徹はかおるの前まで歩み寄ると、小さな瓶を取り出し、彼女に差し出した。かおるは思わず一歩引いた。「……何、それ?」「体の症状を和らげるものです」徹の静かな声に、かおるの目がぱっと輝いた。「そんな良いものがあるのね?」瓶を受け取ると、かおるは強く香りを嗅いだ。ほのかなミントの香りが鼻腔をくすぐり、不思議と体が軽くなり、頭のぼんやりした感覚も消えていった。「これ、どこで手に入れたの?」興味津々で徹を見つめながら尋ねたが、徹は何も答えず、彼女の手から瓶を取り返した。「えっ……くれないの?」ぽかんとするかおるに、徹は無言のまま。本当に、変わらない。相変わらずの無口男だ。時々この無愛想さに我慢がならず、里香に別の人をつけてもらおうかと本気で思ったこともある。……でも、まあ、いいか。余計なことを喋らない分、手間は省ける。涼しい風が頬をなで、不快だった身体の感覚は完全に消え去っていた。車に乗り込んだかおるは、そのまま都心へ戻った。道中、聡に電話をかけ、事の顛末を話すと、「助けが必要?」と訊かれたが、かおるは即座に断った。黒幕が誰なのか、考えるまでもない。自宅に戻ると、すでに綾人が帰宅していて、かおるの姿を見るなり駆け寄り、強く抱きしめた。骨がきしむほどの力強さだった。かおるは彼の肩を軽く叩き、「平気よ、見ての通り元気だし。落ち着いて」と笑って言った。綾人は抱擁の力を緩めながら、「……犯人は?」と低く訊いた。「トランクの中よ」かおるは肩越しに答えた。綾人が手を振ると、控えていたボディガードがすぐに車のトランクを開け、男を引きずり出した。「まずは地下室へ」氷のような声で命じた綾人は、そのまま徹に視線を向けた。「雅之に仕えていたあんたなら、尋問の手順くらい熟知してるだろう。何か情報を引き出せるか、試してみてくれ」「承知しました」徹は静かにうなずき、男を引き連れてその場を離れていった。それを見送りながら、かおるは綾人に言った。「ねえ、あの人、二重基準だと思わない?私に対してと、あなたに対してじゃ、態度が全然違う」綾人は当然のように言った。「当たり前だ。もしあいつがお前に馴れ馴れしかったら、俺はもう使わない」「……」まあ、確かに。それも一理あるか。ソファに腰を下
聡と二言三言交わしたあと、かおるはスマホをしまい、ふと前方を見やった。バックミラーに映った運転手の顔。それは見知らぬ顔だった。かおるの目が一瞬だけ鋭く光る。だが表情は変えず、再びスマホに視線を落とし、徹にメッセージを送っていた。【了解】返ってきたのは、簡潔な一言だけ。かおるは気持ちを抑えながら、窓の外に目をやり、さりげなく話しかけた。「ねえ、この道……レストランへ行く道じゃないわよね?」運転手は一瞬ミラーを見てから答えた。「はい、奥様。前方の道路が工事中でして、迂回しております」「あら、そう……それにしても……香水、つけてるの?」「ええ。彼女がこの香りを気に入ってまして、ずっとこれを使ってるんです」「へえ……素敵ね」かおるは軽く頷いた。だが時間が経つにつれて、体から徐々に力が抜けていくのが分かった。意識がぼんやりしはじめ、手足の感覚も鈍くなっていく。無意識のうちに窓を開けようと手を伸ばしたが、ロックがかかっていて、開かない。「……ちょっと暑いわ。窓、開けて」かおるの声はすでにかすれていた。運転手はちらりと彼女を見て、落ち着いた声で返した。「奥様、もうすぐ角を曲がりますので」「……窓を開けろって言ってんのよ。余計なこと言わないで。綾人と話すときも、そんな言い訳ばっかりしてるわけ?」ピシャリと鋭く返すと、運転手は黙り込み、アクセルを踏み込んだ。車体が揺れ、シートベルトがなければかおるの体は前席にぶつかっていたはずだ。「何してんのよ……!」かおるはようやく異常に気づいたように睨みつけたが、体に力が入らず、怒鳴る声すらまともに出せなかった。運転手は無言のままスピードを上げ続けた。車は市街地を抜け、人通りのない郊外へと向かっていく。「止まりなさい!……でないと、警察呼ぶわよ!」かおるは脅したが、運転手はまるで聞こえていないかのように、無反応だった。「……あなた、誰?綾人の運転手じゃないわね?どこに連れて行くつもり?お金が欲しいなら、いくらでも払うわ」突然、急ブレーキがかかり、かおるの体が激しく前後に揺れた。意識がさらに遠のく。チッ……もっと静かに運転できないの?苛立ちを飲み込みながら前を見やると、バイクが一台、道をふさいでいた。ヘルメットの男がバイクから降り、ゆ
佳苗はしばらくのあいだ席を立たず、静かにこれまでの出来事を頭の中で整理していた。そして、深く息をついてから弁護士に連絡を取り、財産分与に向けた準備を始めた。ちょうどそのとき、スマートフォンが震え、一通のメールが届いた。画面を開くと、そこには夫の不正を裏付ける決定的な証拠が、整理された状態で添付されていた。もはや、あれこれ調べる必要などなかった。佳苗は拳を握りしめた。この証拠さえあれば、あのクズ男を一文なしで追い出せる、今すぐにでも。一方、かおるは目の前の二つの問題を片づけ、胸のつかえが下りたような晴れやかな気分になっていた。車に乗り込み、スマホを取り出して聡にメッセージを送った。【聡さん、お昼、時間ある?一緒にご飯どう?】【あるよ。何食べる?】【美味しい寿司屋見つけたの。場所送るね】【OK】スマホをバッグにしまい、かおるはハンドルを握って寿司屋へと車を走らせた。しかし、出発から三十分ほど経ったころ、突如エンジンが停止した。車はまるで命を失ったかのように沈黙し、人里離れた寂しい場所に取り残された。周囲には人影も車も見当たらない。かおるは困惑しながらも車を降り、エンジンの様子を見ようとする。しかし、何を確認していいのかさえ分からない。無駄だった。機械のことなんて、さっぱりだもの。「かおるさん」不意に、背後から冷たい声が響いた。驚いて振り返ると、冷ややかな表情を浮かべた男が、少し離れた場所に立っていた。「どこから現れたの?」かおるは警戒心を抱きながらも、すぐにその男が徹であることに気づいた。徹は簡潔に言った。「車を見せて」説明を省き、彼はまっすぐ車へと向かい、エンジンのチェックを始めた。かおるは小さくうなずきつつ、好奇心を隠さず言葉を続けた。「まだ質問に答えてないよ。どこから現れたの?」「それは答えられない」「……」まあ、いいわ。随分とミステリアスね。チェックが終わると、徹は静かに立ち上がり、断言した。「エンストだ。しばらくは動かせないだろう」かおるは肩をすくめ、「じゃあ、あなたの車は?送ってくれる?」と尋ねた。「車は持っていない」「え?」かおるはさらに目を見開いた。「車がない?じゃあ、どうやって私を追って来たの?」「それも答えられない」「……」ほん
かおるはふわりと微笑み、「クビになったわ。あとは家に帰って、賠償金を待つだけよ」と、さらりと言い放った。企業が従業員を解雇する場合、賠償金が発生する。その事実を知っている者は、かおるの一言に言葉を失い、色を変えた。周囲の同僚たちはそれ以上何も言えなくなり、下手に関わって訴訟に巻き込まれることを恐れて、そそくさと距離を取った。だが、かおるは気にも留めず、淡々と荷物をまとめると、アシスタントを呼びつけて自分の持ち物をすべて運ばせた。その光景を、ちょうど昌弘が目にした。思わず眉をひそめた。まさか……この女、何かただ者ではないのか?不安が昌弘の胸をざわつかせた。もしかして、自分はとんでもない相手に手を出してしまったのではないか。財閥の令嬢か、あるいは社長夫人とか……そんな不安をよそに、かおるが社を出たタイミングで、二人の視線が交差した。かおるは軽く手を振り、「じゃあね」と言って、すっとエレベーターに乗り込んでいった。昌弘:「……」胸のざわめきは、ますます大きくなっていった。車に乗り込むなり、かおるはすぐに電話をかけた。「もしもし、佐藤佳苗(さとうかなえ)さんですか?かおると申します。ご主人のことで、お話ししたいことがあるのですが、お時間いただけますか?」短い通話を終えると、かおるはそのままカフェへと向かった。カフェの店内は落ち着いた雰囲気で、濃厚なコーヒーの香りが空間をやわらかく包んでいた。ハイヒールの音が近づいてきたのに気づき、かおるが顔を上げると、洗練された雰囲気の女性がゆっくりと歩いてくるのが見えた。「佳苗さん?」かおるは立ち上がることなく、静かに尋ねた。「はい」佐藤部長の妻・佳苗はうなずきながらも、かおるの顔を見るなり、その瞳に警戒の色を浮かべた。かおるはその様子に気づき、口元に笑みを浮かべた。「そんなに身構えないで。私は佐藤部長の愛人じゃないし、勝ち誇りに来たわけでもない。ただ、伝えたいことがあって……それだけよ」佳苗はそれでも構えを崩さず、「話って、何のこと?」と、なおも探るように言った。かおるはスマートフォンを取り出し、ある画像をスクリーンに表示して、テーブル越しに差し出した。「まずはこれをご覧になって。見ればすべてがわかるはずよ」そう言うと、かおるは手元のコーヒーをひ
昌弘は一瞬呆然としたのち、ふいに吹き出した。「おいおい、どうしたんだ、かおる。まさかお前、身分を隠した令嬢で、生活体験とやらをしに来てるんじゃないだろうな?それとも社長夫人か?冗談はよしてくれよ。お前がどんな人間か、俺が一番よく知ってるはずだろ?今まで何社を渡り歩いてきたんだよ?俺が採用したのはな、慈悲深いからだぞ。それなのに、ここで偉そうにして……!」皮肉をこれでもかと込め、嘲笑を交えながら、かおるをまるで取るに足らない存在とでも言うように侮蔑した。その横柄で無知な態度を前に、かおるはふと、あの結婚式がすべて夢だったのではないかと錯覚した。あのとき、大勢の記者がいた。それなのに、どうして自分の正体が明るみに出なかったのだろう?いや、たぶん、出ていなかったのだろう。もし暴露されていたなら、この愚かな社長が、こんなふうに口をきくはずがない。彼の軽蔑に満ちた態度とは対照的に、かおるは冷ややかな表情を崩さずに口を開いた。「あなたと佐藤部長が手を組んで、私を陥れようとした理由について、考えたことはありますか?あなたの言うように、私がただの平社員でしかないのなら、どうしてそこまで手間をかけて、私を標的にする必要があるのでしょう?」昌弘はその問いを聞くや否や、すぐに吐き捨てるように言った。「誰がお前を陥れようとしたって?お前が無能で、佐藤部長の期待に応えられなかっただけだろ。それを人のせいにするのか?お前、ほんとに笑わせてくれるよ!」一度は否定したものの、昌弘の胸中には、にわかに不安が広がっていた。今回の件は、紛れもなく自分と佐藤部長が結託し、かおるを嵌めるために仕組んだものだった。そして、その計画を最初に持ちかけてきたのは、佐藤部長の方だ。「かおるを潰して、淫らな写真を手に入れられれば、今後はうちの会社と長期的な取引関係を続けてやる」――そう佐藤は言った。昌弘の役目は、かおるを佐藤の前へ連れて行くだけ。なんて簡単な仕事だ、と即座に彼は飛びついた。まさか、かおるがまったく応じないとは、思ってもみなかった。それどころか今では、二人の共謀関係までもが彼女に見抜かれてしまっていた。絶対に認めてはならない。認めたら最後、この女に弱みを握られることになる。「構いませんよ」かおるは唇の端をわずかに緩めて微笑んだ
直美はすぐに直樹からのメッセージを受け取った。【計画は失敗しました】その瞬間、直美の顔色がさっと曇り、「本当に、使えない奴ね……!」と吐き捨てるように呟いた。そこへ果物の皿を持った流歌がやって来た。「お母さん、どうしたの?そんなに怒らないで。これ、私が切った果物だよ。食べて」流歌の姿を見ると、直美の表情は一変し、怒りの色がすっと引いて、やわらかく微笑むと、手渡された果物を一口かじった。「流歌ちゃんは、本当にお母さんの心の支えだわ」流歌はそっと直美の胸元に顔を寄せた。「お母さん、ごめんなさい。これまでのこと、全部私が悪かった。ずっと海外にいて、お母さんのそばにいてあげられなかった。その間に、つけこまれる隙を与えてしまったのかもしれない」直美は優しく彼女の髪を撫でながら、静かに言った。「ばかね、何を言ってるの。あなたの身体が一番大切なのよ。今は体調も落ち着いてきたんだし、これからはずっと私のそばにいられるじゃない」「でも……私が結婚したら、どうなるの?」「結婚したって、ちょくちょく帰ってくればいいのよ。それか、婿養子を迎えれば、私たちから離れる必要なんてないわ」流歌の小さな顔がふっと赤らみ、「お母さん、私は結婚なんてしたくない。ずっと、お母さんのそばにいたいの」直美はその言葉に目を細め、うれしそうに頷いた。だが、流歌の表情にふと陰りが差した。「でも……お義姉さん、私のことが嫌いみたい。きっと『早く嫁に行け』って、そう思ってるんじゃないかな……」直美はそれを聞くや否や、冷笑を漏らした。「は、あの女が何様のつもり?この家で彼女が決められることなんて何ひとつないわよ。流歌ちゃん、心配しなくていいわ。あの女を月宮家の女主人にするつもりなんて、さらさらないから」流歌はわずかに俯き、暗い表情を浮かべた。「でも……お兄ちゃん、あの人のこと好きみたいなの」「ふん、あの女なんて顔が少し整ってるだけよ。世の中には、あの女よりもずっときれいな人なんていくらでもいる。綾人が、いつまでもあの女に夢中でいるなんて、そんなわけないわ」流歌は不安げなまなざしを直美に向けた。「お母さん、お願い。私のためにお兄ちゃんと喧嘩しないで。そんなことになったら……私、悲しくなっちゃう」直美は慌てて彼女を抱きしめた。