瑛斗side「空、お疲れ様。よくやってくれた」
この日俺は都内の格式高い料亭の一室で、周囲に聞かれたくない話があったため、接待でも使うような壁も厚い完全な個室を選び、空と二人きりで食事をとっていた。
アワビや伊勢エビなど高級食材を惜しみなく使った懐石料理に舌鼓を打ちながら、俺は本題に入った。
「それで、どうだった?」
俺の問いかけに、空は箸を置き真剣な眼差しで答えた。
「退職者に何人か話を聞いたけれど、やはり玲さんの影響だったよ。だけど、言葉での攻撃や理不尽な要求ばかりで決定的な文面や証拠は残されていなかった。急な呼び出しも多くて録音を持っている人もいなかったね。それに、ハラスメントだけでは降格や出向で完全に事業から離すのは難しいと思う」
空の言葉に、俺は歯がゆい思いを噛みしめた。玲がどれだけ悪辣な手を使おうと、その証拠がなければ断罪することはできない。
「そうか……。何か、他に手立てはないか」
「瑛斗も薄々気づいていると思うけれど、ここ数年で接待交際費や役員報酬など、営業外の費用が不自然に増えているんだ。ここをもう少し詳しく調べれば、何か解決策があるかもしれない」
業務から切り離すことは難しいが不正会計となれば話は別だ。玲が金銭面で
華side:瑛斗が別荘を訪れてから、護さんは以前にもまして頻繁に足を運ぶようになった。平日は仕事終わりに寄り、週末は必ずと言っていいほど別荘で私たちと一緒に過ごしてくれている。「華ちゃんに、もしものことがあったら心配だから……」そう言ってちょっとした買い物や子どもたちの送迎バスまでのほんのわずかな距離にもついて来てくれる。その優しさはありがたかったが、その熱心さに少し戸惑いを感じていた。「護さん、心配してくれるのは嬉しいけれど、別荘には私以外にも仕えてくれる人がいるから大丈夫よ。休みのたびにここに来ていたら護さんの身体が休まらないし、かえって心配だわ」私の言葉に、護さんは少し困ったように眉を下げた。「ありがとう。でも彼がどうやってここを知ったか分からないけれど、もしかしたら僕が尾行されていて場所を教えてしまったのかもしれないと責任を感じてね」「護さん、尾行されていると感じるようなことがあるの?」私は慌てて彼のそばに駆け寄った。「大丈夫。もしもの話で、そう感じるようなことはないよ。ただ、一条社長ほどの人物ともなれば、財力や人脈を使って探偵を雇ったり、場合によっては『良からぬ人物』に何か依頼することも可能だと思ってね」
瑛斗side:5年前、俺が離婚協議書を渡した翌日に華は失踪した。しばらくして華は見つかったが、その際に神宮寺家との縁は切れ、今では誰も華の消息を知る者はいないと玲からは聞かされていた。では、何故、華は三上と一緒にいるのか。人里離れたあの豪華な別荘は誰のものなのか。なぜ神宮寺家の専属医の三上が、あんなにも華と親密な関係を築いているのか。様々な疑惑が俺の心の中で渦巻いていた。俺は探偵に、今度は三上護について調べるように依頼した。華の調査を依頼した時とは比べ物にならないほど焦燥感と疑念に駆られていた。数日後、探偵からの報告が届く――――――――――――――――――――――――――三上護職業:医師(専門:内科、産科)家族:母(父親は幼い頃に他界、生前は神宮寺家の専属医)――――――――――――――――――――――――――探偵の報告書を読み進めるが、亡くなった父の代わりに神宮寺家に入ったこと以外に特に
瑛斗side「空、お疲れ様。よくやってくれた」この日俺は都内の格式高い料亭の一室で、周囲に聞かれたくない話があったため、接待でも使うような壁も厚い完全な個室を選び、空と二人きりで食事をとっていた。アワビや伊勢エビなど高級食材を惜しみなく使った懐石料理に舌鼓を打ちながら、俺は本題に入った。「それで、どうだった?」俺の問いかけに、空は箸を置き真剣な眼差しで答えた。「退職者に何人か話を聞いたけれど、やはり玲さんの影響だったよ。だけど、言葉での攻撃や理不尽な要求ばかりで決定的な文面や証拠は残されていなかった。急な呼び出しも多くて録音を持っている人もいなかったね。それに、ハラスメントだけでは降格や出向で完全に事業から離すのは難しいと思う」空の言葉に、俺は歯がゆい思いを噛みしめた。玲がどれだけ悪辣な手を使おうと、その証拠がなければ断罪することはできない。「そうか……。何か、他に手立てはないか」「瑛斗も薄々気づいていると思うけれど、ここ数年で接待交際費や役員報酬など、営業外の費用が不自然に増えているんだ。ここをもう少し詳しく調べれば、何か解決策があるかもしれない」業務から切り離すことは難しいが不正会計となれば話は別だ。玲が金銭面で
「一条グループの今期の年度末決算としましては、増収減益となりました。減益の要因は、昨今の急激な円高による為替差損となります――」一条グループホールディングスの事業戦略部責任者である空が、今期の決算状況について説明していた。彼の声は、社内の空気を一変させるような確固たる自信に満ちている。玲が副社長に就任してからの数年間、一条グループの業績は悪化の一途をたどっていた。最初の年は、社会情勢によるものと見られていた。しかし、その翌年から数年間は、売上自体は減ったものの利益はかろうじて増えていた。だが、その中身を詳細に分析すると、会社の深刻な病巣が見えてくる。原価の単価改定、そして人材の流出による人件費の減少が利益増の主な要因であり、会社が健全に機能しなくなる危険性をはらんでいたのだ。従業員たちの給料が減る一方で、役員報酬や接待交際費などの費用は増え続け、玲が副社長に就任してからというもの、業績を管理する者たちからは不満の声が上がっていた。そして、この費用の大部分は玲によるものだった。今年は、空が戻ってきたことで会社の膿を洗い出し、正常な状態へと戻すための改善に努めてきた。空は、玲が社員に圧力をかけ、下請業者や部品納入の取引先に対し再三にわたって単価を下げるよう強要していた事実を突き止めた。「副社長、このような行為は、相手から訴えられた場合、敗訴するだけでなく、社会的信用を失う。最悪の場合、下請法違反で指示した者が逮捕されるケースもあります」関連部門の責任者同席
華side:「華ちゃん、今回の一件もあるしここを出て僕たち一緒に暮らさないかい?」「え……?」気持ちを落ち着かせるために、護さんの部屋で二人きりになり温かいハーブティーを飲んでいるときのことだった。唐突な提案に私は思わず顔を上げ、護さんを見つめた。いつもの優しい笑顔の中にも、真剣な眼差しの彼を見て私は言葉を失った。頭の中が真っ白になり、ただただ今の言葉を反芻することしかできない。「いつでも華ちゃんと子どもたちのことを守るためには、ここから離れて一緒に暮らせばいいかなと思って……。彼がまた来るかもしれない。華ちゃんたちにそんな危険な思いはもうさせたくないんだ」言葉の裏には、瑛斗の存在から私と子どもたちを完全に守りたいという、彼の強い意志が感じられる。「本当は、記念日とかもっと大切な日に指輪を用意して言うつもりだったんだけれど、今の華ちゃんの様子を見たら、もう僕のそばから離したくないって思ってしまって……。つい言葉に出してしまったよ。」護さんは照れながら頭を掻き、参ったなという顔をしていた。指輪まで用意しようとしていたことに、彼の真剣さがひしひしと伝わり私の胸は熱くなった。護さんは、私との将来を真剣に考えてくれていたのだ。「護さん……。ありがとう。子どもたちのこともあるし、少し考えさせてもらえるかな」「ああ、もちろんだよ。環境が変わることだし、子どもたちの気持ちも大切だ。一緒に決めていこう」護さんは優しく微笑み、私の決断を急かすことはなかった。その包み込むような優しさが私の心をさらに揺れ動かした。護さんとの未来は、結婚して「三上 華」として生きる未来だ。「神宮寺」の名前を捨て、過去をすべて清算し、新しい人生を護さんと歩むのもいいかもしれない。「護さん、いつも側にいてくれてありがとう」「僕もだよ。華ちゃんの一番になれて嬉しいよ。」私は、手に持っていたティーカップをそっとテーブルに置き、彼の首に腕を絡めた。護さんは優しく私の髪を撫で、おでこにキスをする。そして、再び見つめ合うと、今度は長くて、深い甘いキスを交わした。
華side:瑛斗が私を見つけて、この別荘にまでやってきた――。護さんに手を引かれ屋敷に戻ると、まだ身体が震えていた。玄関を閉めた後も、外に彼の気配が残っているような気がして、私はその場にへたり込んでいた。「華ちゃん、もう大丈夫だよ。よく頑張ったね」護さんはそう言って私をそっと抱き寄せた。護さんの温かい腕が、ゆっくりとした胸の鼓動が、私の動揺を少しずつ落ち着かせてくれる。「護さんのおかげ。最初に瑛斗に冷静に話してくれたから私も落ち着いていられたの。もし一人だったら、なんて言えばいいか分からなかったわ」私が言葉を絞り出すと護さんはさらに私を抱きしめる力を強めた。「華ちゃんはもう一人じゃないよ。僕がいる。僕がどんなことからでも、華ちゃんと子どもたちを守るから」瑛斗がもたらした恐怖と混乱を瞬時に拭い去ってくれるようだった。護さんがいてくれる心感が私を強くさせている。瑛斗のことが好きだった時も、結婚していた時も、思い返せば、困った時や悲しい時にいつも私の側にいてくれたのは護さんだった。不妊治療で流産の悲しみに打ちひしがれていた時も、瑛斗が仕事で家を空ける中、私を励まし支えてくれたのは護さんだった。子どもを失った悲しみで食事が喉を通らない私に、彼は栄養を考慮したスープを届けてくれた。そして、双子の妊娠発覚後から今まで、思い出したくもない苦しみの中にいた私を助けてくれたのも護さんだった。私が一番辛い時にそっと手を差し伸べてくれた護さん。護さんなら、きっとこれからもずっと私と子どもたちを大切にしてくれる。この人となら穏やかで幸せな未来が築ける。私は、彼の腕の中で静かに涙を流した。