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第2話

Author: 風待 栞
書斎の外から漏れ聞こえてくる会話に、水琴は静かに目を伏せた。

鷹司家に嫁いでからの日々が、脳裏をよぎる。姑である佳乃にも、義妹である雅にも、自分なりに心を尽くしてきたつもりだった。

雅が事故に遭い手術を受けた時、何日も病院に泊まり込み、甲斐甲斐しく付き添ったのも自分だ。

佳乃に対しては、常に敬意を払い、その言葉には注意深く耳を傾けてきた。

けれど、どれだけ尽くしても、あの人たちの心を変えることはできなかったのだ。すべては、無意味だった。

ふと、スマートフォンの着信が静寂を破る。小林鹿耶(こばやし かや)からだった。電話口から聞こえてくるのは、少し気だるげな親友の声。

「ミコト、本当に来ないの?昔は狩りがいちばんの楽しみだって言ってたじゃない。ついでに思いっきり飛ばせるチャンスなのに」

その言葉に、水琴ははっとする。

封じ込めていた記憶の蓋が、不意にこじ開けられたような感覚。

臣と出会う前は、確かにそうだった。狩猟も、サーキットでタイムを競うことも、年代物のワインも、すべてが彼女の世界だった。小林家で臣と出会い、一目で恋に落ちる、あの日までは。

彼を愛するようになってから、人づてに彼の好みが『おしとやかな大和撫子』だと知った。

それからだ。派手な趣味を一つ、また一つと手放していったのは。

三年間、彼が求める理想の妻を演じるうちに、本当の自分が、どんな顔をしていたかすら、忘れかけていた。

電話の向こうで、鹿耶がまだ何か言っている。「……ていうかさ、ミコト。旦那に知られたくないんだったら、黙って行けばいいじゃない。男一人のために好きなこと全部やめるなんて、バカらしいって。そもそもあの鷹司臣って男は……」

「離婚したの」

水琴は、静かな声でその言葉を遮った。

電話の向こうで、鹿耶が息を呑む気配がした。たっぷりとした沈黙の後、絞り出すような声が続く。「……あんたがようやく目が覚めたわけ?それとも、あの男がいよいよイカれた?」

水琴は、ふっと笑みを漏らした。「彼から。私は、同意しただけ」

楓はしばし絶句していたが、その心の内では、あの男はどこまで見る目がないのかと呆れていた。

水琴のような逸材を、鷹司家は三顧の礼で迎えても足りないくらいだというのに。それを自ら手放すとは。

「おめでとう、ミコト」楓の声は、心なしか弾んでいた。「すぐ迎えに行く。ようやくあんたの目が覚めたお祝いしなくちゃね」

水琴は苦笑しながら通話を切った。

主寝室を見渡す。そこには、二人で暮らしている気配がどこにもない。まるでモデルルームのように無機質で、生活感が希薄だった。結婚して三年、この部屋の主は、まるで単身者のようだった。

――本当に、終わらせる時が来たんだわ。

客室で、水琴は自分の荷物をスーツケースに詰めていた。驚くほど、服は少ない。結婚してからというもの、自分の身なりに構う時間も気力も、彼女にはなかった。だから荷造りは、あっという間に終わってしまう。

指から、冷たい感触の結婚指輪を抜き、ベッドサイドのチェストにそっと置く。その瞳に浮かぶのが未練なのか、それとも解放感なのか、水琴自身にもよくわからなかった。

スーツケースを引き、部屋を出る。リビングを通り抜ける時、せめて元姑となった佳乃に一言挨拶を、と思った矢先のことだった。雅の、ねじくれた声が背中に突き刺さったのは。

「あら、ようやく出ていく気になったの。自分の素性もわきまえず、玉の輿を狙って何年も居座るなんて、見苦しいにも程があるわよね」

水琴は足を止めた。そして躊躇うことなく、テーブルの上にあったグラスの水を、雅の頭から浴びせかけた。

冷たい水が、完璧にセットされた髪から高価なブラウスまでをびしょ濡れにする。雅は逆上して金切り声をあげた。

「み、水琴ッ! あんた、気でも狂ったの!? よくも……ッ」

水琴は、あくまで優雅な仕草で指先についた水滴を拭うと、凍えるような視線を彼女に向けた。声は、凪いだ湖面のように静かだ。

「ええ、もちろん。──一寸の虫にも五分の魂、というでしょう?」

雅は、あんぐりと口を開けたまま固まっている。目の前の女が、あの誰に何を言われてもされるがままで、人形のように感情を見せなかった水琴だとは、信じられないのだろう。

その驚愕の表情を見て、水琴の口元に、ふと面白い、という感情が浮かんだ。

嫁いでからの三年間。佳乃や雅がどれほど理不尽な要求を突きつけ、棘のある言葉を投げつけても、彼女たちの機嫌を損ねないよう、ただ黙々と、完璧にすべてをこなしてきた。

どんなに辛辣な罵声を浴びせられても、いつも穏やかに微笑んで、聞き役に徹してきた。

それが当たり前になりすぎて、きっとこの家の誰もが忘れてしまったのだ。かつての自分が、喧嘩もすれば酒も浴びるほど飲み、気ままに笑い、悪態もつく……そんな女だったことを。

もう、散々我慢した。これ以上、自分を殺して生きるのはごめんだ。

水琴は、くすりと小さく笑った。

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