INICIAR SESIÓN
「うー、寒っ」
2月の冷たい風が頬を撫でる。吐く息は白く、冬の寒さはまだ厳しい。それでも、見上げる空は抜けるような青空だった。
ふんわりと編み込まれたミルクティーベージュの三つ編みが、歩くたびに背中で小さく揺れる。セージグリーンのエプロンワンピースの下には温かい素材のブラウスを着込んでいるものの、冷え性の体には少しこたえる寒さだった。
夫である芽流とは昨年入籍したばかりだった。
中学時代からの友人で、高校生の頃に交際をスタートさせた。同じ短大を卒業した後、和花は花屋の正社員として就職し、芽流はフリーターになった。バンドでいつか成功する。そう熱く語る彼を支えたい一心で、和花は懸命に働いてきた。
しかし、二人の生活基盤が整ってくると、芽流は全く働かない日が増えていった。「曲作りに集中したい」と言われると、優しく穏やかな性格の和花は争いを避け、ただ黙ってうなずくことしかできなかったのだ。自宅のアパートに到着し、ドアを開ける。
「ただいま……」
無人の玄関に向かって呟いた和花の視線は、三和土に脱ぎ捨てられた見慣れない派手なハイヒールに釘付けになった。
嫌な予感が脳裏をよぎる。和花は音を立てないように靴を脱ぎ、寝室へと向かった。 ドアの隙間から、女の甲高い笑い声と芽流の声が漏れ聞こえる。震える手でゆっくりとドアを開けた。「……芽流くん、これ、どういうことかな……?」
絞り出すような声が響く。
和花が必死に働いて買ったキングサイズのベッドには、芽流と、見知らぬ褐色肌のブロンドギャルが身を寄せ合っていた。「ちょっとヤダ〜! 芽流、奥さん帰り遅いって言ってたのに〜!」
女は苛立ったように毛布を引き寄せる。
「わ、和花、今日も遅くなるって言ってたよね……? バレンタイン前日で、繁忙期だって……」
血の気を失った芽流が見え透いた言い訳を口にする。
「えっ、今日は早朝シフトだから、お昼すぎには帰るって……伝えてたじゃん」
「そ、そうだっけ……?」 「これって……不倫?」 「…………」和花の問いに、二人は青ざめた顔で押し黙った。
和花が汗水流して働いている間、芽流はこの見知らぬ女と愛を育んでいたのだ。悲しみよりも先に、得体の知れない嫌悪感が込み上げてきた。 和花の瞳が、冷ややかに芽流を見据える。「……出てってよ」
「……えっ」 「出てってよ! 汚らわしい!」腹の底から湧き上がる怒りが言葉となって弾け飛んだ。
「は、はい……ほんと、ごめん」
そそくさと服を着て逃げ出そうとする芽流の背中に、和花は冷たく言い放つ。
「あ、待って。離婚届の記入だけ、していって」
「……!」和花はリビングの引き出しを開け、緑色の用紙を取り出して芽流の前に突きつけた。
以前、彼が生活費を勝手にバンドの機材代に使い込んで大喧嘩になったとき、半ば衝動的に役所でもらってきていた離婚届だ。 引き出しの奥に隠したまま、いつか笑い話にして破り捨てる日が来ると信じたかったが、まさかこんなに早く使う日が来るとは思わなかった。その日のうちに芽流に荷物をまとめさせ、追い出した。
慰謝料を請求する気すら起きない。もう、すべてが面倒だった。 ただ、この窮屈な結婚生活から解放されたかった。(だけど、もし――大翔さんが嘘をついているとしたら) 深い慈愛を滲ませて過去を語る大翔の眼差しを受け止めながらも、理聖の胸の奥深くでは、冷たい氷のような理性が静かに警鐘を鳴らしていた。 この男が語る恩義や家族としての絆は、あまりにも美しく、自身の空白の心を埋めるには十分すぎるほど温かい。 しかし、自分には何ひとつ記憶がないのだ。自分が白紙の状態であることをいいことに、組織の跡取りを繋ぎ止めるため、都合よく過去を捏造している可能性がないとも言いきれなかった。 それに、恩人という言葉を使うのであれば、和花こそが自分にとって唯一無二の命の恩人だった。 土砂降りの雨の夜、ゴミ捨て場の冷たいアスファルトの上で死にかけていた見ず知らずの自分を拾い上げ、手当てをし、温かい食事と居場所を与えてくれたのは彼女だ。記憶がない自分の不安ごと丸ごと包み込み、迷いなく愛を注いでくれた。 何より、和花と過ごした日々や彼女との絆は、記憶喪失という絶望の後で、理聖自身の明確な意志によって築き上げてきた確かな現実だ。だからこそ、彼女の温もりには一切の嘘がないと断言できた。 目の前に座る大翔の態度からは、敵意など微塵も感じ取れない。言葉の端々からは親代わりの情愛があふれ出ているようにさえ見える。 だが、相手は深凪組の頂点に君臨するトップなのだ。 ただのきれい事や人情だけで裏社会を生き抜いてきた男であるはずがない。 少しでも油断してこちらの情報を渡しすぎれば、自分のみならず、和花や梓の日常までをも危険に晒すことになりかねない。 理聖は身体に染み付いた本能的な警戒心を鋭く研ぎ澄ませた。「……ところで、理聖」 応接ソファに深く背を預けた大翔が、穏やかな声色で問いかけてくる。「お前は川に落ちて姿を消したあの日から、いったいどう過ごしていたんだ? 誰かの世話になってでもいたのかい?」 大翔の左目が、理聖の表情のわずかな変化さえ見逃すまいと、静かに見つめていた。 和花のことだけは、絶対に悟られてはならない。組織に彼女の存在が知られれば、自分を引き戻すため、あるいは敵対組織からの標的として人質に利用されるのは火を見るより明らかだった。 理聖は顔色ひとつ変えず、静かに口を開いた。「……日雇いの仕事などで少しずつ小銭を稼いでは、安い宿を転々として生きていました。自分が誰かもわからな
「息子……? すみません。僕――」 戸惑いを隠せない理聖が、胸元に回された大きな腕の中で小さく息を呑んだ。 自分の記憶が白紙である事実をどう説明すべきか言葉を探した瞬間、大翔は力強い手で理聖の肩を包み込み、ゆっくりと上体を離した。「記憶が、ないんだろう? 芥からある程度の事情は聞いているよ」 残された左目の瞳に、深い慈愛と労りの色が浮かんでいる。 目の前に立つ大柄な男からは、極道の親分としての凄味よりも、生き別れた実子をようやく見つけ出した父親の温もりが色濃く漂っていた。「忘れてしまっているなら、もう一度私から話そう。お前がどんな人間で、私にとってどれほど大切な存在であるかを」 大翔は執務デスクの横にある応接ソファへと理聖を促すと、自らも対面へ腰を下ろした。革の軋む静かな音が部屋に響く中、低く丁寧な声がこれまでの軌跡を紡ぎ始める。「あれは……もう、20年以上も前のことだ」 大翔が遠い目を向けた先には、血と煙に塗れた過去の景色が広がっていた。 当時、敵対組織との抗争によって焼け落ちた港の廃倉庫。瓦礫と灰燼の中に倒れていたのが、瀕死の状態だった幼い理聖だったという。「どれだけ調べても身元はわからず、親族も誰ひとり見つからなかった。そんな過酷な場所で、お前はたったひとりで生き残っていたんだ」 身寄りのない少年を見捨てることができなかった大翔は、その場から幼い理聖を抱え上げて組へと連れ帰った。そして組織の者たちに向かって、はっきりと宣言したという。「この子は今日から私の息子みたいなもんだ、とね」 実子がいなかった大翔は、理聖にありとあらゆる教育を授けた。 人間としての基礎となる読み書きや上品な言葉遣い、正しい礼儀作法。 さらに、決して弱肉強食の世界で命を落とさぬよう、過酷な格闘術と拳銃の扱い、さらには組織運営の帝王学まで、すべてを手取り足取り叩き込んだのだ。「お前は本当に筋が良かった。教えた知識をスポンジのように吸収して、誰よりも努力を重ねた。……12歳を迎える頃には、大人の構成員とまともに組手でやり合えるほど成長を遂げていたよ」 どこか誇らしげに目を細める大翔の口元に、優しい笑みが浮かぶ。「冷静な判断力と強靭な戦闘技術、そして組員たちをまとめる圧倒的な人望。お前はただ強いだけじゃない。私の最高傑作だ。だからこそ、20歳という若さで実
翌日の夕暮れ時。 閉店業務を終えた理聖と和花は、並んでいつもの帰り道を歩いていた。 アパートの階段を上がり、玄関の前に着いたところで、理聖はふと足を止めてポケットをまさぐるようなしぐさをしてみせた。「あ……手帳を店に忘れてしまいました。和花さん、すみません。ちょっと取りに戻りますね! 戸締りはちゃんとしていてください」「は、はい。わかりました。理聖さんも気をつけてくださいね」 何も疑わずに微笑む彼女の頭をそっと撫でると、理聖はひとり来た道を引き返した。 嘘をつくことへの罪悪感が胸を削る。だが、彼女と平穏に暮らすためには、この足で過去の因縁に直接向き合わなければならない。 すっかり日が落ちた駅前のロータリーで、理聖は待機していた雄之助と落ち合った。「若頭、お疲れさまです! 本当に来てくれて感謝しますよ!」「ありがとう、雄之助くん。僕のせいで騒ぎにならないよう頼みますね」 並んで歩き始めた先は、繁華街から少し離れたオフィス街の一角だった。やがて見えてきたのは、築40年は優に超えているであろう古い5階建ての雑居ビルだ。外壁は歴史を感じさせるほど色褪せているが、ゴミひとつ落ちておらず隅々まで綺麗に清掃されている。 入り口の控えめな看板には、〝深凪興産株式会社〟とだけ書かれていた。「一見すると普通の会社ですよね。ここはうちのフロント企業なんですよ」 雄之助が慣れた足取りで自動ドアをくぐりながら簡潔に説明を続ける。 一階は不動産管理や港湾の建設業務などを担う窓口で、一般のお客様も普通に出入りする。 二階は経理や事務員たちが電話対応を行う、どこにでもありそうなオフィスフロア。 三階が自分たち若い組員の詰所や相談室になっており、四階には幹部会議室や理聖がかつて使っていた若頭室が並び、そして最上階である五階に組長の部屋があるのだという。 理聖が雄之助の後に続いて一階のロビーへ足を踏み入れた、その時だった。 フロントの受付デスクに座っていた女性事務員が、ふと顔を上げて理聖の姿を捉えた。次の瞬間、彼女は持っていたペンをコトリと落とし、目を見開いて完全に凍りついた。「……え? うそ……若頭?」 その震えたつぶやきは、静かなロビーに異様な緊張感を走らせた。 受付の奥にあるオフィスルームの扉が勢いよく開き、数人のスーツ姿の男たちが何事かと顔を覗かせ
夜、居酒屋を後にした二人は小さなアパートへと戻ってきた。 つい数時間前まで誕生日を祝って笑い合っていた幸せな余韻はすでに遠のき、部屋の中にはどこか張り詰めた静寂が漂っていた。 暖色系のライトだけを点灯させた寝室のテーブルで、理聖は手帳を開いて万年筆を走らせていた。 ページの上で綺麗に揃った達筆な文字は、いつものような季節の花々の育て方や花言葉ではない。 〝深凪組〟、〝若頭補佐・榊原義宗〟、〝不破組〟。 どれも平穏な暮らしとはほど遠い、仄暗い裏社会の輪郭である。 お風呂を済ませた和花が温かいハーブティーのマグカップをテーブルに置き、心配そうな眼差しで隣へ腰を下ろした。「……ついに、理聖さんの過去を知る味方らしき人が現れましたね」 「ええ……そうですね」 答えた理聖の声は深く沈んでおり、その表情には重い影が落ちていた。 雄之助という若い男が示してくれた忠誠心や温かい態度に、嘘や罠の気配はなかった。だが、味方が現れたということは、同時に自分が背負わされている現実の危うさを正確に証明することでもあった。 自分が属していたという深凪組は、誰もが恐れる暴力団組織だ。そこで若頭という組織の根幹を担う幹部であったなら、敵対する組織から狙われるのは当然の帰結と言える。 そのうえ、組織内部の古参幹部である榊原までもが自身の命をつけ狙い、着実に手を伸ばしてきているのだ。 理聖の持つペン先が、手帳の上でピタリと止まった。 外の敵と内の敵。四面楚歌に近い危険な包囲網の中で、彼が何よりも恐れているのは、自分自身の命ではない。 一般人である和花や、花屋〝フルリール〟の店長である梓の顔と居場所が、すでに敵側に知られ渡ってしまっているという事実だった。 裏社会に生きる者たちが目的のためならどれほど冷酷になれるのかを、理聖は自らの身体に染み付いた戦闘技術を通して嫌というほど理解していた。 自分が生きていると確信した榊原や実行部隊の連中は、理聖を引きずり出すために、容赦なく和花たちを人質として利用してくるに違いない。(僕は……なぜ、極道組織になんていたんだ?) 手帳の余白を睨みつけながら、理聖は胸の奥を鋭い刃物で突き刺されたような痛みに耐えていた。 名前以外の過去が消え去っている彼にとって、血と抗争に塗れた世界は異質で理不尽なも
掘りごたつ式の座席に三人が腰を下ろすと、間もなく店員が冷えたビールと簡単なおつまみである枝豆や冷奴を運んできた。 分厚い戸を閉めれば、完全な密室空間ができあがる。裏社会の込み入った話をしても外部に漏れる心配はなく、同時に店の外には多くの一般客や店員がいるため、万が一にも暴力沙汰には発展しにくい。理聖は冷静な判断力で、あえてこのような店を選んでいた。 グラスを傾けることもなく、理聖は静かに男を見据える。その冷徹な視線を受け、男は居住まいを正した。「……改めて自己紹介させてもらいます。深凪組若頭付きの、芥雄之助です。久世派……つまり、若頭の直属の部下としてお仕えしてきました」 おちゃらけた口調を封印し、まっすぐな瞳で名乗った雄之助は、どこか痛々しいほど心配そうな面持ちで理聖を見つめた。「若頭……本当に、何もかも記憶をなくしてしまわれたんですか?」 「ええ。名前くらいしか覚えていなくて……ただ、体に刻まれた刺青や所持していた拳銃、そして襲撃してきた男たちの言葉から、僕が深凪組の若頭だという事実だけは知りました」 淡々と告げられた現状に、雄之助は絶句して驚愕の表情を浮かべた。「それ以外は、何一つ思い出せない感じなんですか……?」 「銃の扱い方や格闘術といった戦闘の技術は、体に染み付いていたのか覚えていたのですが……」 そこで一度言葉を切ると、理聖は目元にかかる黒縁メガネの位置を指先でそっと押し上げた。「自分の立場から想像はつきますが、僕の命を狙っている組織があるようですね。数週間前、彼女を巻き込む誘拐事件まで起こされました」 理聖が隣の和花へ視線を向けると、雄之助も改めて彼女へ目を向けた。「ところで若頭、その方は……?」 「紹介が遅くなりました。佐伯和花さんです。倒れていた僕を助けてくれた恩人であり……今は、僕の恋人です」 「こ、恋人……!?」 雄之助は目を丸くしたまま二人を見比べ、やがて力が抜けたように苦笑した。「なるほど……彼女に助けられたから、若頭は生きて帰ってこられたんですね」 そう言うと、雄之助は和花へ深く頭を下げた。「若頭を助けてくださって、本当にありがとうございました。深凪組の人間としてではなく、一人の部下としてお礼を言わせてください」 「そんな、頭を上げてください。私はただ、放っておけ
食事を終え、二人はテラス席のあるイタリアンレストランを後にした。 胸元で可憐な輝きを放つガーベラのネックレスにそっと指先で触れ、和花は隣を歩く理聖を仰ぎ見る。特別な誕生日の余韻が、温かな空気としてふたりの間を包み込んでいた。 だが、店を出て大通りの角を曲がり、少し静かな通りへと足を踏み入れた、その瞬間だった。 理聖の足がぴたりと止まり、彼のまとっていた穏やかな雰囲気が一変する。「理聖さん……?」「和花さん、僕の後ろへ」 理聖の大きな手が和花の腕を引き、自らの背中へと隠す。彼は背後の暗がりから迫るただならぬ気配を正確に捉えていた。 街灯の影からゆっくりと歩み出てきたのは、一人の男だった。 シルバーアッシュのマッシュヘアに、少し下がった目元。 若い印象を与えるその男は、自身の前に立ち塞がって殺気を放つ理聖を認めた途端、驚きと歓喜の色を顔中に爆発させた。「この反応速度……間違いないっ!」 男は感極まった叫び声を上げ、歩道の真ん中で両手を広げながら飛び跳ねるように距離を詰めてくる。「やっぱり、若頭だ……! 生きていらしたんですね!」「…………!」 その言葉と呼び名に、和花と理聖の間に走る警戒心がいっそう跳ね上がった。 〝若頭〟――それは、理聖がかつて所属していたらしい深凪組での高位の立場を示す肩書きだ。 目の前の男が、理聖の過去を明確に知る裏社会の人間であることは明らかだった。 和花は身体の重心を低く落とし、いつでも動けるよう古武術の構えを意識する。 一方の理聖もまた、鋭い観察眼で男の指先や重心の移動から武器の有無を探っていた。 しかし、そんな二人の警戒心や緊張などまったく見えていないかのように、男は屈託のない笑顔を浮かべて一方的に語り出し始めた。「いやー、不破組の襲撃にあって死んだって聞いてましたけど、最近生きてるって噂も出ていて! 俺は若頭があんなやつらに殺られるなんて思ってませんでしたけどね! 本当にずっと探したんですよ!」 喜々としてまくし立てる男は、そこでようやく自身の言葉に相手が何も言い返してこないことに気づいたらしい。 どれだけ熱烈に語りかけても、理聖の表情が一切和らぐ気配がないのだ。それどころか、まるで危険な不審者を見極めるかのような鋭い視線に貫かれ、男の目が困惑に細められる。「ん……? 若頭……なんか、様子







