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第2話

Author: あれんちゃん
翌朝、玲司が目を覚ますと、昨夜の深酒で喉がカラカラに渇いていた。

枕元のサイドテーブルに手を伸ばしたが、いつもなら置いてあるはずの温かい生姜湯は見当たらなかった。ベッドの反対側も、とっくに冷え切っている。

紬の姿がないことに違和感を覚えたが、玲司が深く考え始める前に、妹の玲奈(れいな)から「友人たちを連れて遊びに行く」と電話が入った。

一方、紬は徹夜で語学の勉強に打ち込み、赤く泣き腫らした目のまま隣の部屋でようやく深い眠りについていた。

やがて、階下の騒がしさに彼女は目を覚ます。

「紬様」

家政婦が声をかけた。

「先ほど玲奈様が、お目覚めになったら着替えて、皆様のところへいらっしゃるように、と」

黒瀬家の別荘のプールサイド。露出度の高い水着を身に着けさせられ、紬は戸惑いを隠せなかった。

紬が現れると、さっそく男たちの軽薄な声が彼女に向けて飛んでくる。

「玲司、お前の奥さん、なかなかイケてるじゃないか」

「本当だな。まさに宝の持ち腐れってやつだ」

以前の自分なら、こんな言葉を聞いて、玲司に釣り合う点が一つでもあってよかったと、虚しい安堵を覚えたかもしれない。

だが今は、自分が彼らの嘲笑の的でしかないことをはっきりと理解していた。

玲司は無表情で、その心中は窺い知れない。ただ、彼の視線は時折、睦のいる方へと流れていた。

友人の中の一人が、見かねたように言った。

「お前ら、言い過ぎだぞ。よく紬さんの前でそんなこと言えるな」

すると玲奈は得意げに言い放った。

「大丈夫よ。さっき確認したけど、あの子、補聴器つけてないもの」

その言葉を合図にしたかのように、周りから哄笑が巻き起こった。

黒瀬玲奈(くろせ れいな)――玲司の妹。

紬が玲司と婚約して以来、彼女は紬を目の敵にしてきた。

大学時代、朝食の牛乳に塩を入れられたり、寝ている間に髪をめちゃくちゃに切り刻まれたり、陰湿ないじめの主犯はいつも彼女だった。

紬は引きつった顔を笑顔で隠し、聞こえないふりを続けた。

そこへ睦が姿を現すと、皆の視線が彼女一人に注がれる。玲奈は待っていましたとばかりに駆け寄った。

「睦ちゃん!帰国されていたのに、どうして遊びに誘ってくださらなかったの?」

先ほどまで紬をからかっていた男たちも、打って変わって親しげに睦へ挨拶している。

無理もない。彼らこそが同じ世界の住人なのだ。紬はただ、玲司の威光によって、その世界を垣間見ているに過ぎない。

ふと、玲司の書斎で見た、無数の睦のデッサンを思い出した。すべて玲司が描いたもので、一枚一枚の裏には、同じ言葉が記されていた。

――ただ君と、共に白髪の生えるまで。

睦本人に会うのは、これが初めてだった。気だるげなロングヘアは妖艶に揺れ、体にフィットした水着が完璧な曲線を描いている。

口元に浮かんだかすかな笑み。玲司がこれほどまでに彼女を忘れられない理由が、分かった気がした。

これ以上、自分が惨めになるのはごめんだった。紬は部屋に戻って語学の続きをしようとその場を去りかけたが、背後で上がった歓声に思わず振り返った。

人だかりの中心で、睦が同じように肌を露わにしている。だが、玲司は彼女の体に素早くバスタオルを巻きつけ、優しく諭していた。

「身体が弱いのに、風邪をひいたらどうする」

睦は好機とばかりに、恥じらうように彼の胸に顔をうずめる。

そうだ。本当に愛しているのなら、その人の美しさを衆目に晒したりはしない。誰にも見せず、自分だけのものとして大切に隠すはずだ。

紬は部屋に戻ると、エージェントにメッセージを送り、ビザの進捗を尋ねた。

天涯孤独の彼女にとって、この街に未練はもうなかった。

ただ、Y国への留学には莫大な費用がかかる。この数年、玲司が経済的に不自由をさせたことはなかったが、それでも万一に備えて現金は少しでも多く持っておきたい。

特にY国の大学は卒業が難しいと聞く。紬は、玲司から贈られた宝飾品の数々に目をやった。

これは感傷や意地ではない。玲司のために諦めた学業と、これからを生きる自分への、正当な対価だ。

その時、彼女の思考を遮るように、玲奈の甲高い声が響いた。

「白石さん!あなたが作る生姜湯はどうしたのよ!」

人を見下した、いつもの命令口調だった。

紬は言葉に詰まった。生姜湯は、もう何日も作っていない。

玲司がこの翠ヶ丘のヴィラにいつ帰るか、連絡が来ることはない。だから以前の紬は、彼がいつ帰ってきても温かいものを飲めるようにと、毎日欠かさず準備していた。

生姜湯だけではない。分厚い薬膳の本を紐解き、彼の体に良いものなら何でも手間を惜しまず学んだ。

実際に玲司が口にしたのはほんの数品だったとしても、それだけで満たされていたのだ。

だが、あの手術の日を境に、もう何も準備しなくなった。

「……玲奈さんが、飲みたいのですか?」

紬が静かに尋ねた。

「さっき睦ちゃんがプールで冷えたのよ。早く作ってきなさい。

睦ちゃんが風邪でもひいたら、兄さんが悲しむでしょ!」

玲奈の言葉を裏付けるように、ソファに座る睦が小さく咳をした。

「それなら、家政婦にお願いします」

「あなたに作ってほしいのよ」

玲奈は不快感を露わにした。

「へえ、つまり兄さんのためじゃなかったら、作ってもらえないんだ。

睦ちゃんは、兄さんにとって一番大切な人なのよ。彼女が不快になれば、兄さんも不機嫌になるわ。

お祖父様から言われたでしょう?兄さんの世話をするのが、あなたの役目だって」

玲司の世話は役目でも、黒瀬家の召使いになることではない。そして今、彼女にはもう何の遠慮もなかった。

その時、睦が割って入った。

「玲司から、あなたのお料理はとても上手だと聞いているわ。

私にも、ぜひ一度味わわせてほしいのだけれど、駄目かしら?」

その猫なで声に、紬はうつむき、従順な女性を演じるかのように見えた。だが、口から出たのは、きっぱりとした拒絶だった。

「お断りします」

自分を召使い扱いして、女主人の地位を見せつけたいのだろう。

睦は、はっとしたように口調を変えた。

「ごめんなさい、私ったら。あなたの生姜湯を飲みたいなんて、図々しかったわね。

それが玲司のためだけの、特別なものだとは知らなかったの」

階段の上から様子を見ていた玲司は、いつも従順な紬の今日の態度を訝しんだ。

階下に降りてきて、なだめるように言う。

「大したことじゃないだろう。紬、作ってあげなさい」

「玲司、もういいの」

睦は慌てて彼を制した。

「紬さんは私のことがお嫌いみたい。またの機会にするわ。

……ただ、少しめまいがするの。ここで休ませていただいても? 紬さん、ご迷惑じゃないかしら?」

その、わざとらしいセリフに、紬は呆れて笑いそうになった。具合が悪いなら病院へ行けばいい。ここにいて治るものか。

しかし、言葉には出さず、紬は完璧な思いやりを装って言った。

「では、睦さん、どうぞごゆっくり。お邪魔のようですので、私は部屋に戻ります」

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