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第160話

Author: いくの夏花
遥香の泣き声は次第に細くなり、最後には完全に途絶えた。

修矢は胸の奥がぎゅっと締めつけられる思いで腕の中を見下ろした。彼女はすでに気を失い、頬には乾ききらぬ涙の跡が残っていた。青白い顔は痛々しく、見る者の心をえぐった。

冷たい雨粒が、息を失ったような遥香の顔に容赦なく叩きつける。

修矢は彼女を横抱きにし、体温の残る自分のコートを脱いで、その華奢な体をしっかりと包み込んだ。外の風雨も、そして川崎家の両親のなお憤りを帯びた視線も遮りながら。

「社長」品田が傘を差し出し、足早に駆け寄ってきた。

「別荘に戻る」修矢は低く言い放ち、遥香を抱いたまま一度も振り返らずに車へ向かった。

川崎の両親は、修矢が遥香を連れ去るのをただ見送るしかなかった。そのあと地面に跪き、ずぶ濡れで震える柚香に目をやり、腹立たしさと焦りに駆られながらも、修矢を止める勇気はなかった。彼らは慌ただしく柚香を抱え起こし、みじめな姿で病院へと戻っていった。

柚香は拳を握りしめ、自分が受けた屈辱の場面を思い返し、胸の奥から込み上げる吐き気をどうしても抑えられなかった。

海城。修矢の名義になっている海辺の別荘。

遥香が再び目を覚ますと、柔らかな大きなベッドに横たわっていることに気づいた。部屋は暖かく、空気にはほのかに香の匂いが漂っていた。

体を動かすと、全身が軋むように痛み、まるで一度ばらばらにされてから組み直されたかのようだった。

気を失う直前の記憶が潮のように押し寄せてきた。冷たくなった和世の体、両親の責め立て、いじらしく泣き崩れる柚香の顔、そして最後に修矢の腕の中で堰を切ったように泣き崩れたこと……

彼女は身を起こし、布団を払いのけてベッドから降りようとした。

「目が覚めたか?」修矢がドアを開けて入ってきた。手には一杯の温かい水を持っている。「気分はどうだ」

遥香は水を受け取らず、彼の方を見ようともしないまま、ただ靴を履こうとした。「帰る」

「どこへ行く?」修矢は湯呑みをベッドサイドに置いた。「今は休まなきゃならない」

「ホテルでも、どこでもいい。とにかくここにはいられない」

遥香の声はかすれていて、そこには突き放すような冷たさが滲んでいた。「尾田社長のご厚意はありがたく受け取る。でも、私とあなた、それから柚香とは、やはり距離を置いた方がいい」

修矢の眉がきつく寄せられた。
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