Se connecter店長の提案など、今の水琴の頭には入ってこなかった。彼女の全神経は「灼也がこのブレスレットを買った」という事実に支配されている。「……いいわよ。でも、今は急用があるから一度持ち帰らせて。数日後にまた持ってくるわ」「かしこまりました!誠にありがとうございます、お客様!」店長が深々と頭を下げるのを背に、水琴はブレスレットを握りしめたまま、逃げるようにブティックを後にした。高遠グループ本社ビル。エントランスの受付で用件を伝えた水琴は、ロビーの来客用ソファに腰を下ろして灼也が降りてくるのを待っていた。今回は、いつものように強引に彼に会おうとはしなかった。今、彼女の頭の中はぐちゃぐちゃに混乱しており、どうやってこのブレスレットのことを切り出せばいいのか、自分でも整理がついていなかったからだ。五分も経たないうちに、専用エレベーターの扉が開き、灼也が足早にロビーへ姿を現した。グループのトップである彼が自ら一階まで迎えに降りてきたことに、受付のスタッフたちは「あのお客はいったい何者だ」と意味深な視線を水琴に向けている。社長室へ向かう道中、灼也と水琴の間には、冷え切ったよそよそしい空気が流れていた。気まずい沈黙を破ったのは、灼也の方だった。「急にどうしたんだ?」「……聞きたいことがあるの」水琴は前を向いたまま、氷のように冷たい声で短く答えた。灼也の後ろに続いて社長室のエリアに入ったその時だ。「灼也、どうして会議の途中で急に出て行っちゃったの?遠野さんがまだお待ちになってるわよ」甘ったるい声と共に、琉里が奥から姿を現した。しかし、灼也の後ろにいる水琴の姿を認めた瞬間、琉里の顔がぴたりと強張った。すぐに貼り付けたような愛想笑いを浮かべる。「あら、水琴さん。どうしてあなたがこんな所に?」水琴は冷ややかな目で琉里を一瞥すると、ゆっくりと口を開いた。「どうして私がいては駄目なの?ここは高遠グループのオフィスで、私は高遠さんに用があって来ただけよ。まさか、あなたにいちいち許可を取る必要があるのかしら?」「っ……!」琉里の顔から笑顔が剥がれ落ち、屈辱に歪んだ。これまで大人しい女だと思っていたのに、まさかこんなに鋭く言い返してくるとは思わなかったのだろう。灼也は氷点下の眼差しを琉里に向けた。
温かな記憶が蘇るたびに、胸を抉られるような痛みがシルクの糸のように絡みつき、彼女を締め上げた。このドアを開ける限り、一生あの幸せだった過去の幻影に囚われ続けてしまう。水琴は逃げるように部屋を飛び出し、痛みを閉じ込めるようにドアを固く閉ざした。気を取り直して、自分の部屋へと向かう。前回は本に挟まっていた写真を見つけた後、本棚中の本をすべて振って確かめたが、二枚目は出てこなかった。今回はクローゼットの奥を探る。そこには、昔両親からプレゼントされた豪奢なジュエリーボックスが隠されていた。中には、母親から譲り受けたジュエリーの数々が眠っている。ふたを開けると、アンティークのバングルやネックレスが並んでいた。その一番下の引き出しを開けた時――水琴は、見覚えのない奇妙なブレスレットを見つけた。カルティエのロゴが刻印されたそれは、ところどころメッキが剥がれ落ちていた。この手の高級ジュエリーは、こまめに手入れをしなければすぐに本来の輝きを失ってしまう。冷たく暗いジュエリーボックスの中で、三年もの間放置されていたのだから無理もない。だが、水琴にはこのブレスレットに見覚えが全くなかった。……待って。突然、水琴は大きく目を見開いた。何故だろう。何か、とても重要なことを見落としている気がする。私は一体、何を忘れている?――そうだ。頭の中に閃いたのは、灼也の顔だった。彼も以前、水琴にカルティエのブレスレットを贈ってくれたことがあった。トレジャーホテルで初めて食事をした時だ。私の記憶が確かなら、このブランドのブレスレットを贈ってくれた人間は、高遠灼也ただ一人のはず。水琴はその色褪せたブレスレットをそっと拾い上げると、バッグの奥底にしまい込んだ。南鳥市へ持ち帰るためだ。一枚の写真の出所を追跡するのは雲を掴むような話だが、高級ブランドのブレスレットなら話は別だ。カルティエの最大の特長は、すべてのジュエリーに固有のシリアルナンバーが刻まれており、購入者の「身分証」のような役割を果たしていること。もちろん、この手のハイブランドは顧客のプライバシー保護を徹底している。正規のルートで問い合わせたところで、あっさりと顧客情報を教えてくれるはずがない。……情報を引き出すには、少し「裏の手段」を使う必要がありそうね。カルティ
佳乃はアクリル板の隙間から手を伸ばし、雅の震える手をギュッと強く握りしめた。「雅。お母様を、許してちょうだい」「……お母様?何を言ってるの?」背筋に冷たいものが走る。嫌な予感しかしない。そして、その予感は最悪の形で的中した。佳乃は涙声を装いながら、最も残酷な宣告を口にしたのだ。「ごめんなさい、雅……お母様とお兄様を許して。白妙山の事件は、あなたがやったと……このまま罪を被ってちょうだい」雅は目を見開いたまま、アクリル板の向こう側にいる母親を驚愕の面持ちで見つめた。今、この人は何と言った?自分の実の娘に向かって?「……お母様、何を言ってるの?白妙山の件を知ってるんでしょう!?なら、あれが私の仕業じゃないことだって分かってるはずじゃない!紗夜さんよ!あの女が私に全部罪を擦り付けたのよ!」必死に身の潔白を訴える雅に対し、佳乃は血走った赤い目で、口唇を震わせながら言った。「雅、鷹司家のために……堪えてちょうだい」「……は?鷹司家のため?」雅は乾いた笑いを漏らし、ぽろぽろと涙をこぼした。「つまり、私を犠牲にする気ね?水琴が決定的な証拠を見つけそうだから?紗夜さんを守るために、実の娘を差し出すって言うの!?」なんて滑稽なのだろう。お母様は私のことを一番に愛してくれている。どんな手を使ってでも助け出してくれるはずだと、本気で信じていた。この地獄のような場所で、何日も何日もボロボロになりながら待ち続けて、ようやく迎えに来てくれたと思ったら――差し出されたのは、蜘蛛の糸ではなく、首を括るためのロープだったのだ。佳乃は娘の涙を見ても、もはや揺らがなかった。背筋をピンと伸ばし、冷酷な決意を込めた瞳で雅を見据える。お腹にいる「跡取り孫」を思えば、娘の涙など安いものだった。「雅、あなたに決定権はないわ。あなたが今できる唯一のことは、白妙山の件をすべて自分の独断だったと自白することよ」「ふざけないで!私がやってないのに、どうして罪を被らなきゃいけないの!?お母様、最低よ……!たかがその女のお腹にいるガキのために、自分の娘を捨てるのね!」雅の瞳から、底知れない絶望と憎悪が迸った。こんなことなら、いっそ会いに来てくれなければよかった。こんなに残酷な言葉を、母親の口から直接聞かされるくらいなら。「雅、聞き
西嶺マーメイド・ランチでの出来事。水琴が無事に助け出された後、激怒した琉里は、水琴が乗っていたあの馬を買い取り……生きたままその皮を剥がさせた。白妙山の事件の後も、手はずを整えていた自分の部下たちを、半殺しになるまで痛めつけている。あんな残酷なマネ、私には絶対に耐えられない……!紗夜はゴシゴシと涙を拭い、スマートフォンをベッドの端に放り投げた。今、彼女が頼れるのはただ一人。夫である臣だけだ。実家に逃げ帰る前、姑の佳乃に向けて「ある物」をわざと目に付く場所に残してきた。そろそろ、彼女が見つける頃合いだろう。鷹司家、ダイニングルーム。夕食の席に、今日一日まったく姿を見せない紗夜のことが気になり、佳乃は臣に尋ねた。「ねえ、紗夜さんはどうしたの?今日は一度も顔を見ていないけれど」臣は苦虫を噛み潰したような顔で答えた。「……実家に帰ってる」佳乃は臣の顔をじっと見つめ、念を押すように言った。「臣。あなたはちゃんと、紗夜さんを守り抜くのよ?」臣が力なく頷くのを見て、佳乃はひとまず安堵の息を吐いた。食後、リビングへ向かった佳乃は、ふとサイドボードの上に一枚の書類が置かれているのに気がついた。何気なく手に取って開いた瞬間、佳乃の目がカッと見開かれた。それは、紗夜の妊娠健診の報告書だった。しかも、お抱えのプライベートドクターが作成したもので、そこにははっきりと胎児の性別が記されていたのだ。佳乃はたった一目見ただけで、完全に理性を吹き飛ばされた。「臣っ!!」血相を変えて書斎へ駆け込んだ佳乃は、臣の目の前のデスクに、バンッ!と報告書を叩きつけた。「あなた、紗夜さんに冷たく当たったんじゃないでしょうね!?」「母さん?突然何を……俺は別に、そんなことしてないよ」「いいから!今すぐ月城家に行って、紗夜さんを連れ戻してきなさい!」佳乃は興奮で顔を紅潮させ、震える指で報告書をバンバンと叩いた。「あの子のお腹にいるのは……あなたの息子、鷹司家の由緒正しき跡取り孫なんだからね!!」臣は深く眉間を寄せ、重いため息をついた。そして、水琴から突きつけられた事実と、紗夜が泣きながら告白した「真実」を、ゆっくりと佳乃に打ち明けた。それを聞いた佳乃は、雷に打たれたように完全に硬直した。たっぷりと二
茂は観念したように、事の顛末をぽつりぽつりと語り始めた。一言一句すべてとはいかないが、大筋の記憶は鮮明だった。話を聞き終えた水琴は、面白そうに目を細めた。「つまり……息子さんの裕也さんは、紗夜さんのことが好きだったと?」茂は重々しく頷いた。「……誰にも言えない秘密でした。月城の令嬢はすでに鷹司家に嫁いでいますから。世間に知られれば、双方にとって致命的なスキャンダルになります」「それはそうでしょうね。でも、社長。あなたがこんな危険な橋を渡ったのは、本当に紗夜さんのためだけですか?」水琴は決して騙されない。紗夜という小娘一人の色仕掛けだけで、大槻グループという大企業全体を動かせるはずがないのだ。真の黒幕は、まだその後ろに隠れている。水琴の頭の中にはすでに一人の人物が浮かんでいたが、大槻家と音羽琉里がどう繋がっているのか、その確信だけが持てなかった。茂は水琴の鋭い視線から逃れるように目を逸らし、固い声で言った。「……話せることは、これですべてだ。これ以上のことは私には関係ない」水琴は静かに頷いた。これ以上追い詰めても、今は逆効果だろう。大槻グループの本社ビルを出た水琴は、ふっと口角を上げ、コートのポケットからボイスレコーダーを取り出した。先ほどの大槻茂との会話は、一言残らず録音してある。これを持って、重人お兄ちゃんのところへ行こう。一方その頃。第231号幹線道路を、紗夜の運転する車が弾丸のようなスピードで駆け抜けていた。アクセルを踏み込む足が、そしてハンドルを握る両手が、ガタガタと震えている。水琴が大槻社長の元へ向かったという情報は、すでに紗夜の耳にも入っていた。水琴は最初から隠す気などなかったのだ。いや、むしろ紗夜にわざと情報を流し、パニックに陥れることが目的なのだろう。そして事実、紗夜は極度の恐怖に苛まれていた。夫である臣との関係は、最悪とまではいかないまでも、あの告白以来ぎくしゃくしている。今はまだ臣も自分を警察に突き出してはいないが、もし水琴が決定的な証拠を突きつけてきた時、果たして彼が最後まで自分を守り抜いてくれる保証などどこにもない。這々の体で実家である月城邸に逃げ帰ると、両親は「また臣くんと夫婦喧嘩でもしたのだろう」と呑気に構えていた。自室に駆け込み、鍵をかけ
「……臣さん」紗夜の大きな瞳に、みるみるうちに涙が込み上げていく。彼女はひどく傷ついたような、庇護欲をそそる弱々しい表情で臣を見つめた。「まだ、あの事で怒ってるんだよね……」「…………」「分かってる。臣さんが私を責めるのは当然だよ。私が馬鹿な間違いさえしなければ、雅さんも、あんな遠い場所へ行かずに済んだのに……っ」ぽろぽろと涙をこぼし、紗夜はすがりつくように臣の胸に飛び込んだ。華奢な体が腕の中で小刻みに震えている。その可憐で痛々しい姿に、臣の胸の奥で燻っていた怒りや疑念が、急速に萎んでいくのを感じた。「ごめん、俺はただ……」弁解しようとする臣の言葉を遮るように、紗夜は首を振って彼にしがみつく。深く、重いため息を一つ吐き出すと。臣は結局、己の弱さに負けるように、すがりつく紗夜の体をそっと抱きしめ返したのだった。大槻グループ本社ビル。洗練されたオフィスカジュアルに身を包み、ハイブランドの新作バッグを肩にかけた水琴がエントランスに足を踏み入れた。目元を隠す大きなサングラスが、彼女のミステリアスな雰囲気をより一層際立たせている。エレベーターホールへ向かおうとしたその時、慌てた様子の受付嬢が立ち塞がった。「お客様、恐れ入りますがどちら様でしょうか?」水琴はゆっくりとサングラスを外し、誰もが息を呑むような端正な顔立ちを覗かせた。「大槻社長にお会いしたいの」「申し訳ございません。お約束はいただいておりますでしょうか?」水琴は小さく首を横に振った。「今の大槻グループに、飛び込みの来客を断るほどお忙しい用事なんてないはずよ。社長に『静沢水琴が来ている』と伝えてちょうだい。必ず通すはずだから」その名前を聞いた瞬間、受付嬢の顔色が変わった。慌てて内線電話をかけ、数分後にはペコペコと頭を下げながら、水琴を社長室直通のエレベーターへと案内した。重厚な扉を開けて社長室に入ると、執務デスクの向こう側に初老の男が座っていた。大槻グループのトップ、大槻茂(おおつき しげる)だ。息子の裕也が引き起こした数々のトラブルのせいだろう。たった数日見ない間に、彼の側頭部には白髪が目立ち、目の下には濃い疲労の隈が刻み込まれていた。「大槻社長」水琴は形式的に声をかけると、返事も待たずに、来客用の高級ソフ
宗一郎は湯呑みをトン、と乱暴に置く。その視線は遠くを見つめ、声には悲しみが滲んでいた。「あの子が嫁いでから、お前の母親はあれほど彼女に冷たく当たっておきながら、自分の体調が悪い時は、医者の手配から何から、毎回あの子を顎で使っていたではないか。雅が我儘を言ってはその尻拭いをさせられ、財布代わりにされて。……お前が夜更けに帰るたび、夕食を温め直して待っていたのは誰だ。あの女のせいで胃を壊したお前のため、慣れぬ手つきでスープを作り、手に大きな火傷までこしらえて……!」宗一郎は、深く息をついた。「あの子の父親が亡くなり、小林家に身を寄せていた時でさえ、あの子は誰かにあそこまで尽くしたことなどなかっ
臣が呆然としていると、温かい手がそっと彼の手を握った。隣に座る紗夜が、心配そうに顔を覗き込んでいる。「臣さん、どうしたの?胃の調子でも悪いのかしら。スープでもいただく?」臣は力なく首を横に振った。水琴は宗一郎に笑顔で応えると、臣と紗夜のやり取りなどまるで存在しないかのように、静かに椅子を引いて腰を下ろした。その傍らで宗一郎が、見せつけるような二人の親密さに、侮蔑を込めてフンと鼻を鳴らした。鷹司家の食卓は、食事中の私語を許さない厳格な家風がある。水琴に食欲などあるはずもなく、ただ宗一郎の手前、仕方なく箸をつけただけだった。やがて食事が終わると、宗一郎が水琴を引き留めた。「臣と
水琴は足を止め、その差し出された手を見つめた。表情は凪いだまま、応じようとはしない。差し出された紗夜の手が、宙で居場所をなくし、彼女の顔から完璧な笑みがわずかに強張る。隣で、臣が割って入るように口を開いた。その声は低く、感情が読めない。「祖父が、俺たちのことを知った。今夜、話があるから屋敷に来いと。お前の携帯が繋がらなかったから、直接迎えに来た」「わかったわ」水琴は自分のスマートフォンに目を落とす。確かに、バッテリーが切れていた。「充電したら、すぐに向かいます」彼女はそう頷くと、付け加えた。「先に行っていて」その言葉は、あなたたちと行動を共にするつもりはない、という明確な拒絶だ
そして、呆然と立ち尽くす雅を視界の端に留めながら、スーツケースのハンドルを握りしめると、一度も振り返ることなく、その家を後にした。鷹司家の重々しい門を抜けると、一台の真っ赤なオープンカーが目に飛び込んできた。運転席から、親友の鹿耶が身を乗り出し、サングラスを額に押し上げながら、芝居がかった投げキスをよこす。「お姫様、ご乗車を。鹿耶様が、最高の祝賀会に連れてってあげる」祝賀会とは言ったものの、離婚したばかりの水琴の心情を慮ってか、鹿耶が連れて行ってくれたのは、落ち着いたジャズが流れる隠れ家のようなミュージックバーだった。離婚の経緯を話すと、鹿耶は呆れ返ったようにグラスを置いた。「また