長野での生活も4年が経過して、子どもたちはこの春から近くの私立幼稚園に通い始めた。朝、小さな手を引いて幼稚園バスを見送るたびに胸いっぱいの喜びが込み上げてくる。瑛斗との結婚生活での苦悩は、遠い過去の出来事のようだった。
別荘の大きな窓からは、朝日に輝く新緑が目に飛び込んでくる。澄み切った空気の中で、鳥のさえずりが心地よく響いた。毎朝、私は慶と碧を起こすことから一日が始まる。
護さんは休みの前夜から別荘を訪れるようになり、休みの日の朝は、私たちと食卓を囲むようになっていた。
「華ちゃん、慶くん、碧ちゃん、おはよう!」
護さんが優しく声をかけると子どもたちは笑顔で護さんに駆け寄る。彼は二人の頭を撫で、温かい笑顔を向ける。その姿はまるで本当の父親のようだった。
「今日は幼稚園で何するの?」
護さんが慶に尋ねると、慶は目を輝かせながら「ねんど!」と答える。碧はまだ眠そうな顔をしながらも、護さんの膝の上にちょこんと座り黙ってパンをかじっていた。
護さんはそんな碧の頭を優しく撫でながらコーヒーを一口飲む。この何気ない朝の時間が、私にとって何よりも大切な宝物だった。
朝食後、護さんは子どもたちの幼稚園の準備を手伝ってくれてる。上着を着せたり、靴を履こうとする二人を辛抱強く見守る。
「行ってくるねー」
「ねえ、ママ。どうしてパパがいないの?」ある日の夕食時、慶が素朴な疑問を投げかけるように澄んだ瞳で私を見上げた。隣で食事をしていた碧も、フォークを止めて私に視線を向けた。「けーくんとあおちゃんのパパはどこ?」私は一瞬言葉に詰まった。子どもたちにどこまで話すべきか。まだ幼い彼らに残酷な真実を伝えるには早すぎる。だが、嘘をつくこともしたくなかった。私はゆっくりと言葉を選びながら説明しようとした。「パパね、ママとはちょっとお話し合いをして今は別々に暮らしているの。でも、慶も碧もパパにとって大切な子どもたちだよ」私がそう言いかけたその時、横に座っていた護さんが明るい声で話題を変えた。「慶くん、碧ちゃん、今日は幼稚園で何が一番楽しかった?護さんに教えてくれるかな?」子どもたちは護さんの問いかけにすぐに飛びつき、先ほどの質問を忘れたかのように楽しかった出来事を話し始めた。護さんはにこやかに二人の話を聞き、相槌を打ちながら、ちらりと私を見た。その目には「それでいいんだ」というメッセージが込められているように感じた。しかし、その場は収まったものの、数日後、同じような質問が再び投げかけられた。今度は、私と護さんがリビングでくつろいでいる時だった。「ねえ、ママ?パパはいつ帰ってくるの?」碧が、純粋な好奇心から尋ねた。私が再びどう説明しようかと考えていると、護さんがすぐに口を挟んだ。彼の声は絵本を読み聞かせるように穏やかで優しい。「慶くんと碧ちゃんのパパはね、今はお空にいるんだよ。お空から慶くんと碧ちゃんのこと、いつも見守ってくれてるんだ」その言葉を聞いた瞬間、私の心にごくわずかな引っかかりが生まれた。(……瑛斗は、生きている。 それなのに護さんは「お空にいる」と説明するなんて。)瑛斗の存在を、子どもたちに記憶させないように、そして私の人生から完全に排除しようとしているかのように感じられた。
長野での生活も4年が経過して、子どもたちはこの春から近くの私立幼稚園に通い始めた。朝、小さな手を引いて幼稚園バスを見送るたびに胸いっぱいの喜びが込み上げてくる。瑛斗との結婚生活での苦悩は、遠い過去の出来事のようだった。別荘の大きな窓からは、朝日に輝く新緑が目に飛び込んでくる。澄み切った空気の中で、鳥のさえずりが心地よく響いた。毎朝、私は慶と碧を起こすことから一日が始まる。護さんは休みの前夜から別荘を訪れるようになり、休みの日の朝は、私たちと食卓を囲むようになっていた。「華ちゃん、慶くん、碧ちゃん、おはよう!」護さんが優しく声をかけると子どもたちは笑顔で護さんに駆け寄る。彼は二人の頭を撫で、温かい笑顔を向ける。その姿はまるで本当の父親のようだった。「今日は幼稚園で何するの?」護さんが慶に尋ねると、慶は目を輝かせながら「ねんど!」と答える。碧はまだ眠そうな顔をしながらも、護さんの膝の上にちょこんと座り黙ってパンをかじっていた。護さんはそんな碧の頭を優しく撫でながらコーヒーを一口飲む。この何気ない朝の時間が、私にとって何よりも大切な宝物だった。朝食後、護さんは子どもたちの幼稚園の準備を手伝ってくれてる。上着を着せたり、靴を履こうとする二人を辛抱強く見守る。「行ってくるねー」
玲が副社長になってからというもの、社員たちは顔色を伺い、常に委縮していた。会議では誰も発言しようとせず閉塞的な空気だった。以前は社員食堂も静寂に満ちており、会話もひそひそ声だったが、空が復帰してからは笑い声が聞こえるようになった。廊下で社員同士が立ち話をする姿も増え、皆の表情に生気が戻りつつあるのが見て取れた。知能・経験・実績・人脈、どれを取っても空の方が優れているのは明らかだった。玲の具体性のない発言に対しても理路整然と話す空に、玲は言い返す言葉を見つけられずに口を閉ざすしかなかった。玲の理不尽な命令も減り、それに伴い、異常なまでに上昇していた離職率も抑制され始めたのだ。人材が流出するスピードが明らかに鈍化している。空は大変な役目だっただろう。だが、空の冷静沈着な対応が、玲の暴走を食い止め一条グループに再び光をもたらし始めていた。そして、玲はこの頃には苛立ちを隠すこともせずに表情や態度に出すようになっていた。玲にとって、空の存在は予想以上に邪魔だったはずだ。空を脅威に感じたからこそ、子会社に異動させて俺から空を遠ざけたはずだ。しかし、空は俺が全面的な信頼を寄せ、役員たちも賛同する形で最も重要な事業戦略部門の責任者として返り咲いた。玲は、社内での自分
空が本社に戻ってきてからの変化は、目に見えて明らかだった。玲は、空が自分の権限を脅かす存在だと即座に察知し、あらゆる手段で空の業務を妨害しようとした。重要な会議の情報を伝えなかったり、資料の展開をしないなど陰湿ないじめのようだった。しかし、空は俺だけでなく役員や社員と密に連携を取り屈することなく、玲の妨害を回避していた。玲の社員に対する無茶な要求や感情的な罵倒が始まると、その都度、空が間に立ちはだかる。社員たちが玲に報告する際は、必ず空に同席してもらった。玲が無茶な要望や度が過ぎる発言をすると、空は冷静に根拠や数字を使って論理的に言い返した。ある日、若手の企画部員が玲にプレゼンを行った際のことだ。「こんなもの話にならない。一からやり直して」玲は資料をちらりと見ただけで冷たく言い放った。プレゼンをしていた若手社員は顔を真っ青にして俯いている。そして、玲の暴君さを知っている社員たちは誰も若手のフォローをしようとしない。その時、空が静かに口を開いた。「副社長、彼の提案は市場調査に基づいたものです。市場調査だけでなく、競合他社の動向や分析もされて多岐に渡り深く考慮されています。建設的に議論するためにも、課題点があるとお感じでしたら具体的な指示内容やデータを示していただけますか。この企画の持つ潜在力は高く評価できます」
「賛成多数により、この度、一条ホールディングスは株式100%取得し子会社化していたN子会社を事業効率化のため吸収合併することとする」俺の声が取締役会に響き渡り、N子会社の吸収合併が可決された。玲は、把握していなった議題に一瞬眉間に皺を寄せていたが、グループ全体で考えると重要性の低い事案のためそのまま流していた。しかし、この決議の裏には、玲の支配を終わらせるための俺の秘めたる戦略があった。この吸収合併の採決後、俺は間髪入れずに、空を事業戦略部という親会社の核となる部門の責任者へと抜擢した。そして、今までの空の功績、知識を武器に専務へと昇格させた。空への信頼は役員たちの間でも揺るぎないものだった。玲によって不当な左遷を受けていたとはいえ、彼が一条グループにとってかけがえのない存在であることは誰もが理解していた。決定権を持つ役員たちには事前に根回しを済ませており、俺が空の復帰を打診すると彼らは即答で賛成してくれた。玲がつけいる隙などどこにもなかった。こうして、空はメイン部門への鮮やかな復帰を果たしたのだ。「空、待たせてすまなかった。もう一度、力を貸してくれ。」
東京に戻ってすぐに俺は誰もいないことを確認してから探偵事務所に連絡を入れた。受話器から聞こえてくる担当者の声はどこか訝しげだった。無理もない。この5年間で何度も華の捜索を依頼しているのだから……。「先日お話しした件です。神宮寺華さんの捜索を再開していただきたい」「は、はい。承知しております。しかし、社長。以前の捜索では既に手がかりが……」探偵の言葉を遮るように、俺は畳み掛けた。「今回は、長野県の避暑地エリアを中心に調べてほしい。先日、現地を視察した際に、彼女に酷似した人物を目撃した。彼女の安否だけでなく、現在の生活状況、子どもたちの有無と年齢、そして家族構成を徹底的に調べてほしい。些細な情報でもいい。妻には決して知られないように、報告は全て私に直接上げてくれ。」俺の声に宿る確固たる意志に電話口の探偵は息をのんだのが分かった。沈黙が続く。前回、全てを任せきりにしていた俺とは、態度も依頼内容の具体性も全く異なることから驚きを隠せないのだろう。「……社長。失礼ながら何か心境の変化でも?」探偵は、言葉を選びながら疑問を呈してきた。当然の問いだった。探偵に動いてもらうためにも、玲の言葉を鵜呑みにし、華を信じなかった過去の自分を、今この場でさらけ出す必要があった