Share

第977話

Author: 似水
ブライダルショップを出たとたん、二人の頬を撫でるように、ほのかに暑さを含んだ微風が通り過ぎた。

聡は目を細め、唇に淡い笑みを浮かべた。

「希嗣」

そのとき、通りの向こうから女の声が響いた。

聡の笑みがすっと消え、瞳に冷たい光が宿った。

こんな素晴らしい日に、あんな声で水を差されるなんて。まるで凶兆じゃない。

「行こ」

彼女は一度も向こうを振り返ることなく、すっと星野の手を取ると、少し離れた場所に停めてある車へと足を向けた。

星野は、聡の様子がいつもと違うことに気づいて、「どうしたんですか?」とそっと尋ねた。

「ちょっと疲れたの。休みたいだけ」

そう答える彼女の声は淡々としていたが、どこか張りつめたものがあった。

星野は小さく頷き、彼女のためにドアを開けると、そのまま車を走らせた。行き先は、彼女の自宅。

「竹本希嗣!」

通りの向こうでは、円華が繰り返し名前を叫んでいた。しかし聡は一度も振り返らず、足を止めることもない。慌てて追いかけた円華は、車が発進する際の排気ガスをもろに浴び、顔をしかめながら怒りを爆発させた。

「まったく、役立たずめ!」

苛立ちを込めて吐き捨てると、すぐにスマホを取り出し、竹本へ電話をかけた。

「やっと見つけたわ。ブライダルショップから出てきたのよ、男と一緒に。たぶん、結婚したんじゃない?」

電話口の向こうで、竹本は怒鳴った。

「やっぱり、あの娘はどうしようもない。自分の親も認めんとはな。でも大丈夫だ、親子鑑定の結果はもう出てる。あの鑑定書を見せりゃ、否応なく認めざるを得ん。どんな手を使っても、俺たちが親ってことには変わりない。だったら、きっちり養ってもらわにゃな!」

円華は息を整えながら、「わかった。すぐ行こうか?」と訊いた。

「今は現場だから無理だ。もう少し待ってくれ」

「わかった」

そのまま通話が切れた。

---

車内では、聡がぼんやりと引っ越しのことを考えていた。

今のマンションは、もう竹本と円華に知られてしまった。今日、ああして姿を現したということは、また押しかけてくるに違いない。

……本当に、うっとうしい。

次は、セキュリティがしっかりしたところに引っ越したい。できれば、部外者が簡単には入れない場所がいい。

気がつけば、車はすでに止まっていた。いつ止まったのかさえわからないほど、静
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 離婚後、恋の始まり   第977話

    ブライダルショップを出たとたん、二人の頬を撫でるように、ほのかに暑さを含んだ微風が通り過ぎた。聡は目を細め、唇に淡い笑みを浮かべた。「希嗣」そのとき、通りの向こうから女の声が響いた。聡の笑みがすっと消え、瞳に冷たい光が宿った。こんな素晴らしい日に、あんな声で水を差されるなんて。まるで凶兆じゃない。「行こ」彼女は一度も向こうを振り返ることなく、すっと星野の手を取ると、少し離れた場所に停めてある車へと足を向けた。星野は、聡の様子がいつもと違うことに気づいて、「どうしたんですか?」とそっと尋ねた。「ちょっと疲れたの。休みたいだけ」そう答える彼女の声は淡々としていたが、どこか張りつめたものがあった。星野は小さく頷き、彼女のためにドアを開けると、そのまま車を走らせた。行き先は、彼女の自宅。「竹本希嗣!」通りの向こうでは、円華が繰り返し名前を叫んでいた。しかし聡は一度も振り返らず、足を止めることもない。慌てて追いかけた円華は、車が発進する際の排気ガスをもろに浴び、顔をしかめながら怒りを爆発させた。「まったく、役立たずめ!」苛立ちを込めて吐き捨てると、すぐにスマホを取り出し、竹本へ電話をかけた。「やっと見つけたわ。ブライダルショップから出てきたのよ、男と一緒に。たぶん、結婚したんじゃない?」電話口の向こうで、竹本は怒鳴った。「やっぱり、あの娘はどうしようもない。自分の親も認めんとはな。でも大丈夫だ、親子鑑定の結果はもう出てる。あの鑑定書を見せりゃ、否応なく認めざるを得ん。どんな手を使っても、俺たちが親ってことには変わりない。だったら、きっちり養ってもらわにゃな!」円華は息を整えながら、「わかった。すぐ行こうか?」と訊いた。「今は現場だから無理だ。もう少し待ってくれ」「わかった」そのまま通話が切れた。---車内では、聡がぼんやりと引っ越しのことを考えていた。今のマンションは、もう竹本と円華に知られてしまった。今日、ああして姿を現したということは、また押しかけてくるに違いない。……本当に、うっとうしい。次は、セキュリティがしっかりしたところに引っ越したい。できれば、部外者が簡単には入れない場所がいい。気がつけば、車はすでに止まっていた。いつ止まったのかさえわからないほど、静

  • 離婚後、恋の始まり   第976話

    聡はふと思った。社長、今日なんか薬でも飲み間違えたんじゃない?こんなに話が通じるなんて、いつものあの人じゃない。こき使ってこそ本領発揮、こっちが死ぬほど働かされるのが常なのに、まさか自分から「休みをやる」なんて言い出すとは。半信半疑のまま、思ったことをそのまま口にした。「社長、大丈夫?なんかあった?」雅之:「……」社内で、こんなふうに遠慮もなく話しかけられるのは、聡だけだ。年上に対する礼儀なんてお構いなし。だが、雅之はそれを咎めることができなかった。彼女は有能だ。しかも、忠誠心もある。何より、信用できる。雅之は隣にいた里香へ目をやりながら、怒りを噛み殺すようにして言った。「休み、欲しいか」「欲しいに決まってるじゃない!」聡は即答だった。今日の雅之は人間らしい。これは千載一遇のチャンス、逃すわけがない。「日程が決まったら連絡しろ」「はい」そう言って電話を切ると、雅之は改めて里香に目を向けた。「これで、誠意は十分か?」だが、里香はゆっくり首を振った。「まだ足りないわ」彼女の言葉に、雅之は視線を向けたまま、お腹を優しく撫でながら聞いた。「じゃあ、他に何がしたい?」「聡さんたちは、いつもあなたのそばで支えてきたんでしょ?結婚式みたいな特別なタイミングには、何かプレゼントでも贈ったらどう?」なるほど。彼女に言われるまでもなく、何か贈ろうとは思っていた。だが、今それを口にされると、まるで指図されたようで、少し面白くない。それでも彼は歩み寄り、彼女の唇の端に軽くキスを落とした。「わかった。お前の言うとおりにしよう。夫婦の名義で贈る。きっと聡も、お前の気遣いを覚えてくれるだろう」しかし、里香は彼を押しのけて眉をしかめた。「そんなのいや。全然ロマンチックじゃない」「じゃあ、こうか?」雅之の息が熱を帯び、頬にキスを落としながら、彼女のスカートの裾に手を伸ばした。里香の白い頬がぱっと紅潮した。「ちょっと、真昼間から何してるのよ」雅之の瞳が、熱を帯びて深まった。「……夜なら、いいってことか?」それを聞いた里香は彼を睨みつけ、立ち上がって部屋を出て行った。妊娠中だっていうのに、頭の中はそればっかりなんだから!一方その頃、星野は忙しなく電話対応をしてい

  • 離婚後、恋の始まり   第975話

    バラの花を受け取った聡は、そっと鼻先に近づけて香りを確かめた。ふわりと、ほのかな甘い香りが漂う。その隣で、星野が婚姻届受理証明書を取り出し、丁寧に彼女へ差し出した。「こうやって写真を撮ったら、もっと素敵になりますし、ちょっとした儀式っぽさも出るんじゃないですか?」その言葉に、聡は唇の端を持ち上げ、くすりと笑った。「結構、知ってるんだね?」「ずっと気にしてたので。聡さんが写真を撮るのが好きなの、知ってました。ただの証明書の写真じゃ、きっと物足りないと思いまして」聡は笑いながら証明書を受け取り、バラの花と一緒に角度を調整しながら撮影を始めた。数枚ほど撮るとすぐに満足し、証明書を星野へ返した。そして迷いなく車のドアを開け、そのまま乗り込んだ。星野は証明書を大事そうにしまい、少し遅れて運転席へと乗り込む。「何か食べに行きませんか?お祝いもしましょう」そう言った彼に、聡はスマホの画面を眺めながら、撮った写真を選びつつ応じた。「さっき食べたばっかりでしょ。まだお腹空いてないし。それよりウェディングフォト、撮りに行こうよ」その言葉に、星野は穏やかに笑った。「わかりました」ウェディングショップに着く頃には、聡はようやく撮影した中から三枚を選び抜き、SNSに投稿した。いつものように、星野が最初の「いいね」を押した。そのあとすぐに、通知が鳴り止まなくなった。有美:【?】有美:【??】隼人:【おめでとう】里香:【おめでとう!】かおる:【わーい!おめでとう!】桜井:【姉貴……!大好きな姉貴が結婚だなんて、早すぎます!】新:【いつご飯おごってくれるの?】そして、徹は静かに「いいね」を一つ、押した。SNSだけでなく、LINEにもメッセージが次々と届き始めた。最初に電話をかけてきたのは有美だった。ウェディングショップの入口をくぐりながら、聡はスマホを耳に当てた。「もしもし?」受話口から飛び出してきたのは、有美の甲高い声だった。「マジで!?アカウント乗っ取られてないよね!?婚姻届受理証明書の投稿、あれほんとに聡ちゃんがやったの?ほんとに結婚したの!?」あまりの勢いに、聡はスマホを少し耳から離し、有美が落ち着くのを待ってから口を開いた。「乗っ取られてないし、投稿も間違いじゃ

  • 離婚後、恋の始まり   第974話

    「結婚する」──その言葉を聡が口にした以上、星野が再び問いかけてくるのは、ほとんど確実だった。もし彼女がそれをもう一度拒むようなことがあれば、彼はもう二度と、同じ質問はしないだろう。聡は静かに星野を見つめ、穏やかに語りかけた。「本当に……覚悟ができてるの?私、気まぐれだからさ。いつか君のこと、好きじゃなくなるかもしれないよ。そうなったら、離婚するわよ?」星野の瞳には、ひたむきな決意の色が宿っていた。「もう、決めました。聡さんと結婚したいんです。僕たちの結婚を守るために、全力を尽くします。煩わしいと思われないように、ちゃんと努力します。最後まで、ずっと一緒にいたいんです」その言葉に、心が動かないはずがなかった。今この瞬間、彼の心も、その視線も、自分だけをまっすぐに映していたから。聡は思わず身を乗り出して、彼の口元にそっと唇を重ねた。「……かわいいね」星野は彼女の後頭部に手を添えて、キスを深くした。唇を離したときには、ふたりの息が、ほんのり乱れていた。「聡さん……僕と、結婚してくれますか?」「うん」そのときの聡には、もう迷いなどひとかけらもなかった。聡がうなずいた瞬間、星野の瞳の奥に、まるで打ち上げ花火のような輝きが広がるのが、はっきりと見えた。その眩しさに引き込まれるようにして、聡の心にも明るい光が差し込んだ。決めた以上は、もう迷わない。聡はすぐに着替え、普段はまず袖を通さない白いシャツを身にまとい、品のある繊細なメイクを施した。そしてふたりは、迷いなく役所へと向かった。窓口に並ぶ間、星野はずっと聡の手を握りしめていた。その掌が、緊張のせいでじんわりと汗ばんでいるのが、はっきりと伝わってきた。「なに、そんなに緊張してんの?」聡はくすっと笑いながら、問いかけた。星野は真剣な顔で彼女を見つめ返した。「もうすぐ家庭を持つ男になりますから。緊張して当然です」「ふふ、いい心がけじゃない」聡がそう褒めたちょうどそのとき、ふたりの番がきた。婚姻届受理証明書を手渡されたとき、聡がまだ目も通していないのに、星野がそれをさっと取り上げた。「ちょっと、なにしてんの?」聡が軽く眉を上げて問いかけると、星野は真顔で言った。「金庫にしまっておきます。聡さんが触れないように」「は?な

  • 離婚後、恋の始まり   第973話

    「お腹空いた」そう言いながら、聡は手を引っ込めた。星野はすぐに応じた。「朝ごはん、もう用意してありますから、顔を洗って出てきてください」「うん」返事をすると、聡は布団を蹴って勢いよく起き上がった。白磁のような肌に、柔らかな起伏としなやかな曲線が浮かんだ。その美しさを曇らせるかのように、あちこちに昨夜の名残が残っていた。指の跡、唇の痕……荒れ狂った夜の記憶が、肌の上に静かに刻まれている。けれど、聡本人はまるで気にも留めない様子で、さっさと洗面所へ向かっていった。星野の視線は無意識のうちに彼女の背中を追い、その輪郭を目でなぞっているうちに、胸の奥がじんわりと熱を帯び始めた。だがその艶やかな姿もすぐに視界から消え、星野はそっと目を閉じ、昂った鼓動を落ち着けようと深呼吸をひとつした。「服、持ってきて」数分もしないうちに、洗面所から聡の声が飛んできた。「はい」星野はすぐに応じ、彼女のクローゼットへ向かった。そこには、色とりどりの服が所狭しと並んでいた。一歩踏み入れた瞬間、思わず立ち尽くした。どれを選べばいいんだろう?しばし迷った末に、家で過ごすには楽そうなワンピースを手に取り、洗面所へ戻った。ノックをすると、聡はすぐにドアを開けた。ただし、見えたのは細く白い手首だけ。星野はそっとその手に服を渡した。その手はすぐに引っ込められた。「ふん?」直後、内側からくすっと笑うような声が聞こえてきた。星野は少し顔を伏せながら問いかける。「どうかしましたか?服、間違ってましたか?」「別に」聡はそれだけ言った。星野は特に深く考えることなく、その場を後にした。三十分ほど経って、聡が寝室から現れた。星野が選んだ服を身につけている。ふと物音に顔を上げると、聡がゆっくりと歩いてくる。着ていたのは、柔らかな絹のような質感のストラップワンピース。光の具合で、まるで陰影をまとって揺れているように見えた。細いストラップが二本、なめらかな肩にかかり、そのラインをいっそう美しく引き立てている。思わず見惚れてしまう。聡が近づき、ぱっと手を振って彼の目の前で揺らした。「何、ボーっとしてんの?」「い、いえ……別に」気を取り直し、星野は椅子を引いた。「ご飯、召し上がってください」聡は吹き出しそうにな

  • 離婚後、恋の始まり   第972話

    聡は全身を震わせていた。これまで味わったことのないほどスリリングな感覚に、胸が狂おしいほど波打ち、玄関の棚の端を両手で必死に掴んで耐えていた。刺激があまりにも強く、つま先の先までぎゅっと縮こまった。灼けつくような吐息が、敏感すぎるその場所を撫でるように吹きかけ、神経を鋭く揺さぶってくる。極楽とも地獄ともつかない、狂おしいほど曖昧で甘美な感覚。窓の外では風が少し強くなり、バルコニーのカーテンがふわりと上下に揺れていた。隙間から柔らかな月光が差し込んだのも束の間、ゆっくりと流れてきた雲がその光を覆い隠した。目尻にじわりと涙が滲み、聡の呼吸は荒く、不規則になっていた。しばらくして、彼女の体からふっと力が抜けた。脱力した体をそっと抱きかかえると、星野は静かに立ち上がり、そのまま浴室へと彼女を運んだ。「気持ちよかったですか?」耳元で囁くようにそう言いながら、星野は熱のこもった息をそっと吹きかけた。まだ呼吸の整わないまま、潤んだ瞳で見上げた聡は、軽く唇を噛みながらぽつりとつぶやいた。「星野くん、どこでそんなこと覚えたのよ?」「ただ……君を気持ちよくさせたくて。喜ばせたかったんです」そう答えながらも、彼はその技をどこで身につけたのかは、明かそうとしなかった。聡はその首に腕をまわし、くすっと笑って言った。「なかなかやるじゃない。ご褒美、あげる」星野は口元をわずかに緩め、微笑んでから、彼女の体を丁寧に洗いはじめた。浴室は湯気に包まれ、蒸気を含んだ熱気が肌を撫でる。聡の背中が冷たいタイルに押しつけられ、擦れた部分にじんと痛みが走った。聡は星野にしがみつき、喘ぎながら声を漏らした。「……ベッドに、行こう」星野は彼女の片足をしっかりと掴み、そのまま彼女の息が途切れるまで、激しく動かした。やがて、力を失った聡をそっと抱き上げ、寝室へと戻っていく。一晩中、ふたりは何度も互いを求め合った。夜が白み始める頃、ようやく聡は眠りについた。意識が朦朧とする中、ふと思った。長いこと禁欲してた男って、ほんと、怖いわね。星野の瞳には確かな満足の色が浮かんでいた。腕の中に眠る女を見つめながら、その心の奥深くまでもが満たされていた。あと数時間後が待ちきれない。次第に空が明るくなっていく。星野の中には、眠気などかけら

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status