LOGIN水琴はふうっと短く息を吐き出すと、底知れぬ深淵のように冷え切った眼差しで雅を射抜いた。「あれは離婚協議に基づいた正当な分与よ。言葉には気をつけることね。さもないと……自分がどうやって破滅していくのか、気づくことすらできないわよ」そう言い捨て、デスクの固定電話のボタンを押した。「警備室ですか。至急こちらへお願いします」「なによ!私を殺す気!?お母様、紗夜さん、聞いた!?この女、私を脅したわよ!」雅がヒステリックに喚き出す。水琴は心底うんざりしたように立ち上がった。そして、ためらいなく腕を振り上げ――パァンッ!乾いた平手打ちの音が室内に響いた。「……もう気が済んだ?」頬を押さえ、雅は信じられないものを見るように水琴を睨みつけた。「よくも……ぶったわね!?」今にも掴みかからんばかりの勢いだが、水琴は氷のように冷たい声で言い放った。「少しは目を覚ましなさい。さあ、とっとと出て行って」佳乃は一瞬息を呑んだ後、ハッと我に返って口汚く罵り始めた。「この泥棒猫!よくも私の娘を!地獄に落ちなさい!」「このッ……!絶対に許さない!」雅が発狂したように水琴に飛びかかろうとする。水琴はすっと身をかわすと、鋭く言い放った。「また拘留されたいの?」その言葉に、雅の動きがピタリと止まった。また拘留されるなんて絶対に嫌だ。あれは彼女の人生最大の屈辱であり、南鳥市中の名家のお嬢様たちの笑い者になった最低の記憶なのだ。この女、私を本気で破滅させる気だわ!そこへ数名の警備員が駆け込んできた。相手が佳乃だと気づき、警備員たちは困惑顔を見せる。「静沢先生、この方は理事会に籍を置く鷹司家の佳乃様ですが……」それでも彼らは職務を全うしようと佳乃に向き直った。「佳乃様、どうかお引き取りください。私共も立場上、これ以上は……」「正気なの?私が誰だか分かって言ってるの!?」佳乃は信じられないと言わんばかりに警備員を怒鳴りつけた。警備員は気まずそうに頭を下げた。「佳乃様……以前、この大学の最大の出資者である高遠家の灼也様から、『静沢先生の身の安全は絶対にお守りしろ』と厳命されておりまして」「……っ、また灼也様!?」その名を聞いた瞬間、紗夜は胸をひくりと引きつらせ、雅の顔は憎悪で真っ赤に染まった。流石の佳乃も、南鳥市を牛耳る灼也を敵に回す度胸はない。
「さっき警察が来て、臣さんを連れて行ったんです。住居侵入だと言っていました!」「臣はずっと家にいたじゃないの!住居侵入だなんて、どういうことなの!」「夕食の後、臣さんずっと心ここにあらずで……十一時頃に一人で出かけてしまったんです。どこに行くのか聞いても答えてくれなくて」先ほど帰ってきた時の、魂の抜けたような臣の姿を思い出し、紗夜の脳裏にある最悪の可能性がよぎった。――まさか、あの女のところへ?A大学の心理相談室。水琴のパソコンに、M国にいる小林菫からメールが届いた。先日の論文に目を通してもらって以来、二人はメールで頻繁に心理学の研究について意見を交わしていた。今回のメールは論文の発表に関するものだった。菫は、水琴の今の研究なら直接心理学の専門学会誌に掲載できるレベルだと高く評価してくれていた。在学中、水琴自身も考えたことがないわけではなかったが、成果を出す前に結婚し、キャリアも前途も投げ打ってしまったせいで、結局すべてが中途半端に終わっていた。今回、菫から背中を押され、水琴の胸に再びかつての意欲が湧き上がってきた。だが、返信を数文字打ち始めた矢先、相談室のドアが乱暴に開かれた。雅と佳乃がズカズカと踏み込んできて、その後ろには紗夜の姿もあった。「水琴!お兄様を警察に売ったのはあんたね!?」雅がバンッと机を叩き、ものすごい剣幕で睨みつけてくる。水琴は顔色一つ変えずに編集中のファイルを保存すると、冷ややかな視線を向けた。「今は仕事中です。出て行ってください」「この泥棒猫!さっさと息子を釈放させなさい!あんたみたいな女を嫁に迎えたのが運の尽きだったわ。雅を陥れただけじゃ飽き足らず、今度は臣まで!」佳乃が鼻先まで指を突きつけて金切り声を上げる。水琴は冷笑を浮かべた。「佳乃様。すぐに出て行かないなら、警備員を呼びますよ」「ふんっ。忘れたとは言わせないわよ。鷹司家はここの理事会に席を置いているのよ!」佳乃は傲慢に胸を反らせた。ここで、紗夜がふるふると目に涙を浮かべて前に出た。「静沢さん……以前のことをまだ恨んでいらっしゃるのは分かります。私のことが憎いなら、もう二度とあなたの前には現れません。ですからお願いです、臣さんを許してあげて……離婚したとはいえ、かつては夫婦として過ごした情があるじゃありませんか」水琴はまやかし
血が上った頭からは、佳乃や紗夜のことなど完全に吹き飛んでいた。そのまま階段を駆け上がると、乱暴にドアを叩き始めた。ガンガンガンッ!部屋でメイクを落とし終えたばかりの水琴は、凄まじい音に肩をビクッと跳ねさせた。こんな夜更けに誰?高遠さん……?でも、彼は帰ったばかりだし……不審に思ってドアスコープを覗き込むと、信じられないことにそこにいたのは臣だった。水琴は無言で覗き穴から離れ、無視しようとした。しかし、ノックの音はさらに激しさを増し、ドアを壊さんばかりの勢いになる。しびれを切らした水琴は、勢いよくドアを開け放った。「こんな夜更けに何しに来たの!?頭おかしいんじゃないの!」「なんで高遠灼也が君を送ってくる!あいつとどういう関係だ?あいつのことが好きなのか!」目を血走らせてまくしたてる臣に、水琴は極めて冷ややかな声を返した。「あなたに関係ないでしょ。私たちはとっくに他人よ」「答えろ!あいつが好きなのかって聞いてるんだ!」臣は一歩、また一歩と狂気じみた気迫で距離を詰めてくる。「いい加減にして、帰って!私のことに口出ししないで!」だが、臣の口からは理性を欠いた言葉が止まらない。「どうしてパーティーであいつは君を好きだと皆の前で公言した!俺がくれてやった大金は、高遠灼也に取り入るための踏み台にするためのものじゃない!」「……本気でどうかしてるわ」水琴はスマートフォンを手に取り、警察に通報しようとした。だが、臣が力任せにそのスマホを奪い取った。「図星を突かれたか!あいつからいくらもらったんだ?やっぱり金目当ての女だったんだな。金をくれる男なら誰でもいいのか。母さんの言った通りだ!」「何するの!返して!」その時、臣の視線が水琴の腕で光る新しいブレスレットに釘付けになった。「これもあいつからか!」臣は彼女の手首を乱暴に掴み上げた。水琴は恐怖に顔をこわばらせた。必死に腕を振り払おうとしたが、男の力で万力のように締め付けられ、到底敵わない。「痛い!離して、何をするつもり!?」「身の程をわきまえろ!高遠灼也のような男が、お前ごときと釣り合うはずがないだろう!結局金が目当てなんだろうが!俺がくれてやった金じゃ足りなかったのか!」パァンッ!!鋭い平手打ちの音が、静まった深夜の廊下に響き渡った。頬を打たれた衝撃で、臣はようやくわ
だからあんなにも強い不安を抱え、他人を極度に恐れていたのか。だが、それだけではないような気がする。「拉致された後、必死に探した。ようやく見つけ出した時、あいつは発作を起こした時のようにパニック状態に陥っていて……俺の顔すら分からず、数日間ずっと恐怖に泣き叫んでいた」「一体何があったんですか。まさか、紗音ちゃん……」水琴が顔をしかめると、灼也は力なく笑って首を振った。「いや、あいつ自身が身体を傷つけられたわけじゃない。ただ、犯人たちが別の人間を残酷に痛めつける現場を見せられたんだ。絶叫を聞かされ、血の海を前にした。以前のカウンセラーには『目を閉じると血が見える、世界が真っ赤に染まる』と語っていたそうだ。その後、完全に限界を迎えて昏睡状態になり……目を覚ました時には、その記憶だけがすっぽり抜け落ちていた。だが、精神的にひどく過敏になった。心の傷が癒えていないのは分かっていたよ」そういうことだったのか。底知れぬ怯えの理由が腑に落ちた。「高遠さん。紗音ちゃんは本能的にその出来事を忘れることを選んだんです。今後のアプローチの仕方が分かりました」以前この件を尋ねた際に彼が言葉を濁したのは、やはりこの凄惨な過去を口にするのをためらったからだろう。アパートの前に着き、水琴が車を降りようとした瞬間、手首を掴まれた。「待って」シートに座り直し、不思議そうに彼を見る。「高遠さん?」灼也は小さな箱を彼女に差し出した。「君に」「今日は高遠さんの誕生日で、私じゃありませんよ?」水琴は目を丸くした。「俺からの、お返しだよ」灼也は淡く微笑んだ。彼の真剣な顔と、真っ直ぐな瞳に見つめられ、水琴の胸がドクン、ドクンと大きく跳ねた。箱を受け取ると、逃げるように車を降りた。しかし、アパートのエントランスを開ける直前で立ち止まる。時刻を確認すると、十一時五十五分だった。彼女はくるりと振り返り、再び車のそばへ戻って行った。灼也が窓を下ろすと、水琴は少し照れたような顔で小さく口を開いた。「ハッピーバースデートゥーユー、ハッピーバースデートゥーユー……」その瞬間、吹きすさぶ風の音も夜の寒さもすべて消え去り、世界には彼女の優しい歌声だけが響いているように感じられた。「……私からの、お返しです」歌い終えると、水琴は箱を抱きしめるようにして、足早
だが、臣は何かに憑かれたように水琴の横を通り過ぎ、真っ直ぐ雅のもとへ向かった。踊りながら、痛ましいほど落ち込んだ水琴の視線に気づいても、わざと目を逸らした。思えば、自分から彼女をダンスに誘ったことなど一度もなかった。それが今、あの画像の中の彼女はどうだ。見違えるほど輝いている。黒いベルベットのタイトドレスがその美しい曲線を描き出していたが、彼女の腰に添えられた男の手が、臣の目にはひどく刺々しく映った。「臣さん?臣さん、何を考えているの?」何度も呼ばれ、臣はハッとして我に返った。不思議そうに紗夜を見る。「どうしたんだ?」「『どうしたんだ』じゃないわ。早く佳乃様のご機嫌を直してあげて」臣が視線を移すと、佳乃がまだ怒り心頭といった顔でこちらを睨みつけていた。「母さん、心配しないでくれ。よりを戻すなんてことはない」そもそも、今の水琴は俺を疫病神のように避けている。その上、彼女のそばには常に高遠灼也が張り付いているのだから。「言葉だけなら何とでも言えるわ!私に少しでも長生きしてほしいなら、今すぐあのお金を取り返してきなさい!元はと言えば鷹司の財産なんだから!」臣はそれ以上何も言わず、無言で席を立ち、二階へと上がっていった。パーティーがお開きになる頃には、灼也のあの堂々たる宣言はすでに南鳥市中に知れ渡っていた。名家のお嬢様たちは皆、怒りのあまりスマートフォンを壁に投げつけていたことだろう。会場内で水琴は幾度となく探りを入れるような視線を浴びたが、すでに慣れっこになっていた。それに、全員が自分を見ているとも限らない。隣を歩く灼也の凛とした長身は、誰の目にも惹きつけられるほど魅力的だからだ。片方の腕には紗音がぴったりとくっつき、もう片方には灼也が歩幅を合わせて歩いている。水琴はまるで左右を固められた囚人にでもなった気分だった。やがて宴が終わり、紗音は祖父の景正と帰り、灼也は来客の見送りに出た。ホテルのエントランスに一人取り残された水琴は、肌を刺すような冷たい北風に思わず腕をさすった。時刻はすでに夜の十一時を回っており、冷え込みが最も厳しい時間帯だ。その時、ふわりと温かい上着を肩に掛けられた。「車を出してくる」灼也は穏やかにそう告げると、水琴の返事を待たずに駐車場へと向かった。助手席に座って、水琴はようやく人心地がつ
その日の夜、鷹司家の食卓は騒然としていた。発端は、雅が持ち込んだある噂だった。「お母様!お兄様、紗夜さん、これ見てよ!」雅はスマートフォンを操作すると、画面を食卓の三人に突きつけた。動画の中で、一組の男女が身を寄せ合ってステップを踏んでいる。女性のドレスの裾がふわりと鮮やかに舞い上がった。広いフロアには大勢の客が踊っていたが、臣は一目でそれが水琴と灼也であることに気づいてしまった。おかずを挟もうとした箸先が、一瞬震える。臣は黙り込み、感情を誤魔化すようにスープを一口すすった。そのわずかな動揺を、紗夜は見逃さなかった。意味ありげな視線を宙に泳がせ、淡々とした口調で言う。「別に珍しいことじゃないわ。あの二人、いつも一緒にいるじゃない」佳乃が苛立たしげに箸を卓上に叩きつけ、冷たく鼻を鳴らした。「言わせてもらうけどね、あの女、あんたと離婚して間もないのにもう高遠家の男といちゃついてるじゃないの。あんたは結婚中から浮気してたって信じようとしなかったけど、やっぱりそうだったのよ。16億円の現金に家も車もくれてやるなんて、まったく馬鹿げてるわ。さっさと取り返してきなさい!」お金の話題が出た途端、雅はそっと臣の顔色を窺った。兄が一刻も早く財産を没収してくることを、彼女も心の中で強く急かしている。というのも、取り返したお金は自分に譲ってくれると、いつか佳乃が約束してくれたからだ。臣は箸を置き、無表情のまま言った。「確証もない話だ。ただパーティーで灼也にダンスを誘われたというだけで、何も証明できない」「違うわよ!灼也様ご自身が認めたの!」雅が顔を真っ赤にして声を荒げた。「大宮お嬢様が直接、熱愛の噂について訊ねたのよ。そしたら灼也様は誤魔化すどころか、ハッキリと事実だって答えたの!」「クラウン・エンターテインメントの令嬢が言うのなら、嘘ではないわね……」佳乃が険しい目つきで呟いた。「そうよ!ねえお兄様、なんでさっきからずっとあの女を庇うの?」雅は以前から抱いていた不満をこの機にぶちまけた。「最近おかしいと思ってたのよ。何度もあの女を、お祖父様のお見舞いに連れ出してるじゃない!」臣は無意識に紗夜の顔色を窺い、慌てて雅を睨みつけた。「でたらめを言うな!紗夜さんがいる前で!」「本当のことじゃない!お兄様がおかしいのよ!紗夜さんがいるのに、あの