LOGIN透子は顔を上げ、少し間を置いてから口を開いた。「うーん……順調に、進んでるんじゃないかな」理恵はそれを聞いて片眉を上げた。「何よその言い方。お兄ちゃんと業務提携でも結ぶつもり?」透子はうつむいてコーヒーを啜った。他にうまい言い回しが見つからないのだから仕方がない。「ねえ、もしかしてお兄ちゃんに対して、ときめくとか、そういうの全然ないの?」理恵が重ねて訊く。透子が再び顔を上げた。その瞳は澄み切っていて、堂々としていて、一点の曇りもない。――答えを聞くまでもなかった。理恵にはもう、はっきりとわかってしまった。「はあ……お兄ちゃん、ダメね。ときめかせる入り口にすら立ててないじゃない」理恵がため息をつく。「そんなことないわよ。聡さんはルックスも家柄もいいし、仕事だってすごく……」透子が聡を弁護しようとした。「そうよね。じゃあ、なんで好きにならないの?」理恵はストローをくわえたまま、あっさりと遮った。透子は言葉に詰まり、しばし黙り込んだ。何か返そうと口を開きかけたが、理恵がそれを制して先に続けた。「いいのよ、私にも自分自身にも嘘をつかなくて。顔を見れば全部わかるんだから。お兄ちゃんの話をしてる時の透子の目、真っ直ぐすぎるのよ。好きな人のことを語る目じゃないわ。優秀なビジネスパートナーを評価する時の目よ。本当に人を好きになったら、ふとした表情に出ちゃうものでしょ。でも透子、あなた堂々としすぎ。恋してる女特有の、あのフワフワした感じが、欠片もないんだもの」透子は親友の言葉を聞き、また黙り込んだ。――理恵の目には、聡さんについて語る私が、そんなふうに映っていたのか。胸に手を当てて、自分自身に問いかけてみる。恋愛経験はあまりにも乏しく、誰かを好きだという気持ちが最も鮮烈だったのは、十代の頃だ。あの頃と今を比べてみれば――確かに、今の自分が聡に抱いている感情には、あの、人知れず胸が弾み、心臓がどうしようもなく暴れ出すような熱がない。だが、あれはもう終わったことだ。ただの悪縁だった。もう完全に断ち切って前へ進むと決めたのだ。過去の人間とは、二度と交わらない。「……まだ、一緒にいる時間が短いだけかもしれないわ」透子はぽつりと呟いた。――そう、まだ時間が足りないだけ。だから聡さんにときめけないのだ。愛情は、一
蓮司が、透子の来訪を知らないはずはなかった。見舞い客があれば、必ず警護から彼にも報告が上がる仕組みになっている。つまり、知っていてなお、あえて近づこうとしなかったということになる。それで執事も、ようやく肩の力を抜くことができた。蓮司が現れないおかげで、透子ものびのびと新井のお爺さんとの会話を楽しめるようになり、お爺さんの顔色もずいぶん明るくなった。四日目、透子が病院を訪れた時、隣には理恵の姿があった。物静かな透子と、賑やかな理恵。正反対の二人が揃ったことで、病室はいつにも増して明るく、温かな空気に包まれた。見舞いを終えて病棟を出た後、二人は並んで歩きながらおしゃべりを始めた。理恵が感心したように言った。「いやあ、透子って本当にマメよね。知らない人が見たら、新井のお爺様の実の孫娘だって思うわよ」透子は穏やかに答えた。「お爺様にはずっとよくしてもらってたから。寝たきりになってしまったし、時間がある時はなるべく顔を出したくて」理恵は、親友と新井のお爺さんの間にある深い縁を知っている。大学時代、学内のプロジェクトコンペで透子の才能にいち早く目をつけたのが新井のお爺さんだったこと。そしてその後、透子が二年間あの家で嫁として暮らしていた。理恵はきょろきょろと周囲を見回した。「正直ね、この病院に来たら絶対あいつがしつこく絡んでくると思ってたの。でも今日ついて来てみたら、意外とおとなしくしてるのね。病院にいないか、さもなきゃ奇跡が起きたかのどっちかね」透子はそれには何も答えなかった。初日こそ蓮司は現れたが、その後は執事がうまく手を回して押さえ込んでいるのだろうと察していた。理恵はなおも落ち着かない様子で、後ろや左右を何度も確認している。あの蓮司がおとなしく引っ込んでいるなんて、どう考えてもありえない。後ろにも横にも人影はない。「まさか本当に改心したの?」と半信半疑になりかけた、その時。ふと、何気なく視線を上に向けた理恵の目が、ある一点で釘づけになった。三階の窓辺から、じっとこちらを見下ろしている人影がある。――やっぱり!あのストーカー、覗き見してるじゃない!理恵はあの男がおとなしくしているわけがないと確信した。慌てて透子の袖を引っ張り、上を指さす。「三階!左から五番目の窓!」透子が言われた方向を見上
その言葉を聞いて、執事は合点がいった。「では、以前は若旦那様が原因で海外行きをお考えになっていた、ということですね」透子は何も答えなかった。沈黙が、そのまま肯定だった。「それが今回、国内に残ると決められたということは……その理由が、栞お嬢様の中ではもうなくなったということでしょうか」執事がさらに踏み込む。新井蓮司という人間が消えたわけではない。消えたのは、透子の心に及ぼしていた影響の方だ。「ええ。新井さんと顔を合わせても、もう平気だとわかったんです。苛立つことも、逃げ出したくなることも、もうありませんから」透子は静かに答えた。執事は深く頷いた。本当に過去を乗り越えるとは、こういうことなのだろう。たとえ目の前に立たれても、心は凪いだ水面のように微動だにしない。――それならば、昨日の長電話にも説明がつく。若旦那様が三十分以上も電話を続けられたのは、栞お嬢様にとってあの通話がもはやただの電話でしかなかったからだ。相手が誰であろうと構わない。それほどに、何も感じなくなっていたのだ。透子が車に乗り込み、走り去っていくのを見届けてから、執事は病室に戻った。透子が国内に長期定住する旨を、新井のお爺さんに報告する。話し終えるか終えないかのところで、ドアが荒々しく開き、一人の男が飛び込んできた。医者のもとから逃げ出してきた蓮司だった。今回はあっさり入れた。鍵がかかっていないことを不思議に思いつつ室内を見回すが、透子の姿はどこにもない。落胆が顔をよぎったが、それも一瞬のこと。蓮司はすぐに執事へ目を向けた。たった今、執事が新井のお爺さんに報告していた内容が耳に入っていたのだ。「透子が、国内に定住するのか?!」蓮司の声が震えていた。興奮を抑えきれていない。その浮かれた顔を見て、新井のお爺さんは露骨に白目を剥いた。透子が残ろうが残るまいが、お前に何の関係がある。浮かれおって。これで自分にもまだ望みがあるとでも思っているのか。どこまで思い上がれば気が済むのだ!執事が振り返り、静かに、しかし容赦なく釘を刺した。なぜ蓮司がこれほど喜んでいるか、痛いほどわかっている。だからこそ、頭から冷水を浴びせるように言った。「若旦那様、どうか落ち着いてください。栞お嬢様が国内に残られるのは、ご本人のお考えによるものです。お嬢様はこうおっしゃって
透子は向き直り、執事とともに歩き出した。後方では、蓮司がまだ引きずられていた。屈強な大男三人を相手にしては、一人で敵うはずもない。押されるままに連れ去られながらも、彼は首がもげんばかりに後ろを振り返ろうとしている。「透子、出国やめたのか?俺の言葉で気が変わったんだろ?」蓮司は諦めきれず、声を張り上げた。昨日メッセージを送ったばかりで、今日こうして透子が海の向こうではなくこの病院に現れたのだ。舞い上がらないわけがない。自分の言葉が彼女の心を動かしたのだと、ひそかに確信しかけていた。もし自分の想いが届いたのなら、透子はもう以前ほど自分を嫌っていないのではないか。ということは、まだ――そんな妄想に浸っていた蓮司の目に、前方で透子が足を止め、振り返る姿が映った。蓮司の笑みがいっそう大きくなる。――やっぱり当たりだ。彼は興奮のまま口を開きかけようとした瞬間、透子の冷ややかな声が飛んできた。「自惚れないで。思い上がりもいいところよ。私が国内に残るかどうかは私自身の問題であって、あなたには一切関係ないの」蓮司の表情がぴたりと固まった。胸に鋭い矢が突き刺さったような痛みが走る。だが、すぐに彼は一つの事実だけにすがりつき、無理やり笑みを作り直して言った。「ああ……俺の思い上がりだった。でも、君が国内にいてくれる。それだけで、俺は嬉しいよ」透子は何も返さず、背を向けて再び歩き出した。「透子、これからたまに会ってくれないか?もう迷惑はかけない、世間を騒がせるようなこともしないから!」蓮司が叫ぶように問いかけた。その声には期待と怯えが入り混じっていた。透子は振り向かなかった。答えもしなかった。代わりに執事が足を止めて振り返り、無表情のまま告げた。「お断りいたします。栞お嬢様が国内に残られたからといって、若旦那様がまたつきまとってよい理由にはなりません。旦那様に代わり、私がしっかりお目付けいたします。それから、ご自分で迷惑をかけないとおっしゃるのでしたら、栞お嬢様の前に姿を現さないことが何よりの誠意かと存じます」蓮司は奥歯を噛み締めた。それでも透子本人の口から答えを聞きたくて、その姿を目で必死に追いかけた。だが、透子はすでに廊下の角を曲がっていた。ちらりと見えていた背中さえ、もう見えない。「透子、透子
蓮司が苛立ちまぎれにバンバンと荒っぽく窓を叩いた。執事が直接外へ出て注意してやろうと歩きかけたが、数歩も行かないうちにその物音がぴたりと止んだ。観念したのかと思い、念のためドアの方へ引き返すと、ドアにはめ込まれた小窓越しに、またしても蓮司の必死な目とばっちり合ってしまった。執事は内心で顔をしかめた。――このドアにも小窓がついていたことを、すっかり忘れていた。容赦なく小窓のブラインドをシャッと下ろす。これで病室の中を覗ける隙間は、完全に塞がれた。ドアの外の蓮司は絶句した。――高橋のやつ、容赦なさすぎるだろ。これっぽっちの隙間すら残してくれないとは……執事はそのままドアの前に陣取り、再び叩かれたり開けられたりしないよう、見張りを続けた。病室内では、ちらりとドアの方を窺っていた新井のお爺さんも、騒ぎが収まったのを見て視線を透子へ戻した。透子は、最初から最後まで一度も振り返らなかった。ただ、窓に張りついていた蓮司の姿だけは、視界の端に入っていた。……透子はその後も三十分ほど新井のお爺さんのそばで穏やかに話を続け、やがて席を立った。執事が見送りのためにドアに手をかける。しかし、開けた瞬間、何かが勢いよくゴロンと足元へ転がり込んできた。執事はとっさに透子を背後へ庇った。透子もぎょっとして目を落とした。転がり込んできたのは、仰向けに倒れた蓮司だった。その体勢から察するに、ドアに背中をもたれて床に座り込んでいたのだろう。突然ドアが開いたため、支えを失って後ろへひっくり返ったのだ。「透子、お爺様と話し終わったのか?」蓮司は、今しがた人前で無様にひっくり返ったことなど欠片も気にしていなかった。ぱっと立ち上がり、目をきらきらさせて透子を見つめる。執事がすかさず割って入った。さらに、少し離れた場所に控えていた警護たちにも矛先を向ける。「若旦那様、なぜドアの前で地べたに座り込んでおられるのです。危うくお怪我をされるところでした。――お前たちもお前たちだ。なぜ若旦那様に椅子をお出ししない」警護たちは心の中で猛烈に抗議した。――椅子ならとっくに用意してすぐ脇に置いてある。座ろうとしないのはご本人だ。椅子を無視して、わざわざ地べたに座ってドアにもたれかかっていたのだから!「高橋さん、口を挟まないでくれ。俺が
警護たちは再び足を止めた。――若旦那様と旦那様、一体どちらの命令に従えばいいのか。執事は自分の老体がもう限界だと悟り、とっさに機転を利かせた。ベッドの新井のお爺さんの方を向き、声を張る。「旦那様、若旦那様を外へお連れ出ししてもよろしければ、一度まばたきをお願いいたします」警護たちが一斉にベッドへ視線を向けた。――新井のお爺さんのまぶたが、はっきりと一度閉じて開いた。「見たな!さあ早く!相手が若旦那様であろうと、旦那様のご意思が絶対だ!」執事の檄が飛ぶ。もう迷いはなかった。警護たちは一斉に動き、左右から蓮司の両脇をがっちりと抱え込んだ。「傷口には触れるな。慎重にな」執事はようやく体の力を抜き、荒い息の合間にそう念を押した。蓮司はなおも激しく身をよじり、警護たちを怒鳴りつけている。だが彼らは顔色ひとつ変えず、ゆっくりと、しかし着実に蓮司を出口へ向かって――半ば引きずるようにして外へ連れ出していった。抗いようのない力でずるずると引かれ、もうあと数歩でドアの外というところで、蓮司は咄嗟に手を伸ばし、ドア枠にしがみついた。もう暴れもせず、怒鳴りもしない。ただひたすら、すがるような目で透子を見つめている。一秒でも長く顔を見ていたい、一言でも多く言葉を交わしたい――そんな切実さが、全身からにじみ出ていた。「透子、外で待ってるから。俺――」言葉は最後まで続かなかった。執事が無言で歩み寄り、ドア枠にしがみつく蓮司の指を一本ずつ、容赦なく引き剥がしたからだ。警護たちに目配せして外へ出させると、自らドアをピシャリと閉め、迷いなく鍵を掛けた。閉ざされたドアの向こうから、くぐもった声が聞こえてくる。それに続いて、ドンドンとドアを叩く音が響いた。「透子!高橋さん、開けてくれ!入れてくれ!」開けるはずもない。やがてその声は少しずつ遠のいていった。警護たちに引きずられていったに違いない。病室に、ようやく静けさが戻る。執事は透子に向き直り、深く頭を下げた。「栞お嬢様、大変お見苦しいところをお見せしました。誠に申し訳ございません」透子は再び椅子に腰を下ろし、新井のお爺さんに目を向けた。その瞳にはっきりと詫びの色が浮かんでいるのを見て、やわらかく微笑む。「いいえ、お気になさらず。大丈夫ですよ、お爺様。ちょっとしたハプニングで
「具体的にどなたかは仰っていませんでした。わたくしも差し出がましく聞くわけにはいきませんし。おそらく、ご親戚の方ではないかと」蓮司はそれを聞いて納得し、それ以上追及しなかった。だが、執事を病室の外へ出すことは諦めず、蓮司は説得を続けた。「本当にお爺様の様子を見に行かなくていいのか?親戚連中に酒を勧められたらどうする。お爺様は一人で行ったんだろう」執事は言った。「若旦那様、ご安心ください。あの方々が無理にお酒を勧めるようなことはなさいません。もしご心配でしたら、わたくしが今すぐ電話で確認いたします」蓮司は、あれこれと言葉を尽くしたのに、結局電話一本で済まされそうになり、言葉に詰ま
まさに大輔の言うことが正論すぎたため、グループチャットの他の幹部たちは、そのメッセージを見て目の前が真っ暗になった。大輔、お前という奴は!それが集団の利益を損なうと分かっていないのか!社長が勝の案を採用しないのを見て嬉しいのか?なら代案を出せよ!実行段階では姿を消しておいて、水を差す時だけ現れるとは。彼らは皆、当時の勝が味わった心臓が止まるような思いを、今まさに追体験していた。気の短い幹部はすでに連絡先を開き、大輔に「糾弾の電話」をかけようとしていた。しかし、通話ボタンを押すより早く、大輔から次のメッセージがポップアップした。【ですから、外部的な手段で補うことをお勧めし
「社長、坂本部長は僕が書類を送っていないと誤解されているようで、いくら説明しても聞く耳を持っていただけないのです」大輔は傍らで溜息をつき、いかにも被害者といった様子で訴えた。「あんなに剣幕でアシスタント室に乗り込んでこられて……僕はいつも通り、真面目に仕事をしていただけなのに」それを聞いた勝は、大輔が被害者面をして逆に自分を訴えているのを見て、カッとなって怒鳴った。「佐藤さん、言葉を慎め。濡れ衣を着せるな。誰が乗り込んだと言うんだ?ただ聞きに行っただけだろう。書類を漏らしたとは言っていない。後回しにしたと言っているんだ」相手が論点をずらそうとしているのを見て、大輔は皮肉っぽ
晃良は言った。「え?簡単じゃありませんよ、社長。僕たち、何度も別れましたから」蓮司は絶句した。――お前が俺より大変なわけがあるか?こっちは離婚までしているんだぞ。彼は額に手を当て、ベッドの背もたれに寄りかかり、どっと疲れを感じた。晃良の方法もダメだ。全く参考にならない。プレゼント攻撃は、高級車やブランドジュエリーを贈っても叩き壊され、ゴミのように捨てられた。電話をすれば着信拒否。直接会いに行けば、警備員に追い出される始末だ。……自分の経験と部下たちの経験を比べると、蓮司は妻を取り戻す難易度がまるで違うと感じた。次元が違うのだ。蓮司は天井を見上げ、独り言の