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第16話

作者: 几時
「俺が離婚……?」

律真は目を細め、頬にほのかな酔いの紅をさしていた。

手に持っていたグラスをテーブルに乱暴に叩きつけ、今まさに本当のことを口にしようとしたそのとき、使用人が口を挟んだ。

「そうですよ。いくらなんでも、そんな衝動的に奥さまと離婚するなんて。奥さまが長年、どれだけ尽くしてこられたか、私たちはずっと見てきました。お金や地位のためじゃなく、ただ旦那さま自身のために――」

「……はぁ」

その先は、使用人も言葉を飲み込んだ。

これ以上は踏み込みすぎだと分かっていたのだ。

だが律真の顔からは怒りの色が消え、代わりに何かを考え込むような表情が浮かぶ。しばらく沈黙したあと、眉間の皺がゆるみ、ソファに身を投げ出して問いかけた。「……で、彼女は俺にどう尽くしてくれたんだ?お前たちは何を見てきたんだ?」

怒っていないと察したのか、使用人は覚悟を決めたように背後の仲間に目配せをした。すると、そこにいた使用人たちが次々と集まってきた。

どうやら長い間、我慢してきたらしい。口々に言葉が漏れた。

「去年の誕生日、奥さまは旦那さまのためにごちそうを用意して待っていらっしゃいました。料理は何度も温め直していたのに、旦那さまは一晩中帰らず……夜明けには奥さまの目が腫れるぐらい泣いていて、その後、全部捨てられてしまったんです。でも奥さまが部屋に入った途端、旦那さまが帰ってきて……大げんかになりました」

「それからある日、旦那さまが口紅の跡をつけて帰ってこられて、『なぜ探しに来ないの?』と、奥さまを責めた。でもその日、あなたが出かける前に『邪魔するな』と言ったんです。奥さまは家で一日中、あなたの写真を見つめて過ごしていましたのに」

「手作りのネクタイが好きだとおっしゃったので、奥さまは指を血だらけにしながら作っていました。それをあなたは見もしないで、ごみ箱に……」

……

次々と思い出が重なっていく。

その言葉を聞きながら、律真の脳裏にも当時の情景が蘇った。

あの日――誕生日には、わざと静乃を一日中無視した。本当は彼女に追いかけさせて、皆の前で祝ってほしかったのだ。けれど静乃は一向に動かず、帰宅したときには寝ていて、顔さえ向けてくれなかった。

まさか、泣き腫らした目を隠していただけとは思いもしなかった。

ネクタイもそうだ。詩織のところで見た同じ柄のものと勘
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