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第8話

Author: 桜夏
美月のか弱くて可哀想なその様子に、蓮司はハッと我に返った。すぐに駆け寄って、優しく声をかける。

「美月のせいじゃないよ。泣くな」

美月は鼻をすすりながら泣き続け、蓮司は彼女をそっと支えてリビングのソファへと連れていった。彼の声は、まるで子どもをあやすように甘く、優しかった。

――その声。

キッチンにいた透子の耳には、妙に刺さる。

こんな優しい声、あんたが私に向けたことなんて、一度もなかった。

……でも、もうどうでもいい。望んでなんかない。ただ、一刻も早く――ここを出たい。

気持ちを整え、再びフライパンを握る手が動き出す。

離婚って、想像以上に難しい。蓮司ならきっとすんなり署名すると思ってた。でもこの調子じゃ、別の方法を考えるしかなさそうだ。

愛されないのは仕方ない。でもそれが、あんたの「復讐」になるとはね。全部、二年前に私が欲をかいたツケなんだろう。

――リビング。

美月はしばらくの間、蓮司にあやされ続けていた。男の胸に身を預けながら、そのぬくもりを感じる。

まるで、昔と何も変わっていないみたいだった。

……でも、じゃあなんで離婚しないの?透子の方から言い出したのに。

美月は蓮司の顔を見上げる。でも結局、言いたいことは飲み込んだ。今、それを言ったら「キャラ」が崩れるから。

蓮司は彼女の背中を優しく撫でながらも、その目はどこか宙をさまよっていた。

透子が離婚を言い出した。その事実が、思いのほか胸に刺さる。あんなに冷たい顔で、淡々と――まるで、もう何の未練もないみたいに。

何かが、確かに崩れていく感覚。でも、それでも彼は必死に理性を取り戻し、拳を握る。

透子は俺を愛してる。きっと離婚なんて本気じゃない。ただ俺の気を引きたかっただけだ。

――それから30分ほどが過ぎて、透子が料理をだいたい仕上げたころ。

美月がまたキッチンに現れた。わざとらしい笑顔を浮かべて近づく。

「透子〜、私もお皿運ぶ〜」

「いらない」

透子はきっぱり、冷たく言い放った。

それを聞いて、美月の口元に皮肉な笑みが浮かぶ。視線の隅に蓮司の姿を捉えた彼女は、わざとらしく皿を手に取ろうと前に出る。

その皿には熱々の角煮。さっき仕上げたばかりで、まだ湯気が立ってる。なのに美月は、透子の前を無理に腕を伸ばして取ろうとした。

透子がとっさに身を引こうとした、その瞬間――

皿が美月の手から滑り落ちた。

角煮が直撃したのは、透子の足。

「っ……!」

とんでもない熱さに、涙がこみ上げた。でも、まだ声も出してないうちに――

「きゃあああああっ!!」

美月の悲鳴が響き渡る。

「手切れた!血出てる〜!!」

蓮司は反射的にキッチンへ飛び込んできた。彼の視界に飛び込んできたのは、衝撃的な光景だった。

――血を流した手を押さえて悲鳴をあげる美月。そして、その目の前で、包丁を握った透子が右手を振り上げ、まさに美月の手に叩きつけたかのような――そんな瞬間であった。

「透子!殺人は犯罪だぞ!刑務所行きたいのかよ!!」

蓮司は怒鳴り声を上げ、透子を乱暴に突き飛ばした。

そのとき、透子は熱さで立っているのもつらかった。そこに不意の衝撃。体は壁の角にぶつかり、そのまま崩れ落ちた。

元々痛めていた尾てい骨に、また衝撃が加わる。

――痛い、もう、限界だ。

ついに、透子はその場で泣き出してしまった。

蓮司は美月を抱きかかえたまま玄関まで来ていた。その時、背後から透子の痛みに満ちたすすり泣きが聞こえ、思わず振り返る。

目に入ったのは、全身に食べ物の残骸を浴び、惨めな姿でうずくまる透子だった。

蓮司の意識が、一瞬彼女に引き寄せられた――その時だった。

「ううっ……うぅっ……血が、いっぱい……!」

蓮司の注意が逸れたのを敏感に察したのか、美月がわざとらしく、裂けるような声で泣き叫んだ。その声にハッと我に返った蓮司は、すぐさま意識を美月に引き戻される。

「うっ……怖いよぉ、痛いのほんとに苦手なの……蓮司も知ってるでしょ?」

美月は涙をポロポロ流しながら、蓮司にしがみつく。

蓮司は急いで彼女をソファに座らせ、救急箱を探し出し、応急処置を始めた。

傷口を見たその瞬間――それは、爪の跡にも満たないほどの、点のような引っかき傷だった。血もすでに止まっている。

「うぅっ……私ほんとに痛がりでさ……ケガとかほんと無理なのよ」

涙ぐみながら、美月は甘えるように言った。

蓮司はそっと絆創膏を貼ってやり、そのまま彼女を抱きしめる。

「知ってる……お前、昔からそうだったよな。孤児院にいたころ、いろんなヤツにいじめられて……」

あの頃の美月は、世界で一番傷つきやすい存在だった。蓮司は、できることならあの時代に戻って守ってやりたいと、今でも思っていた。

二人がそうして抱き合っているときだった。

透子が、キッチンの扉にすがるようにして、よろよろと出てきた。

その姿を見た瞬間、涙が一層滲んで止まらなくなった。

――殺人?

蓮司は、私が美月を殺そうとしたって言った。

……ふざけるな。どのクソみたいな目で見たって言うんだ!

私は美月がどうやって手を切ったかさえ知らないのに。ただ、足に落ちたあの熱々の角煮で、昨日できた水ぶくれの上を思いっきり打たれただけ。

足を引きずり、腰をかがめて、透子はふらふらとトイレへと向かった。

蓮司はその足音に気づいて、ちらりとそちらを見た。でも、背中が見えなくなるまで立ち上がろうとはしなかった。

――バスルーム。

透子はシャワーを捻った。ぬるま湯にしようと思ったのに、傷に触れた瞬間、その温度は沸騰水のように痛かった。

歯を食いしばって、冷水に切り替える。残ったスープの汚れや肉片を洗い流していく。

砕けた皿で潰れた水ぶくれ。その傷に流れ込む水とソースが、皮膚を鋭く刺激する。身体が勝手にビクッと反応するほどだった。

でも――

その痛みよりも、心の方が、よっぽど痛かった。

蓮司に思いっきり突き飛ばされた瞬間が、何度も脳裏に浮かんだ。

――もう、好きじゃないと思ってたのに。

いや、違う。

私は、蓮司のことを……憎み始めてる。

どうして、どうしてこんなに私を苦しめるの?

なんで美月まで巻き込んで、一緒になって私を痛めつけるの?

私って……そんなに、罪深いの?

涙がぽたぽたと床に落ちて、透子は震える声ですすり泣いた。

そのとき――後ろから、誰かの気配。そして、声がした。

「おい、お前……」

その一言を聞いた瞬間、透子は怒りで爆発した。

「消えろ!!ここから出てけって言ってんのよ!!」

叫びと同時に、シャワーの水が蓮司に向かって飛んだ。

彼は反射的に腕を上げて防御しながら、怒りで顔が真っ赤になる。

「はぁ!?お前、何ブチ切れてんだよ!?頭おかしいんじゃねぇの!?」

だが返事の代わりに飛んできたのは――洗面器、シャワーヘッド、果てはトイレブラシまで。

さすがに蓮司も追い詰められ、必死に後退。最後にはドアを思いっきり閉めて、捨て台詞を吐いた。

「マジでてめぇ、イカれてんだろ!!」

ほんの少し、気になって様子を見に来ただけだったのに。怒鳴られ、水ぶっかけられて、挙げ句の果てにトイレブラシまで投げられるとは。

蓮司は、本気で――透子をぶん殴りたくなっていた。

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タチコマ
トイレブラシ投げられた〜ザマーミロ!透子もっとやれ〜!
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