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田中が出迎えながら言った。「奥様はまだお戻りになっていません」戻っていない?星奈は一瞬固まったが、すぐに大きく安堵の息をつき、嬉しそうに笑った。ほっとしたような顔だった。けれど今夜ママに世話をしてもらえないことと、蒸しパンもまだ準備できていないことを思い出し、また眉を寄せる。まあいいか。ママがずっと帰らないわけじゃないんだから、明日にはきっと戻ってくるはず!そう思うと星奈はまた笑顔になり、田中に言った。「お風呂に入ってもう寝る」「はい、かしこまりました」田中が星奈の髪を撫でながら振り返ると、朔人も帰ってきていた。何かを考えているのか、その場に立ったまま動かない様子に田中は不思議そうに声をかけた。「旦那様?」朔人は尋ねた。「小雪は今日一日、一度も戻ってきてないのか?」「はい……」朔人は一瞬考え込んだが、それほど気にする様子もなかった。また何か新しいことでも始めようとしているのだろう。好きにさせておけばいい。どうせ大事にはならないだろうし、数日もすればおとなしく戻ってくるはずだ。「わかった」「はい」田中は星奈を連れて2階へ上がり、お風呂に入れた。朔人は水を一杯飲むと自分も2階の寝室へ向かい、スマホをベッド脇のテーブルに置いて充電しながら、上着を脱ぎネクタイを緩めて浴室へ入った。水の張られていない浴槽を見て、どこか落ち着かない気分になる。以前は仕事から帰ると、いつも小雪が湯を張っておいてくれたものだったから。まあ、別にいい。浴室からすぐに水音が響き始めた。外のベッド脇のテーブルではスマホが一度震えた。画面にはピン留めされた連絡先、千笑からのメッセージが表示されている。その下には仕事関係のメッセージがずらりと並んでいた。小雪からのメッセージはどこかに埋もれてしまったのか、もう見当たらなかった。……翌朝、星奈は起きるとぬいぐるみを抱え、主寝室の扉を押し開けて呼んだ。「ママ……」朔人がウォークインクローゼットから出てきて言った。「ママは戻ってないよ」「え?」星奈はがっかりした様子でぬいぐるみに顎を埋めた。「ママどうしてまだ帰ってこないの?」確かに少し小雪に会いたかった。ママの作るご飯が食べたいし、新しい蒸しパンも作ってもらいたい。朔人が歩み寄り、頭
「安心しろ、俺は会う気はない。千笑の実家の会社との提携もこれまでなかったし、これからも絶対にない」小雪は肩の力が抜け微笑んだ。「ありがとう、先輩」「気にするな。お前がいなかったら、清瀧だってここまで来られなかった」景吾は続けた。「今はただ、お前が今の案件を早く片付けて戻ってきてくれるのを楽しみにしてるよ。それで、あいつらを見返してやればいい!」小雪は笑った。「うん」景吾も笑ったが、それでも彼女の心情が気にかかるようだった。「そっちは今夜何時頃終わりそうだ?一杯やりに行くか?」「やめとく」小雪は断った。お酒よりも今はもっと勉強して、自分を高めたい気持ちのほうが強い。それに両親の顔も見に行きたい。「そうか、それならいい。何かあったら電話しろよ」「うん」電話を切ると小雪は少し気持ちが軽くなった。会社に戻ると、近くの店で簡単に汁そばを一杯食べ、また仕事に戻った。……一方その頃、星奈、朔人、千笑の三人は海で遊んで戻ってきたばかりで、レストランで食事をしていた。もともとは夜に星奈を連れて遊びに来ると約束していた。けれど、夜だと見られる景色も少なくなると思い、学校を休ませて昼のうちに連れてきたのだ。レストランにて。テーブルいっぱいの美味しそうな料理を前に、星奈はふと小雪のことを思い出した。少し前にかかってきた電話のことも……あの時は千笑と楽しく遊んでいる最中で電話には出なかった。けれど今は落ち着いて、少し後ろめたさがこみ上げてくる。考えてみれば昨夜、お昼に学校まで会いに来てほしいと頼んだのは、他でもなく自分だったのだから。星奈は小さく眉を寄せると千笑の視線を避けながら、こっそりキッズケータイを開き小雪に返信しようとした。次の瞬間、1時間前に届いていたメッセージが目に入った。読み終えた瞬間その目がぱっと輝き、さっきまでの後ろめたさもずいぶん薄れた。ママ、学校に来なかったんだ!やった!星奈は笑みを浮かべ返信した。【うん、わかったよ。でも今度は絶対来てね。次はママが手作りしたご飯が食べたいな!】送信を終えたところで、今夜家に帰ったら小雪に今日一日何をしていたか聞かれるかもしれないと思い当たり、また表情が曇る。星奈は浮かない顔でジュースを一口飲んだ。朔人が千笑に料理を取り分
「それでは失礼します」小雪は会釈し、まだ用事があったためその場を後にした。タクシーに乗り込むと、あらかじめ予約していたレストランをキャンセルし、星奈にメッセージを送った。【お昼は用事ができたから行けなくなったの。今度時間ができたら迎えに行くから、今日は学校でちゃんとお昼食べてね】星奈は自分に知られたくなかったのだろう。それなら知らないふりをしておけばいい。星奈からは、返信したくないのか、それとも千笑たちと盛り上がっていて気づいていないのか、なかなか返事が来なかった。小雪も気にせず、運転手に行き先を南山コーポレーションへ変更するよう告げた。その時、ふとスマホが震え、田村からの電話だった。小雪は応答した。「もしもし、田村マネージャー」田村は少しためらいがちに応じた。「たった今連絡が来たんですが……このあと千笑さんもプロジェクトに加わることになりました」小雪の表情が一瞬止まった。頭から冷水を浴びせられたような衝撃だった。しばらくしてようやく声を絞り出す。「ど……どうしてですか」田村が言う。「一ノ瀬社長がこのプロジェクトに出資なさいまして。現在、最大の出資者でいらっしゃるので……」その先は言わずもがなだった。「今後はお二人でこのプロジェクトの設計を担当していただきます。最終的には上層部がお二人の設計案から、より優れたものを新エリアのプランとして採用する形になります」小雪の顔から血の気が引いた。スマホを握る手に力がこもる。朔人が千笑のために何かするだろうとは以前から予想していた。ただ、まさかここまで強硬な手段に出るとは思っていなかった。千笑に悔しい思いをさせないため、その雪辱を果たさせるために、わざわざ出資までして彼女を呼び戻したのだ。本当に、千笑には何でもしてあげるのね。結婚してこの5年、一ノ瀬家でどれほど辛い思いをしていても、彼が気にかけてくれたことなど一度もなかったのに。小雪は目を閉じ、指先でこめかみを揉むと、しばらくしてからかすれた声で言った。「わかりました」田村がためらいがちに続けた。「それで……その、立川さんのほうは……」三郎の介入を彼はどこかで恐れているようだった。小雪は目を開けて言った。「大丈夫です、そちらは心配なさらないでください」三郎には、こ
メッセージを送信したものの、返信は一向に来なかった。小雪は唇を噛み、スマホを握る手に無意識に力がこもった。プロジェクトチームはもうすぐ会議がある。いつまでも待っているわけにはいかない。数分待ってもやはり返信がないのを見て、スマホをしまい会議に向かった。今回の会議は、主に建設予定の工業団地についての検討が中心だった。田村が壇上で進行を務めながら、何かを思い出したように小雪に言った。「他の皆さんはすでに見学済みですが、明日の朝、旧エリアのほうへご案内します」小雪は頷いた。「はい、よろしくお願いします」その言葉を聞き、周囲の人々もほっと胸を撫で下ろした様子だった。これ以上、小雪一人のために改めて時間を取られるのを誰もが嫌がっていたのだ。建前上は受け入れつつも、心の中では小雪の実力への疑念はまだ拭いきれていなかった。会議は2時間ほど続き、終わる頃にはもう昼近くになっていた。皆が荷物をまとめ席を立ち始める。小雪の隣に座っていた大崎里英(おおさき りえ)が、彼女が一人でいるのを見て気の毒に思ったのか声をかけた。「椎名さん、よかったら一緒にランチどうですか?」小雪は顔を上げて里英を見た。胸が少し温かくなったが、これから予定があった。「ありがとうございます。また今度にしますね。これから娘を迎えに行って、一緒にお昼を食べる約束があるので」娘?里英は驚いた。「結婚されてるんですか?」小雪の笑みが少し薄くなった。頷くだけで、もうすぐ離婚するとは言わなかった。言う必要もない。里英は少し意外そうに、「それじゃあ娘さんのお迎えに行ってください。また今度ぜひ」と言った。「ええ」里英が去ったあと、小雪もバッグを持って会議室を出た。階段を下りながらスマホでメッセージを確認する。朔人からはやはり返信がなかった。見ていないのか、それとも今は構っていられないから返さないだけなのか。こうなると、後者の可能性のほうが高い気がした。小雪は仕方なくスマホをしまい、彼と離婚についてきちんと話をつけるため、時間のある時にまた連絡しようと決めた。ビルを出てタクシーを拾い、学校へ星奈を迎えに向かった。……学校に到着した小雪は星奈のキッズケータイに電話をかけたが、なかなか出なかった。眉をひそめ、少し心配に
一階へ下りると、一台のSUVが近づいてきた。小雪は何気なく運転席に座る男に目をやった。日差しを背に受け、片手でハンドルを握った男は、シンプルな黒のTシャツ一枚という格好だった。それでも鍛え上げられた体つきと精悍な雰囲気は隠しきれない。木漏れ日がその鋭い顔立ちに陰影を落としている。よく見えないながらも、彫りの深い横顔と無駄のない短髪から、端正な顔立ちであることがうかがえた。ほんの一瞬目に入っただけだったが、小雪はなぜかどこか見覚えがある気がした。それでも深くは考えず、立川を迎えに来た人だろうと思い、立川に言った。「お気をつけて」「ああ、戻っていいぞ。もうすぐ会議だろう」立川は軽く手を振ると助手席に乗り込んだ。シートベルトを締めながら、運転席でハンドルをきつく握り、手の甲に筋を浮かせている男を横目に見て、笑いながら言った。「せっかくだから降りて挨拶してこいよ。行かないならさっさと車を出せ。ここで道を塞ぐな」その言葉に男はようやく動きを見せた。振り返って立川を睨みつける。低く冷たい声は、彼自身を思わせるように飾り気がなく硬質だった。「誰に挨拶するって?俺たちはとっくに何の関係もない」立川は一瞬固まった。「それなら、なんで今日わざわざ俺についてきたんだよ」と言いたい気持ちを堪える。鼻で笑って言った。「はいはい、余計なこと言ったな。それで、もう行っていいのか?『伊瀬隊長』」大和はわずかに眉をひそめ、視線をずらして助手席側のサイドミラーに目をやった。その中には、小雪がまだビルの下に立っている姿が映っていた。白いシフォンブラウスに黒のマーメイドスカート、大人の女性らしさが際立つ装いだった。9年前、まだ幼さの残っていた彼女とはまるで別人のようだった。9年という歳月で変わったのは外見だけではない。心の中も……そう思い至った瞬間、大和の表情がすっと冷え、迷いもなく車を発進させた。立川が言った。「本当に降りて会わないのか?何年ぶりなんだよ」大和は前を見据えたままハンドルを握り、硬い横顔で何も答えなかった。立川はそれを見て軽くため息をつくと、その冷たさにはもう慣れているとばかりに、シートにもたれてこめかみを押さえながら独り言のように話し出した。「今回の件、聞いて驚くなよ。朔人が従妹のために、小雪の仕事を
「彼女には、皆さんにお話しできない事情があるだけです。しかし、彼女の実力は今回のプロジェクトを任せるに十分なものです。私が保証します」会議室が一瞬静まり返った。皆の視線がそちらへ集まる。小雪は、その男が三郎の側近を務める立川だと気づき、感謝の笑みを浮かべた。実は、実務経験がまったくないわけではなかった。ただ、それらのプロジェクトはどれも官公庁や防衛関連のもので機密指定を受けており、表に出すことができなかっただけなのだ。金子はまるで救世主でも見るように、慌てて歩み寄って声をかけた。「立川さん!」立川は礼儀正しく会釈を返し、それから離れた場所にいる小雪にも軽く頷いてみせた。その様子を見て周囲がざわめいた。「あの方、かつて警察組織のトップにいた新田さんの側近じゃないか」「それなら……あの言葉に嘘はないだろうな。わざわざあの方がここまで足を運んできたんだから」「確かに。どうやら椎名さんを誤解していたのかもしれない。何か言えない事情が本当にあったんだろう」「そうかもな。実力を見るまでは先入観を持たずに評価すべきだった」千笑はそれを聞き、訝しげに眉をひそめた。けれど小雪の祖父と新田が旧友だったことを思い出すと、また気を緩めた。小雪の実力など、自分が一番よくわかっている。卒業してすぐ専業主婦になっただけの人間に、口に出せない特別な事情などあるはずがない。所詮、コネで起用されたことを正当化する口実に過ぎない。朔人も小雪をちらりと見た。同じ結論に至ったらしかった。彼は千笑に尋ねた。「このプロジェクト、まだ続けたいか?」千笑が顔を上げて彼を見る。ここまで自分のことを考えてくれる態度に胸が温かくなった。朔人の力があればこのプロジェクトを奪い返し、小雪を追い出すことなど難しくないはずだ。それはわかっている。けれどそこまでする気にはなれなかった。コネを使い実力もない相手と同じ場で仕事をする気にはなれない。千笑は首を振った。「ううん、行きましょう」朔人は一瞬黙り込み、答えた。「わかった」そして意味ありげな視線を小雪へと向けた。小雪はその視線に気づき一瞬止まったが、すぐにその意味を理解した。あの目つきにはあまりにも馴染みがあった。かつて二人の仲がまだ良かった頃、小雪が理不尽な扱いを受け







