星野は腕の中の聡を見下ろした。彼女は目を閉じたまま、頬にはまだ紅が残っていて、目元や眉のあたりもうっすらと色づいていた。満ち足りた表情だった。唇も、赤く腫れていた。さっき車の中で起きたことを思い出すと、星野の呼吸が少し深くなり、腕に力を込めて彼女を抱きしめ、前方のマンションへと大股で歩き出した。聡は目を閉じたまま、彼の動きを感じて口元をゆるめた。家に戻ると、星野が言った。「開けてもらえますか」聡は半分目を開けると、服の中から手を出して指紋認証を行った。カチッという音とともに、玄関が開いた。「まだ力入らないんですか」星野が少し呆れたように言うと、聡は小さく返事をして、さらに彼の胸元に顔をうずめた。「ドア開けるくらいの力もないんですか」「それくらいならあるよ」そう言って手を伸ばし、ドアを押し開けると、星野はそのまま彼女を抱えて中へ入った。ベッドにそっと彼女を寝かせると、すぐにその場を離れようとしたが、聡が彼の首に腕を回して引き留め、唇の端に軽くキスをした。「星野くん、君の提案、考えてみるよ」星野はじっと彼女を見つめ、しばらくしてから言った。「そろそろ放していただけますか」聡は彼をじっと見つめたまま、やがて手を離した。「お腹空いた」星野は何も言わずに寝室を出て、ドアを閉めた。聡はそっと目を閉じた。ああいう態度を見ると、もう出て行ったのかもしれない。はあ……ほんと、冷たい男だわ。ぼんやりしていたその時、不意に寝室のドアが開いた。星野が立っていた。「ご飯にしましょう」「ん?」聡が目を開けて彼を見た。「まだいたの?」「お腹空いたって言ってたでしょう」星野の澄んだ声が返ってきた。その瞬間、聡はくすっと笑って起き上がった。「シャワー浴びたいんだけど、一緒に入る?」星野は無言でドアを閉めた。聡の気分が不思議と良くなっていた。シャワーを終えて部屋に戻ると、星野はまだそこにいて、ソファに座ってスマホを見ていた。聡に気づくと、顔を上げて言った。「詳細な計画書をメールに送っておきました。お時間ある時にご確認ください」「了解」聡は素直に答えた。ダイニングテーブルに向かうと、三品とスープが並べられていた。肉料理一品と野菜料理二品、どれも見
聡は星野の膝の上に座りながら、彼の提案について真剣に考えていた。ただ、その様子はとても「真剣」とは言えないようなものだった。白くて柔らかい手が、彼の胸筋を撫でたり、腹筋にそっと触れたり。脚も落ち着かず、締めたり緩めたりしながら、彼にすり寄るように動いている。星野は思わず喉を鳴らし、反射的に彼女の腰を掴んで、かすれた声で言った。「……あの、あまり動かないでいただけますか?」聡は小さく首を振った。「無理」そう言って体を傾け、彼の唇にそっとキスをした。今回は、星野は避けなかった。というより、もう避けることなんてできなかった。聡の唇は柔らかく、どこか挑発的な熱を帯びていた。そして少し冷たい手が彼の服の裾から滑り込んで、筋肉をなぞった。星野の体は一気に緊張し、喉仏が上下に動いた。そして突然、彼女の後頭部を抱き寄せ、主導権を握った。聡の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。そのまま素直に、彼のキスを受け入れた。彼のキスが、好きだった。車内の空気が乱れ、熱を帯び、時折漏れる吐息が静かに響いた。キスが終わったとき、二人の呼吸はすっかり乱れていた。聡は彼の胸に頬を寄せ、どくどくと鳴る心音を聞きながら口を開いた。「星野くん、勃ってるよ」星野は目を閉じ、さらにかすれた声で応えた。「……聡さん、あなたって、本当に命知らずですね」聡はくすっと笑って、「じゃあ、君の上で死なせてよ」夜はますます深くなっていく。辺りはしんと静まり返っていた。車は一定のリズムで揺れ、小さな吐息が時折漏れていた。幸い、このあたりは人通りが少なく、ほとんど誰も通らない。星野が車をここに停めたのは、計算のうえだったのか、それとも偶然なのか。すべてが終わる頃には、聡はすっかり力が抜けていて、彼の腕の中に寄りかかり、汗まみれのまま言った。「抱っこして、上まで連れてって。シャワー浴びたい」星野は荒い息を吐きながら、満足げな光を目に宿し、何も言わずに自分の上着を脱いで彼女にかけた。そして車のドアを開けて外に出た。その瞬間、視界の端に何かが映り、顔を向けると、少し離れたところに、葵が立っていた。驚いたような顔で、二人を見ている。星野の眉がぴくりと動いた。「横山さん……?」なぜ彼女がここに
星野が疑問を口にした。聡はソファに腰を下ろし、しなやかな体をふわりと預けるように背もたれに寄りかかった。そのまま星野をじっと見つめながら言った。「横山さんの話を聞いて、ちょっとひらめいたのよ。もし君と結婚したら、このスタジオって夫婦の共有財産になるじゃない?そしたら君は一円も出さずに経営できるってわけ。で、私は好きに遊び回れるって寸法よ」「……結婚ですか?」星野は思わずその言葉を繰り返した。「そう、結婚」聡は頬杖をつきながら小さくうなずき、ウィンクしてみせた。「どう?ちょっとは考えてみない?」星野はすぐに背を向けて歩き出した。「そんなバカな話あるかよ!」と心の中で叫んだ。突拍子もないことを平然と言い出す聡のような人には、どうにもついていけなかった。聡はそんな星野の背中を見送りながら、少し余裕のある口調で言った。「言っとくけど、これが最後のチャンスかもしれないわよ?今日ならまだOKしてあげるけど、明日になったらどうなるかわかんないからね?」返ってきたのは、ドアが静かに閉まる音だけだった。「ふーん、やるじゃん……」聡は小さく舌打ちしながら、どこか感心したように呟いた。「最近こういう芯の通った男って、ほんと見なくなったのよね」天井を見上げながら、ぽつりとつぶやいた。胸の奥に、ほんの少しの寂しさが広がっていく。自分に興味ない男を追いかけるって、楽しいことだったっけ?昔は、それが面白かったのかもしれない。でも、時間が経つにつれて、その楽しさもだんだんと薄れていった。わざわざ自分を苦しめる必要なんて、ないじゃない。そう思いながら、聡は立ち上がり、シャワーを浴びてベッドに倒れ込んだ。翌日、スタジオの譲渡に興味を持つ人々が次々と訪ねてきた。聡は一日中クライアントたちと話し通しでクタクタになったものの、結局譲渡はまとまらなかった。来たのは卒業したての若者ばかりで、提示した金額が高すぎるからもっと安くしてほしいと頼まれたのだ。疲れきった様子でビルを出た聡がふと顔を上げると、少し離れた場所に星野の姿が見えた。どうやら彼女を迎えに来たらしい。「ん?」少し意外に思いながらも、聡は彼の方へ歩いていき、無言で車のキーを彼の胸元に放った。そしてそのまま、助手席に乗り込んだ。星野は車を発進
その視線は、まるでお気に入りのおもちゃを品定めしているかのようだった。星野の表情がわずかに冷たくなり、聡を見ながら口を開いた。「今、少しお話しできますか」「ここで?」聡は口元をゆるめ、にこりと笑った。「でもね、私はドアの前で話すの、あんまり好きじゃないの。疲れるからさ」星野は何も言わず、動かず、その場に立ったままだった。聡は指紋認証でドアを解錠し、部屋に入っていった。星野もそれに続き、部屋へと入った。室内の照明が次第に点いていく中、聡は前に立ったまま微動だにしなかった。星野はドアの近くで立ち止まり、無言で彼女の背中を見つめた。やがて、聡が口を開いた。「今日ね、横山さんが私のところに来て、『どうしてあんたたちの結婚を邪魔したのか』って、詰め寄られたのよ」そう言って、聡は笑いながら振り返り、じっと星野を見た。「星野くん、自分で処理しきれなかったくせに、このドロ沼みたいな状況を押し付けやがって。こっちは何もしてないのに、いきなり濡れ衣を着せられるなんて……マジで頭にくるんだけど、どうしてくれんの?」星野はその言葉に眉をひそめ、静かに答えた。「まさか葵があなたのところに行くとは思いませんでした……すみません」「なんで謝るの?」「彼女の代わりに、あなたに謝りたいんです」「へぇ?」聡は少し眉を上げて、面白そうに反応した。「君と彼女って、どういう関係なの?彼女の代わりに謝る理由なんてある?」星野の眉間にさらにしわが寄った。「この話をするのは……僕を責めるためじゃないんですか?」この女、ほんと感情の波が激しいな……聡はしばらく黙って星野を見つめたあと、ゆっくりと言った。「謝罪なんて要らない。あんたたちは何の関係もない。仮に関係があるとしたら、それは私だけだ」星野は口元を引き締めて、まっすぐに言った。「今日お会いしたのは、スタジオの件でお話したかったからです。あなたが『売る』とおっしゃっていたので、僕が引き継ぎたいと思いました。ご希望の価格はおいくらでしょうか?」聡はじっと星野を見ながら尋ねた。「なんで私のスタジオを引き継ぎたいの?」「僕も起業して、自分なりの価値をもっと広げたいんです」「……君、私のこと好きなんじゃない?」聡の視線はまっすぐで、まるで彼とは
聡は話を聞いて、鼻で笑った。まるで面白い冗談でも聞いたかのようだった。葵は眉をひそめた。「何がおかしいんですか?」聡は目の前のコーヒーを一口飲んでから、落ち着いた口調で言った。「横山さん、何か勘違いしてるみたいですね。私は別に、あなたたちを止めたわけじゃないですよ。彼が自分で決めたことです」「そんなはずないです!」葵は信じられないという表情で反論した。「あなたが彼に何か言ったから、あんなにはっきり断られたんでしょ?」そう言いながら、ぽろぽろと涙をこぼし、悲しみに満ちた表情を浮かべた。「あなたが邪魔したせいで、私、あのじいさんと結婚するしかなくなっちゃうんですよ!もうすぐ還暦の人ですよ!?私はまだ23歳なのに!こんな若いのに、どうしてそんな人と結婚しなきゃいけないんですか?そんなことして、罰が当たると思いませんか?」聡は少し驚いたように葵を見つめた。「横山さん、私はあなたのご両親じゃありません。私があなたをその人と結婚させるって言ったんですか?」葵は唇をギュッと噛んだ。「でも、あなたが星野さんに何も言わなければ……彼、絶対に私のお願いを聞いてくれたはずです!」聡の目が徐々に冷たくなっていく。「自分のことしか考えてないですね。彼と結婚すれば、すべて解決するって本気で思ってるんですか?でも、彼のことは考えたことありますか?あなたのご両親がどういう人たちか、自分が一番わかってるでしょ?もしあなたと彼が結婚したら、ご両親が彼を簡単に許すと思ってるんですか?彼がどうなるか、本気で考えましたか?」葵は言葉に詰まり、何も言い返せなかった。昔は、両親が自分のことを一番大切に思ってくれていると信じていた。でも、60近い老人との結婚話を聞かされたとき、自分の幸せなんて二の次だったんだと思い知らされた。もし星野と結婚することになったら、彼は両親の利害を損ねることになる。そうなったら、彼が無事でいられるわけがない。「でも……」葵は何か言いたげだった。それを遮るように、聡がすかさず口を開いた。「困難を乗り越える方法って、結婚だけじゃないですよ。もし今の暮らしを全部捨てる覚悟があるなら、いっそ国外に逃げたらどうです?あなたのご両親だって、そう簡単にあなたを捕まえてその男に引き渡すなんてできませんから。その覚悟があるか
里香は驚いた。まさか聡が本気になってしまうなんて思わなかった。もしそうだとしたら、ややこしいことになるかもしれないな。星野は最初から聡の目的を知っていたはずで、きっと警戒して敬遠しているだろう。聡が彼を好きにならなければ問題なかったが、もし好きになってしまったら、どうすればいいんだ?里香は少し考え込み、口を開いた。「次はどうするつもり?」聡はため息をつきながら答えた。「わからない。彼を追いかけるかどうか悩んでいる。だけど、この道のりはすごく長そうだし、最後まで頑張れるかどうかわからないの」実は、聡は面倒事が大嫌いな性格だ。だからコンピュータの勉強だけに集中してきた。凛や新、徹たちは格闘もできたけど、彼らが昔、一緒にやってみないかと誘ったとき、面倒そうだからと断った。星野を追いかけるという道は、間違いなく前途多難だろう。どうしたらいいのだろう?里香はこう提案した。「もしかしたら、まず本当に好きかどうか、よく考えたほうがいいかもしれないね。一生そばにいたいほどかどうか。もしそんな強い気持ちじゃないなら……身を引くのも手だと思う。そもそも、あなたたちの出発点だって純粋なものじゃなかった。それ自体が溝になるよ」たとえ将来一緒になったとしても、喧嘩すれば必ず過去の話を蒸し返すだろう。そんなとき、どうする?お互いを愛しているからこそ、一番痛いところを刺せるものだ。そうなったら、おそらく心に深い傷を負い、二人とも傷つくことになる。聡の目には迷いが色濃く映っていた。「うん、ちゃんと考えてみるわ」電話を切ると、聡はソファに腰を下ろしたまま、しばらく呆然としていた。部屋は真っ暗で、なんだか寒気すら感じた。そして翌日、聡は黒ずんだ目元を隠さずにオフィスに現れた。秘書の田中が先月の財務報告書とその他いくつかのデータを渡してきた。聡は気のない様子で資料に目を通していた。突然、なんだかすべてが無意味に思えてきた。少し外を歩き回って遊んでみたら、星野に対する気持ちも薄れるかもしれない。そもそもこのオフィスは、里香のために始めたものだった。今や里香と雅之は幸せの形を築き、このオフィスの存在意義も薄れてきた。もともと聡は商売の仕事も、取引先との酒席や接待も好きではなかったし――面倒くさいだけだ。資料に
「で、あの横山さん、どんな条件出してきたの?」ちょうどその時、聡が静かに問いかけてきた。その言葉に、星野は少し驚いたような顔をして、ゆっくりと彼女に視線を向けた。「そんな顔しないで。今の私、冬木じゃそれなりに顔が利くのよ。社交界なんて狭い世界だし、ちょっとした噂くらいすぐに耳に入ってくるんだから」聡は長い髪をふわっとかき上げ、微笑みながらそう言った。星野は意外そうな表情を見せたものの、その顔つきは冷ややかだった。「それ、あなたには関係ない話だと思いますけど」「へえ?」と、聡は軽く眉を上げて応じると、彼の顔から視線を外し、つい最近仕上げたばかりのネイルに目を落とした。「どうやら、あの子、偽装結婚で縁談から逃れようとしてるらしいわね?」星野の表情はさらに険しくなった。自分の事情がこんなにも筒抜けだなんて、居心地が悪すぎる。「星野くん、あの子の提案、受けるつもりなの?私一人でも手を焼いてるくせに、今度は横山家まで相手にするって、本気?」聡は彼に一歩近づき、手を伸ばして頬に触れようとした。だが星野はその手をすっと避け、冷たく言い放った。「何度も言ってますけど、これはあなたには関係ありません」聡は口元をわずかにゆるめて、ふっと笑った。「ただの忠告よ。善意で言ってるだけ。横山家には関わらない方がいいわ。あの人たち、甘く見てると痛い目見るわよ」そう言い終えると、彼女は急に背伸びをして星野の唇にそっとキスを落とし、不敵な笑みを浮かべながらその場を立ち去った。星野は眉をひそめ、その背中をじっと見つめたまま立ち尽くした。目を伏せたその横顔からは、何を考えているのかまるで読み取れなかった。聡が家に戻ると、ちょうど電話が鳴った。「こんな時間まで起きてるの?」靴を脱ぎながら聡がそう言うと、電話の向こうから里香の声が聞こえてきた。「前の件、全部わかったよ」「そう……それで文句を言いに来たってわけ?だったら無駄よ。文句言うなら雅之にして。私、ただ彼の指示どおり動いただけなんだから」聡は目を細めながら、ためらいもなくそう言った。電話越しに、里香がため息をついた気配がした。「ほんと、あっさり裏切るのね。あの人のこと」聡は口元に笑みを浮かべて応じた。「そうね、上司にはそれくらい利用価値がないと、
星野が口を開いた。「横山さん、目が覚めたみたいですし、僕はそろそろ失礼しますね」すると、葵が突然口を開いた。「ねぇ、結婚しましょうよ」「……え?」星野は驚いて、信じられないといった様子で葵をじっと見つめた。葵はすでに体を起こしていて、両手を後ろについて座りながら、頬を赤らめつつも真剣な眼差しで星野を見据えていた。「冗談ではありません。本気なんです。さっきお話ししたことも、すべて本当のことです。うちの両親が、私を政略結婚させようとしていまして……いろいろ調べたところ、相手は年配の方で、その方の息子さんでさえ、私より年上でした。でも、そんな方と結婚するなんて、絶対に嫌なんです。とはいえ、両親はきっと全力で反対してくると思います。どんな手段を使ってでも、私を説得しようとするはずです。ですから、この状況から抜け出すためには、何か別の方法を見つけなければいけないんです」そう言いながら、葵はどこか自嘲気味な笑みを浮かべて、続けた。「私はずっと、自分は何の不自由もなく暮らせるものだと思っていました。両親に大切にされているお姫様みたいな存在なんだって。でも、それはすべて幻想だったんです。家の経済状況が悪くなった途端、両親が最初に考えたのは、私を使って利益を得ることでした。結局、私はただの道具に過ぎなかったというわけです」アルコールのせいで感情が高ぶり、葵の大きな瞳にはみるみる涙があふれ、大粒の涙が頬を伝って次々とこぼれ落ちた。手で涙をぬぐいながら、葵は真っ直ぐ星野を見つめ、さらに続けた。「それに、星野さんの前の上司が今でもちょっかいを出してくるの、私、知っています。ですから、偽装結婚、しませんか?そうすれば、私は政略結婚を回避できますし、星野さんも『もう近づくな』と彼女に言える、いい口実になると思います。一石二鳥、ですよね?」星野は黙ったまま、葵の話に耳を傾けていた。こんな突拍子もない提案、どうやって思いついたんだ?星野は少し間を置いてから、ようやく口を開いた。「……偽装結婚?」葵はうなずいた。「ええ、いわゆる契約結婚です。期間は一年でも三年でも構いません。でも、あくまでも形式だけの結婚で、期限が来たらきっぱり離婚する。それぞれ干渉はしない。そして、お礼として補償金もお支払いします」星野は思わず苦笑して
その夜。星野はアパートに戻り、もう一度図面を見直すつもりだったが、携帯が鳴り始めた。画面を見ると、電話の相手は葵だと分かった。「もしもし、横山さん、何かありましたか?」葵の声はどこかぼんやりとしている。「星野さん……ちょっと迎えに来て、家に帰れないの、ううう、家には帰れないの」声の様子からして、明らかに酔っている。星野は眉をひそめた。「横山さん、今どちらですか?」名前をぼんやりとした口調で伝えられた後、星野は何も言わずにすぐ現場へ向かった。バーの中は賑やかで、人混みをかき分けながら探し続けた彼は、ついにソファ席で泥酔している葵を見つけた。その瞬間、ひとりの男が葵の脚に手を伸ばそうとしていた。星野はすぐさま彼に近づき、阻止した。「お前は誰ですか?」男は一瞬驚き、そしてすぐ手を引っ込めて言った。「こんなに酔ってるから、ただ起こしてやろうと思っただけさ。お前こそ誰なんだ?」「僕は彼女の友人です、この子に近寄らないでくさい!」男は立ち上がり、去って行った。星野は葵を抱えながら起こし、顔を軽く叩いた。「横山さん?横山さん?」しかし葵は何の反応も示さない。この状態でバーにいるのはとても危険だ。仕方なく、星野は葵をを外へ連れ出すことにした。外の冷風に当たった途端、葵は突然吐き始めた。星野は眉をひそめながら見守り、吐き終わるのを待ってから聞いた。「横山さん、少し落ち着きましたか?」葵はぼんやりと顔を上げ、星野を見つけるとすぐに両手を彼の首に回した。「星野さんか、来てくれたね。家まで連れてってよ。両親に見捨てられたの。私を年寄りの男に嫁がせようとしてる。そんなの絶対嫌!」星野は他人の家の事情に興味がないため、提案した。「それなら、ホテルに送るけどいいんですか?」「いやだ、家まで送ってよ」葵は星野の首元に額を擦り寄せながら、かすれた声で呟き、また朦朧とし始めた。これでは埒が明かないし、自宅に連れて帰るわけにもいかない。結局星野は葵を近くのホテルに連れていくことにした。路上、車内。聡は抱き合う形でホテルに向かう星野と葵の姿を黙って見ていた。しばらくすると、スマホを取り出し、星野に電話を掛けた。その頃、星野はすでに葵をホテルの部屋に運び込んでベッドに寝かせたと