社のラインナップと連動してないの?最近出たばかりの新作シリーズはないわけ?」店長が申し訳なさそうに頭を下げた。「申し訳ございません、柚木様。国内店舗への最新作の入荷は、どうしても海外より少し遅れてしまうことが多くなっておりまして。よろしければ、本部の最新シリーズのカタログをご覧いただけますでしょうか。お気に召すものがございましたら、すぐに本部へ手配し、空輸でお取り寄せいたします」理恵は少し考え込んだ。それでもいいと言えば、いい。だが、それではまるで、自分が雅人のためにわざわざ心を込めて特別な服を選んでいるみたいではないか。たかがスーツ一着だ。雅人の巨大なクローゼットには、仕事用のスーツなど何十着、下手をすれば百着近くずらりと並んでいるはずだ。それなのに、わざわざ新作の到着を待ってまで取り寄せるとなると、ただの弁償というより、まるで恋人への特別なプレゼントを贈るかのように気合いが入って見えてしまう。理恵は唇を引き結び、少し間を置いてから言った。「……いいわ。そこまで面倒なことはしなくて。ここにあるものから適当に選んで包
蓮司が何も言わず、医師も大した問題はないと告げたのを聞いて、新井のお爺さんは腹立たしげに電話を切った。新井家の本邸。執事が、庇うように言った。「旦那様、若旦那様はここ数日、大変おとなしくしておられました。今日、常軌を逸した行動に出られたのは、何かあったのかもしれません」新井のお爺さんは、冷たく鼻を鳴らした。「何かあっただと?あやつの気が触れただけだろうが!」執事は祖父と孫の間の溝を埋めようと、ボディガードに何があったのかを詳しく尋ねた。原因は分からなかったが、若旦那様がすでに第三京田病院の入院病棟一階に見張りを送り、透子様を見舞いに来る異性がいたら、片っ端から追い払え、と命
雅人の脳裏に、調査で明らかになった高校時代のあの事件が蘇る。あの時も、美月は透子を呼び出し、自らドアに鍵をかけて、透子を危うく……美月は、間違いなく故意にやったのだ。透子を陥れるためだけに。あんな女、子供の頃から性根が腐りきっている。大人になって、さらに悪辣になった。まさに、恩を仇で返すような人間だ。それなのに、透子は子供の頃から、あの子を親友だと信じていたなどと。雅人は怒りに身を震わせ、歯を食いしばって吐き捨てた。「……あいつを捕らえたら、八つ裂きにしてやる」理恵もそれに賛同した。美月をただ刑務所に入れるだけなんて、生ぬるすぎる。彼女が、ふと思いついたように言
長年の微笑はあくまで隠れ蓑、内面は有能かつ冷酷な人間なのである。場面は変わり、路上で、聡と理恵は、スピーカーフォン越しに大輔からの説明を聞いていた。だが、彼も今朝になってようやく連絡を受けたばかりで、昨夜の事件はすでに遅い時間だったため、詳しい内情までは把握していない。「とにかく、そういうことです。ボディガードと警察が共に出動し、最終的に如月さんを救出しました」理恵は憤りを込めて尋ねた。「誰がやったの?またあの朝比奈!?」「確証はありません。僕もボディガードから聞いた話なので」大輔は少し間を置いて続けた。「ですが、不思議なことに……決定的な場面で如月さんを救ったのは
雅人は黙ったまま、ただひたすらに勝民を蹴り続けた。その悪鬼のような形相に、周りのボディガードとアシスタントは思わず数歩後ずさった。腰をかがめれば顔面を蹴り上げ、手で防ごうとすれば胸を砕かんばかりに蹴りつける。一撃一撃に、一切の容赦がない。革靴が肉と骨にめり込む、鈍く湿った音が、廃工場に響き渡った。勝民は嗚咽しながら何かを叫んでいたが、十数発も蹴られるうちに、もはや声も出なくなった。雅人が、どれほど非情で冷酷な人間か。彼は、初めてこれほど直感的に思い知らされた。心の防御線は完全に崩壊し、純粋な恐怖だけが彼を支配していた。やがて、ツンとしたアンモニア臭が漂い始める。ボディガ