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第610話

Auteur: 似水
仕事、辞めよう。

この街も出て行こう。

静かに、誰にも気づかれないように。

そうすれば、周りの人たちに迷惑をかけることもない。

里香は唇を噛みしめながら、自分の計画が妙に現実味を帯びていることに気づいた。

自分には親族がいない。友達だって、かおる、星野、それに祐介だけ。

雅之はきっと祐介には手を出せない。でも、かおるは危ないかもしれない。

それなら、かおるも一緒に行くのが一番かも。

星野はどうだろう?

自分さえいなくなれば、雅之がわざわざ星野に嫌がらせをする理由もない。

……うん、やっぱり悪くない案だ。

スマホを手に取り、かおるに伝えるべきか迷う。

いや、急がなくていい。状況が本当に追い詰められたら、その時考えよう。

その日の午後、里香はなんだかずっと気分が重かった。調子も上がらない。

退勤後、カエデビルに戻り、エレベーターに乗った。すると、後から二人の人影が入ってきた。

何気なく顔を上げた里香は、一瞬で表情をこわばらせた。

雅之と翠だ。

家に翠を連れてきたの?

翠は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、里香を一瞥すると、さっと雅之の腕に自分の腕を絡めた。まるで見せつけるように。

里香は少し眉をひそめて、不快感を覚えた。

幸いにも、途中で他の乗客が乗ることもなく、雅之と翠は途中の階で降りた。その後、里香も自分の部屋に向かう。

部屋に入ると、かおるがソファでくつろぎながらテレビを見ていた。

「かおる、ちょっと相談したいことがあるんだけど」

靴を脱ぎながら、里香はかおるの隣に腰を下ろした。

「え、何の話?」

里香は声を潜めて言った。「一緒に、この街を出よう」

「……え?」驚いた顔でかおるが振り返った。「本気?」

「うん。本気」里香はしっかり頷いた。「誰にも気づかれずに、そっといなくなるの。ね、どう?」

「いいに決まってるでしょ!」かおるの目がキラキラ輝き出した。「だって里香ちゃん、すごい貯金あるんだから、どこ行っても快適に暮らせるよ!」

「まずは計画ね。他の人に知られないように、慎重に動こう」

「了解!里香ちゃんについてくよ」かおるは頷いた。

本気で去ろうと決心した。次に考えるべきは、どこに行くかだろう。

その後の数日間、仕事を終えた帰り道、何度も雅之と翠に遭遇するようになった。

翠はいつも雅之に腕を絡めて親しげ
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