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第3話

Auteur: 風待 栞
そして、呆然と立ち尽くす雅を視界の端に留めながら、スーツケースのハンドルを握りしめると、一度も振り返ることなく、その家を後にした。

鷹司家の重々しい門を抜けると、一台の真っ赤なオープンカーが目に飛び込んできた。運転席から、親友の鹿耶が身を乗り出し、サングラスを額に押し上げながら、芝居がかった投げキスをよこす。「お姫様、ご乗車を。鹿耶様が、最高の祝賀会に連れてってあげる」

祝賀会とは言ったものの、離婚したばかりの水琴の心情を慮ってか、鹿耶が連れて行ってくれたのは、落ち着いたジャズが流れる隠れ家のようなミュージックバーだった。離婚の経緯を話すと、鹿耶は呆れ返ったようにグラスを置いた。

「またあの月城紗夜?わけわかんない。あの男、一体彼女のどこがいいわけ?」

水琴は、琥珀色のカフェ・ド・グラスをストローで静かにかき混ぜる。その声には、感情というものが抜け落ちていた。「さあ……」

水琴は、臣の『忘れられない人』に会ったことがない。彼女が海外へ渡った後で、臣と知り合ったからだ。

ただ、噂では聞いていた。とても優しくて、聡明で、誰に対しても気の利く、まさに大和撫子を体現したような女性だと。かつて臣が、彼女との結婚を巡って祖父と対立した時も、見事なまでに身を引き、臣を諭したのも彼女だったという。そのおかげで、自分と臣の契約結婚が成立したのだ。

水琴がそれ以上語りたがらないのを察したのか、鹿耶は頬杖をつきながら、わざと明るい声で話題を変えた。「……にしても、あの鷹司臣も気前がいいじゃない。都内のマンション数件に、車、おまけに現金十六億円って……」

そこで言葉を切ると、鹿耶は水琴の顔をじっと見つめ、残念そうに付け加えた。「ま、あんたにはした金みたいなもんか」

父が亡くなった後、会社経営に興味のなかった水琴は、経営のすべてを従兄である静沢重人(しずさわ じゅうと)に任せていた。自分はただ、役員配当という名の不労所得を受け取るだけ。世間はとっくに会社は重人のものになったと思い込んでいるし、鷹司家もまた、婚前契約のせいで水琴は無一文だと信じきっていた。

「お金があって困ることはないでしょう」水琴は、どこか上の空で答えた。

目の前の、化粧気もなく、まるで色のない水琴の姿に、鹿耶はきゅっと胸が痛む。そして、わざと威勢のいい声を出した。「そりゃそうよ!その金で、いい服買って、いいバッグ買って、鷹司の連中が後悔するくらいいい女になってやりなさい!……で、ミコトはこれからどうするつもりなの?」

その問いに、水琴の視線はどこか遠くを彷徨った。

大学では、心理学と音楽を専攻していた。けれど、父の突然の事故で、一度は退学を余儀なくされた。一年後、特例で卒業資格だけは手にしたものの、その頃にはもう鷹司家に嫁ぐことが決まっていた。そして、三年間、ただの専業主婦として生きてきた。

これから、何をすればいいのか。考えたことなんて、一度もなかった。

鹿耶は水琴の手を、そっと包み込むように握った。「大丈夫。鷹司の家を出たんだから、これからゆっくり考えればいいじゃない。まずは腹ごしらえして、それからショッピング。数日後には、明山で狩りよ」

そして、悪戯っぽく片目を瞑り、声を潜めた。「まだ知らないでしょ。今度の明山の狩猟、高遠灼也(たかとお しゃくや)も来るらしいわよ」

水琴の目に一瞬、意外な色が浮かんだ。高遠灼也――不動産王、高遠家の三男。その資産は計り知れず、常に謎のベールに包まれている人物が、なぜこのような催しに。

だが、その好奇心は、水面に落ちた小石の波紋のように、すぐに消えていった。

鹿耶との食事を終えても、水琴には買い物をする気力は湧いてこなかった。ただ、鹿耶が気に入ったというものをすべて、カードで決済し、自分のマンションに届けるよう店員に指示しただけだった。

別れ際、鹿耶がふと思い出したように言った。「あ、そうだ、ミコト。連絡するタイミングがなくて言えなかったんだけど、蓮見(はすみ)教授、最近お体を崩されたそうよ。時間があったら、お見舞いに行ってあげて」

蓮見教授は、大学で水琴が心理学を学ぶ上での恩師だった。水琴はその言葉を胸に刻み、タクシーで自分の小さなマンションへと戻った。

鷹司の家を出た後、ひとまずの住まいとして用意していたそこは、鹿耶の家からも近く、日頃から清掃も行き届いている。

まさか、と思った。マンションのエントランス前で、見慣れた高級車に寄りかかり、臣が彼女を待っていた。

彼の車の助手席には、一人の女性が座っているのが見えた。儚げで、おしとやかな顔立ち。守ってやりたくなるような、繊細な雰囲気をまとっている。水琴は横目で彼女を捉え、心の中で静かに呟いた。

――なるほど。たしかに、彼が好きそうなタイプだわ。

こちらに気づくと、女は車から降り、臣の腕にそっと自分の腕を絡ませながら、二人で近づいてきた。その笑みは完璧に計算された、柔和な親愛の色を浮かべている。女は、すっと手を差し出した。

「はじめまして、静沢さん。私、月城紗夜と申します」

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