LOGINそうでなければ、リハビリ担当者が「新井のお爺さんはもう危ないかもしれない」などと言い、透子があれほど取り乱して泣くはずがない。リハビリ担当者も、医療に携わる資格を持つ専門職だ。軽々しくそんな死の宣告を口にする人間ではない。そう考えてはいけないと分かっていても、執事の頭の中では最悪の想像が勝手に膨らんでいく。それでも信じたくなくて、執事は透子をじっと見つめた。彼女の口から、何か別の答えを聞きたかった。透子はまだ嗚咽をこらえていた。必死に呼吸を整え、震える唇を開く。「お爺様が……その時、目の焦点が……合わなくなって……」透子は伝えたいことを何とか言葉にしようとした。けれど、声は途切れ途切れで、息を吸うたびに喉が震えた。最後にはまた嗚咽がこみ上げ、言葉はそこで崩れ落ちてしまった。その横で、「焦点が合わなくなった」という言葉を聞いた瞬間、執事の頭の中で凄まじい轟音が鳴り響いた。全身から一気に力が抜け、体がグラリと横へ傾く。ボディーガードたちが素早く手を伸ばし、倒れかけた執事を支えた。執事の赤く充血した目から、ついに涙がこぼれ落ちる。体は震え、指先まで小刻みに揺れていた。「……旦那様ッ!」胸の奥には、言いたいことが山ほど詰まっていた。だが、何一つ言葉にならない。最後に絞り出せたのは、悲痛に引き裂かれたような、その一声だけだった。執事は深い悲しみに打ちのめされ、突然突きつけられた残酷な現実をどうしても受け入れられずにいた。だからリハビリ担当者はあんな宣告をしたのか。だから透子は、あれほど泣き崩れていたのか。旦那様は……旦那様は、本当にもう危ないのだ。「お爺様!お爺様はどうなったんだ!」廊下の入口から、切羽詰まった声が響いた。蓮司だった。病院の外に記者たちが押し寄せていると聞き、自ら戻って事態を収拾するつもりだったのだ。だが、記者への対応どころではない。蓮司を待っていたのは、それよりはるかに重く残酷な凶報だった。執事はボディーガードに支えられたまま振り返った。若旦那様を見て何かを言おうとしたが、口を開いても嗚咽が漏れるだけで、一言も発することができなかった。蓮司は執事のその悲痛な姿を見た。さらに、傍らで涙を拭っている透子を見た。その瞬間、最悪の予感が氷の刃のように胸を突き刺した。「お爺様……まさか
ボディーガードに制止され、執事はようやく我に返ったかのように足を止めた。その場に立ち尽くし、少し離れた場所からベッドのほうを呆然と見つめる。だが、幾重にも医師たちに囲まれていて、新井のお爺さんの姿はまったく見えない。今どんな状態なのかも分からない。執事にできることは、ただ祈るように待つことだけだった。やがて、リハビリ担当者と透子が執事のそばへ歩み寄ってきた。リハビリ担当者はボディーガードへ目配せし、執事を室外へ連れ出すよう促す。三人は重い足取りでリハビリ室を出た。廊下に出ると、執事は声を殺して泣きじゃくる透子を見た。先ほど電話越しに透子の悲鳴を聞いたからこそ、執事は血相を変えて駆けつけたのだ。彼はどうにか激しく波打つ心を立て直し、二人へ問いかけた。「栞お嬢様、リハビリの先生。旦那様に、いったい何が起きたというのですか?」透子は口元を覆っていた手をゆっくりと下ろした。答えようと口を開いたが、嗚咽に喉が詰まり、声にならない。そばにいたボディーガードが、すかさずティッシュを差し出した。代わりに、リハビリ担当者が努めて冷静な声を保ちながら事情を説明した。「私は新井会長のリハビリを行っていました。始める前に体調確認も済ませています。その時はあなたもその場にいらっしゃいましたよね。リハビリの最初の段階では、会長に目立った不調はありませんでした。状態は極めて安定していました。ですが、外からあの拡声器の声が聞こえた直後、急に体が痙攣し始め、必死にベッドから降りようとなさいました。拡声器では、新井グループのプロジェクトで死者が出たことや、株価が大きく下がったことが叫ばれていました。おそらく会長は、それがご自身の会社のことだとすぐに理解されたのだと思います。それで、急激なショックを受けられて……」リハビリ担当者の話を聞きながら、執事もすでにおおよその事態を察していた。──旦那様は新井グループに関する絶望的な知らせを耳にし、感情が一気に高ぶってしまったのだ。「それで、旦那様のお加減はどうなのですか!今、どういう状態にあるのですか!」執事は問い詰めた。それこそが、彼が今もっとも知らなければならないことだった。あの拡声器による奇襲は、完全に執事の不意を突いていた。外に群がっていた記者たちは警察に連行させたはずだった。まさか、
拡声器からの声は、なおも途切れなかった。「新井グループの海外港湾プロジェクトで重大事故が発生し、十数人の死傷者が出ています!グループのトップとして、この件について正面から説明していただきたい!」「新井グループの株価は八パーセントも下落し、市場に大きな動揺が広がっています!実質的な意思決定者として、このまま影響が拡大するのを放置し、事態が自然に沈静化するのを待つおつもりですか!」……拡声器はまだ何かを叫び続けていた。だが、その先の言葉はもう新井のお爺さんの耳には入っていなかった。海外プロジェクトで十数人の死傷者。株価の大幅下落……昨日、蓮司が一日中病室に姿を見せず、夜遅くに戻ってきた時も疲労困憊していた理由が、ようやくひとつにつながった。新井のお爺さんは目を見開いた。声を出したかった。何が起きたのか、詳しい経緯を問いただしたかった。なぜプロジェクトでそれほど多くの死傷者が出たのか。なぜ株価がそこまで急落したのか。事故はいつ起きたのか。会社はすぐに対応しなかったのか。広報部は何をしているのか。問いただしたいことは山ほどあった。けれど、どれほど口を開いても言葉にならない。喉の奥から漏れるのは、ひゅう、ひゅうと詰まったような荒い息だけだった。まるで巨大な石で喉を塞がれているかのようだ。新井のお爺さんは震える手を伸ばした。外へ出たい。執事を呼び、状況を聞き出したい。だが、もともと体はほとんど動かない。そこへ極度の焦りが重なり、顔はゆがみ、手足は意思とは違う方向へ激しく引きつった。「新井会長、無理にお体を動かさないでください!」そばにいたリハビリ担当者が慌てて声をかけ、体を元の姿勢に戻そうと手を伸ばした。しかし、新井のお爺さんの体は枯れ枝のように硬くこわばっていた。そこへ本人が無理に力を入れたことで、筋肉が一気に痙攣を起こしたのだ。「誰か!誰か来てください!至急、医師を呼んでください!」リハビリ担当者はナースコールを連打しながら、外にいるボディーガードたちへ切羽詰まった声で叫んだ。その頃、リハビリ室の外では。拡声器の声が響いた直後、透子は真っ先に執事へ連絡を入れていた。まだ通話はつながったままだったが、拡声器を積んでいたドローンはすでに撃ち落とされている。すべては、ほんの数分のうちに起きたことだった
リハビリ室の中は静かだった。透子はその場に十五分ほどとどまっていた。その時、ポケットの中のスマホがかすかに震えた。取り出して見ると、執事からのメッセージだった。【外の記者たちはすべて対応いたしました。ただ、世論への影響については、まだ火消しが必要です】透子はすぐに返信した。【そちらの対応に集中してください。お爺様のことは私が見ていますから、こちらは大丈夫です】執事から感謝の言葉が返ってきた。それを最後に、彼は事態の収拾へ戻った。本来なら、この騒動はすべて新井のお爺さんに気づかれないまま処理されるはずだった。だが、その二分後、リハビリ室の入口に四人のボディーガードが現れた。彼らの制服は、新井家のボディーガードのものとは違っている。新井家のボディーガードに扉の外で制止されると、四人は室内の透子へ目を向け、居住まいを正した。「お嬢様。社長のご指示で、お迎えに上がりました」透子は立ち上がり、扉の外へ出た。そのまま数歩離れ、リハビリ室から少し離れた中庭へ続く階段の下まで彼らを連れて移動する。「まだ帰りません。こちらのことが、まだ完全には片づいていませんから」透子はボディーガードたちに言った。「ですが社長は、現場の処理は新井家側で十分に対処できるとおっしゃっていました。お嬢様がこんな危険な場所に残られれば、ご家族が心配なさいます」ボディーガードの一人が答えた。透子はわずかに唇を引き結んだ。彼らを困らせたいわけではない。「お兄さんには、私から直接話します」そう言ってスマホを取り出すと、十分前に雅人から何件もメッセージが届いていた。どれも、早く安全な場所へ戻るよう促す内容だった。透子はうつむき、返信を打ち始めた。その頃、リハビリ室の中では。口が利けず、体も思うように動かないぶん、新井のお爺さんの耳は以前よりも鋭くなっていた。透子が外へ出た瞬間、新井のお爺さんはまばたきでリハビリ担当者に合図し、リハビリを中断させた。そして静かに、外の会話へ耳を澄ませる。透子の声は小さく、内容までは聞き取れなかった。だが、橘家のボディーガードたちの声はよく通る。断片的にではあるが、いくつかの言葉が耳に入った。現場の処理?何の現場を処理するというのだ?家族が心配する?透子がここに残ると、なぜ家族が心配する?
「透子、透子?聞こえてる?通話、切れてないよね?」透子は答えた。「切れてないよ。家族に返信していたの。お兄さんから『通話中になってる』ってメッセージが来たから、理恵と話しているところだって返したの」雅人の名前が出た途端、電話の向こうで理恵の声が少し止まった。数秒ほど沈黙してから、理恵は言った。「じゃあ、いったん切るね。先にご家族と話して。きっと私より心配してるから」そう言って、理恵は電話を切った。透子は雅人へ折り返そうとした。けれど、祥平と美佐子からも着信が入っている。ひとりずつかけ直すより早いと思い、透子は家族のグループ通話を発信した。すぐに三人が通話に入ってきた。「栞、今どこにいる。もう安全な場所へ戻っているのか」「運転手はそばにいるの?どこか怪我はしていない?」「今すぐそちらへ迎えを向かわせる。十分後には着くから動くな」三人の声がほとんど重なった。張り詰めた心配がそのまま押し寄せてくる。透子は三人の声からあふれるほどの心配と気遣いを感じながら、落ち着いて答えた。「お父さん、お母さん、お兄さん。私は大丈夫です。安全なところにいますから、心配しないでください。お兄さん、迎えは出さなくて大丈夫です。新井のお爺様の様子を少し見てから帰ります。帰る時は、運転手に送ってもらいますから。外の記者たちがいなくなってから出ます。囲まれないようにしますし、自分の身はちゃんと守ります。だから安心してください」透子がそう言うと、三人は一瞬黙った。本音を言えば、今すぐ彼女に帰ってきてほしい。あの病院になど一秒も残ってほしくない。けれど、透子の固い意志を無理に曲げることもできない。三人はしぶしぶ了承した。だが雅人はそれでも安心できず、透子を確実に守るために、橘家のボディーガードを数人、病院へ向かわせた。その頃、病院内では。透子は祥平たちともう少し話したあと、通話を切った。すでに新井のお爺さんの病室の前まで来ていたからだ。透子は扉を軽く叩き、それから中へ入った。けれど、病室には誰もいなかった。透子は近くにいたボディーガードに尋ねた。だが、そのボディーガードは病棟周辺の警備担当で、新井のお爺さんの行き先までは知らなかった。ボディーガードはすぐに同僚へ確認を取った。しばらくして、新井のお爺さんがリハビリ室にいる
透子は小さく頷き、その場を離れた。フェンスの外では、記者たちがすっかり正義の使者を気取って、まだ熱病に浮かされたように声を上げ続けている。透子が歩き出すと、背中へ向かって何か叫ぶ者もいた。だが少し距離が空くと、その声もすぐに聞こえなくなった。周囲が静かになって、透子はようやくポケットの中でスマホが震え続けていることに気づいた。取り出して見ると、着信は理恵からだった。透子が電話に出ると、ロック画面には理恵からのメッセージが何件も並んでいるのが見えた。着信履歴にも、理恵の名前がずらりと並んでいる。連絡してきていたのは理恵だけではない。雅人、祥平、美佐子、スティーブからも、それぞれメッセージや着信が入っていた。透子は、皆が申し合わせたように同じタイミングで連絡してきていることに一瞬戸惑った。だが、順にメッセージを開いて、すぐにその理由を察した。新井グループの病院前で起きた騒ぎは、そのままSNSのトレンドを席巻していた。京田市の上流階級に関わるスキャンダルは広まるのも早い。病院前に透子が現れたことも、すでにゴシップ系メディアの格好の餌食として大きく取り上げられていた。透子は祥平、美佐子、雅人、スティーブへ順に無事を知らせる返信を打った。スマホは通話状態のままにしてあり、スピーカーからは理恵の切羽詰まった声が次々と流れてくる。「透子!なんであんな時に病院へ行ったの?自分から火の中に飛び込んでるようなものじゃない!もう、ライブ配信で見てたけど、あの人たち完全におかしくなってたよ!ゾンビの群れに囲まれてるみたいで、見てるこっちが冷や汗かいたんだから!今は安全なの?ちゃんとボディーガードに守ってもらってる?さっき何回も電話したのに出ないから、本当に生きた心地がしなかったんだよ!」透子は家族への返信を急いで送りながら、理恵に答えた。「大丈夫、私は無事よ。ボディーガードの人たちが守ってくれているから。さっきは外がうるさすぎたの。着信音も小さくしていたから、全然気がつかなくて」透子の声が落ち着いていて、周囲の騒音も聞こえない。それで理恵はようやく少し胸を撫で下ろしたようだった。「無事ならよかったけど……でも、今日わざわざ行く必要なんてなかったじゃない」理恵は咎めるように言った。それから少し沈黙してから、探るように
弁護士が依頼人の言葉を伝えると、向かいに座る翼は、思わず吹き出しそうになった。まさか、蓮司は本当に不能だったのか?だが、彼はすぐに表情を引き締め、立ち上がって真剣な面持ちで言った。「当方としては、病院での検査を要求します。診断書を確認しない限り、信用することはできません。また、原告は婚前に持病があることを明かしていませんでした。たとえ治療可能であったとしても、被告側には知る権利があります。これは婚前における重大な事実の隠蔽にあたります」裁判所は留置場に職員を派遣し、指定された病院で原告の性機能に関する検査を行うよう手配した。蓮司はその間に、大輔にメッセージを送り、以前の
もしモデルを辞めたいと言うなら、海外に連れて行って、うちの会社に入れるか、あるいは自ら指導する。もちろん、彼女に働いてもらう必要などない。ただ、幸せなお姫様でいてくれれば、それが一番だ。毎日を楽しく過ごし、父さんと母さんのそばにいてくれさえすればいい。そんなことを考えていると、雅人はまたアシスタントからの電話を受けた。「あの……社長……」 アシスタントは口ごもり、言葉をためらっているようだった。雅人は尋ねた。「どうした」「はい、朝比奈様の他の情報を調べさせたところ、その、ネット上にいくつか……」アシスタントは口ごもり、そこで言葉を切った。言うべきかどうか、迷っている
「飲みなよ。僕はまともな人間だから、そんな下劣な真似はしないさ」女はそれを聞くと、喉を潤すように二口ほど軽く飲み、あとは静かに座っていた。「さっきは君が対応に困ってるのが見えたからね。打ち合わせもしてないのに、案外息が合ってたじゃないか」翼は手すりにもたれかかり、彼女を見ながら言った。「ありがとう」女は口を開いた。声が少し低かったが、翼は特に異常には気づかず、微笑んで言った。「大したことじゃないさ。君の助けになれたなら嬉しいよ」会話はそこで途切れたかに見えた。だが、相手はあの藤堂翼だ。話題に困ることなどあり得ない。彼は言った。「君が最初に踊っていたダンス、見
しかし、そんな狭苦しい部屋とは思えないほど、部屋はきれいに片付いていた。「どうぞ座ってください。散らかっていますけど」美月は椅子を引き、ドアのそばに移動させて言った。雅人はそれを受け取って腰を下ろした。彼が妹を嫌うことなど、あるはずもなかった。「すみません、少し待ってもらってもいいですか?服とかが多くて」美月は少し気まずそうに言った。雅人は頷き、静かに待っていた。彼は妹の服に目をやった。シンプルな白いTシャツにジーンズ、足元はキャンバス地のスニーカー。どれも質はごく普通に見え、シワまで寄っている。雅人は言った。「全部捨てよう。明日、デパートに連れて行ってやる。全







