Share

第444話

Author: ちょうもも
悠良は、心の中である程度の覚悟はできていた。

ところが伶は、わざとらしく間を伸ばして言った。

「今さら気づいたのか?」

まさか彼が言い返してこないとは思わず、一瞬ぽかんとする悠良。

だが数秒で表情を整えた。

「寒河江さん、本当に冗談がお上手ですね」

何気なく横を向くと、彼がじっとこちらを見ているのに気づく。

部屋の淡い明かりが彼の彫りの深い眉骨の下に影を落とし、黒い瞳には気だるげな笑みが浮かんでいた。

そして彼は、軽く眉を上げる。

「信じられないか?」

悠良は軽やかに笑って返す。

「信じますよ。だって私、そんなにブスじゃないはずですし。好きになる人がいてもおかしくないでしょ?」

その瞬間、伶がわずかに身を乗り出した。

熱い吐息が顔にかかり、悠良は思わず昨日の肌と肌の触れ合いを思い出す。

反射的に、後ろへ下がった。

彼の喉から、低く掠れた笑い声が漏れる。

「さっきまであんなに自信満々だったのに......急に逃げ腰か?」

悠良は鼻先を触り、むっとして言う。

「ちゃんと話せばいいでしょ。そんなに近づく必要は......」

「昨日はあんなに近づいてても文句言わなかったくせに」

そう言って彼は身を引き、椅子の背にもたれかかる。

悠良の目元に羞恥が滲んだ。

彼の喉仏が上下するのを見るだけで、昨日の光景が頭をよぎる。

酒に酔っていたせいで記憶はぼんやりしているはずなのに、あの温かい感触だけははっきり残っていた。

もう気が狂いそう。

耐えきれず立ち上がり、取り繕うように口を開く。

「ちょっと......お手洗いに行ってきます」

彼女の慌てふためく背中を目で追いながら、伶の口元には愉快そうな笑みが浮かんだ。

やっぱり酔ってる時の方が素直で可愛い。

もっとも、次はもう誰かの代わりなんてごめんだが。

洗面所の鏡の前で、自分の赤く火照った顔を見つめながら、悠良は深く息を吐いた。

額に手を当て、苦笑する。

以前は彼の前で少し緊張する程度だったのに、今は冗談ひとつで動揺してしまう。彼は何もしてないのに、自分ばかり先に崩れそうだ。

冷たい水で顔を洗い、無理やり気持ちを落ち着ける。

言うべき大事なことがある。

絶対に彼のペースに巻き込まれてはいけない。

たとえ昨日のターゲットが柊哉で、相手を間違えたとしても。

あの状況で関
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!   第849話

    悠良はホテルに戻ると、まず弓月から渡されたUSBメモリーをノートパソコンに差し込み、中身を一通り確認した。中を見た瞬間、驚きと同時に思わず息をのむ。これさえ握っていれば、アンナもそう強くは出られない、そう思えたからだ。当時、アンナがまだ現在のポジションに就く前、悠良に仕掛けた罠は一つや二つじゃない。悠良がどれだけプロジェクトを譲ってきたか、アンナ自身が一番分かっているはずだ。さらに、あの大騒ぎになった案件――製品化直前でトラブル寸前だった件も、もし自分が必死に収めなければ、とっくに地獄を見ていた。すべての責任は本来ならアンナにあるはずだった。なのに彼女は責任を負うどころか、逆に悠良へ押しつけようとした。悠良は、入社当初にアンナからそれなりに助けてもらった恩もあったため、そのときは深追いしなかった。彼女はパソコンの電源を落とし、バスルームでシャワーを浴びた。全身の毛穴が開き、湯船に沈んだ瞬間、張りつめていたものがふっと緩む。風呂から上がりベッドに横になっていると、疲労が少しずつ抜けていき、眠気がじわじわと押し寄せた。そこへ伶からビデオ通話が入る。うつ伏せでベッドに寝転がった悠良は、バスローブ姿で、髪も乾かしたばかりのまま肩に垂らしていた。化粧を落とした顔は透き通るように白く、逆に素朴で清らかな美しさが際立っている。細い体つきに、白く長い脚を気ままに揺らしながら、画面の向こうでまだ仕事をしている伶を見て少し驚いた。「もうこんな時間なのに、まだ仕事中?」「『ちゃんと働け』って言ったのは君だろ」伶は白いシャツ一枚だけで、袖口から覗く手首は筋が通り、指先はペンを握ったまま紙の上を走らせている。悠良は思わず口元をゆるめた。まさか自分が軽く言ったひと言を、彼がここまで素直に受け止めるとは思っていなかった。何しろ伶という男は基本的に自分本位で、やることなすこと、外側の意見ではなく「自分がしたいかどうか」だけで動く人間だ。その口からそう返されたことに、悠良は少なからず意外を覚える。「言いつけを守るなんて珍しいね。帰ったら、ご褒美にオヤツでもあげようか。ユラとかムギがいつも食べてるフリーズドライのやつ、美味しそうだし」伶はその言葉に、ペンを持つ手を一瞬止めた。笑いをこらえたような仕草

  • 離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!   第848話

    しかし悠良は、ここで引き下がるわけにはいかないと分かっていた。覚悟を決めて一歩踏み出す。「イライ先生が故意じゃないのは分かっています。あの器具の金属疲労による亀裂なんて、最先端の検査機でも──」「出て行け!」イライは勢いよく後ずさりし、背後のプランター棚にぶつかった。陶器が砕ける音が派手に響く。「その話はもう聞きたくない!」大門はバン!と閉まり、中からは棚をひっくり返すような騒音が続いた。何かを投げつけているようだ。悠良はその場に立ち尽くし、手にしていた封筒が握りつぶされるほど歪んでいる。律樹が彼女の腕をそっと支えた。「悠良さん、もうやめましょう。今の状態じゃ──」「もう少し待って」悠良は閉ざされた門を見つめ、小さく言った。「ずっと一人でいる人は、少し時間をあげないと落ち着かないかもしれない」三人は門の前で一時間近く立ち続けたが、屋敷の中は終始静まり返ったままだった。陽が移動し、門柱のベルの上を影が滑っていく。悠良は小さく息を吐き、書類の封筒を門の隙間に押し込んだ。「......帰ろう」ホテルに戻る車内では、誰も口を開かなかった。タクシーが街の中心広場を抜ける。噴水の周りを鳩が舞い降りたり飛び立ったりしている。悠良は窓の外を見ながら、ふいに目頭が熱くなるのを感じた。ホテルのロビーに入ると、弓月がフロント近くのソファに腰かけていた。火をつけていない煙草を指に挟み、眉間には深い皺が刻まれている。彼は彼らに気づくとすぐに立ち上がり、早足で近づいてきた。「フロントから聞いた。二時間前に出ていったって。イライのところに行ったんだな?」悠良はわずかに落ち込んだ顔で頷く。その表情を見ただけで、弓月は結果を悟った。「ダメだったか」悠良はまた頷く。「感情的になりすぎてて、会話にならなかった」「そんなことより」弓月は突然、彼女の手首を掴み、人目の少ない柱の陰へ引っ張った。声を限界まで抑えて話す。「おまえが戻ってきたこと、もう本社に知られた」苛立つように頭をかく。「さっきアンナから電話があった。責任追及するってさ。軽くて停職、重ければ......営業機密漏洩で訴えられるかも」律樹と光紀は顔を見合わせて固まった。悠良は逆に冷静になってい

  • 離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!   第847話

    彼がこんなふうに、ほとんど駄々っ子みたいな口調を使うのは珍しい。悠良は唇を噛んでしばらく葛藤した末、ついに素早く画面に顔を寄せ、レンズに向かって小さく「ちゅっ」と音を立てた。頬は真っ赤で、今にも血が滲み出しそうだ。画面の向こうの男は低く笑い、目元まで笑みが広がる。その瞬間、彼の全身にまとわりついていた冷たい威圧感がほんの少し和らいだ。「えらいえらい。明日イライに会いに行くんだろ?あまり自分を追い詰めるな。もしダメだったら──」「ダメなんてない」悠良は即座に遮り、迷いのない声で言う。「葉が私を待ってる」彼女の瞳に宿る頑なさを見て、伶は結局ため息をつくしかなかった。「何かあったらすぐ電話しろよ」「うん」通話を切ると、悠良は熱を帯びた頬をそっと押さえた。指先には、さっきの「キス」の余韻すら残っている気がする。深呼吸してスマホをバッグにしまうと、テーブルの上に置いていたカルテファイルを手に取った。中には葉の最新検査結果が綴じられており、重要な箇所にはすべて印がついている。目を通し終えてようやく気づく──光紀と律樹がまったく食事をしていない。「二人とも何やってるの。早く食べなさい。食べ終わったらタクシーでイライ先生の家に行くわよ」光紀は顎を手に乗せ、皿のステーキをフォークでやる気なく突きながらぼそっと言った。「さっきイチャイチャ見せつけられて、腹いっぱいです」律樹もすかさず頷く。「僕も」悠良はフォークで二人の頭をコツンと叩いた。「少しは真面目にしなさい」二人は目配せして小さく笑う。その話題が流れたあと、光紀がまた尋ねた。「小林さん、明日行くって話じゃなかったですか?」悠良はわずかに眉を寄せる。「行かないと時間が足りなくなるかもしれないし、あの先生の状況はかなり厄介よ。正直、説得できる自信はそんなにない。だから早く動いたほうがいい」光紀はうなずいた。「了解です。じゃあ食べ終わったら行きましょう」食事を済ませ、まだ空が完全に暮れきる前に、ホテル前でタクシーを拾ってイライの家へ向かう。「イライ先生が住んでるエリア、昔は由緒ある貴族街だったとか」助手席の律樹が振り返って説明する。「蓮見さんの話だと、ここ数年ほとんど外に出てない。家では母親が面倒を

  • 離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!   第846話

    「ありがとうございます」ウェイターはメニューを抱えてそのまま去っていく。悠良はスマホ越しの伶をじっと見つめ、からかうように言った。「寒河江社長って本当にすごいね。どこへ行ってもファンがいるなんて」書類に目を通していた伶は、その言葉に肩をすくめて顔を上げた。「それも俺のせい?」片手で顎を支えながら、漆黒の瞳で画面の向こうの悠良を見つめる。「君もわりと楽しんでるように見えたけど?」悠良は唇を尖らせた。「別に」伶は軽く咳払いし、声のトーンを少し落とす。「冗談はここまでだ。その医者、どれくらいの確率で口説けそうなんだ?」悠良は一瞬きょとんとしてから、苦笑いを浮かべた。「来る前は六~七割って思ってたけど、プロフィールをちゃんと見たら三割......いや、それ以下かも」「そんなに?」伶は意外そうに眉を上げた。「君がそこまで弱気になるの、初めて見たな」悠良は深く息をつく。「会ってみれば分かるよ。なんで私が焦ってるのか」「あとで自分のメール確認しとけ」伶はキーボードを叩きながら、視線をそらさずに言った。ちょうどノートパソコンが開いていたので、そのままメールを開くと、イライに関するさらに詳しい情報が届いていた。幼少期のことから、最近の生活状況まで書かれていて、下にスクロールするほど驚きが増す。「これ、どこから手に入れたの?」悠良も来る前に弓月に調べてもらおうとしたが、「あの家は情報管理が厳しすぎて無理だ」と言われていた。自分でも検索したが何も出てこなかった。まさか伶が掘り当ててくるとは思わなかった。伶はペンを指先でくるくる回しながら、さらっと言う。「出所は気にするな。さっさと片付けて帰ってくればそれでいい」彼は悠良が外に長くいるのが心配でたまらない。光紀や律樹がついているとはいえ、最近広斗も海外にいると聞いている。ただ治療中とはいえ、鉢合わせすれば面倒になる。とはいえ、そのことは悠良には言っていない。余計な不安を抱かせたくないからだ。医者を口説くだけでも大変なのに、更に警戒までさせるわけにはいかない。画面越しでなければ、今すぐにでも彼にキスしたいところだ。目には抑えきれない喜びが滲む。「帰ったら、ごちそうするから」「まだまだ先の話だろ

  • 離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!   第845話

    悠良はしゃがみこんで荷物を整理し、ノートパソコンを取り出すと、横目で律樹と光紀に声をかけた。「先に自分の部屋に戻ってて。こっちは自分で片づけるから。あとで一階のレストランで集合ね」光紀と律樹は目を見合わせた。「わかりました」律樹は部屋を出ながら、まだ心配そうに振り返る。「悠良さん、なにか手伝うことがあったら、遠慮なく言ってください」「うん、ありがとう」悠良は手を振って応じた。光紀と律樹が部屋へ戻る。ちょうど観光シーズンで部屋数が足りず、二人は同室になっていた。悠良はひと通り荷物を整えたあと、ノートパソコンを開いて検索をかける。そこでようやく、その医者の名前が「イライ」だと分かった。経歴は確かに華々しい。国内外どこでも名の知れた外科医で、数々の病院が高給で引き抜こうとしたが、彼は動かなかった。しかし数年前の手術で全てが狂った。一夜にして名声は地に落ち、私立病院ですら彼を雇おうとしなくなった。それからイライは人生に絶望し、家に閉じこもって自責の日々。やがて重度の不安障害を患ってしまう。父親は幼い頃に亡くなっており、母親と二人きりで支え合って生きてきたらしい......読み終えた悠良は、思わず胸が痛んだ。この仕事は、周囲から崇められることもあれば、一瞬で奈落に突き落とされ、石を投げられる立場にもなる。何年も塞ぎ込んだ医者にもう一度メスを握らせるなんて、天に昇るくらいの難易度だ。弓月が、まず背景を調べておけと言った意味がよく分かった。悠良はテーブルに両手をつき、ふっと息を吐く。突然どっと重圧がのしかかる。しかし今の彼女には後戻りの道はない。この医者を連れて帰らなければ、葉にはもうチャンスがないのだ。ノートパソコンを持ち上げて準備を整え、光紀と律樹と一緒に階下へ向かおうとしたところで、伶からビデオ通話が入る。悠良はスマホをテーブルのティッシュケースの上に立てかけ、メニューを見ながら言った。「ごめん、もう着いてたんだけど、連絡する暇がなかった」「構わない。ホテルでの生活にはちゃんと気をつけろよ。それとちゃんと食べるんだぞ。医者探しは必要だけど、仕事にかまけて飯を抜くな。光紀にも見張らせてある」伶は挨拶より先にお小言だ。「それとな、そっちの夜は冷えるらし

  • 離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!   第844話

    つまり、方法は思いついても、それを実行に移すのは相当難しいということだ。光紀はその話を聞いて初めて、悠良が寒河江社長を助けたとき、どれほど大きなリスクを背負っていたのかを知った。彼女は自分の行く末なんて一切考えていなかった。彼は両手を前席の背もたれにつき、悠良に声をかける。「小林さん......この件、やっぱり寒河江社長に話したほうがいいんじゃないですか」「絶対言っちゃダメ。やっとの思いでやる気を取り戻して、会社を立て直そうってしてるのに、今それを言ったらどうなるか、村雨さんもわかってるでしょ」光紀「寒河江社長なら、YKをそのまま売って穴埋めするか、いっそ破産宣言するかもしれませんね......」悠良はすぐ問い返した。「それは、村雨さんが望む結果なの?」悠良の言葉はいつも核心を突く。光紀が沈黙したことで、答えは明らかだ。本当は、伶が自分の会社を手放して悠良の穴を埋めるなんて、望んでいないのだ。長年そばにいて彼の実力を見てきたからこそ、埋もれさせたくない。悠良は、光紀の目に浮かんだ罪悪感を見て取り、静かに言った。「さっきのは気にしないで。私も村雨さんと同じ、寒河江さんのためを思ってやってるんだから」光紀は深く息を吐き、その瞬間に決意を固めた。「この村雨光紀、今は寒河江社長の秘書だけど、これからは小林さんの手足にもなりましょう。何でも遠慮なく言ってください。できる限り力になります」悠良は大して気にした様子もなく、ひらひらと手を振った。「そこまでしなくていいってば」そのとき弓月が途中で、それぞれにミネラルウォーターを一本ずつ渡した。けれど悠良にだけは、水ではなく保温ボトルだった。悠良は一瞬きょとんとする。「なんで私だけ保温ボトル?」「おまえ、昔から胃腸弱いだろ。少しは気をつけとけ」弓月はずっと覚えていた。悠良がこっちで働いていた頃、しょっちゅう胃を壊していたのに本人は全然気をつけない。だからいつの間にか、食べ物や飲み物まで目を光らせるのが癖になっていた。二人の距離感は昔からそんな感じだ。だが光紀はその空気の違和感にすぐ気づいた。この男、悠良のことが多少好きなんじゃないか?それにどう見ても関係が近すぎる。伶に報告すべきか一瞬迷ったが、すぐ思い直す。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status