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02.別れと出会い

last update Tanggal publikasi: 2026-07-30 15:08:56

 芽流たちが去った後、部屋にはきつい香水の匂いだけが残されていた。

 和花は窓を全開にし、冬の冷たい風を部屋いっぱいに取り込んだ。

 それから、二人が寝転がっていたベッドを冷ややかに見下ろす。少しでも彼らの痕跡を残しておきたくなかったのだ。

 その日の午後、和花は役所の窓口に立っていた。

 突き返されたらどうしようという不安をよそに、手続きはあっさりと終わった。

 高橋和花は、この日をもって佐伯さえき和花へと戻ったのだ。

 書類を受理した職員の「お疲れさまでした」という優しい声に、小さく頭を下げる。

 これで、本当に終わったのだ。

 アパートの部屋に戻ると、張り詰めていた糸がふっつりと切れたように、目から大粒の涙が溢れ出した。

 自分でも驚くほど、声を出して泣いた。

 愛が残っていたわけではない。ただ、高校生の頃から一緒にいた彼に対する、断ち切れない情だけはあったのだろう。

 そして何より、彼のために懸命に働いてきた自分の時間が、ひどく無価値なものに思えて悔しかった。

「……とりあえず、このベッド捨てなきゃ」

 手の甲で乱暴に涙を拭い、和花は顔を上げた。泣いている暇なんてない。

 すぐに不用品回収業者へ連絡を入れると、運良くその日のうちに来てもらえることになった。

 巨大なキングサイズのベッドが運び出され、がらんどうになった寝室を見渡す。

 押し入れから来客用の布団を引っ張り出し、フローリングの上に敷いた。当分はこれで寝るしかない。

 ぽつんと置かれた布団を見ていると、どうしようもない孤独感が押し寄せてきた。

「……家にいたくないなぁ」

 誰の温もりもない冷たい部屋から逃げ出すように、和花は傘を手に取った。

 いつの間にか、外は冷たい雨が降り始めていた。

 夕方。冷たい雨が打ち付ける中、和花は近所の赤提灯が下がる居酒屋にいた。

 一人でこんな店に入るのは初めてだったが、とにかく誰かの声がする明るい場所にいたかった。

 カウンター席の隅に陣取り、焼き鳥を頬張りながらビールを呷る。

(ちょっと飲みすぎちゃったかな……)

 何杯目かのジョッキを空にしたところで、和花は小さく息を吐いた。

 明日も花屋の仕事があるというのに、足元が少しおぼつかない。

 会計を済ませ、冷たい雨の降る外へと出る。傘に当たる雨音が、酔った頭に心地よく響いた。

 フラフラとした足取りで家路につく途中、アパートの近くにあるゴミ捨て場の前で、和花はふと足を止めた。

 雨の夜の暗がりの中、黒い影のようなものが倒れていたのだ。粗大ゴミかと思ったが、よく見れば人の形をしている。

 恐る恐る近づいてみると、そこに倒れていたのは一人の若い男だった。

 黒のロングコートに、タートルネック。全身をモノトーンでまとめたその男は、冷たいコンクリートの上で身を丸くしていた。そばには、シンプルな黒のビジネスバッグが落ちている。

 酔っ払いだろうか。和花は眉をひそめたが、男の後頭部には何かにぶつけたような痕があった。

 季節は冬。しかも、冷たい雨が降り続いている。

 いくらなんでも、こんなところで放っておいたら凍死してしまうかもしれない。

「あ、あの……大丈夫ですか?」

 和花が声をかけると、男の肩が微かに動いた。

 ゆっくりと顔を上げた彼の姿に、和花は思わず息を呑んだ。

 濡れた髪の間から覗く顔立ちは、洗練された都会派の美青年そのものだったからだ。

 艶やかな深い黒色の髪は、センターパート寄りの長めのショート。前髪は長く右側へ自然に流れ、サイドはツーブロック気味にすっきりと刈り上げられている。雨に濡れてもなお、毛先の無造作なセットが彼の色気を引き立てていた。

 何より目を引いたのは、右目の下にある小さな泣きぼくろだった。やや吊り気味で太めのキリッとした眉が精悍さを与え、少し伏し目がちの切れ長な瞳が、黒縁のスクエアメガネの奥から和花を捉える。

 耳元で光る複数のシルバーピアスと、指にはめられたシルバーリング。高級感のある腕時計が、かすかな街灯の光を反射した。

「……ここは?」

 意識はあるようだったが、その声はかすれていた。

 和花は傘を差し掛け、彼の肩に腕を回した。

「立てますか? とりあえず、家まで行きましょう」

 男に肩を貸しながら、和花はゆっくりと歩き出した。

 見知らぬ男を部屋に入れるなんて、普段の自分なら絶対にしない。

 けれど、正直なところ、今日という日を一人で過ごしたくなかったのだ。こんなおかしな出会いでも、誰かがそばにいてくれるならそれでよかった。

 アパートの部屋にたどり着くと、男はリビングのソファーに崩れ落ちるようにして眠ってしまった。

 ほっと息をつきながらも、和花は彼の濡れそぼった服を見下ろす。

「とりあえず、濡れた服を着替えさせないと……」

 和花はクローゼットの奥から、芽流のために買っておいた新品のスウェットを引っ張り出してきた。

「ちょっと失礼しますよ……。このままじゃ風邪をひいてしまうので」

 眠っている男の体を少し起こし、濡れたタートルネックの裾に手をかける。

 ゆっくりと服を脱がせ、露わになったその背中を見た瞬間。

「ひっ……」

 和花は小さく息を呑み、その場に固まった。

 透き通るような白い肌。そこに、背中から腕にかけて、色鮮やかな和彫りの刺青がびっしりと刻み込まれていたのだ。

 恐ろしい迫力を持つ刺青に怯え、後ずさる。

 その小さな悲鳴に反応したのか、ソファーの上の男がゆっくりと目を開けた。

「あれ……僕……?」

「あ、あの、き、着替えないと、雨で濡れてしまっているので……っ」

 動揺を隠しきれないまま、和花は震える手で彼にスウェットを着せかけた。

 男は抵抗する様子もなく、されるがままになっている。

「私、佐伯和花と申します。あの、あなたは……?」

 少し距離を取り、和花は恐る恐る尋ねた。

 刺青の男は、ぼんやりとした目で和花を見つめ返し、小首を傾げた。

「僕……。僕は、理聖りひと……って呼ばれていた気がします」

「……気がします?」

「すみません……よく、思い出せなくて……。ここがどこなのかも、自分が何者なのかも……」

 伏せられた長いまつ毛の奥で、彼の瞳が心細げに揺れる。

 和花は焦り始めた。もしや、後頭部を打ったショックで記憶喪失になっているのだろうか。

「あっ、ビジネスバッグ持ってましたよ! 何か、身分を証明できるものが……」

 和花はソファーの脇に置いていた黒いバッグを手に取った。

 財布や免許証が入っているかもしれない。そう思い、急いでファスナーを開ける。

 しかし、バッグの中を覗き込んだ和花は、再び息を止めた。

 革の手帳やスマートフォンの横に、冷たい金属の鈍い光を放つ無骨な塊が鎮座していた。

 ――どう見ても、それは本物の拳銃だった。

 和彫りの刺青に、鞄の中の拳銃。

 和花はゆっくりと顔を上げ、ソファーに座る理聖を見た。

 理聖もまた、バッグの中身を見て、信じられないといった顔で和花を見つめ返している。

 雨の音が響く部屋の中で、二人はただ無言で顔を見合わせた。

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