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第2話

Author: 雲取
頭の中がさあっと真っ白になる。かすかに震える指先で、どうにか書類をめくった。

離婚協議書の最後のページには、すでに朔人の署名が記されていた。あとは小雪が署名して判を押すだけだ。

明らかに、ずっと前から周到に準備されていたものだ。

財産分与は驚くほど小雪に有利だったが、彼がただ一つ譲らなかった条件がある。

娘の親権だ。

なるほど。朔人はとっくに自分に愛想を尽かしていたのだろう。離婚を望み、千笑と一緒になるつもりなのだ。

千笑が彼の従妹だという事実を、千笑たち母娘と自分の実家との間に横たわるあの暗い因縁を、朔人は知っているのだろうか。

それが妻である自分にとって、どれほど残酷で屈辱的な仕打ちになるかを……

いや、知っているはずだ。

結婚二年目。彼が自分に飽き、千笑に惹かれ始めたころから、朔人はもうすべてを知った上で計画していたのだろう。今にして思えば、そうとしか考えられない。

頭から冷水を浴びせられたような思いだった。身体だけでなく、心の芯までが凍りついていく。

そもそもあの時、幼馴染の「彼」が黙って警察の特殊部隊に入り、そのまま別の女と付き合い始めさえしなければ……

そしてちょうどそんな折に朔人が現れ、熱烈に口説き、暗闇から連れ出してくれなければ、彼と結婚することもなかったはずなのに……

ポケットの中で、不意にスマホが震えた。

朔人からのメッセージだ。

【急用ができた。今日は帰らない】

素っ気ない短い言葉。小雪のことも両親のことも、全く気にも留めていないと言わんばかりの文面だった。

それもそうだろう。離婚を切り出した相手を、今さら気にかけるはずもない。

自嘲気味な笑みがこぼれる。込み上げる涙をこらえ、離婚協議書と離婚届を握りしめたまま、小雪は書斎を出た。

それでも自分は星奈の実の母親だ。星奈がついてくると言うのなら、何が何でも朔人と親権を争うつもりでいた。

だが、部屋を出た小雪を待っていたのは、がらんとしたダイニングに一人残された田中の姿だけだった。

「星奈は?まだ下りて来てないの?」

田中は食器を片付ける手を止め、言いよどんでから答えた。

「お嬢様……朝食も召し上がらずに、ランドセルを背負ってお出かけになりました……」

出かけた?

小雪は青ざめた顔で瞬きをした。女の勘なのか、それともただの嫌な予感なのか。

星奈はきっと、千笑のところへ行ったのだろう。そして朔人も、大方すでに千笑のそばにいるに違いない。

心の底から、すうっと血の気が引いていくのがわかった。

これが、すべてを捧げて愛した男。両親と離れて遠くへ嫁いでまで、一緒になった相手。

これが、命がけで産んだ娘。早産で体の弱かったこの子のために、輝かしいはずの将来さえ手放したというのに。

「奥様……」

顔色を失った小雪を、田中は心配そうに見つめた。

他人である田中でさえ、星奈の小雪に対する態度があまりにも冷淡だと感じていた。

夫からの愛情がないだけならまだしも、娘までがこの態度なのだから。

小雪は大丈夫だと示すように軽く手を上げて、その場を離れた。

田中が何を思っているかくらい、手に取るようにわかる。

星奈は手塩にかけて育てた娘だ。少し前までは母娘の仲は本当に良好で、小雪によく懐き、目の中に入れても痛くないほど愛らしい存在だった。

それがここ1年、朔人が頻繁に星奈を連れ出すようになってから、少しずつ関係が崩れていった。懐いていたはずの娘がそっけなくなり、やがて距離を置くようになった。

今になって思えば、すべては小雪の知らないところで、とうに変わり始めていたのだ。

真実を知らされないまま蚊帳の外に置かれ、それでも「自分のどこかがいけないのだろうか」と、何度も自分を責め続けてきた日々。

震える息をひとつ吐き出す。

書斎に戻り、ペンを取ると、離婚協議書に署名した。続いて離婚届にも必要事項を記入した。

何度か手が震え、字はひどく歪んでしまった。

書き終えた瞬間、全身からどっと力が抜けた。魂の抜けた人形のようにぼんやりと書類をまとめ、引き出しにしまった。

朔人が帰ればすぐに目に入るだろう。

ちょっとしたサプライズ、といったところか。

苦笑を浮かべ、小雪は書斎を出て寝室へ向かった。一人で入江市へ帰るために荷物をまとめた。

支度を終えたところで、スマホがまた鳴った。

画面に浮かんだ名前に、瞳が微かに揺れる。

「もしもし」

低く落ち着いた男の声が耳に届く。「悪い知らせと、良い知らせ、どっちから聞きたい?」

「いい知らせから」

「いい知らせは、お前の一級建築士の登録が済んだこと。それから、南山コーポレーションから仕事のオファーが来てる。新しい工業団地の基本設計案を頼みたいそうだ」

くすんでいた胸の奥に、久しぶりの光が差し込み、小雪は思わず涙がこぼれそうになる。

あの年、星奈を育てるために輝かしい将来を諦め、家庭に入った。それでも学んだことまで捨てたわけではなく、この数年こつこつと関連資格を取り続けてきたのだ。

努力は決して無駄ではなかったということか。

「じゃあ、南山の担当者とはいつ打ち合わせすればいい?」

「待て待て、まだ悪い知らせのほうが残ってる。さっきの仕事、横取りされたぞ。つてをたどって調べたら、一ノ瀬千笑らしい。お前んとこの旦那が口を利いたみたいだな。チッ、あの従妹をずいぶん大事にしてるらしい」

雷に打たれたような衝撃が走った。

男の声はなおも続く。「あの女の経歴も見たが、確かに優秀だよ。海外のトップ大学で建築学の博士号を取ってる。それでいてまだ25歳だ」

かなりの実力者なのだろう。

だが、どんなに優秀であっても、他人の仕事を奪っていい理由にはならない。

それに、電話の男に言わせれば、千笑の実力は小雪の半分にも届いていない。

小雪こそが本物の天才だった。学部生の頃から、著名な教授から研究室に来ないかと声をかけられるほどだった。

ただ、大学院には進まず、卒業と同時に結婚し子を産んだ。それだけの話だ。

ぼんやりと聞きながら、ふと合点がいくことがあり、唇を歪めて笑った。目の奥を冷たい光がよぎる。

「小雪……」

男が心配そうに小雪の名を呼んだ。

事情を知らない他人とは違い、彼とは長い付き合いだ。自分と千笑との因縁も知っている。

そして、その千笑を後押ししたのが他でもない自分の夫だというのだ。心臓に刃を突き立てられたような痛みだった。

「大丈夫。もうすぐ離婚するから」

「は?」

小雪は目尻を軽く拭って言った。

「この話は今度会った時にちゃんとするね。父が入院してて、これから入江市に行かなきゃいけないの」

それを聞いた男はそれ以上深くは追及せず、ただ「何かあったら連絡しろよ」とだけ告げた。

胸がじんわりと温まるのを感じながらも、同時にやるせなさが込み上げる。友人でさえこんなに気にかけてくれるのに、心から愛した夫はそうではない。目の中に入れても痛くないほど可愛がってきた娘も、自分には冷ややかだ。

なんて皮肉なことだろう。

電話を切り、小雪はスーツケースを引いてそのまま家を出た。

一階で、出かける小雪に気づいた田中が心配そうに駆け寄ってきた。

「奥様、これは一体……」

小雪は足を止め、淡々と言った。「数日、入江市に行ってきます。星奈のことをお願いね。

朔人が帰ってきたら、私に電話するように伝えて」

離婚届を提出する手続きの話をしなければならない。

田中は何か言いたそうに口を開きかけたが、うまく言葉にならず、ただ「かしこまりました……」とだけ返した。

……

飛行機が青空を切り裂くように飛んでいく。

小雪は座席にもたれ、窓の外を眺める。顔は青ざめ、目の縁は赤く腫れ、深い悔しさとやるせなさが滲んでいた。

前回実家に帰った時は、朔人との仲もまだ良好だった。結婚一年目、甘い新婚生活の中で、娘を連れ、三人で過ごす時間は幸せそのものだった。

それが今……

自嘲気味に唇を歪め、窓の外から視線を引き剥がす。

もう見たくなかった。

飛行機が入江市の空港に着いたのは、午後三時を過ぎたころだった。

空港を出ると、彼女はまっすぐ病院へ向かう。

エレベーターで病棟の階まで上がり、両親の病室を目指して廊下を進む。

その時、廊下の先に、見覚えのある人影が現れた。

星奈が千笑の手を引き、あどけない顔を上げて何やら優しく慰めている。

千笑は温かく微笑み、星奈の頬をそっと撫でた。

朔人は千笑のもう一方の隣に立ち、いたわるような眼差しを注いでいる。まるでその瞳には、千笑以外の誰も映っていないかのように。

その眼差しには見覚えがあった。

かつて二人が愛し合っていた頃、朔人は同じ目で小雪を見つめていた。あんなにも優しく、あんなにも情の深い眼差しで。

それなのにいつからか彼は、その想いをすべて無情に奪い去ってしまった。

その場に立ち尽くしたまま、バッグの持ち手を握る指先にじわじわと力がこもり、関節が白く浮き上がっていく。

これまでは、あの父娘が千笑に寄せる並々ならぬ想いをただ疑っているだけだった。けれど今、はっきりと確信した。

ふと、乾いた笑いがこみ上げた。

その視線に気づいたのか、朔人がこちらを振り向く。

小雪の瞳が微かに震え、全身が冷たくなっていく。

だが朔人には、後ろめたさの色などまるでなかった。平然とした顔で一瞬だけ小雪を見ると、すぐに視線を逸らし、千笑と星奈を連れて何事もなかったかのようにその場を立ち去っていく。

その背中を見つめながら、小雪は少しも驚かなかった。

次の瞬間、バッグの中でスマホが震えた。

予感通りだ。

小雪は取り出して画面を見る。

【あとで話がある】

スマホを握りしめる。おそらく、離婚の話だろうと察しがついた。

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