INICIAR SESIÓNキキィィィィッ!!タイヤが悲鳴を上げ、焦げたゴムの臭いが車内に充満する。ダッシュボードでは、先ほどからずっとスマホの着信音が鳴り響いていた。きっと灼也だ。先ほど電波が切れる直前、私が「追われている」と叫んだのを聞いて、彼も半狂乱で電話をかけ続けているに違いない。電話に出たい。今すぐ助けを求めたい。だが、ほんの一瞬でも片手をハンドルから離し、視線を逸らせば、それだけで命取りになる。背後の二台は、もはや自分たちの命すら惜しくないのか、道連れにするような勢いで水琴の車のケツにガンガンと体当たりを繰り返してくる。巻き上がる土埃の中、ギリギリのデッドヒートが続く。しかし、極限状態の緊張と、先ほど胸を強打したダメージが、徐々に水琴の体力を奪い始めていた。急なヘアピンカーブに差し掛かった時、ふっと水琴の意識が白く霞んだ。駄目……!寝ちゃ、駄目……ッ!必死に歯を食いしばり、薄れゆく意識を繋ぎ止める。この狭く険しい峠道で、ほんの数センチでもハンドル操作を誤れば――待っているのは、谷底への墜落という確実な「死」だけだ。すっかり陽は落ち、街灯ひとつない峠道は恐ろしいほどの暗闇に包まれていた。背後から追ってくる車は、これ見よがしにハイビームを点灯し、チカチカと不規則にパッシングを繰り返してくる。強烈な光がバックミラーに反射して、水琴の目を容赦なく刺した。「くっ……!」眩しさに思わず目を細めた、その一瞬の隙だった。背後の車が、殺意をむき出しにして強烈な体当たりを喰らわしてきたのだ。「あッ……!!」ドガァッ!!という衝撃と共に、水琴はハンドルを取り落としそうになる。それどころか、先ほど打ち付けたばかりの胸を再びハンドルに激しく打ち付けられ、目の前が真っ白になった。しかし、最悪なのはそれだけではない。前方に広がるヘッドライトの光が照らし出したのは――道が途切れているかのような、急勾配のヘアピンカーブだった。曲がりきれない……!!すでに意識は霞み、手足の感覚は麻痺している。強烈なスピードに乗った車体は遠心力に耐えきれず、完全にコントロールを失っていた。このままではガードレールを突き破り、谷底へ真っ逆さまだ。「あああああっ!!」水琴は最後の力を振り絞り、ハンドルを限界まで右に切り込んだ。車体はスピ
雅は息を呑み、力なく深い溜息をついた。佳乃の決意がどれほど固いか、痛いほど伝わってくる。彼女にとって、紗夜の腹の中にいる鷹司家の血脈こそがすべてなのだ。もし紗夜が実刑判決を受ければ、その子供は生まれながらにして「前科者の子」という拭えない十字架を背負うことになる。それだけは、何としてでも阻止したいのだろう。その時だった。佳乃が突然、床に膝をつき、雅の前に頭を下げたのだ。「……ッ!」雅の心臓がドクンと嫌な音を立てた。鷹司家の女主人として、誰よりもプライドが高く傲慢だった母親が。たかがまだ生まれぬ子供のために、実の娘に向かって土下座までして見せたのだ。その異様な光景に、雅の中で張り詰めていた糸がプツリと切れた。「……お母様。わかったわ、私が行くから!」雅はギリッと歯を食いしばり、血を吐くような思いでそう叫んだ。自分は利己的で、鷹司家の人間らしく損得だけで動ける冷酷な人間だと思っていた。けれど、あんなにも誇り高かった母親が自分に土下座をする姿を見せつけられては、どうしたって逆らうことなどできなかった。あのランタン祭りの夜からというもの、水琴の胸の奥には、ずっと正体のわからない酸っぱいような感情が蟠っていた。今まで、こんな気持ちになったことはない。灼也との関係をどう扱えばいいのか、彼女自身にも分からなくなっていた。以前のように彼を冷たく突き放すこともできず、かといって素直に熱を帯びた感情を向けることもできない。冷淡さと情熱の間を振り子のように行ったり来たりする、そんな不安定な感情に振り回されていた。その日。水琴は一人でハンドルを握り、南鳥市と松霧島を繋ぐ巨大な海上連絡橋を走っていた。松霧島は長らく開発がストップし、荒れ果てたままになっていたため、この連絡橋を利用する車もほとんどない。全長を渡り切るのに十分ほどかかる長い橋だ。島を出発して数分。水琴は、背筋を這い上がるような薄気味悪い違和感に気づいた。……あの車、島に入った時からずっと……ルームミラーをちらりと確認する。背後には、一台の黒いセダンが不気味なほど一定の距離を保ってついてきていた。試しにアクセルを緩めてスピードを落としてみる。しかし、後続のセダンは追い越そうとする気配を全く見せない。広大な海上橋の上に
怒りで我を忘れた佳乃は、水琴の鼻先に指を突きつけて喚き散らした。「この性悪女!わざとやってるんでしょう!紗夜さんだって被害者なのよ!黒幕は音羽琉里だってわかってるはずじゃない!どうしてあの女を責めないのよ!?まさか、相手が音羽家だからってビビってるんじゃないでしょうね!?」水琴は嘲笑を隠しもしなかった。「……ご存知ないんですか?警察に『紗夜さんが主犯だ』という決定的な証拠を突きつけたのは、他でもない音羽琉里ですよ?言うなれば、彼女こそが真の元凶です。佳乃さんは、私に文句を言いに来る暇があるのに、どうして琉里さんには文句の一つも言いに行かないんですか?……まさか、それこそ相手が音羽家だからビビってるんじゃないですか?」「あ、あんたっ……!」佳乃は図星を突かれ、顔を真っ白にしてワナワナと震えている。水琴はもう、彼女に反論する隙すら与えなかった。氷のように冷たい視線で見下す。「出て行ってください。ここはあなたのような方が来る場所ではありません」怒りと屈辱で顔を歪ませながら、佳乃はドアノブを乱暴に掴んだ。「……今に見てなさいよ!」負け惜しみの捨て台詞を吐き捨てて、佳乃は嵐のように去っていった。精神科の閉鎖病棟。朝食を終えた雅は、窓辺の椅子に力なく腰掛けていた。ここに隔離されて数日。最悪な環境ではあるものの、雅はすでにこの冷たい日常に慣れ始めていた。それもこれも、母親である佳乃が立て続けに面会にやって来ては「身代わりになれ」と繰り返したせいだ。あの瞬間、雅の中で家族に対する期待や情は完全に死に絶えたのだ。今では、誰かが面会に来ることすら恐怖に感じていた。かつて自分を愛してくれたはずの人間の口から、あんなにも氷のように冷たい言葉を聞かされるのは、もう耐えられなかった。しかし、一時間後。その恐怖は最悪の形で現実となった。「……雅、私よ」看護師に案内されて病室に入ってきたのは、少し声の震えた佳乃だった。「ッ……!」雅は怯えたように、椅子から数歩後ずさった。母親の顔をまともに見ることもできず、壁に背を向けて冷たく言い放つ。「……また、私に罪を被れって言いに来たの?無駄よ。絶対に断る。もう帰って」佳乃は一瞬だけ瞳を揺らしたが、すぐに冷徹な女主人の顔を取り戻し、ズカズカと雅に歩み寄った
水琴は無言で解答用紙を受け取ると、赤ペンを手に取り、真剣な眼差しで採点を始めた。そしてすぐに、彼女はもう一枚のプリントを取り出し、灼也の目の前へと滑らせた。「今度は、私がする質問に答えながら、この問題を解いていって。一つの質問に答えるごとに、一問解くのよ」そう言うと同時に、彼女はカチッと音を立ててストップウォッチをテーブルに置いた。意図が読めないというように、灼也は微かに眉を寄せたが、最終的には従順に頷いてペンを握った。彼が真剣な顔でプリントに向き合うのを見下ろす。用意したのは、一見すると何の変哲もない高度な数学の計算問題だ。彼ほどの頭脳なら難なく解けるレベルだが、それでも集中して取り組まなければケアレスミスをしてしまう絶妙な難易度に設定してある。ペン先が紙に触れた瞬間、水琴は静かな声で一つ目の質問を投げかけた。「三年前――あなたには、付き合っている彼女がいた?」ピタッ、と。灼也のペン先が止まった。まさか初手からそんな直球が飛んでくるとは思っていなかったのだろう。僅かな沈黙。彼は何かを思案するように息を呑むと、やがて低く答えた。「ああ。……いたよ」彼が一問目を解き終えたのを確認し、水琴はストップウォッチのラップボタンを押し、時間を記録した。灼也が二問目に取り掛かると同時に、水琴はすかさず次の矢を放つ。「教えて。その彼女っていうのは……音羽琉里さんのこと?」「違う!」今度は、考える間も与えずに即答だった。語気には強い否定の色が滲んでいる。ラップボタンを押す。そして、水琴は彼が三問目に取り掛かる寸前に、最も核心を突く言葉を落とした。「なら――あなたは三年前から、私のことを知っていたのね?」その瞬間。灼也は紙に走り書きのように数字を書き殴ると、カチャリと音を立ててペンを置いた。「……もう、やめる」たった三つの質問。たったそれだけで、彼はこれ以上続けることを拒絶した。水琴は三回目のラップタイムを記録すると、彼が解いた問題の答えなど見向きもせずに、静かに口を開いた。「いいえ、もう十分よ。私が知りたかったことは、これで全部わかったから」水琴は微かに口角を上げたが、その瞳には笑みとは程遠い、重く鋭い光が宿っていた。「……何がわかったって言うんだ」「三年前、私
荒い息を吐きながら、水琴はふっと表情を和らげた。いや、和らげたというより、冷酷なまでの冷静さを取り戻したのだ。「それに、一つ勘違いしていませんか?」水琴は真っ直ぐに臣の目を見据えた。「確かに私は彼女の犯罪の証拠を集めました。けれど、それを警察に提出するより前に……彼女は逮捕されたんです」つまり、今回の逮捕劇に水琴は一切関与していないということだ。臣は驚愕に目をカッと見開いた。自分の耳を疑う。水琴が通報したわけじゃない……!?じゃあ、一体誰が……「お前以外に、わざわざ警察に通報する動機のある奴なんていないはずだ。他の人間が首を突っ込む理由がない」臣は眉間を深く寄せた。水琴は自嘲気味にクスッと笑う。「鷹司さん、忘れないでください。紗夜さんの敵は私だけじゃないということを。例えば……彼女を身代わりに仕立て上げようとしている、音羽琉里さんとかね」――音羽琉里!!その名を聞いた瞬間、臣の脳裏に稲妻が走った。そうだ、琉里だ!紗夜が怯えながら口にしていた言葉を思い出す。琉里は、自分の悪事が水琴に暴かれるのを恐れ、すべての罪を紗夜に着せようと画策していたのだ。すべてを理解した臣は、深く、重い溜息をついた。そして、申し訳なさそうに水琴へと視線を下げる。「水琴……これまでのことは、確かに紗夜が悪かった。雅もお前に酷いことをした。今、雅は精神病院に入れられ、紗夜も警察に捕まっている」臣は絞り出すように言葉を続けた。「……腹にいる子供に免じて、せめて減刑の嘆願書を書いてはもらえないか?」水琴からの嘆願書さえあれば、もし裁判になったとしても情状酌量で罪が軽くなるかもしれない。臣にとっては、それが最後の希望だった。「お断りします。嘆願書なんて絶対に書きません」水琴は一秒の躊躇もなく、冷たく言い放った。「水琴、頼む……」それでも食い下がろうとする臣の言葉を、水琴は容赦なく遮る。「鷹司さん。私たち、もう離婚したんですよ?だったらお互いの目の前から完全に消え去るのが筋じゃありませんか?なのに、どうしてこうも未練がましく付き纏うんです?……正直言って、本当に鬱陶しいんです」水琴は不快げに眉をひそめた。事あるごとにしゃしゃり出てきては、自分を罠に嵌めようとする雅や紗夜への嫌悪感。そして何よ
「紗夜さんが捕まったっていうのに、まだ私に罪を被れって言いに来たわけ?」雅の声には、隠しきれない苛立ちと怒りが滲んでいた。図星を突かれた佳乃は一瞬だけ気まずそうに顔を歪めたが、すぐに鷹司家の女主人としての強硬な態度を取り繕った。「雅、もういい加減に聞き分けなさい。今は鷹司家にとっての非常事態なのよ」佳乃はテーブルに身を乗り出し、切迫した声で捲し立てる。「もしあの子が妊娠していなかったら、私だって何があってもあなたを守ったわ。だって、あなたは私が腹を痛めて産んだ実の娘なんだから。でも、今は状況が違うの!紗夜さんのお腹には、鷹司家の血を引く唯一の跡取りが……私にとっての大切な初孫がいるのよ!何に代えても守らなきゃいけないの!ねえ雅、あなたが紗夜さんの身代わりになってくれたら、私と臣で必ず最高の弁護士を雇って、どんな手を使ってでもあなたを助け出すから……!」その必死な形相を見て、雅はフッと冷たい嘲笑を漏らした。「お母様……その耳障りな無駄話、前回ここへ来た時にも全く同じことを仰ってたわよね。自分がその言葉を吐いた後、ここで何が起きたか……まさかもう忘れたわけじゃないでしょうね?」笑えない冗談だ。拘置所からこの薄気味悪い病棟へ移されて以来、実の母親が面会に来たのはたったの二回。一回目は、自分に罪を被るよう説得するため。その結果、絶望した雅は病室で自ら命を絶とうとした。そして二回目の今日――未遂に終わった命がようやく繋ぎ止められたばかりだというのに、母親はまたしても同じ要求を突きつけに来たのだ。「……ッ」息を呑む佳乃を冷たく見下ろし、雅はゆっくりと立ち上がった。「もう二度と、そんな狂った戯言を聞きたくないわ。もしここへ来る理由が『紗夜さんのため』なら、もう一生来なくていい」それだけを言い捨てて、雅は振り返ることもなく面会室を出て行った。鷹司家の屋敷に戻った佳乃は、深い溜息をつきながらリビングのソファに腰を下ろした。帰宅した息子の臣に紗夜の件がどうなったか尋ねようとしたが、彼女が口を開くよりも先に、臣の冷え切った声が降ってきた。「母さん。今日、また雅のところへ行ったそうだな。まさか、また身代わりの話をしたのか?」糾弾するような視線に、佳乃はビクッと肩を震わせた。「警察が掴んでいる証拠
書斎の外から漏れ聞こえてくる会話に、水琴は静かに目を伏せた。鷹司家に嫁いでからの日々が、脳裏をよぎる。姑である佳乃にも、義妹である雅にも、自分なりに心を尽くしてきたつもりだった。雅が事故に遭い手術を受けた時、何日も病院に泊まり込み、甲斐甲斐しく付き添ったのも自分だ。佳乃に対しては、常に敬意を払い、その言葉には注意深く耳を傾けてきた。けれど、どれだけ尽くしても、あの人たちの心を変えることはできなかったのだ。すべては、無意味だった。ふと、スマートフォンの着信が静寂を破る。小林鹿耶(こばやし かや)からだった。電話口から聞こえてくるのは、少し気だるげな親友の声。「ミコト、本当
「サインを」頭上から、冷たく低い声が響いた。目の前に突きつけられたのは、一枚の離婚届。静沢水琴(しずさわ みこと)はわずかに目を見張り、黙って鷹司臣(たかつかさ じん)を見上げると、乾いた笑みを浮かべた。ああ、そういうことだったのね。どうりで今朝、珍しく電話をかけてきたわけだ。今夜は帰る、話がある、と。一日中、胸を躍らせていたというのに、彼が伝えたかったこととは、これだったなんて……三年に及んだ結婚生活も、これで終わり。水琴は無言で離婚届を受け取ると、その紙を握る手にぐっと力が入る。しばし黙り込んだ後、掠れた声で尋ねた。「……どうしても、離婚しなきゃだめ?」臣はわず
水琴の睫毛が、微かに震えた。もし臣と出逢わなければ、自分は今頃、心理士として歩んでいたはずだ。だが、数年の空白がある。専門知識に錆びつきはない自信があるものの、本当にあの頃のように、自分が最も得意とした場所へ戻れるのだろうか。蓮見は、彼女の心の揺らぎを見透かしたように、穏やかな声で語りかける。「焦る必要はないさ。だが、もし君にその気があるのなら、この老いぼれも喜んで力を貸そう」「先生……ありがとうございます」胸の奥が、じんわりと温かくなる。結婚してからの三年間、一度も顔を見せられなかったというのに、恩師はずっと自分を気にかけてくれていたのだ。水琴は蓮見の体調を気遣い、し
そして、呆然と立ち尽くす雅を視界の端に留めながら、スーツケースのハンドルを握りしめると、一度も振り返ることなく、その家を後にした。鷹司家の重々しい門を抜けると、一台の真っ赤なオープンカーが目に飛び込んできた。運転席から、親友の鹿耶が身を乗り出し、サングラスを額に押し上げながら、芝居がかった投げキスをよこす。「お姫様、ご乗車を。鹿耶様が、最高の祝賀会に連れてってあげる」祝賀会とは言ったものの、離婚したばかりの水琴の心情を慮ってか、鹿耶が連れて行ってくれたのは、落ち着いたジャズが流れる隠れ家のようなミュージックバーだった。離婚の経緯を話すと、鹿耶は呆れ返ったようにグラスを置いた。「また







