「悠良の顔も立ててくれないなんて......」悠良はただ口元を少し引きつらせただけで、何も答えなかった。ふと顔を上げると、木のそばで煙草を吸っている伶の姿が目に入った。彼女の胸中はまたしても複雑な感情で満たされた。さっき、彼は確かに見ていたはずだ。前回も彼は助けてくれた。広斗も言っていた――前のスキャンダルは伶が暴いたと。それなのに、なぜ今回だけは見て見ぬふりをしたのか。伶という男は、本当に思考が読めない。彼とはしばらく一緒にいたのに、彼のことをほんの少しも理解できていない。まったくと言っていいほど、掴みどころがない。伶は、史弥よりもずっと恐ろしい男だ。葉は悠良を支えながら、外へと歩いていた。途中、疑問を口にする。「どうしてあんたと石川が、こんな人目につかない場所にいたの?彼女が誘った?」「ううん。偶然出くわしただけ」悠良はそれ以上、葉に詳しく話そうとはしなかった。話したところで、意味がないと思ったからだ。山を下りた後、葉は悠良の傷の手当てをしてくれた。だが、悠良の脳裏には、広斗が彼女を襲った場面が何度もよぎっていた。それでもどうしても理解できなかったのは――伶が止めることができたのに、なぜあのとき黙って見ていたのか、ということ。理性では理解している。伶はそういう人間で、決して「いい人」ではない。彼にそんな役割を求めること自体が間違っている。それは、自分自身の思い込みが自分を縛っているだけだ。でも、その「理性」が吹き飛んでしまったとき、やはり彼の行動を理解することはできなかった。葉は黙ったままの悠良を見て、不思議に思った。ぼんやりとした表情の彼女に、手をひらひらさせる。「悠良?」ようやく悠良が我に返った。「......なんでもないわ。ちょっと考えごと」葉は少し心配そうに彼女を見つめる。「何か隠してるんじゃない?本当は何があったの?それと、あんたの首にある痕......誰かに掴まれた?」葉は手を伸ばし、悠良の襟元を少し引いて赤くなった痕を見た。それは目を背けたくなるほど痛々しかった。悠良の肌は白く透明感があるぶん、わずかな傷でもすぐに目立ってしまう。さらに、彼女が震えを抑え込んでいるのを、葉はしっかりと見ていた。他
悠良はその言葉を聞いて、瞳孔が震えた。「私がいつ押したっていうの?!」玉巳はまるで怯えているかのように、声を震わせながら、それでも可哀想に見える表情を浮かべた。「悠良さんを責めてないの。自分で転んだだけだから......」悠良は真剣な口調で声を張り上げた。「もう一度言うけど、私は押していないわ!」玉巳はただ唇をきゅっと結んだまま、何も言わなかった。しかしその哀れを誘うような姿は、すでにすべてを物語っていた。史弥は眉をひそめ、横目で悠良を見ながら、低く沈んだ声で言った。「たとえ彼女に不満があっても、手を出すのはさすがにやりすぎたぞ。何かあれば俺に言えばいい、ちゃんと説明するから」悠良は、彼が玉巳をかばうことに、もはや何の驚きも感じていなかった。心は、まるで麻痺してしまったようだった。彼女は史弥を見つめたまま、もう一度繰り返した。「もう一度言うわ。私、彼女に触れていない」史弥の視線は一層冷たくなった。まるでこの曇り空のように、今にも嵐が来そうな気配を漂わせていた。「ここにいたのは君と彼女だけだ」その一言が決定打となり、悠良は一瞬にして心が冷え切った。もはや反論する気力すら湧かない。彼女は急に笑い出した。狂ったように、無邪気に、そしてやけっぱちに。その様子を見た史弥は、さらに眉をひそめた。「悠良!まだ言い訳する気か?君がやってないっていうなら、誰が彼女を押したっていうんだ」「私は......」悠良は言葉に詰まり、口をつぐんだ。なぜなら本当に、どう説明していいかわからなかったからだ。でも、どうしても彼に聞かずにはいられなかった。「私のこと、信じてくれないの?」七年も一緒に過ごしてきたのに、自分がどんな人間か、彼はわかっていないのか?たった一言、玉巳の言葉だけで、彼は自分を加害者だと決めつけた。史弥は深く息を吸い込み、拳をぎゅっと握った。手の甲の血管が浮かび上がり、声はさらに低くなった。「俺は......どうやって君を信じればいい?」まさか、広斗がさっき彼女を襲いかけて、玉巳を突き飛ばしたなんて言えるはずもない。そんな話、史弥が信じるわけがない。玉巳はすでに「自分が突き飛ばされた」と証言しているのに、広斗が来ていたなんて認めるわけがない。
それどころか、広斗は悠良の足首をしっかりと掴んできた。「悠良ちゃん、そんなに弱いのか?それとも俺を誘惑してるつもり?」そう言いながら、広斗は彼女の首筋に唇を落とした。その瞬間、悠良は少し離れた場所に見覚えのある人影を見つけた。まるで溺れかけた人が藁をも掴むように、彼女は大声で呼びかけた。「寒河江さん!」広斗はその声に手を止め、悠良の視線を追って振り向いた。しかし、そこには何もなかった。空っぽだった。広斗は嘲笑して言った。「悠良ちゃん、まさか寒河江に惚れたんじゃないだろうな?助けを求めるなら白川だろ、名前を間違えてるよ?」でも悠良は確信していた。あのとき見たのは、間違いなく伶だった。なのに、彼はなぜ助けようとしなかった?思い出されたのは、以前彼が言っていた言葉。そうだった。彼はそもそも他人のことに関わるタイプじゃなかった。もし自分が勝手に「正義感のある人」と思い込んでいたなら、それは勘違いだったということだ。心のどこかにあった期待は、その一瞬で打ち砕かれた。結局、頼れるのは自分だけ。悠良はタイミングを見計らい、渾身の力で広斗の急所を蹴りつけようとした。だが、ちょうど広斗が体をずらしたせいで、その蹴りはかすっただけだった。そのとき、近くからまた声が聞こえた。「悠良!」悠良の瞳が揺れた。葉の声だった。「葉!私はここよ!」広斗もすぐに察した。人が来れば、今の計画は台無しになる。さらに人が集まれば面倒なことになるに違いない。彼は地面に唾を吐き捨て、舌打ちしながら言った。「ついてないな......悠良ちゃん、俺たちの初めてはまた今度にしよう。お利口に待ってるんだぞ」そう言い残し、広斗はすぐに彼女の上から降りて、そのまま走り去って姿を消した。悠良は嫌悪感に襲われつつも、心底ほっとした。もし葉たちが間に合わなかったら、今日どうなっていたかわからない。彼女はすぐに立ち上がり、服を慌てて整えた。さっきの自分の無様な姿を誰かに見られたと思うと、明日会社で何を噂されるかわからない。もうこれ以上、スキャンダルを増やしたくはない。ましてや、広斗のような最低の男と何かあるなんて、絶対に嫌だ。悠良が立ち上がると、石のそばにまだ倒れている玉巳が目
悠良は広斗を見つめた。彼は相変わらず気だるそうな態度で、顔には少しの慌てた様子も見えなかった。その瞬間、理由もなく恐怖が押し寄せてきた。まるで深海に沈み込んで、呼吸ができないような感覚だった。これまで広斗のことを、ただの遊び好きなボンボン、行き過ぎたお調子者だと思っていた。西垣家にとっては晩年の一人息子で、大事に甘やかされて育ったのだと。けれど、まさか人命をも軽視するような人間だとは思わなかった。玉巳のように、頭を強く打った場合、もし脳内出血していて処置が遅れれば、それは命に関わることだ。なのに広斗は冷淡な顔つきで、頭の中にあるのは悠良のことだけ。彼はゆっくりと一歩一歩、悠良に近づいてきた。視線はまっすぐに彼女を射抜く。「まさか白川だけじゃなくて、寒河江とも関係してるとは思わなかったな。寒河江から見返りをもらってるのか?もう寒河江とも寝た?お前ほどの美人を相手に、何もしない男なんていないからな」広斗は、今まで悠良のような絶世の美女に出会ったことがなかった。一度見たら、二度と忘れられない。そんな魅力が彼女にはあった。今の広斗にとって、他の女たちは全く興味が持てない。見れば見るほど苛立ちしか湧かない。みんな、彼を見るなり媚びへつらって抱きついてくるだけ。やっぱり、悠良は特別だ。悠良は冷たく鼻で笑い、彼を見下すような目で言い放った。「世の中の人が皆、あんたと同じくらい汚らわしいと思わないことね」広斗は、この機会を絶対に逃すまいと、悠良に飛びかかろうとした。悠良は素早くかわし、冷ややかに警告する。「前回父親に叱られて、まだ懲りてないの?」広斗はその言葉を聞いた瞬間、怒りを露わにし、歯ぎしりしながら彼女をにらみつけた。「お前さえいなきゃ、俺があんな目に遭うことはなかったんだよ!マスコミにスキャンダルを晒されたのも、全部お前のせいだ!寒河江の野郎、薬まで盛りやがって、俺の恥を全部暴露しやがった。おかげで親父に半月も寝込まされてよ......あいつがお前に気がないなんて、信じるかよ」悠良は息を呑んだ。まさか、あのとき広斗に薬を盛ったのは、伶だったのか?普段は他人のことに無関心な彼が、そんなことまでするなんて......少し意外だった。考えを巡らせる暇もなく、
自分が愚かすぎた。まさか気づかないなんて。玉巳は両手を広げて、全く気にしていない様子だった。「でも悠良さん、そんなに気に病まないで。少なくとも史弥と結婚したのはあなただし、私は一度もあなたに離婚を迫ったことはないよ。安心して。私は外の女たちみたいに、悠良さんと史弥を別れさせようなんて思ってないから」悠良は思わず失笑し、斜めに一瞥を送った。「まさか、離婚させなければ家庭を壊してないって思ってる?」彼女は玉巳の腹の中など、とっくに見透かしていた。今の玉巳は妊娠中。お腹の子を盾に、仮に本人が「影にある女」として生きる覚悟があっても、白川家がそれを許すはずがない。白川家の両親は、耳の聞こえない嫁である悠良に、昔から偏見を持っていた。もしあのとき、史弥が強く望んでいなければ、悠良は白川家に嫁入りすることすらできなかった。今となっては、悠良に玉巳と争う気はもうない。どう転んでも、自分はすでに離れる決意をしていた。史弥が二人の関係を裏切ったその日から、いつか終わることは決まっていた。彼女はそんな性格だ。目の中に砂一粒も入れられない。悠良は皮肉な笑みを浮かべた。「どうぞ、ご自由に。そちらがどうなろうと、私には関係ないわ。それより、早く帰りましょう」玉巳は、悠良があまりにも落ち着いていることに、少し意外に思った。内心、彼女に対する見方が変わり、史弥が彼女を選んだ理由が少し分かるような気がした。確かに、悠良は他の女性とは違う。玉巳が前を向き、歩き出そうとしたそのとき、右側の分かれ道から、ひとつの人影が現れた。悠良は、自分はもう十分についていないと思っていた。けれどその顔を見た瞬間、まだ「最悪」には程遠いと悟った。――西垣広斗!どうして彼がここに?彼は相変わらず、典型的なドラ息子の風貌で、ふざけた態度で二人に近づいてきた。「おやおや、悠良ちゃんじゃないか。ほらな、やっぱり俺たち、縁があるんだよ。こんな場所でも会えるなんて、運命だと思わない?」悠良は、彼を見る目に一点の曇りもない嫌悪をにじませた。「西垣......ここで何を」「何だよ、お前らがチームビルディングとかやってるから来たんだよ。遊びだろ?遊びなら俺の得意分野だ」玉巳は慌てて悠良の手を引いた。「悠良さ
里花の件があったばかりで、悠良は少し警戒していた。もしかして、この子もまた自分を別の罠に誘い込もうとしているのでは?今や誰を見ても、自分を陥れようとしているように思えてならない。悠良は玉巳の後ろを歩きながら、彼女に問いかけた。「史弥と一緒にいたんじゃないの?彼がよく一人で行かせたわね」玉巳は振り返って、微笑んだ。それは一見、普通の笑顔だった。けれど悠良には、その瞳の奥に何か底知れぬものを感じた。そして、口を開くと、まるで何も知らない無垢な少女のような口調で言った。「疑わないでよ、悠良さん。私がいなかったら、今頃帰れてなかったかもよ?」悠良は、玉巳のようにいつも表面上は穏やかで無害そうに振る舞いながら、その実、腹の中には黒いものを隠しているようなタイプがあまり好きではなかった。冷たい目で彼女を見つめ、曖昧なやり取りを避けるように言った。「史弥はここにいないのよ。私と二人きりなんだから、もう無理して演じなくていいわ。石川さん、正直に話し合いましょう」玉巳の笑みはさらに深まり、透き通るような瞳が、まるで男の保護欲を掻き立てる。世の中には、ただ立っているだけで、何も言わずとも男を夢中にさせる女性がいる。玉巳は、まさにそういうタイプだ。しかし彼女は、いまだに無邪気な少女のような口ぶりで言った。「悠良さん、私、あなたのことを嫌ってなんかいないよ。むしろすごく羨ましいの。あんなに長く史弥のそばにいられて」悠良は背筋を伸ばし、静かに言い返す。「最初に去ったのは、あなた自身でしょ。他人のせいじゃないわ」玉巳は笑った。その声は鈴のように澄んでいながらも、どこか嘲るような響きを持っていた。「そうね、原因は私。でも彼、言ってくれたの。『待つ』って。悠良さん、知ってる?私たちには、共通点があるの」その瞬間、悠良の頭に嫌な予感が走った。まさか、そんな......しかし次の瞬間、そのまさかは現実となった。玉巳が言った。「悠良さんの背中に、蝶のタトゥーがあるでしょ?」悠良の心臓が一気に冷え込み、顔から血の気が引いていった。身体がふらつき、まるで誰かが心臓をギュッと鷲掴みにしたかのようだった。胸の痛みで、今にも倒れそうになる。思わず心臓の辺りを手で押さえた。これまで彼女