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03.甘い過ちの始まり

last update 公開日: 2026-07-30 15:09:04

 その沈黙を切り裂くように、遠くからけたたましいサイレンの音が近づいてきた。

「……っ!」

 和花は思わず肩を跳ねさせた。ウー、ウーという赤色灯の幻影が、雨の降る窓の外を駆け抜けていく錯覚に陥る。複数台のパトカーが、アパートの周辺を取り囲むように巡回している気配がした。

 心臓が肋骨を突き破りそうなほど、激しい早鐘を打つ。背筋を冷や汗が伝い落ちた。

 目の前にいるのは、拳銃と立派な刺青を持つ素性不明の男。

 もしや事件を起こして逃走中なのでは。警察が踏み込んできたら、匿っている自分も捕まってしまうのではないか。

 和花の頭の中で最悪の想像が膨らみ、恐怖で呼吸が浅くなる。

 しかし当の理聖はといえば、きょとんとした顔でソファーにちょこんと座っていた。

 まるで事態を理解していないような無防備な姿だ。それを見ていると、和花の方が過剰に怯えているだけのようにすら思えてくる。

 息を殺して数分。やがてパトカーの気配は遠ざかり、外には再び雨の音だけが戻ってきた。

「……はぁ」

 和花は全身の力が抜け、その場にへたり込みそうになった。盛大に安堵の息を吐き出す。

「あの、大丈夫ですか?」

 理聖が不思議そうに小首を傾げた。その拍子に、彼が少し顔をしかめたのを見て、和花は思い出した。

「そういえば、後頭部が腫れていたんでした! 見せてください」

 救急箱を取り出し、理聖の背後に回る。濡れた深い色の髪をそっとかき分けると、透き通るような色白のうなじの上に、赤く腫れ上がった箇所があった。

「少し痛みますよ」

 消毒液を浸したガーゼを当てると、理聖の広い背中がビクッと揺れた。和花は痛みを散らすように、そっと周囲を撫でながら手当てを進めていく。

「貴方が何者なのかは、今の私にはわかりません。でも……その荷物を見る限り、暫くはここにいた方がいいかもしれないですね」

 記憶もなく、警察に追われているかもしれない危険な男。関わるべきではないと本能が警鐘を鳴らすが、冷たい雨の降る夜に、彼を一人で外へ追い出すことなどできなかった。

「ええ……そうですね」

 理聖は困ったように眉を下げた。

「申し訳ありませんが、少しの間だけ、お世話になります」

 手当てを終えた和花は、再びビジネスバッグに視線を落とした。拳銃が見つかって驚愕し後ずさってしまったが、よく見るとまだ底の方に何か入っている。

 恐る恐る中を確認して、和花は三度目の絶句を味わうことになった。

 無造作に詰め込まれていたのは、1万円の帯で束ねられた大量の札束だったのだ。幾重にも重なった紙幣の山は、少なく見積もっても数千万円はあるだろう。

「あはは、これなら僕の生活費は賄えそうですねぇ」

 どこか呑気な声が降ってきて、和花は特大の溜息をついた。

「あのね、そういう呑気な問題じゃありませんよ……」

 呆れて立ち上がろうとした瞬間、足元がぐらりと揺れた。

 極度の緊張が解けたせいだろうか。居酒屋で煽ったビールのアルコールが、ここへ来て急激に回ってきたのだ。

「あっ……」

 バランスを崩した和花は、ローテーブルの脚につまずいた。立て直す間もなく、そのままソファーに座る理聖の方へと倒れ込んでしまう。

 ドサッ、という鈍い音。

 気がつけば、和花は理聖をソファーに押し倒すような体勢になっていた。

 理聖は驚いたように切れ長な目を見開いている。しかし、彼が和花を突き飛ばすことはなかった。それどころか彼は躊躇いながらも、そっと和花の背中に腕を回してきたのだ。

 密着した体から、彼の体温が直に伝わってくる。少し高めの熱と、微かな雨の匂い。

 和花は動揺して身を離そうとした。けれど、背中に回された手の優しさに、不意に胸の奥がギュッと締め付けられた。

 数時間前に突きつけられたばかりの、夫の裏切り。

 たった一人になってしまった部屋の、刺すような寒さ。

 どうしようもない寂しさとアルコールの熱が、和花の理性を限界まで甘く溶かしていく。彼が危険な男であろうと、今はもうどうでもよかった。ただ、誰かの温もりを手放したくなかったのだ。

 ゆっくりと顔を上げると、至近距離に理聖の整った顔があった。右目の下の泣きぼくろが色っぽく揺れる。

 彼の瞳が、どこか熱を帯びたように和花を真っ直ぐに見つめ返していた。

 吸い込まれるように、和花は静かに目を閉じた。

 そして、その薄く形の良い唇に、そっと自分の唇を重ねていた。

 窓の外では、まだ冷たい冬の雨が降り続いている。この温もりが、取り返しのつかない甘い過ちの始まりだとは、この時の和花は知る由もなかった。

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